ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

兵庫県淡路市、多賀「伊弉諾神宮」です!!

2024-06-17 06:53:15 | 文化財・寺社
多賀地区は、淡路市役所の北西約6kmのところ

 淡路市役所前の市役所通りを北西へ進みます、国道28号線との交差点「大谷」信号を更に北西へ、県道66号線です

 道成に約3.1kmの「中田北」信号を右(北西)へ、又約3.1kmの信号を左(南西)へ

 約500mの「一宮中学校前」信号を右(北西)へ、約200mで

 伊弉諾神社参道が南向きに信号の所に出ています

 信号を右に入ると神社駐車場ですので車を止めさせて頂きました

 伊弉諾神宮の社號標です

 日本遺産「国生みの島・淡路」の標柱です

 淡路島日本遺産文化財ガイドです
   国生みに始まるすべての神功を遂げられた
     伊弉諾神宮
 国生みの伝承に登場する伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのもこと)を祀る日本最古の宮です。
 境内は国生みに始まるすべての神功を遂げた伊弉諾尊の神宅の旧跡と伝えられ、神々しい趣で参拝者を迎えてくれます。
 平成16年(2004)には、平安から鎌倉期のものと思われる伊弉冉尊を現したご神像9躯が新たに発見されました。
 ●「古事記」の冒頭を飾る「国生みの島・淡路」~古代国家を支えた海人の営み~」が、平成28年度の「日本遺産」に認定されました。
 ●「日本遺産」とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定し、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の様々な文化財群の総合的な活用を支援する取り組みです。

 一ノ鳥居です

 さざれ石です

 参道を進みます

 参道左手に日時計です


 説明石碑です
   ひのわかみやと陽の道しるべ
 伊弉諾神宮の神域は、日本書記に「伊弉諾尊功既畢霊運當遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長陰者」
 古事記伊勢本に「故其伊邪那岐大御神者淡路之多賀也」と記される神跡で、伊弉諾大神が御神功を果され、淡路の多賀に幽宮を構築して餘生を過ごされた故地であり、北緯34度27分23秒の緯度上にある。
 當神宮の創祀は神代に遡り、伊弉諾尊の宮居跡に営まれた神稜を起源とする最古の神社である。
 また日本書記に「仍留宅於日之少宮 矣少宮此云 倭柯美野」の記述があり、これは伊弉諾尊の太陽神としての神格を稱へ、御子神である天照皇大御神の差昇る朝日の神格と対比する日之少宮として、御父神の入り日(夕日)の神格を表現している。
 因みに全国神社の本宗と仰ぐ伊勢の神宮(皇大神宮)はこの神域の同緯度上に鎮座し、更にその両宮を結んだ中間點に最古の都「飛鳥宮藤原京」が営都されているのである。
 専門家の協力を得て當地からの太陽軌道の極致のあたる方位を計測すると、夏至、冬至、春秋仲日の日出と日歿の地に神縁の深い神々が鎮座していることを次の通りに確認することができた。
 緯度線より北への角度29度30分にあたる夏至の日出は信州の諏訪湖(諏訪大社)日歿は出雲大社日御碕神社への線上となる。
 春分秋分は伊勢の神宮から昇り、海神神社(對馬国)に沈む、南への角度28度30分にあたる冬至の日の出は熊野那智大社(那智の大瀧)日歿は天孫降臨伝承の高千穂峰(高千穂神社・天岩戸神社)となるのである。
 これらは国生み伝承の淡路島が、神々の坐します大八洲国の中核の島で、祇に天と地を結ぶ能きが、太古から脈々と生き続けている「神の島」だということを物語っているのではないだろうか、神代から受継ぐ千古の歴史の尊さや、太古の浪慢と祖先の叡智とをこの「陽の道しるべ」で宝感していただければ幸いである。
    平成19丁亥年6月吉日    宮司撰

 説明版です
    伊弉諾神宮  
 御祭神 伊弉諾大神 伊弉冉大神
 御社格 延喜の制名神大社 阿波国一ノ宮 元官幣大社
 御由緒 古事記に故其伊邪那岐大神は淡路の多賀になも坐すなり
     日本書記に伊弉諾尊・中略・是を以て幽宮(かくりのみや)で、淡路の洲につくり静かに長く隠りましきとあり、淡路の島は二柱の大神が一番初めに御開拓になった地であり、此の多賀は、伊弉諾大神が国土経営の神業を了えられた後お鎮まり遊ばされた御終焉の地で大神の御陵がしのまま神社として祀られるようになった我が国最古の神社である。
 御神徳
  延寿の神 伊弉諾大神が夜見ノ国の境にお出向かれた時「我は一日に1500の産屋を建てむ」と仰せられことにより、古来命を司どられる大神として寿命乞の信仰が厚い。
  縁結びの神 御祭神二柱の大神が国土御経営のため、天降られ淡路の島でお建てになった宮殿のお柱を巡り、始めて御夫婦の契りを結ばれ多くの御子神をお産みになった故事にあやかる縁結びの神としての崇敬が深い。
 御祭典 例大祭 4月23日摂社浜之宮に神輿渡御の神幸式斎行
     粥占祭 1月15日前夕より古式による徹宵の神事奉仕

 太鼓橋を渡ります

 手水舎です

 神門です

 拝殿です


 幣殿です


 本殿です

 拝殿東側にある「夫婦大楠」の北西側に岩楠神社です

 献馬像です

 境内には沢山の境内社が並びます、まずは「左右神社」です・・・伊弉諾大神の契で左目と右目から出現された貴神を祀る。
 本殿東の伊勢皇大神宮の方向に位置し眼病治癒の信仰があります。

 住吉神社です

 根神社と竈神社の二柱が祀られています

 境内東側の淡路祖霊社です

 記念館由来です・・・祖霊社には島内出身の数多い戦歿者と、先覚者を合祀する。今般終戦30周年を期し、ここに記念館を造営、御祭神の御名を奉掲し、ならびに遺品を蒐集、永く宝蔵するものである。われらは茲に先達の遺徳を偲び偉業を讃え後を継ぐ世代への亀鑑とし、永遠の平和と国運の隆昌を祈念する者である。  淡路祖霊社奉賛会

 樋口李一郎中将之像です

 説明書きです
 樋口李一郎(𦾔姓奥濱)陸軍中将は、明治21年淡路島三原郡阿萬村(現・南あわじ市)に回船業を営む奥濱久八氏の長男として生る。
 三原小学校、丹波篠山の鳳鳴義塾、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て参謀本部員となり情報将校として世界に雄飛せり。
 在ポーランド公使館附武官として世界情勢の深奥を学び、昭和12年ドイツ視察を経て、満州国ハルピン特務機關長となり、ソ連との国境附近のオトポールに到来せるユダヤ難民救済の道を開けり。
 昭和13年、参謀本部第二部長(情報擔當)。昭和17年、北部軍司令官として札幌に赴任。昭和18年、北方軍司令官としてアッツ・キスカ両島の作戦を指揮せり。
 昭和20年8月、北海道占領を目指したソ連軍が、樺太・千島列島で侵掠を開始するや、第五方面軍司令官として断固反撃を指示し此を撃退、日本分割を阻止せり。
 昭和45年10月11日、東京歿享年82。
    令和4年10月11日   樋口李一郎顕彰会 建立

 日本が、ベトナムや朝鮮のように分割されるのを防いでくれた人だったのですね

 長く成りましたので続きにさせて頂きます、続きは境内の木々を見て行きましょう
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岐阜県高山市、国府町宮地「荒城神社」(国重要文化財)です!!

2024-06-06 18:52:00 | 文化財・寺社
 国府町宮地地区は、高山市役所の北役8km、高山市役所国府支所の東約4kmのところです

 では、荒城神社(あらきじんじゃ)を見て行きましょう
 

 「縣社」のみの石碑(社號標?)です

 由緒説明版です
   延喜式内飛騨八社の一
     金弊社 荒城神社(あらきじんじゃ)
 御祭神 1、大荒木之神(おおあらくにのかみ)国之水国分神(きにのみくまりのかみ)
     2、弥都波能売神(みずはのめのかみ)【神社明細帳】
       天之水国分神(あめのみくまりのかみ)国之水国分神(くにのみくまりかみ)【特選神名牒】
     3、河泊大命神(かはくおおみことのかみ?)【元禄検地帳・神祇志料】
 末社  秋葉神社
     津島神社
     荒神社
 御由緒
 「神社明細帳」に「創立は遠く上代」とあり「三代実録」にhあ「清和天皇貞観9年(西暦867)10月5日庚午、授飛騨国五位下荒城神従五位」と見え、延喜式神名帳飛騨国八座の一つである。
 当社境内には、縄文時代中期の遺跡があり、多数の出土品があることを見ても当社創立の古いことがわかり、郡名を冠した社名によっても上代よりこの地方の信仰を集めていた神社と考えられる。
 当社の神像2体は平安時代の作と推定され、県指定の文化財である。
 本殿は飛騨国安国寺の経蔵(1408)よりもやや古く、向拝正面の大蟇股に中心の飾りとして宝珠1個をくりぬき、また蟇股両肩の、巻き込み飾りなど、室町初頭の手法として明徳元年の頃(1390年)に造営を推定される。
 慶長18年の秋、国主金森重頼が従五位下に叙せられたので、幣殿を造営寄進している。
 元禄検地で「除地1反5畝歩村抱河伯明神宮地」とある。
 明治4年郷社に、大正15年には県社に列した。昭和5年4月国宝建造物に指定され、同38年7月1日、国指定重要文化財となる。
 境内にある縄文中期の遺跡は、昭和32年県指定史跡となり、またこの地は「緑地環境保全地域」として県の指定を受けている。
 当社の特殊神事氏子の子供により演ぜられる、鉦打ちは、鎌倉時代、荒城郷地頭であった多好方教えたとつたえられている。当社の獅子舞と共に、県指定重要文化財である。
 宝物には、棟札7枚、国指定重要文化財、獅子頭9個、随身2躯、鰐口1個、面4面、県指定文化財等、多数あり。
 例祭日 9月第一日曜日


