ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

愛知県岡崎市、鴨田町広元「松平・徳川家菩提寺の大樹寺」です!!

2023-03-29 06:31:00 | 文化財・寺社
 鴨田町広元地区は、岡崎市役所に北北西約3kmのところ

 岡崎市役所前から国道1号線を西へ、八帖信号を右へ国道248号線です

 約2.7kmの大樹寺3丁目信号を右(東)へ、間も無く左手に大樹寺山門です

 山門の東側から境内の駐車場に入る事が出来ました

*境内では、駐車場の有料化に伴う工事とテレビ局の中継車が数台止まっていました


 山門(三門)です

 徳川家菩提所 成道山 大樹寺です

 眺望ライン説明版です
   今に伝わる歴史的眺望
  眺望ライン(ビスタライン)
 ビスタラインの「ビスタ」は「眺望・展望」を意味し、大樹寺と岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」と呼んでいます。
 これは徳川三代将軍家光公が、家康公の十七回忌を機に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大樹寺の本堂から山門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望むように伽藍を整備したことに由来しています。
 時は移り、岡崎城も再建されましたが、大樹寺と岡崎城を結ぶ歴史的眺望は往時のままで、門越しに臨む岡崎城は、まるで額のなかの絵のようです。 
      岡崎市

 山門を潜ると右手に鐘楼です

 左手に手水舎です

 正面に本堂です

 本堂の西面です

 岡崎市文化財本堂と開山堂の説明版です


 本堂前では、大太鼓の演奏が行われていました

 文化財一覧です

 *市指定天然記念物の「大樹寺のしい」は本堂の裏側にあるようなのですが見る事はできませんでした

 岡崎観光文化百選の説明版です

 説明版です
   大樹寺沿革
 応仁元年(1467)8月23日、井田野の合戦で多くの戦死者が出たので、松平4代・親忠公は勢誉愚底上人に帰依して七日七夜の別時念仏会を修し、敵味方の別なく千人塚を作って葬った。
 その後、文明7年(1475)親忠公は、熱心な念佛者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。
 それ以来、大樹寺は、松平家・徳川家の菩提寺として1000石近い石高を受け、大樹公寺と称し、二十有余の末寺を持つ東海の名刹となった。
 現在でも岡崎城の天守閣と大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。
 本尊の阿弥陀如来は平安末期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている。
 親忠公は、愚底上人より在家としてはじめて五重相伝を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。
 松平家第9代の家康公は、19才の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ「厭離穢土・欣求浄土」の教えを説き、家康公に浄土念佛の尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念佛者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。
 この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖同和尚が門の貫木引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが、今もこの貫木は大樹寺に安置されている。
 家康公が陣中において人知れず書いた「陣中名号」はたくさんあるが、この寺にも署名された「名号」がおあさめられている。
 松平の御八代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓を模した供養塔も岡崎市民により建てられた。
 三門と鐘楼は三代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。
 西方に見ゆる多宝塔は天文4年(1535)松平7代・清康公の建立で、重要文化財に指定されている。
 本堂と大方丈は安政2年(1855)に焼失したが、安政4年、十三代将軍家定公の時に再建された。大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉為恭の描いたもので、146面あり、国の重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。

 本殿前東側に家康像です、岡崎市内には家康像があちこちにりますね

 本堂西側の建物が開山堂です

 墓地の中に多宝塔です

 東側から

 説明版です
  国指定重要文化財
建造物 大樹寺多宝塔(付棟札)1棟
 多宝塔とは仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことである。
 大樹寺の多宝塔は室町時代のもので、この寺に残る中世建築の唯一のものである。松平7代清康により天文4年(1535)に建立された。
 下層は方三間、総円柱、斗組二手先尾垂木付として、また上層は白漆喰塗りの亀腹上に円形の燈身を立て、四手先で軒をささえる。屋根は檜皮葺、鉄製相輪を上げ、軒隅には風鐸がつるされている。塔内部には禅宗様の須弥壇を置き、その上には春日厨子を据え、本尊の多宝如来像を安置する。
 この多宝塔は上下層の釣合いもよく、蟇股や木鼻の絵様および彫刻、その他の細部様式も古風でていねいに作られ、この時期としては和様色の強い建築物である。
    明治37年2月18日指定
       岡崎市教育委員会

 墓地の北端に松平氏墓所です

 東側から

 西側から

 説明版です
  岡崎市指定文化財
史跡 松平八代墓 八基
 元和元年(1615)、松平氏の菩提寺であるこの寺に徳川家康が先祖八代の墓を再建したもので、元和3年(1617)には天領代官畔柳寿学が奉行となり、現在の姿に整備された。
 初代 親氏(生没年不詳)     宝篋印塔
 二代 泰親(生没年不詳)     宝篋印塔
 三代 信光(1404~1488) 宝篋印塔
 四代 親忠(1431~1501) 五輪塔
 五代 長親(1473~1544) 五輪塔
 六代 信忠(1486~1531) 五輪塔
 七代 清康(1511~1535) 五輪塔
 八代 広忠(1526~1549) 無縫塔
 大樹寺は、文明7年(1475)に安城松平家初代親忠が浄土宗鎮西派の勢誉愚底に帰依して開創し、同家の菩提寺とした。
 長親の代に安城家が松平総領家となったことにより、本寺は松平宗家菩提寺となった。
 元和2年(1616)、家康の遺言により歴代将軍の位牌所とされ、以後十四代将軍家茂までの位牌が納められている。
    昭和37年6月15日指定
       岡崎市教育委員会

 家康の供養塔が西端にあります

 家康墓を模した供養塔の説明石碑です
 

 では、次へ行きましょう
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群馬県甘楽町、福島「笠森稲荷神社と笠森古墳」です!!

