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ミンガラ春庭「2016年3月目次」

2016-03-31 00:00:01 | エッセイ、コラム


20160331 
ぽかぽか春庭2016年3月目次

0301 ミンガラ春庭ミャンマーだより>ミャンマーいろいろ(1)ミャンマーの花
0302 ミャンマーいろいろ(2)ミャンマーの楽器
0303 ミャンマーいろいろ(3)ミャンマーの人形たち
0305 ミャンマーいろいろ(4)ミャンマーのお宝 in 国立博物館その1
0306 ミャンマーいろいろ(5)ミャンマーのお宝 in 国立博物館その2
0308 ミャンマーいろいろ(6)ミャンマーのお宝 in 国立博物館その3
0309 ミャンマーいろいろ(7)ミャンマーのお宝 in 国立博物館その4
0310 ミャンマーいろいろ(8)ミャンマーのお宝 in 国立博物館その5

0312 ミンガラ春庭ミャンマーだより>ニッポニアニッポン語教師日記in ヤンゴン(1)ゆかた着付け教室
0313 ニッポニアニッポン語教師日記 in ヤンゴン(2)HAL先生礼拝を受ける
0315 ニッポニアニッポン語教師日記 in ヤンゴン(3)ヤンゴンでの授業

0316 ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴンの暑季(1)あついです
0317 ヤンゴンの暑季(2)ヤンゴンの露店風呂
0319 ヤンゴンの暑季(3)サクラタワーからヤンゴンを見渡す
0320 ヤンゴンの暑季(4)マンゴーの青い実・通勤の道すがら
0322 ヤンゴンの暑季(5)ヤンゴンバス通勤その1
0323 ヤンゴンの暑季(6)ヤンゴンバス通勤その2
0324 ヤンゴンの暑季(7)ヤンゴンサイカー通勤

0325 ぽかぽか春庭アート散歩>訂正版レストランロアラブッシュ旧千葉常五郎邸

0326 ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴン大学キャンパスツアー(1)コンボケーションホール
0327 ヤンゴン大学キャンパスツアー(2)ヤンゴン大学図書館の貝多羅葉文書
0329 ヤンゴン大学キャンパスツアー(3)ジャドソンチャーチ
0330 ヤンゴン大学キャンパスツアー(4)女子寮その他
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ミンガラ春庭「ヤンゴン大学キャンパスツアー・女子寮など」

2016-03-30 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160330
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴン大学キャンパスツアー(5)女子寮など

 ヤンゴン大学はミャンマーで最も古い大学です。英領時代1878年に、イギリスによってラングーン大学として設立されました。日本では明治10年、西南内戦の時代であり、まだ大学も整備されていませんでした。

 その後、1920年にアメリカのバプティスト派教会設立のカレッジと合併しました。(バプティスト教会については、前回の記事をごらんください)
 英領下では、オックスフォード大学とケンブリッジ大学をモデルとして運営され、この二つの大学のように、ひとつひとつの学部が独立したカレッジとして運営されていました。

 1930年代40年代の学生は、植民地からの独立運動をはじめ、のちの将軍アウンサン、元国連の事務総長ウ・タン(日本の表記ではウ・タント)などが活躍しました。
 1950年代60年代は、アジア諸国の中でももっとも高度な教育を与える教育機関として、アジア全域から学生を集めましたが、軍政時代にしだいに閉鎖的になり大学の教育力も落ちました。

 1962年以降、大学自治が押さえられ、中央政府機関の制御下に直接置かれました。大学が自分自身の教育についてなにひとつ決められない、ということになった影響は大きかったと言わざるをえません。軍政主導になって以後は、軍の意向がなければ、みずからは何も決められない。大学が自治権を失い、独裁政権の出先機関になってしまうと、どれほど教育力がなくなってしまうか、という見本のような大学史です。教育力のある学者よりも、軍に忠実な人が教育者として選ばれるというようなことでは、教育以前の状態になってしまうのは当然です。

 1990年代になると、ヤンゴン大学が民主化運動の拠点となったため、軍政当局は大学学部を閉鎖しました。25年間も、学部卒業生が出ない状態がつづきました。(大学院のみ存置)。前述のとおり、学部再会は2014年。
 現在、ヤンゴン大学の学部卒業生は、50代60代になっており、30代40代の卒業生はいません。閉鎖中は、ヤンゴン市の高校生であっても、大学に行きたければ、地方大学(マンダレー大学など)にふりわけられたのです。
 ヤンゴン大学、現在は1年生2年生3年生が在籍し、来年の9月には25年ぶりに卒業生が出ます。国がこれから順調に発展するために、若い世代の活躍に期待しましょう。

 大学内には、19世紀末から20世紀初頭に建設された築100年以上の建物がたくさん残されているのですが、管理状態がたいへんに悪く、老朽化のままに放置されています。貴重な建物群であるのに、惜しいなあと思います。補修工事なども含めて、軍政管理下におかれていたため、軍トップの「鶴の一声」がかかるまでは、壊れたままの諸設備も、水漏れの水道管も、(視察官の目に触れないような所は)そのままにされてきたのです。

 大学内では町中よりゴミが少ないですが、それでもそこここにゴミの山。


 大学内をきれいにしよう、という意識はあります。


 ちなみにヤンゴンでは、自宅の屋根の雨漏りを修理するさえ許可制で、地主の権利が強く、かってに修理することができないそうです。これまで外国人は、家は買えても土地が買えなかったので、家を買った人が修理しようとすると、地主の許可が必要なのです。マンションなどだと、他の居住者ひとりひとりのサインが必要で、もし、勝手に修理をはじめて管轄の下っ端役人に見つかったりすると、見逃し賃の袖の下が法外になるので、時間がかかっても許可をもとめなければならない、許可を早めてもらうには、やはり袖の下が必要、との自宅マンション所有者談。新政権は汚職追放をかかげていますが、はびこった袖の下主義が解消されるまでの道は長い。余談おわり。

 2015年3月の視察のおりに大学内をひととおり案内してもらったのですが、下痢でつらい身体の上に、たったと早足で歩く案内のK先生についていくのがやっとで、どこがどこやらわからないまま、大学を一周し、ものすごくつらかった思い出しか残りませんでした。

 2015年8月に赴任してからは、仕事ひとすじで、大学内を散歩する時間もなくすごしてきました。大学内を歩く時間がなかったということもあるけれど、自分の方向音痴ぶりを考えると、ひとりで歩いて元の事務室に戻れなくなったときに、他人を巻き込んで一騒動しなければならないであろうことが、おっくうに思えたのです。
 メインキャンパス内には、教授用の公舎(コロニアル風のでかい家です)なども点在し、かなり敷地が広いです。
 東京三鷹のICU国際基督教大学の敷地内にも外国人教授たちの公舎が建っていました。敷地内に教授宿舎があるのは、英米の大学では標準仕様なのかしら。

 余裕なく仕事に追われてきたHALセンセは、大学西門から入り、ミャンマー学(ビルマ文学・ビルマ語学など)校舎のタングー校舎に入るまでの道筋の往復のみ。あとはタクシーをつかまえるために大学食堂のわきを通って正門に向かう道筋のほか、大学内を知りませんでした。

西門通用口から入ると、目の前は人類学校舎


 3月18日に、日本から来ている留学生が、ヤンゴン訪問の親戚を案内して大学内をまわるというので、ボスに「すみません、1時間ほど事務室を留守にします」と断って、ふたりが行く先についていきました。授業が終了して事務仕事だけになったので、時間を割合自由につかえるようになったおかげです。

 大学通用廊下。欧風の作りになっていると感じる部分。



野犬も校舎内に多いので、当然の顔をして廊下も横行。

 タングー棟北側の女子寮


 日本人留学生入居中の女子寮インヤー寮。外見は立派な欧風建築ですが、中は当然冷房なしだし、共同洗濯室の洗濯機は二槽式だし、諸設備は最悪との留学生談。生まれたときには全自動があったので、はじめて二層式洗濯機を使った、という21歳。小5の家庭科の時間には、洗面器と石けんを持参の上、「手洗いの諸注意」なんぞを教わった我らの世代とは大違いです。



 大学内のコピー屋さんやアイスなど食べ物を売っている売店の場所もはじめて行きました。日本の大学生協とは大違いの、雑多な小店がごちゃごちゃ並んでいるところですが、試験期間中なのでコピー屋さん大繁盛。
 ちなみに、日本で2800円で売っている「みんなの日本語」を、そっくりぱくってコピーして、製本してもらって3000チャット300円。著作権法がないので、パクリ放題です。ボスは、ものすごい時間と労力をかけた「ビルマ語辞典」がそっくりパクリコピー本として安値で売られていて、しかも著作者は別人のミャンマー人名になっていた、と、言っていました。辞書編纂の苦労を知るものとしては、こういうのは犯罪だと思いますけど、なにせ著作権も肖像権も、ない国なので。私の顔写真、学科長はなんのお断りもなしにfacebookにUPしています。

 インヤー寮前の木。幹がぐるりと輪を描いて停滞部分はありますが、ちゃんと木として枝を広げています。
 ヤンゴン大学、25年間の学部停滞はあったけれど、きっとこれから若い世代がまっすぐに将来への道をのばしていくのではないかと思います。 



<おわり>
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ミンガラ春庭「ジャドソンチャーチ」

2016-03-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


20160329
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴン大学キャンパスツアー(3)ジャドソン・チャーチ

 ミャンマー人の80%~90%は仏教徒です。キリスト教徒が4〜5%、イスラム教徒が4%います。
 国立博物館の記事中、ミャンマーの民族地図をUPしました。ミャンマーは大きく8つの部族があり、それぞれの州の多数民族となっています。シャン州の多数部族はシャン族です。ビルマ族は仏教徒が多数を占めており、少数民族の州では、キリスト教徒の多い州があります。北部のカチン族では30%がキリスト教徒。チン族は90%がキリスト教徒。カイン族の調査はありませんが、エーヤーワディー管区のキリスト教徒は26%、となっています。

