20250111
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩新しい冬(3)レオレオー二展 in 板橋区立美術館
絵本の原画展などが開催されるたびに、行ってみたいとおもったのだけれど、板橋区立美術館はアクセスが悪いところにあり、成増駅、高島平駅、新高島平駅から、1時間に1本か2本というバスで行くしかない。忙しい時にバスを1時間待つのはつらかったけれど、仕事をやめ今は「忙しくない身」になったので、待つのは覚悟で新高島駅へ。地域バスが2分前に出たばかり。駅前のスーパーに入るかランチ店に入るか迷ったけれど、ランチは注文してから食べられるまでの時間がわからないので、スーパーで買い物をして次のバスまで40分ほど時間をつぶす。
地域バスを板橋区立美術館前で下車。近くの乗蓮寺に「東京大仏」があります。先に板橋の東京大仏で初詣。テレビ番組などで紹介されたらしく、三が日はたいへんな混みようだったそうです。
板橋区立美術館前にバス停があり、高島平駅からくれば歩かずに済むことがわかりましたが、大仏には遠くなるので、今回は初詣もできてちょうどよかった。
1階のラウンジは飲食可能とあります。スーパーで買ってきたランチパック、シュークリーム、甘栗、バナナと家から持ってきたコーヒーでお昼ご飯。少し休むために、レクチャールームに流れていたレオレオーニの紹介ビデオを見ました。30分ほど。
レオ・レオーニは、絵本『スイミー』で知られています。1977年から光村図書出版が発行する小学校2年生用の国語教科書に載録されています。光村出版の教科書は教師用指導書が懇切丁寧で、全国の国語教科書採択率が60%を占めています。つまり日本で1970年代以後の生まれで小学校教育を受けた日本人の半数以上が スイミーを知っているのです。ただし、初期の教科書はレオレオーニの挿絵ではなかった。今は教科書や出版されている絵本もレオーニの絵です。
赤い小魚の中で、一匹だけ黒い色に生まれたスイミー。泳ぐのが得意だったために巨大なマグロに仲間が襲われたときも素早く泳いで逃げました。新しい仲間に出会い、小さな体ばらばらでは対抗できないマグロに、固まって一匹の大きな体になることを決め、黒いスイミーは目玉の役割を果たします。
アニメも作られ、レオーニ作の絵本の中でも抜群の知名度です。
今回の展示では、レオーニの画家としての出発点である商業美術、ポスターや商品広告なども展示され、画業の全貌がわかる展示になっていました。
私はスイミーのほかに知っていた作品はごく少なかったのですが、絵本を読める部屋があったので、ソファでゆっくり読むことができました。
今回の展示は、レオ・レオーニの絵本原画を中心に、レオーニが影響を受けた画家の絵も見ることができました。生まれ育った家の壁にあったシャガールの絵などを見て育ちました。
板橋区立美術館の口上
小さなさかなのお話『スイミー』、青と黄の抽象的な形がストーリーを織りなす物語『あおくんときいろちゃん』。 これらは、刊行から60年以上たってなお愛され続けるレオ・レオーニ (Leo Lionni 1910-1999) の絵本です。レオーニは、20世紀のイタリアやアメリカにおいて、絵画、デザイン、絵本など多彩な分野で活躍しました。本展は、レオーニの生涯にわたる制作活動と、影響関係にあったアーティストたちを併せて紹介するものです。
1910年にオランダで生まれ、幼少期から豊かなヨーロッパ文化を享受して成長したレオーニは、青年期にはイタリアでブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari 1907-1998)をはじめとする多くのアーティストや文化人と交流し、影響を与え合いました。1939年にアメリカへと渡り、アートディレクターとして活躍する一方、絵画の制作にも打ち込みます。後半生はイタリアとアメリカを往来しながら画家、彫刻家、そして絵本作家として多数の作品を生みだしました。