2023-03-20 18:32:51 | 文化財・寺社
 福島地区は、甘楽町役場の直ぐ北側の地区です、町役場の北約1kmのところに笠森稲荷神社が有ります

 役場前から県道197号線を北東へ、約1.3kmの信号を左(西)へ

 一時停止の変形十字路を更に西へ進むと右手に大きな木々の立ち並ぶ林が見えて来ます

 境内東側に広い駐車場が有ります

 南側の鳥居です

 笹森稲荷神社の社號標です

 山門前の境内にもケヤキの大木です
 

 山門の二階には、眷属の狐の彫刻です

 山門左手に杉の大木です

 南東側から

 東側から見上げました

 かんら名木十選の認定証です
   認定証
 かんら名木十選
  認定樹木  スギ
  樹木名   笹森のスギ
  所在地   福島1350
  所有者   笹森稲荷神社
 森の中で最も大きなスギで、参拝者を見守るように立っている。
 幹には注連縄が張り渡されており、御神木の一つとなっている。
 樹高37m、胸高周囲約3.3m、推定樹齢約300年の巨木。
   平成13年3月 甘楽町 

 北側から

 山門の直ぐ北側に手水舎です

 ニノ鳥居です

 拝殿です

 本殿です

 拝殿前左手にに神楽(舞)殿です

 神輿舎です

 境内社には狐の置物が並びます


 山門の右手に笹森古墳の石室です

 笹森古墳の説明版です
  群馬県指定史跡 笹森古墳
    甘楽町大字福島字笹森1350
    昭和58年2月22日 指定
 墳丘 全長約100m
   前方部 幅約65m、高さ9m余
   後円部 径約60m、高さ8m余
 石室 全長約16m
   玄室 長さ約7.2m、幅約2.4m、高さ約2.5m
 築造年代 6世紀後半
 この前方後円墳は雄川の右岸段丘に築かれ、全域が笹森稲荷神社の境内になっている。墳丘の南側は社殿の建設によって変形しているが、北側には二重の堀が残り、葺き石や埴輪も認められる。
 前方部は、鏑川流域の他の前方後円墳と同じく西向きで、後円部とほぼ同じ高さまで発達した新形式である。
 後円部の中段には、南側に両袖型横穴式石室の入り口があり鳥居が建っている。羨道は狭いが、奥行きは県内屈指の長さでこの地方の凝灰岩質砂岩の自然石で造られている。
 なお、ここから北東400mに天王塚古墳(甘楽町指定史跡)がある。これは笹森古墳とは対称的で、後円部は大きいが、前方部は未発達の古式古墳(5世紀前半築造)である。
 両古墳の埋葬者はもとより不明であるが、彦狭島王・射狭君などの説がある。
    昭和62年3月   甘楽町教育委員会


 本殿脇から西側の前方部です

 東側境内から後円部です

 では、今回の目的の巨木2本を見に行きましょう
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愛知県豊川市、御津町広石祓田「旧縣社 御津神社」です!!

2023-02-20 18:30:29 | 文化財・寺社
 境内を見て行きます

 御津町広石祓田地区は、豊川市役所の西約6km、豊川市役所御津支所の北北西約700mのところ

 御津支所前から御津川沿いを北へ、間も無くの三叉路を左へ

 正面に御津神社が南東向き参道で鎮座します

 参道東側境内に駐車スペースが有ります

 参道入口です

 式内 御津神社の社號標です

 境内案内図です

 説明版です
  御祭神 大国主命
   呉由緒
  創立年代不詳と雖も延喜式(平安時代)全国神社3132座の内、三河26座の一つとなし、三河国神名帳に正3位御津大明神として載せらる。
  聖武天皇4年2月圭田56束を奉納し給ふ
  文徳天皇仁寿元年10月従5位下の神階を給ふ
  当三州刺史源朝臣義範は応永22年御社殿を再建し
  永享11年之が御屋根葺替を成し奉り
  享徳元年御津庄刺史細川兵部少輔は洪鍾を献納し
  天文15年当庄刺史牛久保城主平朝臣保成御社殿屋根葺替を成し奉れり
  明治14年10月有栖川宮熾仁親王殿下より神社号の御染筆を御贈進あらせらる
  明治22年内務省より御本殿保存資金として金壱百円を下附さる
 当社は往古御津7郷(広石、森下、茂松、灰野、金割、西方、泙野、大草、赤根、大塚、丹野、山神)12ヶ村の総氏なりしが、明治5年更に6ヶ村(森、為当、上佐脇、下佐脇、下佐脇新田、御馬)を加えて18ヶ村崇敬の社となる。
 神領は中古75石を有し、今尚、小字に祓田、禰宜田、神子田等の名を残す。
 別宮石畳神社は字泙野に、村社御舳玉神社は大字豊沢に、境内神社たる磯宮神社、船津神社は当社境内に鎮座あり孰れも当社御由緒に深き関係を有せらる。
 明治5年4月郷社に列せらる
 明治15年5月県社に列せらる
 明治40年2月神饌弊帛料共進神社に指定せらる
 昭和24年6級社に指定せらる
   例祭日
 烏賊祭 4月第3土曜日
 例大祭 4月第3日曜日
 
 参道右手の池の中の島は舟の形に石垣が組まれています

 ニノ鳥居の前の社號標には縣社式内 御津神社となっています



 参道右手には天満社です

   撫牛信仰
 牛は天神様の御神使です
 もろもろの願いをこめてこの臥牛を撫で
 願望成就を祈ることは当社古来に信仰です

 説明版です
   天満社御由緒
  御祭神 菅原道真公
 古老の伝えるところでは、当社は京都の北野天満宮より勧請されたものといい、もと、越川77-1に鎮座せられたが、明治8年12月(1875)この御津神社境内に遷座せられた。
 御祭神は、承和12年(845)の御生まれであって御津神社における当社の御創立年代は不詳であるが、最も古い棟札に寛文10年7月(1670)に造り替え奉ると記されており、この時、既に造り替えが必要なほど傷んでいたということでかなり以前の御創立と認められる。この棟札の裏に金一両に付き米8斗5升、麦2石、金一分(4分で一両)で稗3石2斗、あわ5斗5升と物価を伝えているのは興味深い。
 御祭神は、学問の神様、書道の神様として尊崇せられ、ことに霊験いちじるしく神社近郷において国学者羽田野敬雄を始め多くの学者、教育者等の輩出しているが御祭神の御霊験によるものと拝察せらる。
 最近社殿の腐朽がすすみ、おそれ多いので氏子各位の赤誠により、今年昭和59年に再建されるに至ったものである、