 キリスト教宣教は、今から200年前に始まりました。アメリカのバプテスト派の宣教師ジャドソン師夫妻がカチン族に伝道したことが最初です。これは、ビルマがイギリスの植民地になる以前の出来事です。ジャドソン牧師は、12年間に1200人以上、すなわち3日に一人はキリスト教徒を獲得するという、アジア派遣の宣教師としては。有数の成果をあげました。

バプティスト派の伝道史によると、強盗殺人犯が回心し、洗礼を受けたたのが信者獲得第1号。12年間で1270人が洗礼を受けました。
ジャドソン牧師は、聖書をビルマ語に翻訳するなど顕著な功績をあげて40年間活動した後、帰国。アメリカのバプテストの宣教師があとを引き継ぎました。1890年にはアルファベット識字率が0%であったが、その後100年以内にキリスト教徒の識字率100%になった、との記録があります。もっとも、ビルマ仏教徒のビルマ文字識字率は、無料寺子屋普及のおかげで、キリスト教徒がアルファベットを覚える以前から識字率が高く、読み書きできる仏教徒がほとんどでした。

 他のアジアアフリカ諸国の伝道が、教育とセットで宣教され、教育を受けたい人々をキリスト教徒にしていったという事情と異なり、ビルマ族への宣教が成功しなかったのは、この「識字率の高さ」ゆえであったろう、と、私は思っています。明治期以来の布教にもかかわらず、日本でも仏教徒は90%を維持し、キリスト教徒は人口の1%を超えることがなかったのも、ひらがなカタカナの識字率が江戸時代から世界一であったことが理由だろうと、私は思っています。教育を受けるためにアルファベットを覚え、聖書を読む必要がなかった。

 このジャドソン牧師を記念して建てられたのが、ジャドソン教会です。ヤンゴン大学敷地の西北に、1932年に建てられました。


 ビルマ王国がイギリス軍との英緬戦争に敗れて、ビルマがイギリス植民地になると、キリスト教化の様相が変わります。イギリスは、少数民族をキリスト教に改宗させ、ビルマ族の仏教徒に対抗させようとしました。キリスト教徒となったチン族、カチン族などはイギリス軍に編入され、ビルマ族対策に利用されました。民族間の軋轢が強い理由のひとつが、イギリスの植民地政策に根っこがあること、植民地政策の罪深さを思わずにいられません。

 日本軍もビルマでは第2次世界大戦中に相当ひどいことをしたのは事実ですが、ビルマ民族分裂をきたすようなイギリス植民地政策のほうが、罪は根深い気がします。まあ、これは目くそ鼻くそのたとえどおりの比較になってしまいますが。」

 ジャドソンチャーチは、洗礼式の準備中でした。


 仏教僧のなかには、アウンサンスーチー女史が仏教徒以外の人々を優遇するようなら、支持を取り消す、と息巻く高僧もいるとかで、宗教政策、民族宥和政策はこれからも問題が山積みだと思います。ことにキリスト教徒が多い少数民族に対しては、今は軍の力で独立派などを押さえつけているわけですから、今後も軍の協力なしには少数民族対策ができないでしょう。
 どのようにしたら、130もの民族がそれぞれの文化と言語と宗教をもつ国内をまとめていけるのか、見守りつつ、この国の融和的な発展を願っています。



<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴン大学図書館の貝多羅葉」

2016-03-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

貝多羅葉に刻まれた文字

ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴン大学キャンパスツアー(2)ヤンゴン大学図書館の貝多羅葉

 ヤンゴン大学の中に、図書館がふたつあります。すべての大学の共同利用図書館である、ヤンゴン中央図書館と、ヤンゴン大学図書館です。私は昨年の3月の視察出張のおりに学内を案内していただいたのですが、二つの図書館は並んでいますので、この時には、どちらがどちらなのやら区別もついていませんでした。




 私が3月15日の仕事帰りに図書館に立ち寄ったとき、中央図書館のほうは、修理が始まっていて、中には入れませんでした。ボスのお話では、貴重な仏教史文献なども数多く所蔵しているそうです。
 国立博物館を訪れたとき、画家バ・ニャンの作品は、博物館の次にヤンゴン図書館が所蔵しているとあったので、ぜひ見たかったのですが、またの機会に。

中央図書館


 ヤンゴン大学図書館は1920年に設立されました。図書館の建物が出来上がるまでは大学の一室で開室し、1927年に、ミャンマー最初の近代的建築の図書館として、英国人建築家T.O.フォスターによって設計され、ヤンゴン大学学長であったH.バトラー卿らの隣席の元、同年12月に開館しました。L字型の建物は、1939年には空調設備も整備されて、アジアでもっとも設備のよい図書館として知られていました。



 1945年には、ヤンゴン侵攻を図った日本軍によって図書館の建物も大きく破壊されたのですが、戦後、また独立後、図書館再編の努力が続けられ、1986年には、旧図書館の建物を修復して、新ヤンゴン大学図書館として開館しました。 私が見学させていただいたのは、この建物です。




 図書館内には、古代の石碑が収集され、また、貝多羅葉(ばいたらよう=サンスクリット語pattraの音訳。ヤシの葉などの表面を傷つけることによって文字を記した筆記媒体)の収集と保全補修の部署があります。

 貴重なのであろうと思える貝多羅葉の仏教文典がケースに入っていたのを写真に撮っている間、オン先生は、係の人に「この人は、ヤンゴン大学で日本を教えている日本人先生だ」という紹介をすると、普段、学生などは入れない貝多羅葉修復の部屋に、入れてくれました。
 貝多羅葉の修復作業の部屋には、作業用の薬品類のほか、修復に使う椰子の葉などがおかれていました。

修復中の貝多羅葉


貝多羅葉古文書の収納書庫



 貝多羅葉は、紙が発明される以前、椰子の葉にとがった鉄筆状の筆記具で傷をつけ、文字を書き込んだものです。細かい文字がびっしりと書き込まれていました。




 図書館入り口には、バガン王朝時代の石碑が、でんと置かれていました。
 英文説明では、11世紀のバガン王朝時代のバガン文字が刻まれているのだとか。たしかに、現在のミャンマー文字とは形が異なる文字がたくさんあります。国立博物館の入口から入ってすぐの展示室がミャンマー文字の歴史室だったのですが、さまざまな時代の文字がずらりと並んでいたので、ささっとみて通り過ぎてしまいました。

バガン王朝時代のバガン文字が刻まれている石碑



 石碑に描かれている内容は仏教関連のことがらなのでしょうが、こうして残された石碑をあらためて見ていると、こういう石碑を研究している人の心意気のようなものが伝わってきます。
 ボスのお話では、昔ボスが60年代のビルマに留学していたころは、石碑の碑文もの貝多羅葉の経文の文字も、手書きで写しとるしか方法がなく、写真版が出回るようになって以後は、研究も楽になったけれど、手書きで写しとるという途方もなく時間のかかる努力というのが、研究の基礎力になっている、とのことでした。

 貝多羅葉修復の部屋には、修復に用いる薬品があり、また文字を書いていたパッタラ(椰子)の葉の束が置かれていました。
 細かい字で葉に描かれた文字は、老眼のわが身には「すっご~い」としか思えないものでしたが、上座部仏教がインドからミャンマーに伝わって以来、延々と続けられてきた仏典研究の歴史に思いをはせました。

修復に用いるパッタラ―の束


 4月から息子も、大学研究所に週2回、某博物館に週3回通って、古文書とにらめっこの日々になることを思うと、ボスが貝多羅葉とにらめっこしていたころの姿も思い浮かべることができました。

 ヤンゴン大学図書館は、見ている分には歴史的な建物が美しいですが、中身は蔵書も古いものが多くて、学生にとっては決して使いやすそうではありません。でも、ここが知の殿堂として、新しい研究を育て、未来の学者を育ってていくんだろうなあと思いました。  

<つづく>
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ミンガラ春庭「コンボケイションホール・ヤンゴン大学キャンパスツアーその1」

2016-03-26 00:00:01 | エッセイ、コラム

コンボケーションホール

20160326
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴン大学キャンパスツアー(1)コンボケイションホール

 日本の大学、一般市民に開放されているところもあります。
 散歩コースにちょうどいいのが、東京大学の駒場キャンパス、本郷キャンパスです。おたくのご子息、東大組?わが愚息はトーダイもとクラシーのほうですから、子が東大に入学してない納税者として、せめて散歩コースとしてキャンパスを利用させてもらいまひょ、と思っています。
 大学教育予算の最大割合を東大が持って行きます。(2015年度の国立大学運営交付金1兆945億円のうち、東大ぶんどり分は803億、京都大学が531億円。のこりを90ある国立行政法人(うち大学法人86)が、ちまちまと分け合う。
 一方、私立の学校では検問が厳しくてなかなか中に入れない、というところもあります。大学の中にも防犯カメラが設置され、風体怪しき人物を監視しているところもあるそうです。

 ちなみに東大では、学生ボランティアによる無料の「キャンパスツアー」が実施されており、実施日に申し込みをしておけば「こちらが三四郎池です。あちらは安田講堂です」と、グループごとに学内ツアーのガイドをしてくれるそうです。東京見物のさいは、ご利用いかがでしょうか。

 ヤンゴンの大学でも、検問厳しいところと、ゆるいところがあります。ヤンゴン外国語大学は人の出入りに厳しいので有名。門のところで守衛さんに自分の名前と面談アポをとってある人の名前を告げ、守衛さんがアポ相手に電話をかける。たしかにこの人とアポがあると認められないと、中に入れてもらえない。学生の出切りも厳しく、授業が終わると、学内から出るバスに乗せられ、いっせいに帰宅させられる。残って図書館で勉強したいと思ってもむずかしい。学生は、朝1時間目から6時間目まで、びっしり語学授業があり、図書館に残りたいなんて言う気力のこっておらす、みなぐったりとバスに乗るということですが。

 ヤンゴン大学の正門は、2015年3月来緬時の報告で紹介したことがありました。


 正門からコンボケーションホール(集会ホール)まで伸びるメインストリート


 正門から入り、最初にあるのが、地質学部の校舎。ほとんどの校舎が大学設立当初からの建物ですから、100年~150年を経ている建物ですが、そのような歴史的建築物だと言うことは、だれも気にしていません。



