20160223
ミンガラ春庭ミャンマー便り>2016ヤンゴン日記(4)悉皆成仏と現世来世
草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)という仏教思想は、お釈迦様が直接述べたことばではありません。
悉皆成仏とは、『涅槃経』に出てくる言葉です。
釈迦の入滅を叙述した涅槃経。ミャンマー、タイなどに伝わった上座部仏教ではパーリ語で書かれた『大般涅槃経』(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)があります。この中には、悉皆成仏の思想はありません。
中国に伝わった大乗仏教は、上座部仏教とは教えが異なってきます。5~6世紀ころに成立した『大般涅槃経』になると、如来常住、一切衆生悉有仏性、常楽我浄、一闡提成仏(いっせんだいじょうぶつ)という4つの基本理念が述べられ、ことに一切衆生有仏性は、空海らが日本に伝え、真言宗、天台宗以後の日本仏教の基本的な考え方になりました。
空海は、中国長春で密教を学んで帰国すると、『吽字義』のなかで、「草木也成。何況有情」として、草木でも成仏する。ゆえに、心のある生きものが成仏しないわけはないという考えを伝えました。
天台宗の最澄は「木石仏性」と述べて、非情のものにも仏性があると言いました。非情とは、心がないもの、有情(心あるもの)の対語です。
鎌倉仏教でも、曹洞宗の道元は草木や瓦礫を含めたこの世界一切をまるごと仏性の表れといい、真宗の親鸞は、『唯信鈔文意』に「仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち、一切群生海のこころにみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり」と、書きました。
このように、日本仏教でいうところの「悉皆成仏、すべてのものに仏性がある」という心象は、多くの場面で現れます。
春庭は「フランダースの犬論」の中で、西洋社会キリスト教思想との相違について述べたことがありました。教会の奥深くにしまわれていたキリストの絵を見たネロは、雪の中に出ると、愛犬パトラッシュとともに、天使たちに迎えられ、天高くのぼっていきます。おそらく、天国へ行ったのです。
この「フランダースの犬最終回」場面は、「何度見ても泣けるシーン」として、ファンの心をつかんでいます。ところが、キリスト教の神学では、霊性有する人間が、霊を持たない犬といっしょに天使に迎えられるなどということは、あってはならないことで、自分に似せて人間を創造した神に対する不敬です。神が人に与えた霊性を侮辱することになるのです。
しかし、日本的感性では、ネロとパトラッシュは、死んでもいっしょ、ともに空へのぼっていくのでなければ、泣けない。犬は、大切な心の友です。
大乗仏教のとくに日本で発達した悉皆成仏思想。
上座部仏教のミャンマーでは、犬もハエも草も仏性があるなんて、誰も考えていません。でも、ヤンゴン市内、どこにでも犬がいる。
ヤンゴンの犬。なぜゆえこれほどの盛大繁殖?