 参道西側にも境内社です。船津神社の様です

 参道石段を上ります

 手水舎です

 正面に拝殿です参道を進みます

 参道左手に御霊社です

 拝殿です

 本殿覆い屋です

 説明版です
   興津神社案内
 祭神 大国主命
 祭礼 烏賊祭 4月第3土曜日(かつては、春祭りとして執行。烏賊を献供)
    例大祭 4月第3日曜日(かつては、旧暦9月16、17日)
 縁起 創建は不明。「延喜式」では三河26座の一つの「式内社」、「神名帳」には「正三位御津大明神」とある。
   伝承によれば、祭神は御舳玉・磯宮楫取・船津各大神等の随従で船津へ着いたとされ、棟札や梵鐘等によって三河守護や土豪との関係がわかる。
    当社は興津7郷12ヶ村の総産土神と崇められ、明治5年に郷社に列せられ、明治15年には社殿が造営され、県社に昇格した。 
文化財(町指定6点)
 梵鐘 享徳元年(1452)願主は藤原政。高さは89.4cm、口径53.9cm。梵鐘が神社にあるのは珍しく、当時の地域の在地領主と守護との関係がわかる。
 鰐口 ①永禄元年(1452)に大工南金屋宗次により制作。付近の土中から出土したといわれる。
    ②万治3年(1660)に北金屋村の中尾作左門重次が制作。「御津庄船主大明神」(船津神社古称)に氏子衆が奉納したもの。
    ③延宝2年(1674)大恩寺第29代鸞誉上人によって奉納された。
 大般若経 現存111巻及び巻数不明の料紙699葉。多くは、永和年間(1375~1379)に、新城市富岡にある富賀寺などで実鏡らにより書写されたもの。
 クスノキ 当社の神木で、樹齢千円を超え、町内最高齢の樹木と推測される。目通り9.25m、根回り13.64m。樹高21.0m。
その他 当社には金割・灰野地内の入会山騒動をめぐる「平野・竹本義人碑」「山林分割記念の大鏡」や、国学者羽田野敬雄ゆかりの「肖像祭の軸」「皇学四大神の神歌碑」御津神社道の「道しるべ」2本もある。
    平成11年11月
      豊川市教育委員会
 *町内の表記は、かつての御津町が平成20年(2008)1月15日に豊川市に編入する前の表記です。

 本殿左に富野御前社です

 稲荷社参道です

 稲荷社です

 手前に磯宮大神です

 西側に遥拝殿です

 では、次へ行きましょう
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愛知県豊川市、財賀町観音山「財賀寺の仁王門(国重要文化財)から総本堂」です!!

2023-02-09 18:34:00 | 文化財・寺社
 財賀町観音山地区は、豊川市役所の北北西約7kmのところ

 市役所前から県道5号線姫街道を西北西へ、約2kmで野口町信号を右(北)へ進みます

 約2.4kmで清掃工場→の標識のある交差点を右(北東)へ、東名高速道路の下をトンネルで潜って

 道成りに白川のたにを奥へ進みます

 仁王門が見えて来ます

 すぐ先の左側の駐車場に車を止めさせて頂きました(奥の文殊堂手前にも駐車場が有ります)

陀羅尼山 財賀寺霊場の標石です

 境内案内図です

 仁王門です

 阿形像です

 吽形像です

 説明版です
  財賀寺(ざいかじ)仁王門と仁王様
仁王門 国指定重要文化財 平成2年3月19日指定
 この仁王門は、木造金剛力士像(仁王様)を安置するために建立されたものです。
 長年風雨にさらされ、老朽化が進んだため、平成8年10月から2年の歳月を費やして解体修理が行われました。
 仁王門は、三間一戸の二階を欠いた楼門になっており、二階の縁の腰組を造ったところで中断され、二階縁桁上に垂木を配して屋根を葺くことに変更されたものと思われます。
 虹梁や斗栱など細部様式から室町時代の建築と認められ、特に財賀寺の伽藍整備が行われた文明年間頃(室町時代)のものと推定されます。
 この地方の中世建築の技法を知る上で貴重な建造物です。
木造金剛力士像 国指定重要文化財 昭和55年6月6日指定
 この木造金剛力士像(仁王様)は、天衣を腕に巻き付け、腰に太い綱状の帯を締めて、腰をひねらず、上体を内側に開き、「く」の字形を示す姿は、平安時代の金剛力士像に共通する特色です。
 鼻を中心に、まゆ・目・口が集まったユーモラスな明るい顔立ちと、太くて短い首は古い様式といえます。
 材は、ヒノキが用いられ、前後左右の四つの材を継ぎ合わせ、これに別材を継ぎ足す手法が用いられ、その整然とした木寄せに加え、深い内刳りを施して薄く仕上げている点に、寄木法完成期の造法が良く示されています。
 (右)阿形の像高381cm
 (左)吽形の像高375cm
     豊川市教育委員会

*財賀寺ホームページから、読み方については確定されていませんので、「ざいかじ」でも「ざいがじ」でも「さいがじ」でも構いませんが、当山では書道の場合を除いて「ざいかじ」で一応統一しています。だそうです


 仁王修復と仁王帰郷記念碑です


 財賀寺略史の説明版です
   財賀寺略史
  当山は聖武天皇勅願の道場で、神亀元年(724)僧行基の開創せる古刹。弘仁4年(813)弘法大師中興の霊山なり。
 特に本尊並に二十八部衆は行基の御作と云われ、厄除開運、商売繁盛、、縁結び、子授かり、安産等の霊験顕著なり。即ち昔、源頼朝公源家再興の砌、本尊に厄除武運長久の祈願をせられ、霊験ありて天下を掌握し征夷大将軍となる。依って奉賽の為、建久3年(1192)本堂(8間四面)を再建、1300石余の寺領を寄進せられ、当山の一大坦主たり。
 当時は、三重塔を始め七堂伽藍完備、100余の院坊櫛比し、2000余町歩に及ぶ境内は、頗る壮観を呈し、就中山外に数百の末寺を雍する大寺院として参詣者踵を接し殷盛を極む。
 然るに可惜応仁の三河兵乱(1467~77)に遭い、一山の院坊殆んど焼失し、僅かに20余院坊のみ残り、数百末寺を離散し衰退す。其の後、武田、今川、、牧野、徳川等の諸将の庇護を蒙り、特に家康公より朱印160余石、山林36町余寄付相成り、10万石の格式に列す。然るに明治維新の廃仏毀釈に遭い、朱印は廃止せられ、境内山林共悉く上地となり、危急存亡の極に至るも、幸い本尊の霊威と坦信徒の熱誠とにより廃絶免れ今日に至る。
 創立当初は観音山の頂上に在りしが、頼朝再建の時、今宮の地に遷し、文政6年(1823)12ケ年の歳月を要して現在地に再建す。
 当山の文殊菩薩は、永延年中(987~989)大江定基公が三河の守であった時、赤坂の長者宮路弥太次郎長富の娘力寿を迎えて妾とし、姫艶美にして定基の寵愛を受く、されど俄かに病没。定基悲嘆の極、文殊菩薩の霊夢により、力寿の舌を切り堂宇を建て、公の守り本尊たる文殊菩薩を祀り、恵心僧都に請うて弥陀三尊を造り、力寿山舌根寺を建て、力寿の菩提に資す。
 以後定基は世の無情感じ、恵心僧都に随って出家、寂昭と云い、後宗土に渡り勉学修行し、宗国王から円通大師の諡号を賜う。
 以来1000有余年智恵文殊として世人の信仰極めて厚く、学力向上、技芸上達等の祈願参詣者頗る多く、縁日は毎月25日、3月最終日曜日は大祭で遠近の学童で賑わう。