 地質学科校舎の脇に、食堂カンティーンがあります。ミャンマー学科の校舎は地質学部校舎の隣。タングー棟(タングーサウン)です。



 ヤンゴン大学は、まえに述べたように、2013年まで25年間、学部が閉鎖されていました。90年代に学生による民主化要求運動が勃発し、軍事政権は大学閉鎖という措置をとりました。2013年に大学再開が決定し、2014年12月の新学期から学部1年生が入学してきました。2016年の現在は3年生2年生1年生が在籍していますが、4年生はいません。卒業生がでるのはまだ先です。

 卒業式は、ヤンゴン大学内にある「集会ホールConvocation Hall」で挙行されます。正門からまっすぐ伸びる大学メイン通りの突き当たりにあり、市内の観光名所のひとつにもなっています。郵便局の「市内名所絵はがき」のなか、コンボケーションホールもその一枚として売られています。
 しかし、ヤンゴン大学学部の卒業式は、20年以上、このコンボケーションホールでは見られませんでした。(大学院の学位授与式は行われたでしょうが)
 コンボケーションホールは、市内の教育機関全体が利用できるので、ガウンを着て四角い卒業式帽子をかぶった集団が、メイン通りや正門前で記念写真を撮りあっているのを見ましたが、他大学の卒業生です。1月2月は、ずいぶんと卒業式姿を見かけました。12月の新学期が始まって、1月2月が当地の卒業式シーズンになるのかもしれません。9月に後期が終わったあとも10月11月に卒業式が行われたのかも知れませんが、日本にいたので見ていません。

 2012年にオバマ大統領がミャンマーを訪問した際、コンボケーションホールで30分間の演説を行いました。このホールが世界的にニュースで映されましたから、ホールの映像を覚えている方もいるかもしれません。オバマ大統領は、「ミャンマーのみなさん、ミンガラバー」と、ミャンマー語で挨拶した後「私はこの国を訪問した最初のUSA大統領です」と演説を始めました。

 コンボケーションホールで演説するオバマ大統領。(画像借り物)


 写真で見ると、正面の壁が黒く見えると思います。最初、私はツタかなにかが壁一面をおおっているのかと思いました。黒く見えるのは、市内の他のビルの黒い汚れとおなじように、黒カビが堆積した汚れです。
 軍のトップが鶴の一声を掛けない限り、何もできない自治が制限のない大学ですから、「集会ホールをきれいにしろ」という一声がないのだろうと思っていたのですが。

 都市伝説があります。前回集会ホールの壁を清掃したのは、1974年の軍政下でのこと。
 ウタン(日本語表記ではウタント)国連事務総長が1974年に亡くなりました。その葬儀をめぐって、事件が起きました。軍当局がウタン事務総長のなきがらを管理しようとしたことに対して学生が抗議し、コンボケーションホールにたてこもる、という事件が起きたのです。
 以後、「ホールの外壁をきれいにしようとすると、軍事政府にとって、都合の悪いことが起きる」と、軍政府は信じるに至り、今になっても決して外壁の清掃補修はされない、、、、単なる都市伝説だと思っていたのですが、2012年のオバマ大統領訪問時にさえ外壁清掃は行われなかったのですから、よほど強固な「壁をきれいにするな」という伝統があるのでしょう。オバマ演説の会場に選ばれた後、屋根の雨漏りのほうは修繕されたそうですから、やはり、外壁修理は避けられているのでしょう。

 このコンボケーションホールで、日本語受講生たちが卒業四季をあげる日が楽しみです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「訂正版レストラン・ロアラブッシュ旧千葉常五郎邸」

2016-03-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160331
ぽかぽか春庭アート散歩訂正版>レストラン・ロアラブッシュ旧千葉常五郎邸

 2014年1月28日の記事「旧千葉常五郎邸-ミュージアム1999ロアラブッシュレストラン」に対して、2016年1月23日にコメントをいただきました。
 春庭はコメント欄閲覧と返信記入は、基本的に当日(最新記事)のみ行っております。古い記事にコメント書き込みがあったとしても、さかのぼってコメントを確認することがありません.古い記事に対するコメントであっても、当日(最新)の記事に書き込みをお願いします。今回は必要あってコメント管理ページを見ているうち、2年前の記事に対してコメントがあったことに気づきました。

 コメントは↓に記録した千葉弘氏からのものです。春庭が書いた千葉常五郎に関する文章への異議申し立てです。異議の第1点は、千葉家は、千葉常胤を先祖に持つ家柄であること。2点目は、鍋島家との縁組みは、佐賀鍋島家と千葉家の縁によるものであること。

 春庭は、レストランロアラブッシュの結婚式場パンフレットに
「このレストランは、資産家の男爵家に、公爵家令嬢が嫁ぐさいに建てられた邸宅である」
と書かれている文面について、
(1)邸宅の持ち主であった千葉家は男爵家ではなかった。
(2)千葉常五郎と結婚した鍋島京子は、侯爵の鍋島家出身ではなく、傍系の子爵家出身であること。

 以上2点について、「このパンフレットの記事は、正確ではない。」と記述しました。
 1点目。千葉弘氏は、コメントのなかで、「千葉家は、日露戦争時に資金調達の功があったゆえ、伊藤博文から子爵授爵のすすめがあったが、断った」と述べておられます。すなわち、千葉常五郎が「男爵であった」という点については、自ら春庭の記述は正しいと認めておいでです。
 2点目については、千葉弘氏は、なんのコメントも残していらっしゃいません。この点についても、春庭が訂正しなければならないことはないと考えます。

 千葉常五郎は、戦後、ゴルフボール製作をはじめて、成功をおさめたという起業家です。
 常五郎の父親の千葉直五郎(1888-1970)は、明治の実業家。池貝鉄工所監査役などをつとめました。直五郎の兄の千葉松兵衛(ちばまつべい)は、江戸時代から代々続いた煙草屋を大きく発展させて日本三大煙草王と呼ばれるような大企業にした上で、煙草業が官営化される際に大金で売り抜け大資産家となった人です。


 以上の記述にあやまちがあったら、訂正いたします。春庭は、三菱財閥は幕末にのし上がった成金と思っていましたし、千葉松兵衛がおのれの才覚によって明治期とくに日露戦争時に資産を大きくしたことは、実業家として評価できることだと思っています。

 しかし、千葉弘氏は「成金」ということばに不快感を示され、千葉常五郎と鍋島京子の結婚を「成金資産家と子爵家の結びつき」と書いたことにもご不満で、千葉家はもともとの家格も高く、佐賀鍋島家とのご縁からの結婚であった、と言っておられますので、「成金」という表現を含んでいる文章を削除いたします。人を不愉快にさせることは本意ではありませんし、建物の評価に関わらないと思いますので。

 私が言いたかったのは、男爵家ではなかったのに「元男爵家の邸宅」と書き、子爵家令嬢を「公爵家令嬢」と書いている結婚式場宣伝パンフレットの表現は正確ではない、ということでした。この2点についての訂正はいたしません。「元男爵家」ではなかった、ということは、千葉弘氏もお認めですから。

 春庭は誤字誤変換も多く、文字の訂正は気づいたときに行っていますが、基本的に書き上げた記事を改編することはしていません。今回、たぶん初めて、UPしてある記事の訂正版を出しました。
 念のために、寄せられたコメントを記録しておきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Unknown (千葉弘、常五郎の弟でございます)2016-01-23 22:39:08箔がつくとか、止めてください。秀吉の小田原征伐、北条方について敗戦して武家商人として織田有楽と共に江戸に移りました。先祖は千葉常胤であり石橋山の戦いに敗れた頼朝を助け、八幡太郎義家を奉る鎌倉に幕府開府をすすめた恩人であります。一番の先祖は桓武天皇皇子高見王陸奥守であり、現在千葉県庁所在地千葉猪鼻城主であり千葉の名の由来は県庁裏庭に羽衣の松があり千羽鶴行事も千葉姓の由来も伝承されております。そして鍋島氏との縁組みは九州佐賀天山城に九州千葉氏が居住しそれより鍋島氏が出てくる。その歴史的な縁である。