 文化財石柱です

 重要文化財標識ですね


 手水舎です

 「郷社」の石碑です、明治4年に指定された記念に建てられたものと思われます


 説明版です
  荒城神社遺跡(あらきじんじゃいせき)
    岐阜県重要文化財
    昭和32年3月25日指定
 昭和32年荒城神社本殿裏側附近で道路改修工事の際、住居跡の一部及び縄文時代の土器が多数発見された。
 土器は縄文時代中期後半のものが主であるが、注口土器等後期に属するものも出土している。。
 石器類では、打製石斧・石鏃・磨製石斧のほか、三頭石斧・石刀・御物石器・石冠・石皿などがある。
 縄文時代前期遺跡の、村山遺跡(国府町村山)と並んで、重要な縄文中期の遺跡として県指定文化財となった。

 直角に左に参道は曲がっています、ニノ鳥居は南向きです、

 拝殿です


 本殿です

 説明版です
   荒木神社本殿(国指定重要文化財)
     所在地   高山市国府町宮地1405番地1
     所有者   荒木神社
     指定年月日 昭和38年7月1日
     構造形式  三間社流造 杮葺
 この神社は、「延喜式神名帳」(927)に記載された飛騨国式内8社のひとつである。
 古くから荒城宮・川泊(伯)大明神と呼ばれ川の神、水の神として地域の信仰も厚く、現在の国府町宮地・東門前両地区の産土神である。
 現在の本殿は、明徳元年(1390)にお再建と伝えられる。
 江戸時代に行われた修理、葺替の際の棟札(7枚)が現存しており、本殿の附で、国の重要文化財に指定されている。
 本殿は、正面中央は抜戸、左右は地蔵格子、側面は縦羽目板壁で、母屋の円柱の上には舟肘木をおき、向拝正面中央の蟇股など古い形式を残している。
 本神社には、平安時代前期の作と推定される神像(2体)・随身(2体)・応永19年(1412)銘の鰐口・鎌倉時代の楽士「多好方」が伝えたとされる舞楽面(4面)・寄木造の狛犬(一対)など数多くの文化財が残されている。

 境内社です、末社の秋葉神社・津島神社・荒神社のほかに、説明版には載っていなかた稲荷大明神・金毘羅大明神も祀られています

 社殿南側の境内社の鳥居です

 雨が強くなり始めたので、一度「道の駅 アルプ飛騨古川」に戻って、様子を見ました。

 2024・5・16・5・55
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東京都清瀬市、中清戸2丁目「水天宮のヒイラギ伝説と御嶽神社」です!!

2024-03-04 19:21:51 | 文化財・寺社
 中清戸2丁目は、清瀬市役所の南約600mのところ

 清瀬市役所の西側の市役所通りを南東へ、約600mで右(西南西)へ、都道40号志木街道です


 約400mで都道右手に水天宮の参道です

 更に西側には御嶽神社の参道です

 「水天宮前信号」を右(北)へ入って神社の駐車場に入りました

 
 世界最古の企業金剛組が拝殿の新築作業を行っています
  日枝神社社殿・水天宮新築工事
 日枝神社拝殿は50年余、また水天宮社殿も40年余が建築より経過しました。
 建築当時とは時代が変化して、参拝の方々の様子も様変わりし、地震などの自然災害にも対応しなけらばならなくなっています。
 この度、ご参拝に皆様どなたにも安心してお参りができるよう日枝神社、水天宮両社殿を建て替えることとなりました。
 施工は世界最古の宮大工の会社である金剛組が、日本のヒノキを使い木造で荘厳に建築します。
 どうぞよろしくお願いします。
         日枝神社 水天宮
   工期 第一期 仮殿建設 令和5年 4月~令和6年 8月
      第二期 社殿建築 令和5年12月~令和8年10月

 *出来上がるのが楽しみですね

 参道左手に祖霊社です

 ヒイラギです

 説明版です
   清戸の柊
 一行は、武蔵国(東京都)をさらに進んでいきました。
 倭健命は、強い日差しに、どこか休憩するところがないかと、あたりを見回しました。
 すると、向こうに大きな木があるのが目に入りました。近付いてみると、それは、相当年数を重ねた柊の大木でした。
 大倭を出発する時に天皇から授けられた比々羅木の八尋矛と同じ木で、魔を除けてくれる木とされています。
 倭健命は、この木陰で休むことにしました。するとどうでしょう。とても清々しく心地よい気持ちになりました。
 倭健命は、いつの間にか両手でその大木の根元を覆う土の感触に感動していたのでした。
 「何と清々しい土地なのだろう」身も心も疲れ果てた倭健命は、心穏やかにこの柊の木陰でしばしの間、休むことができました。
 清瀬市清戸に鎮座する日枝神社の縁起には、倭健命がおっしゃった「清々しい土地」に因んで、「清土(現在は清戸)」と呼ぶようになりました。
 〈監修・埼玉県神社庁〉
 *ヤマトタケル(景行天皇12年~41年)は、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)です。
 「日本書紀」では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、「古事記」では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記され、現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用とされるています。
 第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたり、熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄であります。

 境内社の白山社・金刀比羅神社・八雲神社が並んでいます


 水天宮社殿です

 *水天宮は安徳天皇を祭神とします。福岡県久留米市下瀬町に鎮座まします総本宮より、御分霊を勧請した社でありますが年代は詳ではありません。
 安産守護・水難除・寿命長久の霊験高きを以って知られております。
 底筒男神・表筒男神・中筒男神の三筒男神は、神宮皇后の三韓征伐の砌り、皇軍を守護し給うた神で、海上守護・除災招福・商売繁昌の神として御神徳顕著であります。

 御嶽神社は、塚の上に祠が並んでいます

 では、次へ行きましょう
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山梨県忍野村、忍草「浅間神社」です!!

2024-02-08 17:49:05 | 文化財・寺社
 忍草地区は、忍野村役場のある地区です

 忍野村役場の西北西約1.4kmの所に浅間神社が南向きに鎮座します

 忍野役場前から県道717号線を西へ、道成りに進むと1.5kmで右手に浅間神社入口があります

 前を過ぎて新名庄川のお宮橋を渡って直ぐを右(東)へ入ると、浅間神社の駐車場が有りますので歩いて戻ります

 境内入口です、赤い鳥居と神門があります

 手水舎です

 社殿です
 *本殿に祀られている木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・鷹飼(たかがい)・犬飼(いぬかい)坐像の三神像は、正和4年(西暦1315年)丹後国の仏師静存の作と伝えられています。
 女神である木花咲耶姫命の像は、袴を付けしとやかな黒髪を胸元まで垂れ下げて、慈しみ深く微笑んでいます。
 これらの坐像はすべてヒノキの一本造りで彫られ、彩色されています。この三神像は、御坂町にある美和神社の大物主命立像についで、県下最古となる貴重な御神像です。