 参道石段です


 参道石段を進みます

 車道を渡って進みます


 参道右手に自然石を積んだ祠です



 間も無く石段は終わって少し下りの参道になります

 銅像が見えて来ます

 慈晃堂前の巡錫の弘法大師様です

 慈晃堂です、お不動様の前から見ました

 説明石碑です
  慈晃堂略縁起
 此の堂は、西尾立江山地蔵寺を遷し奉る
 抑も四国霊場第19番札所立江寺は、總関所にして光明皇后安産のため聖武天皇の勅令に依り、行基菩薩 閻浮檀金をもって謹造したる一寸八分の本尊像にして霊験今に至る迄洵に顕著なる霊像なり。
 地蔵寺は、此の等寸の分霊尊像の勧請安置して、立江山地蔵寺創建してよりこのかた久しく多くの庶民信仰極めて厚く、利益遠近に遍ねし、然れ共西尾市和泉町の立江山地蔵寺域狭隘且つ堂宇古朽し将来存續に危惧を懐き、財賀寺へ遷堂せんことを計る。
 幸い財賀寺当局の諒解を得、私財を投じ(喜捨)且つ信徒の協賛を仰いで、昭和58年、9両年建立遷堂の竣工。其の後逐次周辺整備内外共輪換整う就中萬体の地蔵尊を奉祠して多くの迷える水子霊供養を廸つ之に依り永く立江山地蔵寺の衰退も免がれ本尊の霊威彌栄ならんことを庶幾のみ。
    昭和58年4月吉祥日竣工
    平成5年2月吉祥日完成
     立江山地蔵寺 住職 慈晃秒觀尼

 ここからまた石段を登ります、急な「男子厄除坂」です

 中段からは、「女子厄除坂」です、総本堂の屋根が見えて来ます

 右手に手水舎です

 四国三十三観音堂です

 中には観音様が並びます

 鐘楼です

 大きな総本堂です

 説明版です、財賀寺略史の前半部分がほぼ同じ内容で記されています
 

 総本堂の西側に鳥居が見えますので行ってみました

 鳥居です

 社殿ですが、お名前が解かりませんでした(境内案内図にもお名前が有りません)

 長く成りましたので、次は「財賀寺のツガ」を見に行きましょう
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愛知県岡崎市、本宿町寺山「徳川家康ゆかりの法蔵寺」(県・市指定文化財所蔵)です!!

2023-02-06 06:29:00 | 文化財・寺社
 本宿町寺山地区は、岡崎市役所の南東約11kmのところ

 国道1号線を南東へ、本宿駅東信号を右は、旧東海道に入ります

 南東に進んで間も無く、右手に広い参道が東北東向きに開いています


 参道入口です

 参道の両側が駐車スペースになっています

 説明版です
  法蔵寺
 701年、僧行基の開山と伝えられ、松平初代親氏(ちかうじ)が深く帰依して、1387年の堂宇を建立し、寺号を法蔵寺としたと言われています。
 家康が幼いころ手習いや漢籍を学んだとされ、数々の遺品が現存しています。桶狭間の合戦以後家康は、法蔵寺に守護不入の特権を与えるなど優遇しました。
 また、境内には新選組で有名な、近藤勇の首塚も祀られています。
 
*少し詳しい内容をネットで調べて見ました  
  法蔵寺(ほうぞうじ)は、浄土宗西山深草派の寺院。山号は二村山(にそんざん)。本尊は阿弥陀如来です
 かつては、二村山出生寺と称し、法相宗の古刹であった。飛鳥時代、行基は観音菩薩像を安置し出生寺を創建しました。
 平安時代、空海の来訪により真言宗となる。南北朝時代、竜芸上人により浄土宗に改宗し、二村山法蔵寺と改称しました。
 その後、徳川家の始祖・松平親氏が伽藍を建立して、松平家の菩提寺としました。徳川家康(幼名・竹千代)が、時の住持・教翁上人に就いて、読書きを習ったという(硯箱・硯石・手本・机などが残る)。江戸時代、深草派三河三檀林のひとつとなりました。
 明治元年(1868年)には、 住職の孫空義天が近藤勇の首を祀っています(境内に近藤勇の首塚あり)。
   (ウィキペディア一部抜粋です)



 文化財説明版です

 参道左側のお地蔵様です

 山門です

 浄土宗西山深草派 檀林 大神光 二村山 法蔵寺です

 参道左側石段下に「賀勝水」です

 参道石段の上には鐘楼門です

 南側から

 境内案内図です

 本堂です

 
 六角堂です

 南東側から

 境内社の祠ですが御名前が分かりませんね~

 東照宮参道です

 石段を登って、綺麗に彩色された社殿です

 説明版です
  法蔵寺山内 東照宮
■由緒
 寺伝 御太祖源頼義公 御父子勅令東国下向の節當山に御参詣有 御子義家公(號 八幡太郎) 両度の御下向御参詣 戦勝御謝恩の為 難事闘戦御勝利の御甲冑御供養の儀奉る
 始祖松平親氏公 三河渡御の折御武運御勝利を御祈願 御手自ら正八幡之神像を御彫刻 當寺に御宮を建立され 義家公御甲冑と御神像を御宮に御遷座奉り 松平御當家の守護神とされた
 松平元康(後の家康公)岡崎ご在城の砌 所々ご出陣の節は勿論 平日共に御開運御祈祷を仰付けの為 當寺教翁洞恵上人弟子の教山坊に命じ 元康様初陣御甲冑の御木像を彫刻安置 御供養の御神体は御相宮にて御遷座 臨時長日共御後裔様御治国平天下の御祈願奉る
 御宮は変遷を重ね のち「東照宮」と改められ現在に至る
■本殿
  入母屋 銅板葺 唐破風 極彩色
  文政 3年(1820)修覆される
  文政 4年(1821)御遷座
  平成11年(1999)大修覆された
 神前寶鈴
  「東照宮 元禄元年(1688)」の銘がある神前寶鈴が現存する
  元禄期 御宮は既にこの地に御遷座していた
 神額
  文政12年(1829)旗本柴田氏 本宿陣屋代官冨田群蔵常業の願いにより 神祇伯白川雅寿王の染筆である
■旗本と御鏡講
  文化12年(1815)旗本石川左近衛将監忠房 御宮荒廃を慨嘆 修覆基金「御鏡講」旗本有志の賛同を得て設立する
  神前には 旗本大御番組寄進の奉献石造物が数多く現存している
        (法蔵寺御由緒書より)
        本宿学区まちづくり推進協議会