Unknown (千葉弘、常五郎の弟でございます)2016-01-23 23:15:51成金とおっしゃってますが、まず男爵問題は祖父千葉松兵衛が大磯別荘を持ち、その近くに伊藤博文が居住し深夜一人で来宅され近くロシアとの戦争に備えなければならないが、その資金がない、そこで大きな利益をあげている煙草事業を専売にしてくれないかと、当時の業界理事長松兵衛氏に打ち明けた。それというのも金を出す欧米が日本の国家保証では金が出せない。煙草事業が担保ならば金を出せるとの説明を受けた。そこで明治の人間だから今までの反対を一転、専売に応じた。そこであの有名な日本海海戦の勝因になる英国ア―ムストロング砲を備えた戦艦八隻建造が中断されずにすんだ。しかもロシアや西欧との関係もあり、極秘にすすめられた日英同盟の影の出来事である。このことにより伊藤博文より子爵の内示があったが、お断りし、代わりに大成建設ホテル大倉大倉喜八郎氏が授爵し男爵になった事は狭い世界では著名であります。

~~~~~~~~~~~~~~~~

 立派なご先祖様をお持ちのことを述べておられて、家系に誇りを持っていること、同慶の至りです。
 しかしながら、春庭は、千葉家うんぬんについて書いたのではなく、レストラン結婚式場のパンフレットに誤情報が記載され、ネットでそれが拡散している状態について、注意を喚起したのです。
 いずれにせよ、千葉弘氏におかれましては、春庭の記述にご不快の念をもたれたこと、お詫び申しあげます。
 春庭は、明治以後に資産を大きくした家を「成金」と表現し、三菱も岩崎弥太郎が幕末に才覚を働かせて成金になったと思っております。千葉家について同様に、明治期とくに日露戦争前後に資産を大きくした資産家であるとの認識で「成金」と表現したのですが、この表現につき、千葉弘さまに不愉快であったこと、もうしわけありません。

 「歩」の成金はいつから「金」になるか。春庭の考え方では、自家の資産を公共福祉、学問文化のために差し出したときと思っております。明治期の成金の多くは、景気の変動によって資産を失った家もあります。しかし、自家の財産をつかって、教育文化、社会福祉に多くの貢献をした家もあります。たとえば、渋澤栄一は、社会福祉に晩年の力をそそぎ、渋澤家は、孫の澁澤敬三が民俗学研究のために財産を差し出したなど、さまざまな学術芸術支援を行っています。
 そのとき、成金は金になるのだと春庭は考えております。千葉家もさまざまな社会福祉のために力をお尽くしのことと存じます。(詳細、存じませんが)どうぞ胸を張って「我が家は金」とおっしゃってくださいませ。

 ちなみに、千葉家の代わりに男爵を受けたのだとおっしゃる大倉喜八郎は、1917(大正6)年に邸宅内に日本初の私立美術館「大倉集古館」を開設しました。今、私も大倉集古館の美術を楽しませていただいておりますので、大倉喜八郎も成金から本物の金になったと思います。

 つけたし。伊藤博文より「子爵授爵の内示があった」との千葉弘氏のコメントについて。
 経済上の功により授爵するばあい、いきなり子爵ということはありえません。男爵を授けられ、さらに功績を積んだ場合に子爵へと進みます。経済上の功績で男爵から上昇して子爵を与えられたのは、渋沢栄一などごく限られた経済人のみでした。

 伊藤博文は人に頼み事をするときに「あんたに爵位をもらってやるよ」というたぐいの口約束乱発も臆さない人でしたが、正式の授爵内示であったなら、当時の宮内省だか内務省だかの栄典を扱う部署に記録が残されているはずですから、探し出して、家宝になさるとよいと思います。

 今後とも、できる限り正確な情報を記録していくよう努めつつ、必要あれば訂正していきます。辞書百科事典のたぐいと異なり、記述も校正もひとりでやっているサイトなので、ときとして誤記誤変換がございます。ご指摘いただければ幸いです。

 以下、訂正後の旧千葉常五郎邸-ミュージアム1999ロアラブッシュ(2014/01/28)の記事です。
 写真付きをごらんになるかたは、こちらへ
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/bdd298c6bdfde1578ef6b5212e1ed30a#comment-list
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2014/01/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(9)旧千葉常五郎邸-ミュージアム1999ロアラブッシュ

 東京大空襲に焼け残った明治~昭和前期の近代建築。保存にはいろいろな苦労がつきものですが、大きく3つの保存のありかたが考えられます。
 ひとつは、テーマパーク型。古い建物を解体したうえで、明治村や江戸東京たてもの園、府中郷土の森博物館などの、建築を集めた博物館に復元移築する方法。
 もうひとつは、元の場所にそのまま保存し、博物館、美術館などに改築して転用保存する方法。最後に、古い家にそのまま住み続ける方法。

 三番目の方法には、持ち主のよほどの覚悟が必要です。文化財指定を受けると、改築などにさまざまな制約があり、居住者にとってはあまり快適な住まいではなくなるし、公開して見学者を迎え入れるのも、なかなかたいへんなことです。古い建物の維持管理には潤沢な資金も必要になります。

 ヨーロッパなどでは、古い城館に手を入れて、ホテルやレストランとして使用する例があります。日本の近代洋風建築のなかにも、個人住宅をそのまま美術館に改装した高崎市美術館(旧井上房一郎邸)や、原美術館(旧原邦造邸)」などもあります。渋谷区渋谷にある結婚式場兼レストランのミュージアム1999ロアラブッシュも、現役で営業している近代建築のひとつです。

レストラン・ロアラブッシュ、エントランス


 多くのサイトでこの洋館レストランを取り上げていますが、レストランのパンフレットをそのまま引用しているところが多く、きちんとした検証しているところが少ないように思います。
 私もさいしょにレストランの案内を見たときには、資産家の息子と公爵令嬢が結婚する際に建てられた家、という説明を鵜呑みにしましたが、レストランまで出かけてパンフレットをもらったら、「旧男爵家の建てた邸宅」と書いてあったので、あれ、おかしいな、と気づきました。

 結婚式場の案内パンフレットには「その昔 旧男爵家が子息の婚姻の際に贅を尽くして築いたもの」と書かれています。しかし、この家の持ち主が男爵であったというのは、誤りです。
 レストランの案内パンフレットのほうには「この洋館はもともと、ある資産家が公爵令嬢と結婚する息子への祝いに建てた邸宅」と書かれています。こちらのほうが、史実に近いですが、それでも「話を盛っている」。公爵ではないです。

 この家に住んだ新婚の夫婦は、夫、千葉常五郎(1911(明治44)-1998(平成10))。妻、鍋島京子(1913~没年不明、生きているなら百歳)
 鍋島京子は、子爵・鍋島直庸(1879-1962)の娘です。
 京子の父鍋島直庸は、父、子爵鍋島直虎(1879-1962)母、松平清子(伯爵松平茂昭)の子息。

 鍋島京子が、公爵令嬢と書かれているのは、佐賀藩の殿様であった侯爵鍋島直大と混同している上、鍋島直大も公爵ではなく、侯爵です。また、鍋島直庸を佐賀藩主と書いてあるのも誤り。佐賀藩主は鍋島直大で、鍋島直庸は、肥前小城藩7万石の殿様でした。

 千葉常五郎を「旧男爵家」としているレストラン側の説明ですが、誤りです。千葉家は、資産家ではあったにちがいないけれど、男爵ではありません。この豪華な洋館が建てられたおり、近隣の人たちの間に「華族様のお屋敷か」「男爵家の邸宅だそうだ」という噂がたったという伝説が、もっともらしく伝えられたもので、日本の華族は公侯伯子男、すべて家名がわかっています。1869(明治2)年の最初の427家の華族から1947年に華族制度が廃止され1011家が爵位廃止されるまでの、すべての家の記録があるからです。

 鍋島京子と結婚した千葉常五郎は、千葉直五郎の息子。常五郎は、米国アーマスト大学卒業後、1933(昭和8)年に帰国して、鍋島京子と結婚。渋谷の家は、大正末年に起工し、昭和7年に竣工したということなので、まさに、新帰朝の息子の結婚に合わせて建てられたのだと思います。アーマスト大学は、新島襄が卒業した大学です。千葉常五郎が卒業したのが確かかどうかは、卒業生名簿を当たればいいのですが、確認していません。

入り口反対側から


 千葉常五郎は、戦後、ゴルフボール製作をはじめて、成功をおさめたという起業家です。
 常五郎の父親の千葉直五郎(1888-1970)は、明治の実業家。池貝鉄工所監査役などをつとめました。直五郎の兄の千葉松兵衛(ちばまつべい)は、江戸時代から代々続いた煙草屋を大きく発展させて日本三大煙草王と呼ばれるような大企業にした上で、煙草業が官営化される際に大金で売り抜け大資産家となった人です。

 レストランは、1981年から会員制クラブとして営業をはじめたと、レストランのパンフレットに書いてあります。当主の千葉常五郎の没年が1998年とすると、その翌年には一般のレストランに改装したのだろうと思います。ミュージアム1999というネーミングは、千葉常五郎の没年の翌年に改装開店したことを示唆しています。これも、確認した情報ではありませんけれど。春庭が追跡できたところは、以上です。

 つまるところ、レストランのパンフレットに書かれていることの2点は、誤情報です。「この館の当主であった千葉家は男爵家ではない」「千葉常五郎夫人の京子は公爵家令嬢ではなく、子爵家令嬢」というふたつの点で誤った情報を掲載し、多くの人がそのまま引用している、ということです。誤情報がネットで拡散していくのがよくわかります。

 ほんとうを言うと、レストランの持ち主が、元男爵だろうと公爵だろうとどっちでもいいようなもんです。爵位なんぞをありがたがったりしない、誰もが平等な世の中を望んできたのですから。ただ、こういうレストランパンフレットなどに「爵位をありがたがる」ような宣伝文句が書いてあると、へそ曲がりな性分がついつい鎌首もたげる。(爵位なんぞとは無縁の庶民のひがみっていうと、そのとおりかもしれないですけれど)

 1959年の皇太子妃(現・皇后)お輿入れの際に、ある元皇族は、「爵位もない平民から皇室に入るなんて世も末だ」と、日記に憤懣やるかたなしと記述しました。
 今でも、まだまだ爵位という「人に等級をつけ、身分の上下を尊ぶ人々」はいるんだなあと感じたことでした。
 「公爵家令嬢が嫁入りする際に建てられた男爵邸宅」というと、なんだか立派そうに思える、という庶民感覚を宣伝に利用した、と言えばそれまでです。一種のファンタジーですね。

 ほんとうは、2月15日にここでランチしようと思ったのですが、この日は、あいにくと結婚式が入っているので、ランチ営業はなしという案内嬢の説明でした。残念。またの機会に。

入り口まえのライオンレリーフの口から水が流れていました。
 

入り口の中側の階段