 境内南西端の境内末社は「大神官社」です

 直ぐ北側の境内末社は「八坂神社」です

 境内西端には薬師堂です

 由緒碑です
   浅間神社  祭神 木花之咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと) [別称:浅間大神(あさまのおおかみ)]
         相殿 天津日高日子番能邇々藝能尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) [別称:愛鷹大神(あしたかのおおかみ)]
         相殿 大山津見命(おおやまつみのみこと) [別称:足柄大神(あしがらののおおかみ)]
 人皇第51代平城天皇御宇大同丁亥(紀元1467年)創祀、後鳥羽天皇文治2年丙午歳、御社殿再建、同天皇建久4年、源頼朝公富士裾野巻狩の時、鳥居峠(鳥居地峠?)鬼坂まで御朱印地として賜わる。
 同年8月6日征夷大将軍源頼朝公より、鎌倉幕府武運長久祈祷を申付けられる。
 同年和田小太郎義盛・畠山次郎重忠、随身門金剛2力士を建立する。
 御陽成天皇(後陽成天皇?)慶長8年霜月初申神殿再建、東山天皇宝永2乙酉暦霜月初申神殿3間社極彩色に再々建。
 中御門天皇正徳3年6月、東国の講中・武州江戸本郷春本町、伊右衛門・三左衛門・喜平治等より、大僧正常念書・富士大権現大鳥居大額奉納。
 桜町天皇延享3年4月初申_殿再営造。天保2年現雨屋_殿再々造営、髄神門及び_殿は萱葺屋根なる故、数度の葺替するも、昭和51年9月本村出身・大森正男の浄財を奉り、銅版葺とし、殊更修理復元の大工を造営す。
 創祠以来実に1170有余年、誠に悠久なる史歴にあけ偲び奉る、時天應元年、延暦19年、貞観6年、再三の大噴火し、嶽嶺より八方に溶岩雪頽れの如く押下し、為に往時奉斎当時の記念殊に、殿宇神霊を涜し奉ること恐懼外無之なり。
 肇国の大御代から自然神秘の霊所に勧請し、鎮座坐し、奉り鎮火守護・天下泰平国鎮め・御安産子孫繁栄・農産機織の守護顕著にあり。
 大八州国土の安穏尊護奉札る理念は赫々として、四海に洽を給心な身辺に詣でる、諸般の衆に対し一端を謹逑し、尊信継承し奉ること乞祈る。
    昭和53年戌午歳  撰文 宮司天野尚光書

 *一部読めない文字がありました<m(__)m>

 社殿寄りに境内末社の「西五社」が並びます

 直ぐ北側には境内末社の「天狗社」です

 社殿東側に移動しました、社殿寄りに境内末社の「八幡社」です、直ぐ右側に石祠は境内末社の「熊野三社」です

 社殿東側には西向きに「諏訪神社」です

 諏訪神社の北側には宝物殿です、古い神輿等が展示されています

 さらに東側には現在使用されている神輿を納めた「神輿殿」です

 境内東端には境内末社の「坐摩社」(いかすりしゃ)です

 では、次へ行きましょう
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山梨県甲府市、御岳町「金桜神社」です!!

2023-10-18 06:29:41 | 文化財・寺社
 御岳町は、甲府市役所の北約15kmのところ

 甲府市役所東側の県道31号線を北へ、約800mで左へカーブして100mの信号を右(北)へ武田通りです

 約1.1kmで左(西北西)へ、約500mで県道104号線に合流して直ぐの「北新小北」信号を左(西北西)へ

 ここから道成りに坂道を上っていきます、約4kmで丸山溜池を左に見ると、約1.2kmで斜め右(北)へ

 県道7号線昇仙峡グリーンラインです、約7.9kmで

 金桜神社参道鳥居が見えて来ます

 鳥居手前の駐車場に入りました

 参道左には石灯篭等が並びます

 御嶽道祖神です

 日本遺産説明版です
   御嶽道祖神
 ①御嶽の道祖神は、重厚感のある木造の社の中に御幣(みてぐら)が祀られている。
 この御幣が道祖神の御神体として特に意識され、毎年道祖神祭りに新しいものにかえられる。
 ⓶猪狩③草鹿沢④仲谷の道祖神は、複数の丸石である。また、猪狩の道祖神には菅原道真を祀っており、高さ28cmほどの石造物がそれである。
 ⑤高町の道祖神は、石祠と二つの丸石であり、屋根と胴体が分かれる造りになっている。もともとは集落の北に位置する近戸神社境内に祀られていた。
 ⑥桐窪の道祖神は「猿田彦命」と刻印された丸石である。

 手水舎です

 説明版です
  金櫻神社略記
 約2000年前、第10第崇神天皇の御代に全国各地に疫病が蔓延し悲惨をきわめた折、甲斐の国に於いては当神社より北方30km、標高2595m金峰山五丈岩に御祭神少彦名命の医薬禁厭の守護神を鎮祭されたのが当神社の起源です。
 その後、第12代景行天皇の御代には、日本武尊が東国巡行の際に国土開発のため須佐之男命、大己貴命をあわせ祀られました。
 今から1500年前、第22代雄略天皇の御代に金峰山本宮と富士山が遥拝できるこのこの地に里宮が開かれました。
 第42代文武天皇の御代には大和の国の金峰山より魔障を除く仏、蔵王権現が祀られ神仏習合の日本三御嶽、三大霊場として広く信仰され東国の名社として関東全域、遠くは越後、佐渡、信濃、駿河の各地に及び春秋配札はことに賑わいました。
 領主武将の信仰も厚く寄進された室町鎌倉期の文化の粋を結集した絢爛華麗な社殿や幾多の宝物は壮観をきわめました。
 明治の御代を迎え当社は神仏分離により神社として独立、大正5年県社に昇格広範な社有林と昇仙峡の清流に囲まれた神域は幾世隔てた今日も変わらず清新であり全国から参拝される人々の信仰の地となっております。
      令和元年5月1日    金櫻神社

 参道を進みます

 金桜神社の大杉群が見えて来ます

 神橋でしょうか

 右手の池には錦鯉が泳いでいます

 左手には稲荷神社です

 金櫻稲荷神社です

 北側では、何か大きな木を立てる工事が行われています



 龍神のオブジェでしょうか

 更に石段を進みます

 東向きに拝殿です

 本殿です

 説明版です
  日本三御嶽 三大霊場 
    御嶽山金桜神社由緒
 御祭神 少彦名命 (俗に淡島さま)医薬禁厭 無病息災の神
     大己貴命 (俗に大黒さま)商売繁盛 福徳円満 縁結びの神
     須佐之男命(俗に祇園さま)厄除 勇気倍増の神
  相殿 日本武尊命(経営の神)  櫛稲田媛命(子育て婦徳の神)
 祭日 1月中 御嶽初祈願祭 4月21日・22日 春の例大祭
    5月15日 相殿祭  6月30日 夏越の大祓之
    7月15日 祇園祭 10月17日 秋の例祭
   12月 2日 特殊神事 鎮火祭
 第10代崇神天皇の御代(約2000年前)各地に疫病蔓延し、天皇深く憂慮され諸国に神祗を祀って悪病退散萬民息災を祈願せしめられるこの時、甲斐国では金峰山(北方約30km)山頂に少彦名命を祀られたのが当社の起源である。
 その後第12代景行天皇の御代日本武尊命が東国巡行の際詣でられて、大己貴命と須佐之男命を合祀され後に之を奥宮とし、現在の地に里宮として金櫻神社を創建された。
 更に奈良朝第42代文武天皇2年(約1300年前)大和国金峰山より蔵王権現を勧請し、神仏両道となり別当以下神官、僧侶百余名が常時奉仕し、頗る盛大を極める。
 以金為神(かねをもってかみとなし)以桜為霊(さくらをもってれいとなす)ーーー金櫻神社々名の起源となる
 東国の名社として関東全域を始め越後佐渡・信濃・駿河に迄其の御神徳は及び、各国の領主武将の崇敬も篤く、寄進された社殿は実に、壮観を極め鎌倉時代の建造物は国の重要文化財に指定され、左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻類は稀にみる貴重な文化財であった。
 古くから日本水晶の発祥の地として火の玉・水の玉のご神宝と金の成る木と言われる神木、鬱金の桜は生涯守の水晶のお守りと併せ特に有名である日本渓谷美第1位の昇仙峡の景観と共に、名実共に関東の大社であった境内は千古の老杉巨木・枝を交え社有林3000町歩、秀峰奇岩屹立、全山樹木に覆われ、真に仙境の感があった。
 昭和30年12月18日佛暁突如13棟に及ぶ社殿灰燼に帰す。ご神体・神宝等は無事であったが、昭和34年再建されて現代の社殿となる。
 神使は白狗と狼・・・祭神の道案内、交通安全守護。
 虫切の鈴・・・日本三土鈴の一つ、水晶守、生涯守として金運と厄除け。
 日本三御嶽の内、花の御嶽とも云われる。

 さざれ石です

 境内東端に大黒天堂です

 東照大神君御腰かけ石です

 本殿南側の手水鉢です(こちら側にも駐車場があります)

 神木鬱金の桜です

 昇・降竜記と神木の説明版です




 金桜です

 では、金桜神社のスギ群を見て行きましょう
 
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群馬県片品村、花咲「花咲石」(村指定天然記念物)です!!