板橋区立美術館はレオーニ氏本人の協力により 1996年に日本初のレオ・レオーニ展を開催しました。氏の逝去後はご遺族との交流は続き、それが2020年に開催した「だれも知らないレオ・レオーニ展」での多数の初公開作品の紹介に繋がりました。また、後に約70点もの作品をご寄贈いただいています。当館にとって3度目のレオ・レオーニ展となる本展では、これまでの交流の積み重ねや長年にわたる調査研究を通して明らかになったレオーニの活動の全貌を、20世紀の文化史の大きな流れの中から検証します。
展示構成
第1章 アムステルダム シャガールのある家
レオーニは1910年にアムステルダム近郊で生まれ、芸術的にとても恵まれた環境で育ちました。レオーニの少年時代を、当時の思い出や写真とともに紹介します。
第 2 章 ジェノヴァからミラノへ 1930 年代の第二次未来派芸術運動と印刷メディア
レオーニは幼少期からオランダ、ベルギー、イタリアと移住を繰り返します。イタリアでは、ブルーノ・ムナーリをはじめとする未来派のアーティストたちと一時活動をともにします。その後、広告・出版文化が華やぐミラノで、ソール・スタインバーグをはじめとするアーティストや文化人と関わりながら、イラストやデザインの分野で活動するようになりました。
ここでは、イタリアにおけるアーティストたちとの交流を、作品や同時代の印刷物などからひも解きます。
第3章 ニューヨーク アートディレクター時代
1939年に渡米したレオーニは、ビジネス雑誌『フォーチュン』やCBS放送、MoMA、オリヴェッティ社などの仕事を手がけ、アメリカ屈指のアートディレクターになっていきます。一方で絵画制作にも注力し、1947年には初の個展を開催しました。そして1959年、レオーニは初の絵本となる『あおちゃんときいろちゃん』を出版します。
本章では、アメリカでのアートディレクターとしての仕事をベン・シャーン、ムナーリ、スタインバーグ、カルダーらとの交流の軌跡とともに紹介します。また、1940 年代後半からの油彩画もあわせて展示します。
第4章 イタリアでの制作
アーティストとしての活動に集中しようと、1961年、イタリアにもどったレオーニは、アメリカ時代から続く「想像肖像」シリーズや「プロフィール」シリーズ、「平行植物」シリーズ、「黒いテーブル」シリーズなど、さまざまなテーマに意欲的に取り組みました。晩年はパーキンソン病のため制作にも困難が伴いましたが、作ることへの熱意が失せることはなく、病のため震えてしまう線をも効果的に用いた「鳥」シリーズが最後の作品となりました。
本章では、イタリアに移住してから制作された作品を紹介します。ブロンズ彫刻《プロジェクト:幻想の庭》や「鳥」シリーズなど、見ごたえのある作品が並びます。
第5章 レオの絵本づくり
1959年に初めての絵本を出版してから、自分自身の物語を絵で表現できる絵本との出会いにより、レオーニは作り手として新たなスタートを切りました。ほぼ1年に1冊のペースで制作を続け、絵と文章をともに手掛けた物語絵本は27冊にのぼります。本章では、30年以上におよぶレオーニの絵本づくりの軌跡を振り返ります。そこにはデザイナーやアーティストとしての活動の積み重ねも映し出されています。また、レオーニの多彩な技法や描き方が見られる、絵本原画の一部もご紹介します。
絵本コーナーにあった「ねずみのフレデリック」のお話。働き者のねずみたちの間で、歌ったりぶらぶらしたり。ぶらぶらしているんじゃなくて、「日の光を集めているんだ」「色をあつめているんだ」という言い訳に働き者ねずみたちもあきれてしまいます。食べ物も不足した冬、つらい仲間たちにフレデリックはこれまで集めていた「日の光」や「豊かな色」を思い出させることばを分けます。怠け者と思われていたフレデリックは、ねずみたちの心を温かくする詩人でした。生きていくためには、食べ物も寒さを防ぐものも必要だけれど、心を満たすものも必要だったのです。
商業美術の面でも活躍したレオ・レオーニ。ユネスコのポスターも展示されていました。
板橋区立美術館は、長年レオ・レオーニと交流をもち、レオーニの死後も遺族から作品の寄贈を受けるなど、収集を続けてきました。ちょっと足場の悪い立地の館ですが、高島駅からのバス便もわかったので、また来たいです。
<つづく>