入り口のホール奥

 建物としては、爵位があろうとなかろうと、とてもすてきな邸宅です。
 設計・黒川仁三、施工・竹中工務店という点、まだ確かめていません。

 黒川仁三が黒川紀章の父親だというのも、ロアラブッシュ紹介のサイトにこぞって書かれていることなのですが、黒川紀章の父親は、同じ建築家でも、黒川巳喜(1905(明治33)-1994(平成6)と思うので、このへんもきちんと調べてみなければなりません。いずれにせよ、レストランの宣伝パンフレットを鵜呑みにしてはいけませんね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<おわり>
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ミンガラ春庭「サイカー通勤の路上」

2016-03-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20130324
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴンの暑季(7)サイカー通勤の路上
  
 普段は、大学の西門から出入りしています。西門は通用門なので、夕方6時すぎると閉められてしまいます。

 
 タングー棟の玄関も6時すぎには閉まるので、要注意。鍵がない人がうかうか残業などしていると、気づかないうちに出入り口を閉じられてしまい、翌朝まで閉じ込められることになりますから。

 たいてい私が一番遅くまで仕事をしているので、事務室の鍵だけでなく、私にも玄関出入り口の鍵を持たせてくれたらいい、と思ったのですが、だめでした。どうやら鍵は管理者の権威の象徴らしく、学科長と副学科長とボスの3つの鍵しかない、というのです。合い鍵は500チャット50円で作れるのだから、玄関鍵も作っちゃえばよいのですが、まあ、6時すぎまで残業していてはいけない、ということなんですね。私はやり残したことは家に持ち帰って仕事することにしていました。

 朝、ピーラン(ピー通り)を渡って、西門から入ります。人類学科の校舎。日陰を選んで校舎の裏を通って、タングー棟へ。途中の椰子の木がとても背が高く、ずっとココナッツの実がついたままになっています。だれも収穫しないらしい。日本からの留学生は先生から「落ちてきて頭を打つと危険だから、あの椰子の木の下を通るときは気をつけること」という注意を受けたのだと。そんなことなら、危険なことになる前に実を始末してしまえばよいのに、と思うのは日本式。誰からも命じられていないことは、誰もしようとしない。



 大学内のマンゴーの木には、青い実がついているし、ジャックフルーツの木には、大きな実が幹に直接ついています。ジャックフルーツは熟れ時には少し早いようでしたが、外部の人が勝手に収穫しているのを見かけました。学内の果樹の管理体制もないので、早く取ったもん勝ちなのかもしれません。ジャックフルーツをかごいっぱいに積んでいる人に、「ひとついくらで売るのか」と質問してみました。(日本人留学生にきいてもらった)だって、大学の木から勝手に取った実なので、元手要らず。「熟れているかどうかで値がちがう」という答えでした。どうやら、よく熟れてからだと取り合いになるので、先走って収穫したらしい。籠いっぱいの実のなかで、運よく熟れているのがあれば、売って収入になる。熟れていなかったら取り損。

 英名ジャックフルーツ(ミャンマー名:ペインネーディ 和名パラミ果) 


 幹に直接実がぶら下がるところがユニーク


 自転車のカゴに大きなジャックフルーツ盛り込んで大急ぎで帰るところ。大きさと外見はドリアンによく似ています。


 西門近くに立つマンゴーの木にも実がついていました。






 帰りもバスで帰る、というときは、西門から出て、ピー通りを渡ってインセイン通りへ。横断歩道橋の脇でバスに乗ります。

 帰りのバスは、インセイン通りの歩道橋の前から。


 タンランでバスを降りたあと、行動は3とおり。
1.タンランのサイカーだまりで「MICTパーク」と言って、どれかひとつに乗って宿舎まで帰る。300チャット。30円。できるだけ小銭を持つようにしているけれど、バス車掌と違って500チャット札などを出すと、釣り銭がない。
2,道路を渡って、タンランの道脇の露店でカリフラワー、キャベツなどの野菜や、焼いた川魚を買ってから、サイカーで帰宅。
3,バス停からMICTパークの中を通って、コンビニでヨーグルトなどを買って帰るか、キングカフェでコーヒーを飲んで帰る。キングカフェは、私が帰宅するころには店じまいしてしまっているので、めったにおいしいコーヒーが飲めない。

 サイカー運転手たちは、私が前に立つと、「MICTパーク」と言わなくても「ほら、あの外人がきたよ」と言い合って、乗せる順番の人がサイカーを道路に出します。自転車で1キロこいで300チャットの賃金を受け取ります。もしかしたら、サイカー貸し元の親方が150チャットを取るのかも知れない。



 タクシー運転手は、たいていが自分で車を買った個人タクシーですが、車を何台も所有し、運転手を雇う人もいる。サイカーは、元締めの親方から借りているだけなのか、自前の自転車なのか、知りたく思うのですが、この質問、私にはミャンマー語で言えないし、片言の英語すらわからない運転手たちに聞くことができません。彼らにわかる英語は、「ワン、ツー、スリー」くらいまで。500チャット以上の距離を走ることはめったにないから、ファイブ以上は覚えなくてもよい。暇なときは、自分のサイカーにすわっていねむりをしている人が多い。ひとことでも英語を覚えて、より実入りのいい仕事に鞍替えしようなどとはツユとも思わない。今の暮らしに満足しているように見えます。

 このサイカーは、下町を回る観光サイカーです。半日で一人分5000チャット500円でした。客は息子です。


 通勤の道筋には、500チャット50円くらいで、朝食夕食を出す露店がたくさんあります。水道がない店なので、汚れて泥水のようになっているバケツの中で皿やコップを洗っています。人々は平気でその皿のごはんを食べているのですが、私はまだ露店のご飯は食べたことがありません。店舗があって、一応水道水でお皿を洗ってほしい。

 露店の生搾りジュースは飲みます。「パーセー」というと、ビニール袋にアボガド生搾りやパイナップル生絞りを入れ、甘いシロップをかけ、ときに練乳をかけてストローを刺してくれます。ビニール袋は使い捨てなので、いちおう新品は清潔と思います。

 でも、一度、とがったストローの先でビニール袋を突いてしまい、ジュースがだらだらこぼれてしまったことがありました。見ていた違う露店のおばさんが、ビニール袋をもう1枚くれました。ミャンマーの人たち、親切なことができるとうれしいのです。来世がよくなるから。私は、町の人々から数々の親切を受けましたが、今では、「アホな日本人が失敗したおかげで、あなたは親切なことができて、来世がまたひとつよくなったね」と、思うようになりました。

 人々は、貧乏でも幸福です。今日も親切なことをして、来世がよくなることができた。一日に1000チャット稼いで、100チャットをお寺に寄進できたから、来世がよくなった、よい一日だった、と思いながら眠れるのです。
 露店の茶屋では、ビールを飲みながら、コーヒーを飲みながら、おしゃべりに余念ない人々がいます。コミュニティがあり、仲間との語らいがあり、将来に不安がない。きっと今よりよい来世が待っているから。

 くったくのない顔でビールを飲みお茶を飲んでいる人々を見ていると、老後は1億円あっても十分ではない、と不安顔ですごしている日本の人々は、本当に幸福なのかなあと思えてきます。

 ミャンマー、大統領が決定しました。アウンサンスーチー女史の入閣がとりざたされていましたが、どうなるでしょうか。
 私は外相就任して、各国を歴訪し、ミャンマー経済協力をとりつける仕事をまずはやっていくべきだと思いました。経済を立て直してNLD内閣の実績を作ってから、今は軍人が握っている入管法を改革。現在は英国籍である女史のふたりの息子の国籍をミャンマー国籍に変えてから、大統領になる、というみちすじが一番まっとうなのではないかと感じていましたが、これも先行き不透明。
 アウンサンスーチー女史のポストは、外相、教育相、エネルギー電力相、とあとひとつなんだったっけかの兼任らしいです。教育関係者たち、どういうふうに教育が変わっていくのか、なりいき見守っています。

 30日に、新内閣の発足式があるそうです。4月は新年。きっと今年の新年水掛祭りは、これまで以上に新しい気分が盛り上がり、盛大なものとなることでしょう。
 3月の日中の気温連日41度のアツい国、ミャンマー。
 人々が今以上に、現世でも幸福なくらしを続けていけますように。

<おわり>
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ミンガラ春庭「ヤンゴンバス通勤その2」

2016-03-23 00:00:01 | エッセイ、コラム

昼のすいているバスの運転席

20130323
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴンの暑季(5)ヤンゴンバス通勤その2
 
 ヤンゴンの路線バスは、日本車の中古車廃車を改造したものがほとんど。中国車、韓国車もたまにあります。バスは、こんなボロでよく走れるなあと感心するくらい、おんぼろです。椅子は固い木や鉄パイプで作成して取り付けたものが多く、30分も乗っているとおしりが痛くなる。私の乗車は20分くらいなので、たいていは立っています。奥のほうに席が空いていても、すわっちゃいけない。すわっているあいだにドンドン混んできて、出入り口まで人がぎっしりになると降りられなくなるので、できるだけ出入り口に近いとこに立つようにしています。

 一番前のお坊さん優先席。一番前でなくても、お坊さんが自分が座っている席の横に立ったら、席をゆずります。


 日本車の中古車廃車を輸入して再利用しているので、車内には日本語文字が残s。「お降りの方は、このボタンを押してください」とか「危険なのでステップに立たないでください」とか。「運転手にはなしかけないでください」と、運転席の前に書いてあっても、車掌と運転手は大声でおしゃべりしています。





 行きのバス停は、日が当たる側なので、木の幹の細い陰に人々は集まります。バスは続けてきますので、できるだけぎゅーぎゅーづめではないのを選んで、「レーダン?」と確認して乗り込みます。レーダンはインセイン通りとピー通りユニバーシティアベニューとの五叉路なので、どのバスも止まらないことはありません。しかし、交差点の手前で止まるのと、角を曲がってから止まるのと、交差点を通りすぎてから止まるのでは、降りてから大学まで歩く距離が相当ちがいます。

 交差点手前で止まると、インセイン通りの横断歩道を登って降りるのが一苦労。