2023-09-09 06:29:45 | 文化財・寺社
 花咲地区は、片品村の西側の広い地区です、片品村役場の南西約3kmのところに「花咲石」があります

 片品村役場前から国道120号線を南へ、約5.7kmで平岩信号を右後方へ入ります、県道64号線です

 道成りに片品川を渡って坂道を上って、花咲の湯を過ぎた約5kmで右は入ります、道成りに下って約900mで

 道路右手のカヤノキの脇に「花咲石」です

 鳥居の後ろに大きな石です

 天然記念物標柱です

 説明版です
   花咲石
  所在地 片品村大字花咲1289
 昔、日本武尊命が東国の征服に来ての帰り、この辺りで保鷹山(武尊山・ほたかやま・日本百名山)の賊(悪勢・おせ・尾瀬のことか?ともいう)と戦になりました。
 険しい岩山にこもる賊に手をやいた命は、敵の取りでを囲んで火を放ちました。賊の長は、これで自分の命は終わりだが、妻子たちの命は助けたいと思い抜け穴から逃がしました、ところが出口にも火が廻り助けることが出来ませんでした。
 するとどうでしょう、火傷を負った長の奥方の体は、みるみるうちに大きな石となり一夜明けて村人たちが見ると、石の表には一面にうす紅色の牡丹の花びらの模様が、まるで今しがた咲いたかのように浮き立っているではありませんか。
 ところがどうした訳か、この年から村に疫病がはやり多くの人々が、病に苦しみ亡くなって行きました。
 村人達は滅ぼされた賊たちの怒りのせいと思い、鳥居を建てて丹花石明神として祭った所、村に平和な暮らしが戻ったという事です。
 それでこの石を「花咲石」といい、この村を花咲村(現片品村大字花咲)というようになったとの事です。
    平成12年6月    片品村教育委員会

 北側から見ました
 *残念ながら牡丹の花びらの模様は分かりませんでした

 花咲石の北側に御詠歌石碑です
. 
 説明版です
   沼田横道三十三番観音霊場
  第三十番花咲観音堂(花咲)
   本尊 十一面観世音
 御詠歌 むらさきの 雲たつ山を越えゆけば 法にあう地の石に花咲く
 この霊場巡りの創始はつまびらかではないが一番札所(新治村布施千手院)の縁起に「元和元年(1615年)修験僧良宗法印札打を始めた。」という記録がみられる。
 観音菩薩は、慈悲を本願とし、いろいろな姿に応化してすべての苦難を救うと言われている。
 人びとは観音巡礼によって罪悪消滅、後生安楽をひたすら願い札所めぐりをしていたのであろう。
 先人の遺してくれた旧跡を後世につたえるため御詠歌の碑を建立したものである。
     平成9年11月  片品村教育委員会

 *観音堂は無くなってしまっているようでした

 では、次へ行きましょう
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栃木県日光市、中宮祠「日光二荒山神社中宮祠」(重要文化財)です!!

2023-09-06 06:58:21 | 文化財・寺社
  中宮祠は、日光市役所の西約22kmいろは坂を登ったところ

 日光市役所中宮祠出張所の西約1kmのところに日光二荒山神社中宮祠は有ります

 中禅寺湖です

 案内図です、中禅寺湖の北岸に日光二荒山神社中宮祠です

 説明版です
  日光二荒山神社   中宮祠ご由緒
 二荒山神社は、神鎮まります御山として古来より信仰されてきた霊峰男体山(二荒山)を御神体山とするお社で、天応2(782)年に男体山の山頂にお祀りされたのがはじまり。
 「二荒」を音読みして「ニコウ」、これを「日光」の字をあててニッコウと読み、日光の地名の語源にもなっている。
 男体山の山頂に奥宮、中禅寺湖畔に中宮祠、東照宮西奥に本社の三社が鎮座する。
 御祭神は二荒山大神で、主祭神 大己貴命、姫神、田心姫命、御子神、味耜高彦根命の親子三柱をお祀りする。
 境内地は、華厳の滝、いろは坂、日光連山等が含まれニッコウ国立公園の中枢をなし、その広さは約3400ヘクタールにも及ぶ。
 中善寺立木観音もこの境内に祀られていたが、明治35年に対岸に流されその地に再建された。
   中宮祠の主な施設
 「神楽殿(大国殿)」主祭神の大己貴命は通称「大国様」として親しまれていて、神楽殿では毎日大国様に八乙女神楽が奉納される。
 「本殿と拝殿」本殿、拝殿共に元禄14(1701)年に建てられて、国の重要文化財に指定されている。本殿は二荒山大神様が鎮座する建物で、拝殿は祭典や参拝など拝礼する建造物。
 「七福神」主祭神の大己貴命は福の神「大国様」として親しまれていて、中宮祠境内には所縁ある七福神が祀られている。
 「登拝道」男体山登拝門より山頂まで、片道約6kmあり、開山期間は4月25日~11月11日まで。
 「宝物館」宝物館には日本最大級の太刀「祢々切丸」を始め多数の刀剣類、南北朝期の神輿3基、また男体山頂遺跡からの出土品など国宝及び重要文化財資料を多数展示している。
 「中宮祠稲荷神社」中宮祠の境内に稲荷神社があり、御祭神の宇迦之御魂神は五穀豊穣の神であり商売繁昌の神様として祀られている。

 日光市役所中宮祠出張所の西約1kmのところです

 参道入口です

 国道沿いに駐車スペースが有ります

 更に石段を上がります


 手水舎です

 東側からの参道に「牛石」です

 説明版です
  奥日光の奇石
    牛石
 平安時代より、この地は男体山登拝の為の霊場として栄え、明治時代以前までは厳しい「おきて」がありました。
 中でも、「馬返」より上は牛馬禁則の結界でありました。これを破って牛を引いてきたところ石にされたと伝えられるものが「牛石」であり、牛が寝そべった姿をしていたと云われています。
 明治時代以降、存在が不明になっていたものを、ここに多くの人々の手により復元をいたしました。
 他には、女人禁制を破って、女の人がこの地に来た為、石にされたと云われる「巫女石」が、赤い大鳥居の脇にあります、
     平成21年己丑10月11日 復元成

 唐門を潜ると左に神楽殿です

 拝殿(重要文化財)です、参道に屋根が掛けられています


 拝殿左(西側)に山霊宮です

 説明書きです
   山霊宮
 霊峰男体山を中心に日光連山八峯に、篤い信仰を捧げた功体徳者(功績が優れ徳行のあった人々)の御霊をお祀りしたお宮であります。
   平成15年10月24日竣工

 七福神の一人「福禄寿」です


 本殿(重要文化財)です


 銅鳥居と男体山登拝門(赤門)です

 説明版です
  日光二荒山神社  男体山登拝門
 男体山頂奥宮への登拝口
 御神体山である男体山は、二荒山神社の境内地で山全体が神域であり、これより奥は更なる神聖な場所となるので、心身ともに清浄なもと登拝を心がける事。
 開山期間 4月25日~11月11日 受付は午前中のみ
 男体山登拝大祭 7月31日から1週間
 この期間のみ午前0時に開門 男体山頂で御来光を仰ぐことができる。
 登山上の注意
 ・山頂まで片道約6km、往復6~7時間
 ・赤門から1合目までは階段
 ・3合目から4合目まではアスファルト登山道
 ・4合目の白い門を通って進むこと
 ・途中水道がない為十分な水を持って行くこと
 *1合当たり約20分が目安のようです、その他に細かい注意書きがありますので、男体山に南側から参拝(登山)の際にはよく読んで下さい

 七福神の一人、恵比寿神です

 毘沙門天です


 境内東端には「さざれ石」が並んでいました

 では、次は境内の木々を見て行きましょう
 
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福島県檜枝岐村、居平「橋場のばんばと檜枝岐神社の奉納歌舞伎舞台」です!!

2023-08-14 06:30:00 | 文化財・寺社
 居平地区は、檜枝岐村役場のある下ノ原地区の直ぐ南側の地区です
 
 「愛宕神社のケヤキ」からの続きです

 役場前の観光案内図の真ん中に「鎮守神社」が表記されています、愛宕神社のすぐ南西側に

 鎮守神社の参道です

 参道を進むと「悪縁断ち切る 橋場のばんば」の幟が出ています

 橋場のばんばです、ばんばはハサミやお椀に埋もれています、軒先には大きなハサミが二丁掛けられています

 説明版です
   橋場のばんば
 橋場のばんばは、大変慈悲心が深く、昔から子供たちを水難から守ってくれるので、親たちの信仰が深い。
 御覧のように笑っている顔は前歯が一本欠け、大変愛嬌のある表情をしている。
 以前は前川橋のたもとに祭られていたが、明治35年(1902)に起きた大洪水の際、流失寸前の所を平野与吉という力持ちが現在の場所まで背負ってきたと伝えられている。
 ばんば様は縁結び、縁切りの神様でもあり、良縁で切りたくないときは、さびた切れないハサミを供え、悪縁を切りたいときは、切れるハサミを供えれば願いが叶うという。
 昔から人知れず恋に悩んだ若い男女が、こっそりばんばに祈り、幸せを得ているという。
 またお椀を頭にかぶせると、いかなる願いもかなえてくれるといわれている。
      檜枝岐村