 松平家廟所と三方ヶ原合戦忠死者の墓です

 説明版です
   松平家廟所と三方ヶ原合戦忠死者の墓
■松平家並び御親縁様方御霊廟(10基)
 松平廣忠公(五輪塔)家康公御尊父
 天文18年(1549)3月6日 岡崎城内にてご他界の報あり
 竹千代様御師範法蔵寺7代教翁洞恵上人御老臣衆と御閑談内々に御焼香御依頼あり 御法諱を「茲光院殿應政道幹大居士」と御贈號
 御尊骸を大林寺に移し御廻向奉り能見野にて御火葬 のち竹千代様當寺に御分骨仰出有り教翁御孝心に感悦 御分骨御尊廟御廻向奉る
 (内葬 法蔵寺)茲光院殿應政道幹大居士
 (本葬 大樹寺)瑞雲院殿贈亜相應政道幹大居士
 御親縁様方霊廟  五輪塔 宝篋印塔など
 山内の墓所
 有親公(五輪塔)「普修院殿増光長阿大居士」松平家初代親氏公尊父
 有親公が時宗の僧 長阿彌と称し徳阿彌(後の親氏)と所々御遊歴 
 境井村にて康安元丑年(1361)4月廿日寂 親氏公供養される。

■三方ヶ原の合戦忠死者の墓(18基)
 元気3年(1572)12月22日
 三方ヶ原(浜松市)にて武田信玄と徳川家康の戦 家康公は織田の援軍を得て戦うも大敗し浜松城に逃げ帰る 家康最大の敗北という
 夏目次郎左衛門吉信
 三方ヶ原の戦にて味方に利あらずと 家康公の身代わりとなり忠死 家康公 夏目を憐れみ當寺にて供養「信誉徴忠」と号し月拝を命ず
 鳥居四郎右衛門忠廣
 徳川氏に奉仕し軍監となる 三方ヶ原の戦で敵将の兜を砕き戦うも 敵陣にて忠死 法名「忠岳宗鑑」當寺に葬る
       (法蔵寺御由緒書より)
       本宿学区まちづくり推進協議会

 近藤勇の首塚です、近藤勇の胸像が有りますので直ぐ分かりました

 説明版です
  近藤勇首塚の由来
 新選組隊長近藤勇は、慶応4年(明治元年)4月25日35才で東京都板橋の刑場の露と消えました。
 刑後、近親者が、埋められた、勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。
 また、勇の首は、処刑後、塩漬けにして、京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同志が3晩目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。
 しかし、和尚は、その半年前から、三河国法蔵寺39代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。
 この寺は、山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。
 しかし、当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい無縁仏の様にして沓華していました。
 そしていつか石碑の存在も忘れられていました。
 昭和33年総本山の記録等に基づいて調査した結果埋葬の由来が明らかになりました。
 今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにしたのであります。
       法蔵寺 執事

 では、次へ行きましょう
 
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新潟県村上市、三之町「藤基神社」です!!

2022-11-30 18:31:03 | 文化財・寺社
 三之町は、村上市役所のある町です、市役所の南側約200mに

 藤基神社が北向き参道で東向きに鎮座します、村上城の居館部の裏鬼門(南西)に当たる場所です

 神社南側に広い駐車場が有ります


 北向きの参道入口です

 懸社 藤本神社 です

 狛犬です

 山門です

 説明版です
   藤基神社(ふじもとじんじゃ)
 藤基神社社殿は、総欅造で、日光東照宮と同じ権現造りです。
 嘉永2年(1849年)に当時の工匠その技を結集し8年の歳月を費やして造りあげたものです。
 村上の産んだ工匠 有磯周斎によるかご彫りとよばれる彫刻の傑作を各所に残しております。
 御祭神は、徳川家康候の異母弟にあたり、徳川家17士の一人でもある村上藩の藩祖 内藤信成候、10代内藤信敦候、11代内藤信思候を祀ってあります。
 八幡大神・誉田大神・火帯姫大神、稲荷大神、倉稲魂神、秋葉大神、火産霊神、学問の神である菅原道真公を祀ってあります。

 参道を進みましょう

 右手にイチョウの大木です

 一の鳥居です

 井戸神様です

 手水舎です

 直角に曲がって進みます

 イチョウを東側から

 南側から

 南西側から


 ちょっと堅苦しい感じの狛犬です

 境内への門です

 境内に入って左手に「むすび」の碑です

 隣には「運試しの輪投げ」です

 右手にはスギの大木です


 もう一組の狛犬は、優しい造形です

 拝殿です

 見事な彫刻を見る事が出来ます

 蟇股の「双龍」と梁の「藤の花」です


 柱の角には「獅子」と「獏」です


 本殿です

 説明版です、参道入口のものと同じ内容ですね

 では、次へ行きましょう
   
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秋田県藤里町、粕毛北熊の岱「茂谷スカイラインのアオヤジロ(飽田杉)」(町指定)です!!

2022-10-21 18:32:24 | 文化財・寺社
 粕毛北熊の岱地区は、藤里町役場の北西約6kmのところ

 県道322号きみまち阪公園素波里湖線を北西へ約5.5km進むと

 茂谷スカイラインの入り口案内板が有りますので直進するように右の道へ

 茂谷スカイラインは、ここから山を越えて素波里ダムのダム湖南岸まで行くことが出来ます

 (現在では、峠の下を林道米代線の素波里トンネル(二車線の舗装道路)を通るのが一般的です)

 スカイラインに入って東へ進むと、右からの合流道路が有ります、喜右エ門岱からの道路です

 ここから右カーブ3か所め外側に

 「アオヤジロ」の説明版が建っています
   アオヤジロ
 樹高27m、胸高54cm、樹齢約100年、スギ科に属し、その葉先が黄金色をしており稀有なものである。
 また、年輪が細かく材は特殊な芳香を有し、酒樽として珍重された経緯から、昭和60年町の天然記念物に指定されている。
 紀行家、菅江真澄が当町に来訪の折(1802年)贄能辞賀楽美(にえのしがらみ)編に、アオヤジロについて次の記述がある。
 「・・・蒼弥白といふ杉の沉を採りて香とし、その音のいや高ければ、飽田椙の名も世にかぐはしう、かほり充ちたり・・」

 *樹の規模が特定されているようですが、枝先の金色のものは見当たりません・・・
  ネットの画像を確認すると、樹幹が黄色に覆われた画像が出て来ました


 周辺のスギ林は普通のスギにしか思えませんでした

 では、次へ行きましょう
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秋田県美郷町、本堂城回本堂町「おんこ清水のイチイ(一位・おんこ)」(町指定)です!!