 暑いので日傘必需ですが、当地の人々はすれ違うときにお互いの傘を傾ける、江戸仕草で言う「傘かしげ」という作法がありません。どちらかが高くかかげて通り抜けます。背が高い方が高く掲げた方がうまく通り抜けられると思うのですが、当地の人は、男性も女性も背が低めの人が多く、ときに私が高く掲げます。チビの私が高く掲げてもたかが知れていて、傘がぶつかり合ったり、階段途中でバランス崩したり。「ゴミのポイ捨て禁止、噛み煙草(コーン)の赤い唾吐き禁止、トイレなどの列を作るときのフォーク並び推奨、バス電車内での大声でのケータイ会話の遠慮」などとともに、「傘かしげ」作法が普及すればいいなあと思います。

 傘は、王国時代までは、高僧や王族が権威の象徴として従者に掲げさせるものであり、庶民が自分でさすものではありませんでした。今ではみやげもの屋で、伝統工芸の傘を売っていますが、小さなもので20万チャット(2万円)という値段を聞き、私にはみやげものとして買うことができないし、ましてや1ヶ月の給料が1万円くらいで暮らしている層の人々にとって、祖父母たちには伝統の傘は高いものだったろうと思います。
 今、人々が持っている洋傘は、5000チャット500円くらいが標準。これだって、一食500チャット50円、1000チャット100円の生活をしている層には、高いものだと思います。
 使い捨てビニール傘は普及していません。日傘としては役にたたないし、雨期の強い雨にはすぐ壊れてしまい、役立たないので。

 さて、日傘をさし、日陰を選んでピー通りを渋滞の車の間を縫って渡り、ようやく大学西門につきます。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴンバス通勤その1」

2016-03-22 00:00:01 | エッセイ、コラム

比較的こぎれいなバスもたまには通る。
自転車に乗るにもロンジー姿で。運動するときもロンジー。短くたくし上げてまたで挟みます。

20130322
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴンの暑季(4)ヤンゴンバス通勤その1
 
 私の通勤経路。ライン地区の宿舎からレーダンの大学まで、4kmほどの道のりです。
 タクシーでは、ライン地区を抜けてからピー通りに出るまでが1キロ。ピー通りに出るまで1kmの道のりなのに、渋滞がずっと続くので、1キロに15分20分かかる。

 ピー通りに出てから大学までの3キロくらい道のりも、時間帯によって渋滞しだいで15分から20分くらいかかる。4kmの移動に最長45分かかったことがあります。歩けば4km1時間くらいですから、歩いたほうがいいというのは、日本での健康話。当地では、雨期は激しいスコール雨が突然くるので歩けなかったし、今は暑くて歩けない。帽子をかぶって日傘を差しても、日なたを1時間歩いたら、日射病で倒れます。連日最高気温41度。こんなに暑いのは記録的ということです。

 徒歩&バス利用の道は、MICTパークを通り抜けてインセイン通りのタンラン停留所とレーダン停留所間を乗り降りします。
 朝、タンランバス停まで10分ほどの徒歩。教員宿舎となりのMICTパークの中を通り抜けます。パークの入り口を守る守衛さん達と顔なじみになり、ミンガラバーの挨拶をかわします。

 MICTパークにはキョウセラなどの日本企業も入っているのですが、日本人駐在員たちは守衛さん達とあいさつをかわしたりしないし、徒歩通勤などしないので、顔を見知ることもない。

 私は「チャマー、セヤマー、ヤンゴンタッカドゥー。チャマー、ナメーガ ドクターHALバァ。ジャパンルーミョー」と、自己紹介だけはミャンマー語で言いました。これしか言えないので。日本だと気恥ずかしくて、名乗りに「HALハカセです」なんて言えません。バカセかパカセと、冗談を言うのがせいぜいです。が、当地では「ハカセ」の威力は大きいですから、ズダ袋下げて、よれよれのズボン履いて歩いていても、あやしい人物ではない、という自己アピールのひとつです。

 12月の子犬誕生直後、子犬がまだ人に寄ってきたころ。狂犬病や皮膚病などがこわいので、「犬、こわ~い」と日本語で言うと、守衛さん達は「しっ、シッ」と、犬たちを追い立てて、私の周りにこないようにしてくれたり、みな親切です。
 犬は3ヶ月で育ち、人間に近づいてもいいことはない、ということを学習した犬だけが生き残っています。それでも野犬天国に変わりはないヤンゴン市内です。

 残飯を犬に与えれば動物愛護の功徳をほどこしたことになり、来世のステージがよくなる、という思想が変わらない限り、ヤンゴンの野犬は減らない。野犬に残飯を与える人は、犬への狂犬病注射代も支払うこと、というキャンペーンを張るべきです。もっとも、人間への予防注射だって完全ではない国です。子供への予防接種として「結核(BCG)、ジフテリア・破傷風・百日咳、ポリオ、麻疹、インフルエンザb型菌(Hib)感染症、B型肝炎」がありますが、接種履行率は不明。田舎へいけばいくほど、予防注射の習慣はないと思います。まして犬においてをや。

 MICTパークのフードコートの前を通ります。昨年10月~12月に開店したYKKOやオリエンタルフードなどの有名レストラン、コンビニのCity-Expressが入っています。このフードコート開店で、宿舎の買い物食べ物環境は、劇的変化。ヤンゴン砂漠と言われていたMICTパーク内が一気に小オアシスつきになりました。

 道ではなく、どうして店の前のテラス席の間を通るかというと、軒下テラス席は日陰だからです。12月と1月は、日陰をとおれば、汗ばまずにバス停まで歩けました。3月の今は、日陰でも歩けば汗をかきます。
 しかし、当地の人々の汗腺は、寒い季節のある日本人とは異なっているようで、汗だくの人はあまりいません。逆に12月1月に朝夕が23~25度くらいになって、私には快適だったとき、みな寒い寒いと言ってセーターを着込んでいる人も多く見かけました。25度でセーターって、それほど寒さに弱く暑さに強い人々です。

 バス停では、「スーレー、スーレー」「レーダン、レーダン」という車掌の声が聞こえたら乗り込みます。路線バスですが、バス番号はあてになりません。路線番号とバスの路線表示は一致してない方が多いから。人々は、基本、車掌の声でバスを選びます。

 日が当たるバス停に人はおらず、人々は、木陰で待っている


黄緑色Tシャツの背中を見せている車掌。行き先をどなりながら、腹をかいているようです。

比較的こぎれいな、ぼろくない小型バス


 朝7-8時台のバスは、乗客の胸と腹がくっつきあう、ギューギューのものすごい混みようなので、私は数回の利用であきらめました。現在は9-10時台のバスで、人と人のあいだに数センチくらい隙間ができるくらいなので、わたしにも乗っていられます。

 バスは、基本ぼろぼろです。座席のカバーは汚れ放題のうえ、破れているのはフツー。


 以下の写真は、12時-13時に撮影したものなので、乗客の間にゆとりがあり、立っている人がいないバスもありますが、これは、ぎゅーぎゅーのバスでは写真がとれないので、すきすきのバスで撮影したのです。



 乗客はみな親切ですが、乗客マナーとして老人に席をゆずるのを見ることは、めったにありません。次の停留所で降りる人が立つとき、まわりを見渡して「次にここがあくよ」と、教える人はいますが、自分の席を譲ることはしません。唯一席を譲られる人、お坊様です。ミャンマーでは、バスの一番先頭の席はお坊さん優先席。お坊さんが乗ってきたら、一番先頭の席は必ずお坊さんに譲ります。



 ヤンゴンのバスは急停止急発進急な路線変更は「常態」だし、動いている途中のバスへの飛び乗り飛び降りもみなフツーにやっています。また、停留所の付近に止められないとき、停留所のはるか手前で、後ろから車がどんどんやってくるのに、道路際でない、真ん中の車線で降ろされることもあります。一応、車掌は手で後続の車をストップさせて、車の間を「ここをすり抜けて歩道に行け」と、補助してくれるのですが、こわいです。

 こんな危険な思いまでしてどうしてバス通勤するかというと、タクシーに乗るときはエアコンつけてもらい快適ですが、一人です。バスには中流以下の人々が乗り込み、人々といっしょになる面白さがあります。



 現在のヤンゴンで、人々は公共の場でも遠慮無くケータイの着信音を響かせて、みな大声で話します。マナーモードにする習慣は根付いていないので、クラシックコンサート会場でも遠慮無く着信音があちこちで鳴り響いたということですから、バスの中で遠慮するはずもありません。しかし、外国人のおばさんが乗り込んできて、へんてこりんな発音で「レーダン」とか「タンラン」というので、みなが注目していて、急発進によろけたりすると、周り中の人が手をさしのべてくれて、ミャンマーの人はほんとうに親切だと思います。

 レーダンの最初には、鼻から息を出す「H」の音がつくのです。タンランのTも有気音なので、私の発音では伝わらないこともあります。私が「タンラン」というと車掌は「たンラン?」と正しい発音で聞き返すので、うなずけば解決。

 タクシーは目線が低くなりますが、バスに立って乗車していると、タクシーより高い目線で町を見ていけるのもバスの利点のひとつ。「あれ、インセイン通りのこんなところに日本語学校があったんだな」など、タクシーだと目に入らないビルの3階に目がいったりします。

 以下の店のなにがおもしろかったかというと。


 OMOTOという店の名に、「おもと」とひらがなが書いてあるのは正解だけれど、カタカナ表記は、いったい何が言いたい?「ロモ」は読めるけれど、ロモの前の「巾」は何の意味だか。「ソム」は読めるけれど、そのあとの「ウ」みたいのは、なんだろう。


 バス停まで10分歩き、レーダンバス停に着いてから大学事務室まで10分歩きます。朝、時間ぎりぎりに宿舎を出ることになって、その時間がない、と感じるときタクシーを使い、帰りはよほど疲れているときタクシーにしますが、1月と2月の上旬下旬通勤はほとんどバスでした。2月中旬と3月上旬は友人と家族を連れての通勤もしたので、ほとんどタクシー移動でしたが。

 この横断歩道橋が見えたら降りる準備。出入り口ドアのそばに行っていないと降りられなくなる。




 交差点を挟むレーダン停留所は、交差点の手前で下ろされるのか、右折してから下ろされるのか、交差点を通り過ぎてだいぶ走ってから降りるのか、だいぶ違います。しかし、とにかく車掌に「レーダン、レーダン」と言って200チャット20円を渡しておけば、車掌なり乗客なりが「ここで降りるんだよ」と、教えてくれます。

<つづく>
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ミンガラ春庭「マンゴーの青い実・通勤の道すがら」

2016-03-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160320
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴンの暑季(3)マンゴーの青い実・通勤の道すがら