 すぐ先には「叶っ多像」です。願いが叶ったお礼にやはりハサミやお椀を納めているようです

 歌舞伎伝承館 千葉之屋です

 袖萩とお君の像です、檜枝岐歌舞伎の代表的な作品「奥州安達ヶ原袖萩祭文の段」の一場面を再現した、母子の像です

 鳥居です

 手水です

 歌舞伎舞台です

 国の重要有形民俗文化財指定 檜枝岐の舞台の標柱です

 説明版です
   檜枝岐の舞台
 檜枝岐の舞台は、江戸時代に建設されましたが、明治26年焼失し、この建物は明治中頃に再建されました。
 昭和51年8月国の重要有形民俗文化財に指定されました。
 この舞台で毎年5月12日(愛宕神祭礼)と8月18日(鎮守神祭礼)の例祭に奉納歌舞伎が、9月第1土曜日には歌舞伎の夕べとして、千葉之家花駒座の皆さんにより演じられます。
 また歌舞伎は、平成11年3月「檜枝岐歌舞伎」として福島県の重要無形民俗文化財に指定されました。
    平成11年8月  檜枝岐村教育委員会

 南側の観覧席です、奥には疱瘡神の社です


 中央の観覧席です、一番奥には鎮守神の社です

 北側の観覧席です

 観覧席中段から歌舞伎舞台を見下ろしました

 *檜枝岐神社は、「鎮守神」と「疱瘡神」を併せた通称の様です、福島県ホームページの宗教法人一覧には「駒嶽神社」と有ります
 *「檜枝岐神社奉納歌舞伎舞台」の名称は、Googleマップでの表示です

 長く成ってしまいそうなので、続きとさせて頂きます
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青森県深浦町、深浦浜町「真言宗醍醐派 春光山 円覚寺」です!!

2023-06-30 06:32:41 | 文化財・寺社
 深浦浜町は、深浦町役場の南西約1kmのところ

 深浦町役場から国道101号線を南へ深浦漁港を回り込むように進むと

 消防の屯所の先を斜め左に入ると

 円覚寺の山門(仁王門)前です

 左に進んで、旅のオアシス風待ち館の駐車場に入りました、まずは「川原町のイチョウ」を見て来ました


 附近の案内図です

 円覚寺山門(仁王門)です

 真言宗醍醐派 春光山 円覚寺です

 説明版です
   円覚寺(真言宗醍醐派)
 本寺は大同2年(807)に坂上田村麻呂が聖徳太子作十一面観音像を安置し、創建したと伝えられる。
 貞観10年(868)に円覚法印により再興され、その後、豪族や弘前歴代藩主の厚い庇護を受けていたことが文献等に記されている。
 海上交易が盛んになると海上の安全を祈願する船乗りが数多く参詣し、船絵馬や髷額を奉納して澗口観音として信仰を集めた。これらは、室町時代初期の作と言われる薬師堂内厨子とともに国の文化財に指定されている。

 仁王様です

菅江真澄の道(春光山円覚寺9の標柱です、文面には・・・寛政9年(1797)2月10日(「つがるのおち」)、この寺で語り暮らした真澄は、「春雪にふり埋もれたる雪の梢」を眺めて次の一首を詠む・・・
  木々の芽も 春の光の やまのはは 花とみゆきの 霜も長閑さ

*秋田では彼方此方に菅江真澄の足跡を辿って来ましたが、青森の西の端にも彼の足跡を見るとは驚きです

 円覚寺略記です
 「津軽一統志」に、次のように書かれています。
 「大同2年(807)、征夷大将軍・坂上田村麿、観音堂をこの地に建立し、厩戸皇子の妙巧なる十一面観音像を安置す。今の本尊これなり」と、
 その後、貞観10年(868)、泰澄大徳の弟子・浄定行者の末弟の円覚法印が、修験道(山伏)を奉じ、諸国の霊山を遍歴して、この地に来て「観音堂」を再興しました。
 円覚法印は、大和国(奈良県)の人で、寺号の「円覚寺」は開山の「円覚法印」の名前から付けられてのです。
 当寺は、当山派修験(真言宗の山伏)の寺院で、「お葬式」をする寺ではありませんでしたので、江戸時代、幕府の「檀家制度」の発布後も、「檀家」はありませんでした。
 それで、江戸時代以前は、各時代々々の豪族の帰依をうけ、江戸時代には、津軽藩主の庇護によって続いていたのです。
 「深浦」は、上方(京大阪)と蝦夷地(北海道)を結ぶ経済文化の大動脈「北前航路」の蝦夷地へ渡る最重要港でした。
 そのため、ここの「観音様」は「澗口観音」と称されて信仰されました。
 「澗口観音」と云うのは、澗(港)の入り口にあって、海上安全・商売繁盛の御利益のある観音様と云うことです。
 事実、数々の「船絵馬」「髷額」<国重要有形民俗文化財>や「奉納品」がその事柄を物語っています。
 明治5年(1872)新政府による「修験道禁止令」の法難の嵐によって、全国の多くの修験寺院は消えて行きましたが、当寺は生き残り、真言宗醍醐派末寺の「祈祷寺」として現在に至って居ります。
 本堂の後ろに、「寺宝館」(篤学館)があります。
 国指定文化財「船絵馬」「髷額」(106点)や県指定の文化財、また当寺26世・義観僧正の仏道修行の遺品の数々が展示されて居ります。
 中でも圧巻は、僧正が日露戦役の両国殉難者供養のために、5ヶ年費やして、全国有信男女8万4千人の毛髪を以て刺繍した「八相釈尊涅槃図」でしょう。



 境内社です

 北端の祠です


 海南供養碑です

 宝篋印塔(青森県重宝・建造物)です


 本堂(観音堂)です

 拝殿軒下の鰐口です


南側の弁財天堂です

 では、次は境内の「竜灯杉」と「イチョウ」を見て行きましょう
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富山県立山町、芦峅寺「芦峅雄山神社中宮」です!!

2023-05-21 13:29:52 | 文化財・寺社
 芦峅寺は、立山観光の要衝です、富山地方鉄道立山線に終点立山駅や、立山黒部アルペンルートの西端に当たります

 広い芦峅寺地区の入り口近く、立山町役場の南南東約13kmのところに芦峅雄山神社中宮が鎮座します

 役場前から県道15号線を東へ、約500mで中米沢信号を右(南)へ、すぐの米沢信号を左(東南東)へ進みます

 約700mの沢新信号を右(南)へ県道6号線です、道成りに約15kmで道路左側に芦峅雄山神社中宮が南向き参道で鎮座します

 すぐ先を左(北)に入って芦峅寺公民館前の駐車場に入る事が出来ました

 参道入口です

 雄山神社社號標です

 由緒書です
祭神  西本殿 立山大宮  伊弉那岐命
    東本殿 立山若宮  天手力雄命
    別宮  立山開山堂 佐伯有頼公
 當神社は日本三霊山立山を神山と仰ぐ雄山神社中宮にして、延喜式内国弊小社であり、鎌倉時代神道集によれば越中国一の宮称せらる。
 鎌倉幕府・室町幕府・金沢藩主の特別崇敬保護を享け、中宮寺塔中の衆徒社人三十八戸軒を列ねて奉仕し、全国に立山の霊験を布教せり。
 総拝殿を祈願殿と称し境内二万余坪あり、樹林は富山県天然記念物に指定せらる。
 境内に於て草木を採り、殺生を行い、無禮を為すことを固く禁制す。

 
 鳥居です

 手水舎です

 お不動様です

 さらに参道を進みます

 説明版です
  「立山信仰を今に感じる」
 1200年ほど前、大伴家持が「神が住む山」と歌に詠み、日本三霊山の一つに数えられる立山あh、死者の霊が集まる浄土と地獄の山として信仰を集め、江戸時代に隆盛を極めます。
 雄山神社は、三つの社殿からなっています。廃仏毀釈で壊滅的打撃を受けた立山信仰ですが、神仏習合の時代の伝統を守り、数々の宝物や祭礼行事を今に伝えています。
 中宮祈願殿には、樹齢500年のスギの境内林が醸し出す厳粛な雰囲気の中に社が点在します。
     立山町教育委員会
     とやまの文化遺産魅力発信事業実行委員会

 歌碑です
  「なにはがた おしの・ごとに 風おちて よし苅る舟の つくは彼の岸」

 左に治国社です(通称:宝童社・祭神:新川姫命、首から上の病気の守護神・子育ての守り神です)
 右には神明社です(左から、麻続御祖社・皇大神宮・豊受大神宮の三社宮です)