2022-10-10 12:33:39 | 文化財・寺社
 本堂城回本堂町は、美郷町役場の北北西約2kmのところ

 県道11号角館六郷線を北へ、本堂城回公園そばの信号を左(西北西)へ

 道成りに進むと本堂城回の集落です、本堂城回会館入り口の手前を右(北)へ入ります

 道成りに東を向くと「おんこ清水」の案内板が有ります

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 道路脇には、清水端の清水の案内板です、すぐ後ろの木の根元に清水が湧いています
 文面には・屋号が「清水端」であることからこのように呼ばれ、清水北側淵には小さな神社も。隣の「おんこ清水」とならんで住民の方の敷地内で大切に守られている清水です。

 道路南側の「おんこ清水」の案内板です
 文面には・樹齢約400年といわれる「おんこの木」の下にこんこんと湧き続けている清水。お隣の「清水端」とならんで住民の方の敷地内で大切に守られている清水です。

 目的のイチイ(おんこ)です

 文化財標柱には「一位」とだけ彫られています

 西側から、幹は白化して古木感が有ります

 南西側から、樹高が2mほどしかありません

 おんこ清水も水が湧いていませんでした、残念です

 では、次へ行きましょう
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秋田県由利本荘市、矢島町荒沢矢越「根城館跡と八幡神社本殿」(県指定)です!!

2022-10-05 18:34:20 | 文化財・寺社
 矢島町荒沢矢越地区は、由利本荘市役所の南南東約21km

 矢島総合支所の南南東約1kmのところです

 国道108号線を南へ、間木交差点(信号機無し)を右(南西)へ、県道58号線です

 荒沢川を渡って直ぐの信号を左(南南東)へ、一度上って下り掛けたところを一番右の道路へ

 道成りに進んでつずら折り更に登って進むと突き当りに

 駐車スペースの有る根城館跡です

 南側の田圃は黄金色に稲刈りを待っています

 南側の土塁のようです


 広い館跡は草だらけになっています


 東側には堀跡の様です 

 北東側に八幡神社が鎮座します

 文化財標柱です、「秋田県指定有形文化財 八幡神社本殿(建造物)」「昭和28年10月5日指定 矢島町教育委員会」となっています

 説明版です
  秋田県指定重要文化財(建造物)
   八幡神社
 矢島町をめぐらす湖成段丘の一角根城館の一隅に立ち、同社縁起によれば、由利十二頭の雄、大井氏の創建にかかわると伝承され、
 本殿は一間社流れの造りで厚く茅ぶきし総じて屋根の重厚感、各部手法の整い、象鼻、頭貫、蟇股など特色ある彫刻を持ち形式手法から江戸前期のものでこの種の遺構の少ない秋田県では貴重な建物である。
  昭和28年10月5日指定
   矢島町教育委員会

 鳥居です

 拝殿です

 茅葺きの本殿です

 *境内は除草が行き届いて、説明版のとおり重厚感のある屋根や板戸に傷みが見られるものの、良く保存されています

 では、次へ行きましょう

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秋田県由利本荘市、東由利宿大台「大台のオンコ(イチイ)」(市指定)です!!

2022-10-04 18:39:10 | 文化財・寺社
 東由利宿大台地区は、由利本荘市役所の東南東約17km、東由利総合支所の北西約8kmのところ

 国道107号線の東由利宿上ノ台地区の「滝」への標識が目印です

 北へ入って、滝地区を目指して坂道を上って行きます

 上り切ると右手に東屋が建っています

 下り始めて最初の交差点に「大台」の標識が有りますので右(南東)へ下ります

 間も無く右手に建物が有り西側の広場の塚の上に目的の「大台のオンコ」が有ります

 すぐ下側の東側交差点から見ました

 東側からの入口に車を止めさせて頂きました


 南側から見ました

 南東側からは、手前の木々のため幹は見えません

 文化財標柱です、説明等は有りませんでした


 南西側から、幹を見る事が出来ました

 北側から見ました

 では、次へ行きましょう

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秋田県にかほ市、平沢宮ノ前「宮ノ前のイチイ(オンコ)」(市指定)です!!

2022-10-04 06:33:31 | 文化財・寺社
 平沢宮ノ前地区は、にかほ市仁賀保庁舎の東南東300mのところ

 国道7号線の南側の住宅地の中に、市所有の小さな公園が有ります

 南側の道路脇に車を止めさせて頂きました

 公園入口です

 イチイ(オンコ)が見えました

 文化財標柱です
 このイチイの木は樹齢数百年で、現在はにかほ市の所有であるが、かつては「菊地家のイチイ」として知られていた。
 菊地家は弘安年間(1278~88)に室沢に居住し、33代目隆元は仁賀保家に仕え、後に帯刀御免の村役となった旧家である。
 何代の時に植えられたか不明であるが、旧家にふさわしい風格のある古木である。

*イチイは、イチイ科イチイ属の植物。またはイチイ属の植物の総称。常緑針葉樹。秋に実る赤い実(仮種皮)は、食用にできる。生長が遅く年輪が詰まった良材となり、弓の材としてもよく知られる。
 和名イチイは、神官が使う笏がイチイの材から作られたことから、仁徳天皇がこの樹に正一位を授けたので「イチイ」の名が出たとされている。
 別名は数多くあり、前述の笏にまつわるエピソードからシャクノキの名称があり、そのほかアララギ、キャラボク、スオウ、ヤマビャクダンなどと呼ばれる。北海道や東北地方ではオンコとして知られている。東北地方ではこのほかオッコ、オッコノキ、ウンコ、アッコとも呼ばれる。長野県松本地方ではミネゾと呼ばれている。
 ・・・以上ウィキペディアの一部抜粋です、秋田県でオンコと呼ばれていることも理解できます



 公園に入ります

 南側から、幹は細いですが古木感が有りますね

 南西側から

 西側から

では、次へ行きましょう
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秋田県にかほ市、象潟町象潟島「象潟島めぐりコース」(国指定天然記念物・名勝)後編です!!