 最初に目にしたときは何でも珍しく感じますが、生活に慣れてしまうと、そこここにあるものがあまり目に入らなくなります。当たり前になってしまうので。
 でも、このヤンゴン生活も終わりかと思うと、ヤンゴンで目にした「あたりまえのもの」に、もう一度目を配るようになりました。
 そんな「ヤンゴンの日常風景」を取り上げてみます。

 毎日同じ道を通りますから、とくに気にもとめずに通り過ぎてしまう、通勤途上の光景。
 椰子の木が並木になっている大通りもマンゴーが道筋にふつうに生っている光景も、東京に帰ったら見られないものですから、写真を撮っておきました。

 大学から帰宅するとき、タクシーだと止まってのんびり写真を撮ることができませんが、日本語授業に出席していたオン先生の車で送ってもらうことがあり、送ってもらうのもこれが最後かなと思う3月15日に、渋滞でのろのろ運転になったところでシャッターを押したり、ところどころで止まってもらい、写真をとりました。


 椰子の木の並木道がつづくピーラン(ピーロード)。帰宅途上、夕暮れの椰子並木。


 椰子の向こうに見えるのはインヤー湖の北西の端になります。


 ピーランとパラミランの交差点からパラミランを少し入って、宿舎のラインキャンパスへの道に入ります。
 インヤー湖北端のわきを通ります。




 ライン地区に立つマンゴーの木。


 ミャンマーのマンゴーは、まだ、小さくて青い状態です。雨期になれば食べ頃。


 マンゴーの実は、今はミャンマーでは収穫シーズンではなく、娘はどのレストランでも「マンゴー生搾りジュース」と注文すると「ノーシーズン」と、そっけなく断られていました。
 15日の大学食堂でおそらく輸入物のマンゴーが生搾りジュース屋にあったので、注文し、どこのマンゴーかときいたら、「コリアン(韓国)」と答えたので、たぶん、こちらの「インポート」ということばが、伝わらなかったのか、それとも最近は韓国でマンゴー栽培をしている?私の発音聞き取りが悪いので、コリアンと似た発音のどこかの地区かもしれません。最後の最後まで、ミャンマー人の話しことばが聞き取れない春庭でした。

<つづく>
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ミンガラ春庭「サクラタワーからヤンゴンを見渡す」

2016-03-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160619
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴンの暑季(3)サクラタワーからヤンゴンを見渡す

 スーパーホテル露天風呂からの眺めは、ヤンゴン空港と市内繁華街の下町(ヤンゴン川沿い)のちょうど中間くらいにある地点からの眺望でした。
 14階より高いビルもどんどん建設が進んでいるヤンゴンですが、スーパーホテルの周囲は高級住宅街なので、しばらくはこのホテルの眺望権は守られるのではないかと思います。
 映画「バーレスク」の中で、眺望権、空中権売買が話題になっていましたが、種々の法律がまだ未整備のヤンゴンで、眺望権に関わる法律はたぶんまだ整備されていないと思います。
 
 土地の売買権に関して、ようやく外国人でも土地取得ができるようになるとか、もうなったのだとか。たぶん華僑資本中国資本がミャンマーの土地を食い散らかすでしょうね。
 肖像権と著作権に関する法律は、たぶん数年後にならないと、そういう法律が必要なのだ、という議論もはじまらないかも。

 下町では、文化財保護区域の指定がなされていますが、保護地区のほかの古いビルはどんどん壊されて新しいビルの建設ラッシュ。やがてヤンゴンも高層ビル林立の光景になっていくのでしょう。
 今のところ、下町の高層ビルのうち、20階建てのサクラタワーからの眺望は抜群です。サクラタワー事務棟の階には、日本企業がたくさん入居しています。

 サクラタワー最上階のスカイビストロというレストラン、「コーヒー1杯5ドルもするお高いところ、よう行かんわ」と思って、行ったことがなかったのですが、娘息子のヤンゴン下町見物で、ついにこのサクラタワーに入ってみました。

 息子、ミルクティ、娘ライムジュース、私コーヒーで15000チャットくらいでした。(サービス料10%と税5%含む)。なんでも学食換算にするので、支払うとき、「大学食堂ランチ10回分」と感じます。

 まあ、そんな「お高い」コーヒーですが、眺望代と思えば安いのかも。以下、サクラタワーからの眺め、ヤンゴン下町の光景です。

どこから見渡しても、中心はシュエダゴンパヤーです。


ヤンゴン駅が見える


アウンサンスタジアム


ごちゃごちゃした下町の古い町並み


町並みの向こうにヤンゴン川が見えます。


<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴン露天風呂」

2016-03-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160317
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴンの暑季(2)ヤンゴンの露店風呂

 暑い季節に冷たい物ばかり飲んでいるのは身体に良くないし、冷房に浸りきりなのもよろしくないと健康法ではいわれます。ではどうするか。ヤンゴンの人たちのように、暑くても熱いミャンマー茶を飲み、暑くても冷房なんぞにはたよらないのが健康にはいいのでしょうが。暑さには慣れっこのヤンゴンの人々、冷房を嫌い、この季節でも冷房の効いた喫茶店の外のオープンテラス席を好む人、多数。でもでも。

 暑さに慣れていないヤワな春庭は、どうやってことの暑さをしのぐのか。暑い季節には熱い温泉、、、、いいですねぇ。でも、宿舎にはシャワーしかないし、ホテルの西洋バスタブに横たわるのは、どうもお風呂に入った気分になりません。温泉豊富な群馬育ちですから、やはり温泉が一番。
 っていうわけで、ヤンゴン初の、そして今のところ唯一の日本式露天風呂に入ってきました。

 カバエヤー通り沿いにある、去年だか一昨年だかにオープンしたホテルで、ウリは「ヤンゴン唯一の温泉のある、その名も「スーパーホテル」。シャングリラホテルとかに比べると、いかにもB級っぽいネーミングですが、ヤンゴン一泊9000円以下のホテルの部では1位になったのですと。


(ホテル全景写真借り物。以下は春庭撮影)

 でも、泊まり客のうち、温泉は男性客のみの利用だったのです。朝6-9時男性客利用。夜7時深夜1時男性客利用。な~んだ、宿泊しても女性は利用できなかった。
 しかし、今年1月から「女性客も昼の時間帯に利用できる」というサービスがはじまりました。午後3時ー6時は、女性専用になりました。でも、昼は仕事。どうすりゃいいのか。
 1時間の早引けをさせてもらって、4時に帰宅を許してもらいました。4時半にスーパーホテルに到着。5時半まで最上階14階の展望露天風呂(沸かし湯ですが)につかってきました。



 14階からのながめがウリですから、まずは風呂からの眺望を。風呂からのながめと、となりのランドリー物干し場からの眺望です。

 露天風呂から南を眺めると、中央にシュエダゴンパゴダが光っていました。見えにくいですが、中央奥です。


西のながめ




北西にも、光るパゴダが見えました。





東側のながめは、お風呂からは見えません。ランドリーの物干し場から撮りました。


では、いよいよ、お風呂の中のようす。春庭ヌードなどお楽しみください。嘘です。
内風呂

露店風呂、といっても、屋根はあります。ビルの14階の吹き抜けになっている、という半露天というべきか。下はガラスはめ込み、窓上は吹き抜け。自然の風がここちよい。


設備
脱衣所洗面台。ドライヤーや化粧水、コットン、歯ブラシなどはあったけれど、ブラシ&コームはなし。

洗い場


洗い場の風呂桶と風呂イスは、東白川村の木を使っているのかと思ったのですが、「東白川村を応援しています」と書いてあったのであり、木はどこのかわかりません。


シャンプー、ボディソープはフツー。特によくも悪くもなし。

 5ドルの入浴料で、ワンドリンクつき。
 1階のレストラン「シャカリキ」で飲み物をもらいました。ネが貧乏性ですから、2200チャットの生ビールは選ばずに、3800チャットのマンゴーチューハイを選びました。5ドルは現在のレート換算では6000チャットですから、できるだけモトとろうという根性。
 

 今の時期では、ミャンマーマンゴーではないでしょうが、マンゴーを切ったものがチューハイに入っていました。
 おつまみに焼きイカをたのんで6800チャット。往復のタクシー代4000チャット。シメて16800チャット1680円の「今日の贅沢」でした。

 いい湯だな。自撮り入浴図


<つづく>
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ミンガラ春庭「あついです」

2016-03-16 00:00:01 | エッセイ、コラム

帽子売り

20160316
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴンの暑季(1)あついです

 ヤンゴンの季節、雨期6~9月、乾期10月~2月、そして3月の暑季となりました。あついです。日陰にいて、風ふけばいくらか楽ですけれど、ときに熱風が吹く。ヘアドライヤーを使ったことある人、ドライヤーに冷風と温風があるでしょう。その温風のほうを顔にブワッと吹きかけてみて。それが、ヤンゴン暑季の風です。
 日中最高気温は39度、一日の平均気温は29~30度。

日差しをよけるために日傘や帽子は必需品


 事務室の冷房、ずっと28度設定でエコを心がけてきましたが、今はもうなりふりかまわず25度にしています。宿舎の冷房は弱くてぜんぜん涼しくならないので、20度設定です。20度に設定しても室温は30度。

 そんな暑さのヤンゴンですが、娘と息子は「暑いあつい」と言いながらもミャンマーライフを楽しみ、2週間の滞在を終えて帰国しました。
 帰国の日14日の日本は最高気温9度、成田も東京も真冬並みの寒さで、娘はさっそく風邪引いたという帰国報告メールをよこしました。

 最初は「べつだん、ミャンマーに興味ないし、海外に出るのすきじゃないし」と、渋っていた息子でしたが、帰りぎわのヤンゴン空港で「楽しかった」と言いましたので、無理矢理ヤンゴンに来させた甲斐があったというものです。
 今回、娘はヤンゴンに来たがっていたのですが、渋る息子を連れ出したのは理由がありました。息子は、進路について悩み、追い詰められていたので、気晴らしをさせたかったのです。

暑さの中鮮やかに咲くゴールデンシャワー