 神橋を渡ります、参道は三方に分れます

 右の参道入って見ます
 
 右の参道を進むと若宮です

 説明版です
   若宮社殿 立山町指定有形文化財(建造物)
        昭和39年6月11日指定
   構造形式 一間社流造、屋根銅板葺 桁行2.7m、梁間4.7m、棟高5.7m
   建立年代 安土・桃山時代
〈概要〉
 若宮社殿は、雄山神社祈願殿の境内にある自然の巨岩の上に建立された堂社です。
 立山信仰の拠点として栄えた宗教村落・芦峅寺は、古くは中宮寺(仲宮寺)と呼ばれ、若宮は媼堂、閻魔堂、帝釈堂、大宮などと並び中宮寺の重要な堂社の一つでした。
 一説には文治元年(1185)に鎌倉幕府が大内冠者惟義に命じて造営したと伝えられていますが、現在の建物は棟札の銘から天正16年(1588)の建設と考えられます。
 現在の若宮社殿は一間社流造で銅板葺ですが、当初の屋根は杮葺です。柱は全て角柱で、礎石に据えられています。明治初年には本殿の老朽化が著しく自立が危うくなったため、本殿の外側に全体を覆う軒支柱が造られています。
 巨岩の上に建立された姿から「岩の宮」とも呼ばれ、近世の絵図でも岩の上に建つ様子が描かれています。巨岩は、雄山神社祈願殿の境内でこの場所にしかなく、巨岩や大木を霊異の対象とした磐座祭祀の名残を感じさせます。
 棟札に記された「ह्रूं」は仏尊を梵字で表した種子と呼ばれるもので「ह्रूं」は不動明王を表す種子です。棟札には堂社に祀る仏尊の種子を書き込む例が多いことから、もとは剱岳を神体とする刀尾大権現を奉祀していたと考えられています。
 *「ह्रूं」は尊勝仏頂を表す種字(転写)です、不動明王の梵字に似ていたので文章内で使用させて頂きました、不動明王を種字では「ह्म्मां」フンマーンや「हां」ハーンで表されます。
 現在まで継承される雄山神社祈願殿の祭礼では、加賀藩ゆかりの神輿二基が巡幸されますが、若宮の神霊が移される一基には華鬘や錺の刀尾の神の化身とされる白鷹が彫刻されており、江戸時代以前の祭礼から古例を引き継いでいるものと思われます。
 若宮社殿は、雄山神社祈願殿境内に残る最古の堂社建築として価値が高く、また、宗教村落・芦峅寺での祭祀や信仰活動の発展について示唆を与える貴重なものです。


 剱嶽社です

 東側の一段上には開山廟所です

 公民館駐車場から見上げました


 真ん中の参道は霊廟への道ですです

 熊に乗った金太郎ではありません、熊は立山権現の化身です、乗っているのは立山開山の慈興上人佐伯有頼公ですよね

 立山開山御廟です

 裏面です、「慈興上人佐伯有頼公 天平宝字3年6月7日 入定留身之地也」とあります


 左の参道を進みます

 すぐ左に境内社ですがお名前が解かりませんでした

 右手に祈願殿が見えて来ます

 日本三霊山立山大権現祈願殿です

 石祠ですがこちらもお名前が有りませんでした

 祈願殿の北側奥に社です

 境内の一番奥には大宮です

 では、境内の杉の巨木を見て行きましょう

 2023年4月21日午前7時40分訪問です
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宮城県登米市、中田町上沼八幡山「八幡神社」(市指定)です!!

2023-05-04 18:30:00 | 文化財・寺社
 中田町上沼八幡山地区は、登米市役所中田庁舎の北東約5kmのところ

 登米市役所中田庁舎前から国道346号線を北東へ進みます

 約2.3kmの北上川の錦桜橋西詰の信号を左(北)へ国道342号線です

 約2.7kmで道路左に「名木うば杉 総鎮守八幡神社⇒」の看板が出ています

 右(東)に入って直ぐ、左(北東)への道へ入ります(案内板があります)

 約800mで、また案内板がありますので右(東)へ道成りに進みます

 約400mで丁字路を左(北)へ、道は直角に右へ曲がって緩く坂道を登って行きます

 三叉路にも案内板が出ていますので左へ進むと

 赤い大鳥が見えて来ましたもうすぐです

 社務所脇の駐車場に入りました

 南西向きの長い参道入口です

 新しい社號標です

 古い社號標です、郷社 八幡神社です

 東北自然歩道の案内板です
   「新・奥の細道」
  北上川の自然と歴史探訪のみち
 八幡神社境内は県内有数の広さをほこり、姥杉や樹齢400年余の杉・松などが社殿を覆い、山菜採りや自然観察が楽しめる。
 北へ行くと、運慶の作と言われる韋駄天像を安置している長承寺がある。
 北上川沿いにサイクリングロードを南下すると、日本三弥勒尊の一つであり奥州の高野山といわれる弥勒寺がある。
 さらにサイクリングロードをすすむと堤防決壊を防ぐため生き埋めとなった娘を祀る「お鶴明神」を経て、十一面観世音菩薩が安置されている長谷寺にいたる。
 桜並木の自然歩道を登り長谷山公園に出ると、登米市中田町内の田園風景が一望できる。
    令和元年(2019)6月
     宮城県観光課

 参道の石鳥居です



 参道右手に「陰陽石」です
   縁結びの霊石
 地上に2尺ほど突出し、左右に分かれ中央が細くくびれている奇石である。
 「風土記御用書出」(安永3年〈1774〉)には、東参道にある駒踏み石とともに、名石として記載されている。
 通称を夫婦石といい、古来縁結びの霊石と崇められている。
 いにしえの人々はこの霊石に八幡山の形を見い出し、また10尺あまり堀り穿っても形が変わらないという伝説もある。


 ニノ鳥居でしょうか(赤い大鳥居を入れると3基目)

 東日本大震災復興記念碑です

 赤い鳥居は三ノ鳥居でしょうか

 手水舎です

 八幡神社縁起の石碑です
  御祭神 応神天皇
 本社は後冷泉天皇の御宇天喜元年(1053)源頼義・義家公によって御奉祀せられしなり。
 平安中期・蝦夷の安部頼時・貞任父子朝廷に反逆せし故、鎮守府将軍源頼義公日高見川(北上川)を北上し、八幡山に屯営す。
 更に康平・治暦年中の二度に亘り義家公も当山に営を張り、八幡大神(穀物、産業、破邪、武神)に戦勝を祈誓せしが霊夢を蒙り完勝す。よって武具を納め、社地を寄進す。拝殿脇の姥杉がお手植と伝えらる。
 以来、世々の藩主祭祀を慎み、領民挙りて鎮守と尊崇し、家内安全・商売繁盛・神体健全等全ての開運・除災・心願成就の神として、その御神威は遠方に及び信仰深かりき。
 慶長9年、伊達宗直公登米に寺池城主となるや氏神として社領武具を寄進、一方、西郡家は沼館城の乾方鎮護となし、弓矢守護神として崇敬す。
 御社殿は文明2年(1470)大修繕を加え、安永5年(1776)宮殿を再建、朱塗りも鮮やかなため「奥州の朱八幡」称されたと伝えらる。
 木組彩色八角柱十二支等の彫刻が風雅な趣きの桃山建築の名残りをとどむ。
 昭和4年神饌所を造営、9月郷社に列し、昭和21年神社本庁に所属す。
 昭和9年本殿、昭和27年拝殿を銅板葺きに改修、昭和51年神楽殿改築、昭和57年御創祀930年記念大祭を斎行し、その概要を裏面に記す。
 境内地は1万坪に及び、松、杉、樅等の古木に覆われ県北随一の静寂荘厳な神域なり。
 当社の東北に伝説の経壇森あり。山頂の石碑を参照されたし。北上川を眼下にし眺望すこぶる良い。
 

 随身門です

 随身の豊磐間戸命と櫛岩間戸命の両神が守っています

 市指定文化財の随身像の説明版です


 神楽殿です

 拝殿です




 本殿です

 境内社です

 本殿裏側の鳥居です、先には祠が並びます

 では、姥杉を見て行きましょう

 2023年4月5日午後1時訪問です
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宮城県登米市、津山町柳津大柳津「柳津虚空蔵尊の七不思議」です!!