12月に着任したころ、犬のお産シーズンで、どこに行っても、わらわらと犬の子があふれていました。一匹の雌犬は、10匹くらいの子犬を産んでいます。
道ばたに、道の真ん中にも犬は当然の顔して寝そべっています。
12月は、母親のお乳を求めてキャンキャン泣いていた子犬たち、1月になると、残飯獲得競争に乗りだします。見ていると、どんどんやせてくる子犬がいます。おそらく、生まれたときのなんらかの差で、兄弟たちに比べると発達が悪く、残飯にありつく率が低いのだろうと思います。
人々の日常に、野犬に残飯を与えることが浸透しています。道ばたの露店食堂周辺、大学カンティーン周辺、ホテル周辺、私の宿舎、宿舎のとなりのMICTパーク。およそ残飯が出るところには、どこにでも野犬がいます。
親犬たちは、人間に近づいてもいいことはないのを知っているから、あまり近づいてこないのでいいのですが、子犬たちは、人間をまだよく理解していないので、歩いていると近づいてきます。子犬のうちはかわいのですが、なでたりは禁物。狂犬病の予防注射をしていないからです。万が一にでも、狂犬病の持ち主に噛まれたら一大事。子犬といえども、どれがキャリアかわからない。
狂犬病は発症後死亡率が高い病気ですが、一番の予防策は、予防注射よりも、やたらに動物に近づかないこと。
ああ、それなのに、子犬はどんどんこちらに近づこうとします。
かわいいなあと思いますが、子犬が近づいてきたら逃げます。
なぜ、人々は食堂の残飯でも、家の食べ残しでも犬に与えるか。そうすると、生き物を愛護した功徳で、来世のステージが、今よりよくなるからです。池の鯉、小鳥などでも同じ。とくに、寺の周辺では、籠の鳥を一羽100チャット出して何羽か買い、空へ離してやると、放生の功徳を積んだことになるので、みな小鳥を空に放っています。(それをまた捕まえてきて籠に入れるのは、子供達のこづかい稼ぎ)
生き物を殺すなんぞは、殺生戒を犯すことになり、せっかく積んできた功徳が消えてしまいます。蚊も鼠も、自分で殺したりはしません。では、ハエや蚊はどうするか。蚊がぶ~んと飛んできたとき、手でバチンと打ってたたけば、殺生です。しかし、虫取りエアゾールを部屋に噴霧したとき、直接蚊を殺したことにはなりません。エアゾールの空気の中に自由に飛んできた蚊が悪いのです。エアゾールの中に飛んできた蚊は、前世でよほど悪いことをしたので蚊に生まれてきて、今また仏罰を受けて、エアゾール噴霧の中に入ってしまったのです。ゆえに、これは人間自身の殺生ではなく、ホトケが決めた蚊の運命です。なんて都合良い仏罰でしょう。
「だから、おまえも、しっかり勉強していい給料がもらえる人になれば、お寺にたくさん寄進ができるよ、まちがっても、来世に蚊や蝿に生まれ変わったりしないように」と、さとされて、学生達、みな一生懸命勉強します。せっかく大学生というよい身分に生まれてきたのに、来世がハエじゃ、がっかりです。
私が「来世、ゴキブリでもサルでもなんでもよろしい」と思っていられるのも、悉皆成仏、ハエだって雑草だって成仏する、と思っていられるからかもしれません。
「来世、よりステージの高い人間に生まれ変われますように」と、現世でせっせとお寺に寄付をする生活と、「まあ、ハエに生まれ変わっても、成仏するだろうよ」と、食堂のテーブルに鉢を持って回ってくる小坊主の鉢に100チャットの小銭もいれてやらない生活、どちらも「どう生きるのが幸福か」という深遠なる哲学を含んでいるのであり、、、、って、私がケチなだけじゃん。100チャット札、200チャット札はバスの乗り賃のために溜めているのよね。むろん、1000チャット5000チャット札だって寄進しないけど。
私は、生ゴミを宿舎のバケツに捨てます。バケツを掃除する人、どうやら、私が入れた焼き魚やフライドチキンの骨なんぞは、野犬に与えているらしい。これって、間接的動物愛護の功徳?いや、クドク積まれていないだろうなあ。せめて、蚊はバチンと手でたたかずに、蚊取り線香を焚くだけにします。自由に飛べるのに、蚊取り線香の煙の中に入ってきたのは、蚊の運命であって、私の殺生じゃありませぬ。
わが線香の煙の中に入り込んでしまった蚊よ、オノレの運命のつたなさを泣け。ほら、芭蕉さんも、野ざらし紀行に登場する捨て子に「ただこれ天にして、汝が性(さが)の拙さを泣け」と言ってますし。
わたしもねぇ、停電断水の町で、野犬におびえる生活をしている自分の運命を泣きつつ、蚊取り線香に火をつけますから、、、、ただこれ天にして、汝が性の拙さを泣いております、、、、わったっしは、泣いていますベッドの上で。byりりぃ。思い出す歌がいちいち古い、、、って、古いバーサンですから。
ヤンゴンの蝿蚊蚯蚓に霊あらず、悉皆成仏せぬがかなしきby春庭
<つづく>