2022-07-30 18:31:20 | 文化財・寺社
 にかほ市役所の北約2kmのところ

 国道7号線を北へ、道の駅象潟ねむの丘の手前を右(東)へ入り

 蚶満寺の駐車場へ入りました

 では、島めぐりに行きましょう

 説明版です
 九十九島(くじゅうくしま)
  鳥海山の岩なだれがつくった大地
 鳥海山はおよそ60万年のあいだ活動を続けている火山です。
 今から約2500年前、鳥海山の山頂が大きく崩れ、大量の土砂が流れくだり海を埋め立てました。
 その後、このあたりは海とつながる浅い湖となり、たくさんの小島が浮かぶ風光明媚な土地となりました。
 しかし、1804年に象潟沖を震源とするマグニチュード7の大地震が発生し、象潟一帯は約2m隆起し、湖は一夜にして陸地と化しました。
 象潟は火山活動や大地震といった地球の営みの痕跡が残る貴重な場所として国の天然記念物となっています。
  なぜ芭蕉は象潟を目指したのか
 江戸時代に活躍した俳人・松尾芭蕉(1644~1694)がのこした紀行文「おくの細道」その旅の最大の目的地は宮城県の松島と象潟だったといわれています。
 江戸時代の象潟は、芭蕉が尊敬する西行法師や能因法師などが和歌に読み込んだ名所(歌枕)として知られていました。
 「おくの細道」紀行は全行程約2400km、日数約150日をかけて東北、北陸を巡って大垣にいたる長い旅でした。
 6月に松島を訪れた芭蕉はその後、平泉、山寺、酒田などを経て8月1日に象潟に到着します。天候は雨でした。
 芭蕉は象潟の情景を「松島が笑うがごと、象潟はうらむがごとし」と、松島と対照的な印象を持ち、「象潟や雨に西施がねぶの花」という句を詠んでいます。
 松島は、丘陵地が沈んでできた「溺れ谷」という地形です。波に削られて島の岩肌は白く、晴れた日はとても明るい印象を受けます。
 一方、象潟の九十九島は鳥海山が崩れてできた「流れ山」で、そこには鳥海山の溶岩が露わになっています。
 芭蕉が見た雨の象潟は、松島の明るさと対照的に悲しげな美女を連想させる風景に映ったのかもしれません。
 松島と象潟、成り立ちが違うふたつの地に芭蕉は引き寄せられたのでした。



旧参道へ戻って来ました、案内板があります

 1⃣蚶満寺です

 正面に駒留島です


 どの木も立派な黒松です、中には目通り幹囲3.9mの大木もあるそうです

 左に進むと大岩があります

 3⃣駒留島(北側)です

 右手に鮓蓋島です

 大きな「史跡名勝 天然記念物 象潟」の石碑です

 右手に見えるのは、鮓桶島です

 遊歩道左手に「みのわ島」のマツです

 上堂ノ森です



 4⃣下堂ノ森です



 右手に鮓桶島です



 5⃣弁天島です

 奈良島への遊歩道は草刈りされていないので戻ります

 説明版です
   天然記念物 象潟
 およそ2500年前に鳥海山が大きく崩れて岩なだれが発生し、海に流れ込んだ岩の固まり〈流れ山〉は多くの島々となり、やがて島々をかこむように砂嘴が発達して一帯は入り江となった。
 島々には松樹が茂り、水面に鳥海山を映し、松島と並ぶ景勝地として象潟は広く知られることとなった。
 しかし、文化元年(1804)6月の大地震によってこの地域は隆起して陸地となり、往古の潟は一変して現在の稲田と化したのである。
 象潟は、火山活動および地震による土地の変化を示す自然記録として学術上の価値が極めて高いため、昭和9年1月22日、国の天然記念物に指定された。
   文部科学省
   管理団体 にかほ市

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新潟県佐渡市、阿佛坊「佐渡唯一の五重塔(国重文)・妙宣寺、雑太城跡」です!!

2022-07-24 06:41:30 | 文化財・寺社
 阿佛坊地区は、佐渡市役所の南約5kmのところ

 県道381号線を南東へ道なりに進み、一宮橋信号で右へ県道65号線で南西へ進みます

 武田地区に入って県道190号線との交差点です、南東側へ県道190号線を進むと

 間も無く北西向きに妙宣寺の山門(仁王門)が見えて来ます



 県道沿いに妙宣寺入口です仁王門前の道路脇駐車スペースに車を止めさせて頂きました

 前方に仁王門

 右手上に五重塔の上部が見えます

 

 境内案内図です


 石段を上がります、右手に五重塔が見えました

 仁王門です

 立派な仁王(金剛力士)像です


 説明版です
   妙宣寺
 古くから北陸道七ヶ国法華の棟梁で、寛文年中、身延、池上、中山三ヶ寺の輪番所となり、明治11年に立本山と定められた名寺である。
 もとは順徳上皇に供奉した北面の武士遠藤為成(阿 房日得上人)の開基と伝え、初め金井新穂にあったが、嘉暦元年(1326)雑太城主本間

 佐渡配流の時、     日得は深夜ひそかに食物を運び、その危難を救った話は有名である。
 日蓮真筆の曼荼羅、消息文、日野資朝の写経等を蔵するほか、境内にある文政8年(1825)  五重の塔  境内社 である。
  *大部古くなって読めない所が多くなっていますね~


 仁王門を潜ると、右手に五重塔です


 国指定重要文化財 妙宣寺五重之塔の石柱です

 参道は直角に曲がります五重塔説明版です
    妙宣寺五重塔 一基
     新潟県佐渡市阿仏坊
     指定 昭和61年12月21日
 文永8年(1271)佐渡に配流された日蓮聖人に帰依した阿仏坊日得上人を開基とする。
 この五重塔は、文政10年(1827)佐渡相川の棟梁茂三右衛門父子によって建立されたもので、高さ23.1m、初重の総間3.49mの小型の塔で、塔身部が長い。
 この塔は、現在残る江戸時代に建てられた数少ない五重塔の一つで、比較的保存がよく、全体の比率や五重軒の肩垂木などに時代の特色があらわれており、組物に和洋と禅宗様の肘木を混用し、心柱は杉の一本造りで、心柱と四天柱を各層で緊結するなど、独自の手法も見られる。
   平成21年11月
    文部科学省
    本山 阿仏坊妙宣寺

 南側から

 南西側から

 離れてみました

 境内には深い堀があります

 説明版です
   雑太(さわた)城跡
 雑太郷地頭本間氏の戦国期の城跡である、
 築城の時期は6世紀前半ころと考えられ、三郭から成り、現在も土塁・空堀の一部がみられる。
 天正17(1589)年、越後上杉景勝の佐渡支配により、城は廃され、上杉氏代官直江兼続によって城地は妙宣寺に与えられ、現在に至っている。

 山門です

 門を潜ると右手に、日野資朝の墓があります

 説明版です 
   日野資朝の墓
 正徳2年(1325)、後醍醐天皇の側近の日野資朝は倒幕計画が発覚し、鎌倉幕府執権北条高時により、佐渡に流された。
 壇風城に幽閉されること7年、元弘2年(1332)に城主本間氏     資朝を処刑    荼毘にふされ    野山へ葬ったと伝えられる。
 資朝は明治8年、真野宮に合祀され、同17年に従二位を贈られた。
 *こちらも読めない所が多くなっています