2023-04-29 18:29:46 | 文化財・寺社
 津山町柳津大柳津地区は、登米市役所津山総合支所の南約3kmのところ

 津山総合支所の西側の国道342号線を南へ、柳津大橋東詰先からは国道46号線を南へ向かいます

 約1.5kmで左へ入ると、大きな大きな鳥居です

 約500mで右手に広い駐車場に入りました

 駐車場から北東側に虚空蔵尊の境内入口です、サクラが満開になっています

 駐車場北側に市指定文化財の鵲橋(かささぎばし)です

 参道杉並木です

 境内案内図です

 説明版です
   南三陸 金華山国定公園
     日本三所の一
   宮城 柳津福智満虚空蔵尊
 当山は柳津山宝性院と号し、真言宗智山派に属す。
 神亀3年(第45代聖武天皇)726年秋9月、行基菩薩勅を受け東国を巡遊し、この地に来り御修法21日間一刀三札し、自ら虚空蔵を刻む、その丈1尺2寸もって、天下泰平、国家安穏を祈り、同月13日一字を黄土山の嶺に創立し、これを信心して、一村の守護仏として崇敬した。
 後、宝亀2年3月大伴家持宮城郡多賀城にありし時登山して、これを拝して言うに、福島の会津柳津山口の柳津に安置せる仏像も同じく行基の作で、日本三所の秘仏である。かくも尊いものなれば33日目毎に開帳する外、みだりに衆人これを拝すること恐れありと。
 其の後、弘仁9年(52代嵯峨天皇)5月3日、弘法大師此の堂に籠り21日間の密行を勤め、大黒天長さ8寸のものと、毘沙門天長さ1尺2寸のもの二体を刻し、もって其の左右に安置し尚本堂を今の地に移した。
 其の後、中古に至ってしばしば野火にあいましたが、幸いにして本尊の安泰を得、法澄連綿として現在に至っております。
 虚空蔵菩薩は丑・寅生れの一生一代の守り本尊であり、鰻は虚空蔵菩薩のお使いの魚で絶対に殺生しないことになっております。
    略

 鳥居です、赤い鳥居を一の鳥居とすると二の鳥居でしょうか

 参道を進んで直角に左に曲がると山門が見えて来ます

 山門(仁王堂)です

 阿形像です、手前に願い事を書かれ吊るされているのは「仁王玉」と言うようです

 吽形像です、対面するように内側を向いています

 山門東側に鐘楼です

 池の中には、美貌・良縁の神様「美人弁財天」です

 子安観音堂です

 手水舎の龍の口から出ている水は、七不思議の一つ⑥「黄土山黄金水」です。
 行基菩薩が黄土山頂で秘法を行い、地に錫杖をシャンシャンと三度つき湧き出た水で無病息災の水です。現在でも遠方より多くの方々が黄金水を汲みにいらっしゃいます。

 本堂です

 本堂前の「なで虎」です、少し痩せてしまっていますね~

 「なで丑」です

 渡り廊下の先に「弘法大師堂」です

 七不思議に一つ③「一夜の松」は枯れた幹が保存されています
 江戸時代、本堂のお屋根替えの時、邪魔になるため切ろうと決まった日の夜。
 当時の住職の夢枕に虚空蔵菩薩様が立ち「邪魔にならぬようにしてやるから、幾久しく大切にする様に」といわれました。朝見ると反対側に幹がぐにゃりと曲がっていました。

 七不思議の一つ②「雫の桜」です、こちらも枯れてしまった幹が保存されています
 葛西公の奥方が追われて落ちて行く時、「しだれ桜」の鉢を割り植えて行きました。
 晴天の日でも葉先からしずくを落とし、それがさながら奥方を慕う涙か、はたまた奥方の悔し涙かと言われています。
 現在は枯れてしまって幹のみとなっています。

 七不思議の一つ⑤「片葉のよし」は案内板だけです
 仁王門をくぐると左手に小池があります。
 この池に今のかねつき堂の所を通り本沢より真直ぐに沢を堀り水を注いだのは、今から200年程前のことです。
 この沢に生えたよしは、一方にのみ葉が生じて、さながら本堂に頭をたれたように見えたということです。
 大伴家持の庵の跡に生えたといわれており、現在は残念ながら耐えてしまいました。

 黒焦げになった幹が保存されています

 七不思議の一つ①「玉こぶのケヤキ」です。弘法大師が密行を終え、ケヤキの枝を折り、この地にさして去りましたが、活着し亭々として成長したと伝説のあるケヤキです。
 イボ取り、こぶ取り、縁結びに霊験新たなりとして信仰されており、縁結び絵馬で願うと恋が成就の御利益がございます。
 *残念なことに、平成18年に放火により焼けてしまいました

 残り二つは観ませんでした、⑦子育ての松も切株になっています

 では、境内の木々(天然記念物)を見て行きましょう

 2023年4月5日午前8時訪問です
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宮城県登米市、津山町横山本町「横山不動尊」です!!

2023-04-29 06:29:43 | 文化財・寺社
 津山町横山本町は、登米市役所津山総合支所の東北東約5kmのところ

 登米市役所津山総合支所前から県道61号線を東へ、南に向かって国道45号線を左(東北東)へ道成りに進みます
 
 約4.4kmで津山町横山信号を案内板に従って左(北)へ、間も無くに左(西)へはいると広い駐車場に入りました

 では、境内の紹介です


 参道入口です

 東北自然歩道「新・奥の細道」の説明版です
   杉香るもくもくの道
 天神山中腹に林業センターがある、そこから山に登ると眼下に北上川や市街地が一望できる。南沢川に沿って進むと、もくもくランドに到着。
 更に国道に出て、青銅五重塔やうぐいす生息地のある横山不動尊へと向かう。
 そこから県道に入ると伊達小次郎の眠る右年山と菩提寺長谷寺がみえる。右年山を登ると小次郎君の墓、忠臣小原縫殿之助の墓がひっそりと立っており、参道には多くの吉野桜が咲き乱れて乱世を想い起させる。
 *伊達小次郎(伊達政通)は、伊達政宗の異母弟で正宗との兄弟対立の末に誅殺されてとされています。


 鳥居です

 参道を進みます

 手水舎です

 楼門形式の仁王門です

 阿形像です

 吽形像です

 仁王門を潜ると池の向こう側に本堂が見えます、池の周りの桜はまだ咲き始めです

 文化財案内板です
  種別  天然記念物(国指定)
  名勝  横山のウグイ生息地
  所在地 宮城県本吉郡津山町横山
  地域  5番大徳寺境内
 中川と北上川の合流点から中川と権口川との合流点までの河川敷
 久保川と中川の合流点から久保川と水木川の合流点までの河川敷
   昭和10年8月27日 指定
   昭和32年2月22日 追加指定
     津山町
 *ウグイ(鯎)はコイ科の魚ウグイ属の基本は淡水魚で、海に下るものもいて「マルタウグイ」と呼ばれ50cmにもなる。
 *ウグイの生息地としては、福島県柳津町の「柳津ウグイ生息地」と「横山の鯎生息地」が国天然記念物に指定されています。

 境内の池も「天然記念物 鯎生息地」です

 池の反対側(北側)から、中島の薬師堂です

 本堂です

 国重要文化財の不動明王像説明版です

 本堂東側の銅製五重塔です、桜が綺麗です

 南側から見上げました

 説明版です
   横山不動尊青銅五重塔の縁起
 1,完成年月日 明和3年(1766)5月15日
 2,建立発願者 鐡山策牛和尚
 甲州信光寺の僧、鐡山策牛和尚は、大徳寺にきて40年間も仕えた。この間、浄財を集めて、十六羅漢を作ったり、常夜灯を設置したり、木魚などの法器を寄付させたりし、さらに五重塔の建立を発願し努力した。しかし、完成を見ることなく明和2年(1765)6月3日亡くなった。行年73才、塔の後ろに葬られた。
 3,志を継ぐ 大徳寺14世、日相運明大和尚が事業を引き継ぎ、明和3年5月完成、6月3日鐡山和尚の一周忌に落慶供養式を挙げ、塔の後ろに鐡山和尚の供養塔を建てた。
 4、五重塔の概略 全景の高さ   536.31cm
          青銅部分の高さ 354.51cm
          石の基座部分  167cm四方・高さ180cm
          費用   二千切650文(現在の額で約6000万円)
 形態は荘厳優美、鋳造技術や建築意匠は抜群で、江戸中期の青銅造りとして異色があり、建築学上、貴重な塔といわれている。
 5,製作者  仙台の鋳工師 高田定四郎慈延
               早山彦重郎春次
               早山八重郎一次
 6、宮城県教育委員会、昭和32年(1957)1月16日重要文化財として指定
 7、俳句に詠われる 「秀明菊の うす紅の上乃 五重塔」省吾
   (昭和28年8月6日、詩人白鳥省吾先生が来て詠まれた)
 8、句碑  平成2年5月25日 建立
    津山町教育委員会

 では、次へ行きましょう

 2023年4月5日午前6時30分訪問です
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宮城県涌谷町、箟岳神楽岡「崑峯寺(こんぽうじ)」です!!