 息子、高校には入学式の日、一日だけ出席したものの、授業には1回も出席せず、文化祭で上演する劇の練習にのみ参加してすごしました。文化祭が終わった翌日から完全不登校。翌年の夏休みに高校卒業資格認定試験に合格すると、3月に退学。引きこもり生活を続けるもセンター試験を受けて現役合格。進学した私立大学は、家から近くて自転車通学できるという利点もあったし、きっとスクールカラーがのんびりムードで性に合っていたのでしょう、学部4年、大学院修士課程2年博士課程3年、合計9年間もこの大学に、皆勤賞ではないけれどほぼ精勤賞で通いました。

 博士課程3年目の終わりになって、博士論文を今年は出さないことに決めたあと、博士課程4年目に進むか単位取得退学にするか、悩んでいました。大学の研究所から研究員に応募するよう勧められており、「応募するなら大学院は退学すべし」と言われて、ずっと悩んでいたのです。単位取得退学したものの、研究所に採用されなかったら、プータローですから。

 某博物館からも臨時研究員のお誘いがあり、もし大学の研究所に採用されなくても週3日の臨時研究の仕事があれば、食費くらいは稼げるかも、という安心を得ることができ、退学届を出して、大学研究所に応募しました。
 ヤンゴンから帰国したその日に、研究所採用の通知を受けた、というメール。ほっとしました。

 大学研究所でも博物館でも、やる仕事は古文書翻刻です。人間相手の仕事が苦手な息子にとって、古文書とにらめっこの仕事は一番合っていること。博物館の臨時仕事では給料安いし、大学研究所では、2年間は無休研究員なのだそうです。経済的には恵まれない仕事ですが、息子にとって、いちばん合っている好きな仕事が得られたのですから、これはきっと、ミャンマーのお寺をあちこち回ってお釈迦様にお祈りした御利益があったのかと思います。
 あれ?、ミャンマーのお釈迦様は来世専用だと聞いていたけれど、日本人のお祈りはちゃんと現世でかなえてくれるのね。ありがたや。ありがたや。合掌。
 ヤンゴン、暑いけれど、ヤンゴンの仏様はいい方です。これからお礼参りもしなくちゃ。

ねむの花


<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴンでの授業」

2016-03-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160315
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ニッポニアニッポン語教師日記in ヤンゴン(3)ヤンゴンでの授業

 ヤンゴン滞在は半年になりましたが、ついにミャンマー語はほんの数語だけですごした春庭。タクシーの道すじ指示など「次の角を左に曲がってください」と日本語や英語で言って手を左に向ければ、運転手は左に曲がってくれますし、バスに乗れば「ボージョーゼー、ゴートヮジンデー」と最初に言って、日本語で「ボージョーゼー(ボージョー市場)に着いたら教えてね」と、言っておけば、一番市場に近い停留所に近づくと「次で降りろ」と、車掌が教えてくれます。市場での値切りは、指での数字指示でOK。ミャンマーの指数字は、4までは日本と同じ。5は全部の指をくっつけてから離せば「5」です。

 授業では、直接法(ダイレクトメソッド)という「日本語だけで日本語を教える」という日本語教育方法ですが、日本の大学でのクラスと異なり、補助媒介語として英語が使えません。日本の大学では、主に大学院進学者や大学院研究生のクラスを担当してきたので、クラス全員が英語ができる、という条件がありました。「リピートしてください」「質問に答えてください」などのクラス指示や単語説明、文法説明は英語を補助媒介語として使える利点がありました。

 ヤンゴンのクラスで英語が通じるのは英語科や理系学部の一部の学生のみで、ビルマ文学科でビルマ文学専攻の学生には、英語はほとんど通じません。最初はとまどった「英語が使えない日本語教育」でしたが、単語の説明だけはミャンマー語単語帳を利用する、という方法でなんとか乗り切りました。私の文法解説は、直接法の「絵とジェスチャーで日本語文の意味を伝える」という方法です。

 「いっしょに」という語の意味を伝えるには、まず、ひとりで教室の端から端まで歩き、「歩きます。ひとりで歩きます」と言います。
 次に学生のひとりを立たせて腕を組み「○○さんといっしょに歩きます」と、ふたりで教室の端から端まで歩きます。「いっしょに歩きました」
 腕を組んだ学生にひとりで教室の反対側まで歩くよう指示して、学生が教室の反対側に行った後「○○さんは、ひとりで歩きました」と言う。もう一度腕を組んで歩き「いっしょに歩きます」と言う。2分で「いっしょに」の意味が伝わります。

 単語説明に時間をかけられないので、今回は折衷法という、媒介語を使う方法で授業をしました。パワーポイントスライドを作って、学生に単語の意味をわからせます。
 「~を 買います」「写真を 撮ります」などの動詞文を導入(インストール)する課では。

1)日本語ビルマ語対応の辞書ページを示して、単語のリピート練習。


2)絵カードで、単語の練習。教師の例文「ノートを買います」を繰り返し、次に指示棒でバナナの絵をさし学生に「バナナを買います」と言わせる。つぎつぎにえんぴつの絵やパンの絵をさし、「~を かいます」を言うように指示。


3)動詞の肯定否定、かいます/かいません、かいました/かいませんでした、を導入練習

4)教師の質問「あした、何を買いますか」「きのう、何を買いましたか」に、「○○を買います」「○○をかいました」の○○に既習の単語を入れて答えるよう指示。この基礎練習を「代入練習」といいます。

5)「買います」「食べます」「飲みます」などの基礎動詞の練習。

 このようにして、基礎の動詞文が言えるように練習を繰り返します。「食べます」の代入練習では、次の絵カードをプロジェクターでスクリーンに映します。


 授業では、絵カードをスクリーンに映して、学生に発話練習をさせていきました。授業教材が何も準備されていない状態での実践でしたから、毎晩、翌日に使う授業の課のパワーポイントスライドを作りながらの自転車操業でした。
 幸い、このパワーポイント利用の授業方法は、学生にも好評でした。ひとつの課の内容を理解させ、練習を繰り返すために、毎晩50枚~60枚のパワーポイントスライドを作り続けたのです。

 前述した「いっしょに」を教えて、「いっしょに~しませんか」というお誘いの文型導入には、次のようなスライドを作成しました。
  
1) 「いっしょに~しませんか」の練習


2)会話練習


3)会話の代入練習


 このようなスライド作成を経ての、教室での練習。学生には好評でしたし、成果もあがったと自負しています。
 でも、このような、ゼロから教材を作成する仕事、もうできないなあとも思います。昨年の8月9月、12月からの新学期がはじまって1月と2月半ばまで、毎日毎晩、ミャンマー語と格闘しながらのスライド作りでした。
 どこにも出かけず、ひたすら仕事仕事の毎日毎晩。よくも働いたなあと自分でもこのハードワークに耐えた体力に感謝しています。ほかの教師に同じことをしなさい、とも思いません。このハードワークは、日本語教師生活の最後の仕上げと思って自分に課したことですから、こんなに一日中仕事漬けの毎日を、他の教師にしてほしいとは思いません。

 これが、日本語教師としての最後のご奉仕かと思います。4月からは少しのんびり過ごすつもりです。
 2月中旬と3月上旬は、バガンに行くことができましたから、少しずつ旅行報告をしていきます。

<おわり>
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ミンガラ春庭「HAL先生礼拝を受ける」

2016-03-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160314
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ニッポニアニッポン語教師日記in ヤンゴン(2)HAL先生礼拝を受ける

 浴衣着付け教室の最後、学生達は、「先生にプレゼントがあります」と、ミャンマー伝統工芸の絵を贈ってくれました。
 さらに、「先生、ここに座ってください」と、椅子を勧めます。私は授業中は椅子に座ったことはなく、いつも立って教室を歩き回りつつ授業をするスタイルなので、最後に記念写真をとるのかと思いました。

 日本語クラスに出席していた大学教師達の説明では、ミャンマーでは学期の終わりや特別の機会に、教師を礼拝するしきたりがある、というのです。
 学生達は、椅子に座った私を半円形に取り囲みました。お寺で仏像や高僧を礼拝するのと同じように、教師に対しても、礼拝するのです。

 学生達は礼拝作法通り、正座しました。(お寺での仏像礼拝は、横座りもOKです)。両手を合わせて額につけます。次に両手を床につけ、額が床につくまで腰を折ります。それを3度くりかえします。
 私は、礼拝を受けたあとどのようにするのが作法なのかも聞いていなかったので、ただ合掌して「ありがとう」と言いました。



 学期末などに礼拝すると言っても、特別に学生が感謝の気持ちを持ったときに行うので、すべての教師にするわけではない、この日本語教室の学生達は、HAL先生が大好きで、とても尊敬しているから礼拝したのだ、という説明を受けて、ほっと安心しました。
 最後まで、ミャンマー語は「こんにちはミンガラバー」「ありがとうチェズーティンバデー」「これいくらバウラッレー」「~ください~ペーバー」「トイレ、エインダー」「」~へ行きたいゴートゥワジンデー」「さようならタッター」など、ほんの数語のみで暮らしてきたので、ミャンマー語できない教師が日本語を直接法(ダイレクトメソッド)という方式で教えてきた効果はいかほどなものだったかと、自信が持てないでいたのですが、学生達は私の授業を気に入ってくれていたことがわかって、うれしかったです。
 
 はじめてこのような礼拝を受けて、とてもこそばゆい気分でした。でも、当地では子供のころから仏像や高僧への礼拝のほか、両親と世話になった大恩人へは礼拝を欠かさないようしつけられているのです。
 両親には、毎年の雨安居あけ(ダディンジュ)のときに礼拝をささげるほか、独立して家を出るとき、旅行に出かけるときなど、礼拝をささげて、育ててくれている両親への感謝の気持ちを表すそうです。
 
 実に面はゆい礼拝儀礼でしたが、生まれて初めて「人からおがまれる」という体験をして、なんだか仏像になったみたいな気がしました。
 お寺で人々が仏像の前で熱心に礼拝するのを見てきましたが、家のなかでは両親へもこうして礼拝しているのだ、という文化も知ることができてよかったです。



 我が家なんぞ、娘も息子も礼拝どころか「ほんとにいつもドジばっかりの母親で、しょうもない」と言っているので、当地のように親を敬う文化を導入しなくちゃ、と思います。

 以上、「HAL先生、学生の礼拝を受ける」の報告でした。

<つづく>
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