 境内には多くの建物が並びます、まずは番神堂です
 法華経守護と当山鎮護の為に各善神を奉祀する。
 1,妙見大菩薩
  北極星の化身といわれ日本国総鎮護の善神
 1,三十番神
  日本国内の主神三十体で毎日の当番守護神
 1、清正公
  法華経信者の代表として昔から諸人の信仰を集めている


 宝蔵です

 祖師堂です、宝蔵・本堂とともに庫裏から廊下で繋がっています

 案内版です
  祖師堂
 明治13年再建(1880)6間(11m)四面三方縁造り、宗門最古の宗祖御木像(文永11年(1274)在銘)並びに、当山開山阿仏坊日得上人、千日尼、捨身供養の御木像を安置する


 本堂です

 案内版です
   本堂
 文久3年再建(1863)12間(22m)四面の大堂で島内最大の堂宇。江戸期本堂建築の様式を今に残している。


 境内右手の庫裏前にはクスノキの大木です


 庫裏前の池にはスイレンとショウブが綺麗に咲いていました

 では、次へ行きましょう
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新潟県佐渡市、新穂瓜生屋「大日堂・大日霊神社」(県指定)です!!

2022-07-23 06:27:26 | 文化財・寺社
 新穂ダムキャンプサイトに戻りましたが

 地域の建設業の方々がトイレの清掃をされていましたので・・・

 翌日帰る前に寄ることを考えていた「大日堂」へ行ってきました

 ダムサイトの北側です、ダム湖畔を約3km進んで来ました

 西側から大日堂入口を見ました

 入口の鳥居です

 水盤です

 茅葺屋根の大日堂は拝殿です

 本殿です

説明版です
 新潟県指定有形文化財(建造物)
   大日堂 (昭和54年3月30日指定)
 新穂瓜生屋に建立された大日孁(おおひるめ)神社の拝殿である。建物の背面は奥社(本殿)への昇降口となっており、床を高くするなどの改築跡があるが、本来の仏堂の形態をよく残している。
 この建物は間口16.3m、奥行き13.4mの五間堂で、屋根は寺院宝形造、茅葺で、小規模仏堂の典型をよく示している。また、3間(約5.5m)四方の内陣は本尊の「大日如来坐像」(市有形文化財)を安置してもゆとりがあり、外陣・脇陣も広く、近世における佐渡の仏堂によく見られる広々とした構造となっている。
 大日堂は延徳2年(1490)に開基(大同2年(807)とも伝わる)されたと伝わり、本尊の大日如来坐像は未年申年生まれの守り本尊、妊婦安産の神、牛の守り神として島内で広く信仰を集めてきた。
 宝暦の「佐渡国寺社境内案内帳」によると、享保3年(1718)に大日堂が再建されたとの記録があり、現在の仏堂の構造様式や絵様彫刻はこの再建当時の様相をよく示している。
 佐渡市指定有形文化財(彫刻)
   木食清眼作 大日如来坐像(平成20年5月1日指定)
 この仏像の作者は木食弾誓一派の木食清眼で、制作年代は寛文6年(1666)であることが判明している。
 この像の高さは3.08m、肩幅1.47mの木彫り寄木造で、頭上に宝冠を戴き、両手を揃えて法界定印を結んでいる。像容は鼻が特異な形と大きさで、口元は抑揚のない短い線で刻み込まれ、両手の指は写実的である。
 「佐渡国寺社境内案内帳」によると、「この大日別当常照庵の大日如来は善光寺村善光寺の檀那である中将家によって安置されたもので、古くからの仏像が痛んだため、木食上人によって再興されたがまたまた損じ、万治3年(1660)、相川弾誓寺の四世清眼の自刻によって再興された。そのため、中将賢誉は、寛文2年(1662)より国中を歓化し、同6年(1666)仏像は完成、堂を建立して大日を安置した」とある。万治3年(1660)は木食弾誓の50回忌である。
 


 佐渡百選です


 文化財標柱です

 軒下の懸額です「大日孁神社」となっています

 南西側から

 境内西側にも文化財標柱が建っていますが何もありません

 では、新穂ダムキャンプサイトへ戻って夕飯にしましょう
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新潟県佐渡市、赤玉「杉池県民休養林」と「国見山のイチイ」(市指定)後編です!!

2022-07-21 18:49:00 | 文化財・寺社
 さて、続きです



 ひょうたん池南側の遊歩道に出ました

 案内板文化財標柱です、イチイまで900mとなっていますが・・・

 最初の内は踏み跡がはっきりしていましたが

 フキに覆われた遊歩道を進みます

 階段を上ります

 先を指示する案内板です、左は花木園ですこのあたりからヤブツバキが多くなりました、カメラをバックにしまいました

 遊歩道はヤブツバキに覆われていますが、足元につい数日内に刃物で切られた枝が落ちています、だれか入っているようです

 大木が倒れている右手に水道施設でしょうか

 沢状の源頭部まで上がって来ました

 まだまだ登りが続きます

 倒木に足を取られて転びました~

 展望台の案内板です、周りの木の枝に赤やピンクのテープがあちこちに有りますが、左への遊歩道へ入ります

 木々に標識が付いています、足元には境界杭が打ち込まれています

 空が明るく成ってきました、間も無く展望台です

 藪の先に大きな幹が見えました

 藪に覆われていますが、目的のイチイです

 周りも枯れたカヤに覆われています

 南側から

 東側から

 東側から幹を見ました

 北側の幹です

戻りましょう

 ひょうたん池南側の遊歩道まで戻ってきました

 ひょうたん池を見て行きましぃう、水面が綺麗ですね

 モリアオガエルの卵が枝先にぶら下がっています

 東屋やベンチが見えて来ました

 文化財標柱です「杉池の広葉樹林」です

 ひょうたん池東側です

 石碑です
  サントリーと赤玉の不思議な縁
    サントリーの木
 白山神社・小田原神社・五霊地神社・が合社して赤玉神社が誕生した、明治40年(1907年)サントリーの前身である寿屋から赤玉ポートワインが発売されました。
 その不思議なご縁がもとで、平成22年(2010年)から赤玉集落とサントリーの交流が始まりました。
 この滅多にないご縁と両者の友情を後の世代に受け継ぐべく、ここに祈念植樹を行いました。

 間も無く出口です


 管理道路沿いの遊歩道入口へ戻りました

 この先も通行止めになっています

車に戻りましょ

 車まで戻りました、総合計3時間半掛かりました

 着ている物や靴までビッショリになってしまいしたので、直ぐに着替えました

 ズボンの裾からヒルが二匹出てきてビックリです

 では、次へ行きっましょう
コメント
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