2023-04-24 18:30:45 | 文化財・寺社
箟岳神楽岡地区は、涌谷町役場の東北東約6kmのところ

 涌谷町役場前から県道155号線を東へ、間も無く県道173号線となって江合川を涌谷大橋で左岸へ渡ります

 道成りに約1km進むと国道346号線と合流する信号を鋭角に南東へ

 約500mで涌谷高等学校グラウンド先を崑峯寺の案内板に従い左(北東)へ、直ぐに右にカーブしてまた左(北東)へ

 ここからは山道を登って行きます、約4,5km道成りに進みます

 
 崑岳山(ののだけやま)・崑峯寺(こんぽうじ)駐車場の案内板を通り越して進むと

 山門(仁王門)下の駐車場に入りました

 説明版です
   崑峯寺
 崑峯寺とは、観音堂・白山社などを中心として古くは24坊からなる一山寺院(総称)である。
 山頂にある観音堂は、征夷大将軍坂上田村麻呂がこの地において蝦夷を討ったとき敵味方の戦死者を葬り、京都清水寺の十一面観音を勧請、僧延鎮を以って開山し、大同2(807)年に建てたものと伝えられる。
 この山は非常に霧が深いところから法相宗霧岳山正福寺と称した。その後、嘉祥2(849)年、天台宗総本山比叡山延暦寺の第3世慈覚大師(円仁)がこの地に来たとき堂宇を増建、無夷山崑峯寺と改称。以来、殺生禁断・女人禁制の聖地、また奥州鎮護の祈願所として南北朝時代には葛西・大崎の両氏、江戸時代には仙台伊達氏の外護を受けた。
 観音堂は2度焼失し、現在のものは嘉永4(1851)年に再建されたものである。
 崑岳観音は奥州三観音のひとつ、奥州33霊場第9番札所として知られる。

   白山祭(県無形民俗文化財)
 観音堂に向かって右に、白山神事で有名な白山神社がある。坂上田村麻呂将軍より先に蝦夷追悼の命を受け、この地に来た大伴駿河麻呂が宝亀元(770)年に建立したと伝えられる。
 白山信仰は、もともと山岳信仰で、これに天台密教が結びつき作神様として当地方の信仰の中心となっている。
 白山神事は神仏習合の考えにより一山の僧によって執り行われる。この様に特定の人が神を祭る方法を宮座式といい、正月行事を中心として古式に則り数百年にわたって引継がれていることは全国的にも珍しく昭和57年3月宮城県無形民俗文化財に指定された。
   平成3年12月  涌谷町教育委員会・観光協会・崑峯寺


 参道石段を上りましょう

 仁王門です

 阿形像です

 吽形像です、どちらも可愛いですね

 日本遺産説明版です
 みちのくGOLD浪漫
   ー黄金の国ジパング、産金はじまりの地をたどるー
  崑峯寺
 奈良時代、日本初の金の産出によって「神仏の加護を受けた聖なる山」と位置付けられた崑岳山は、平安時代になると山岳信仰と結びつき「みちのくに安泰をもたらす聖地」と認識されるようになりました。その頂きに建つ一山寺院「崑峯寺」は、創建から1250年を経た今も「殺生禁断」の聖地としてまもり続けており、地域信仰の拠点となっています。崑峯寺は、産金で名を馳せた山が聖地化する中で、地域の安定を願う信仰の対象へと昇華したことを示す好例です。

 本堂観音堂へ行きましょう

 手水鉢です

 境内西側には地蔵菩薩様です
  寛保3年(1743)建立。台座には「念仏供養 奉造立地蔵尊一躯・・」とあり、そのあと崑峯寺一山の坊名、僧名が連名している。
 この地蔵様は昔から先祖(水子含)供養の地蔵さまとして厚く信仰をあつめている。又一方、頭痛持ちの方が願掛けすると楽になるといわれている、有難い地蔵さまである。

 本堂観音堂です

 本堂観音堂の説明版です

 本尊十一面観世音菩薩の説明版です

 境内東側に白山神社です

 鐘楼です

 では、境内北側の木々(大スギ群)を見て行きましょう

 2023年4月4日午後2時10分訪問です
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愛知県岡崎市、鴨田町広元「松平・徳川家菩提寺の大樹寺」です!!

2023-03-29 06:31:00 | 文化財・寺社
 鴨田町広元地区は、岡崎市役所に北北西約3kmのところ

 岡崎市役所前から国道1号線を西へ、八帖信号を右へ国道248号線です

 約2.7kmの大樹寺3丁目信号を右(東)へ、間も無く左手に大樹寺山門です

 山門の東側から境内の駐車場に入る事が出来ました

*境内では、駐車場の有料化に伴う工事とテレビ局の中継車が数台止まっていました


 山門(三門)です

 徳川家菩提所 成道山 大樹寺です

 眺望ライン説明版です
   今に伝わる歴史的眺望
  眺望ライン(ビスタライン)
 ビスタラインの「ビスタ」は「眺望・展望」を意味し、大樹寺と岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」と呼んでいます。
 これは徳川三代将軍家光公が、家康公の十七回忌を機に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大樹寺の本堂から山門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望むように伽藍を整備したことに由来しています。
 時は移り、岡崎城も再建されましたが、大樹寺と岡崎城を結ぶ歴史的眺望は往時のままで、門越しに臨む岡崎城は、まるで額のなかの絵のようです。 
      岡崎市

 山門を潜ると右手に鐘楼です

 左手に手水舎です

 正面に本堂です

 本堂の西面です

 岡崎市文化財本堂と開山堂の説明版です


 本堂前では、大太鼓の演奏が行われていました

 文化財一覧です

 *市指定天然記念物の「大樹寺のしい」は本堂の裏側にあるようなのですが見る事はできませんでした

 岡崎観光文化百選の説明版です

 説明版です
   大樹寺沿革
 応仁元年(1467)8月23日、井田野の合戦で多くの戦死者が出たので、松平4代・親忠公は勢誉愚底上人に帰依して七日七夜の別時念仏会を修し、敵味方の別なく千人塚を作って葬った。
 その後、文明7年(1475)親忠公は、熱心な念佛者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。
 それ以来、大樹寺は、松平家・徳川家の菩提寺として1000石近い石高を受け、大樹公寺と称し、二十有余の末寺を持つ東海の名刹となった。
 現在でも岡崎城の天守閣と大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。
 本尊の阿弥陀如来は平安末期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている。
 親忠公は、愚底上人より在家としてはじめて五重相伝を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。
 松平家第9代の家康公は、19才の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ「厭離穢土・欣求浄土」の教えを説き、家康公に浄土念佛の尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念佛者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。
 この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖同和尚が門の貫木引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが、今もこの貫木は大樹寺に安置されている。
 家康公が陣中において人知れず書いた「陣中名号」はたくさんあるが、この寺にも署名された「名号」がおあさめられている。
 松平の御八代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓を模した供養塔も岡崎市民により建てられた。
 三門と鐘楼は三代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。
 西方に見ゆる多宝塔は天文4年(1535)松平7代・清康公の建立で、重要文化財に指定されている。
 本堂と大方丈は安政2年(1855)に焼失したが、安政4年、十三代将軍家定公の時に再建された。大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉為恭の描いたもので、146面あり、国の重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。

 本殿前東側に家康像です、岡崎市内には家康像があちこちにりますね

 本堂西側の建物が開山堂です

 墓地の中に多宝塔です

 東側から

 説明版です
  国指定重要文化財
建造物 大樹寺多宝塔(付棟札)1棟
 多宝塔とは仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことである。
 大樹寺の多宝塔は室町時代のもので、この寺に残る中世建築の唯一のものである。松平7代清康により天文4年(1535)に建立された。
 下層は方三間、総円柱、斗組二手先尾垂木付として、また上層は白漆喰塗りの亀腹上に円形の燈身を立て、四手先で軒をささえる。屋根は檜皮葺、鉄製相輪を上げ、軒隅には風鐸がつるされている。塔内部には禅宗様の須弥壇を置き、その上には春日厨子を据え、本尊の多宝如来像を安置する。
 この多宝塔は上下層の釣合いもよく、蟇股や木鼻の絵様および彫刻、その他の細部様式も古風でていねいに作られ、この時期としては和様色の強い建築物である。
    明治37年2月18日指定
       岡崎市教育委員会

 墓地の北端に松平氏墓所です

 東側から

 西側から

 説明版です
  岡崎市指定文化財
史跡 松平八代墓 八基
 元和元年(1615)、松平氏の菩提寺であるこの寺に徳川家康が先祖八代の墓を再建したもので、元和3年(1617)には天領代官畔柳寿学が奉行となり、現在の姿に整備された。
 初代 親氏(生没年不詳)     宝篋印塔
 二代 泰親(生没年不詳)     宝篋印塔
 三代 信光(1404~1488) 宝篋印塔
 四代 親忠(1431~1501) 五輪塔
 五代 長親(1473~1544) 五輪塔
 六代 信忠(1486~1531) 五輪塔
 七代 清康(1511~1535) 五輪塔
 八代 広忠(1526~1549) 無縫塔
 大樹寺は、文明7年(1475)に安城松平家初代親忠が浄土宗鎮西派の勢誉愚底に帰依して開創し、同家の菩提寺とした。
 長親の代に安城家が松平総領家となったことにより、本寺は松平宗家菩提寺となった。
 元和2年(1616)、家康の遺言により歴代将軍の位牌所とされ、以後十四代将軍家茂までの位牌が納められている。
    昭和37年6月15日指定
       岡崎市教育委員会

 家康の供養塔が西端にあります

 家康墓を模した供養塔の説明石碑です
 

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