鴨田町広元地区は、岡崎市役所に北北西約3kmのところ
岡崎市役所前から国道1号線を西へ、八帖信号を右へ国道248号線です
約2.7kmの大樹寺3丁目信号を右(東)へ、間も無く左手に大樹寺山門です
山門の東側から境内の駐車場に入る事が出来ました
*境内では、駐車場の有料化に伴う工事とテレビ局の中継車が数台止まっていました
山門(三門)です
徳川家菩提所 成道山 大樹寺です
眺望ライン説明版です
今に伝わる歴史的眺望
眺望ライン(ビスタライン)
ビスタラインの「ビスタ」は「眺望・展望」を意味し、大樹寺と岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」と呼んでいます。
これは徳川三代将軍家光公が、家康公の十七回忌を機に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大樹寺の本堂から山門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望むように伽藍を整備したことに由来しています。
時は移り、岡崎城も再建されましたが、大樹寺と岡崎城を結ぶ歴史的眺望は往時のままで、門越しに臨む岡崎城は、まるで額のなかの絵のようです。
岡崎市
山門を潜ると右手に鐘楼です
左手に手水舎です
正面に本堂です
本堂の西面です
岡崎市文化財本堂と開山堂の説明版です
本堂前では、大太鼓の演奏が行われていました
文化財一覧です
*市指定天然記念物の「大樹寺のしい」は本堂の裏側にあるようなのですが見る事はできませんでした
岡崎観光文化百選の説明版です
説明版です
大樹寺沿革
応仁元年(1467)8月23日、井田野の合戦で多くの戦死者が出たので、松平4代・親忠公は勢誉愚底上人に帰依して七日七夜の別時念仏会を修し、敵味方の別なく千人塚を作って葬った。
その後、文明7年(1475)親忠公は、熱心な念佛者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。
それ以来、大樹寺は、松平家・徳川家の菩提寺として1000石近い石高を受け、大樹公寺と称し、二十有余の末寺を持つ東海の名刹となった。
現在でも岡崎城の天守閣と大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。
本尊の阿弥陀如来は平安末期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている。
親忠公は、愚底上人より在家としてはじめて五重相伝を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。
松平家第9代の家康公は、19才の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ「厭離穢土・欣求浄土」の教えを説き、家康公に浄土念佛の尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念佛者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。
この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖同和尚が門の貫木引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが、今もこの貫木は大樹寺に安置されている。
家康公が陣中において人知れず書いた「陣中名号」はたくさんあるが、この寺にも署名された「名号」がおあさめられている。
松平の御八代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓を模した供養塔も岡崎市民により建てられた。
三門と鐘楼は三代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。
西方に見ゆる多宝塔は天文4年(1535)松平7代・清康公の建立で、重要文化財に指定されている。
本堂と大方丈は安政2年(1855)に焼失したが、安政4年、十三代将軍家定公の時に再建された。大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉為恭の描いたもので、146面あり、国の重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。
本殿前東側に家康像です、岡崎市内には家康像があちこちにりますね
本堂西側の建物が開山堂です
墓地の中に多宝塔です
東側から
説明版です
国指定重要文化財
建造物 大樹寺多宝塔(付棟札)1棟
多宝塔とは仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことである。
大樹寺の多宝塔は室町時代のもので、この寺に残る中世建築の唯一のものである。松平7代清康により天文4年(1535)に建立された。
下層は方三間、総円柱、斗組二手先尾垂木付として、また上層は白漆喰塗りの亀腹上に円形の燈身を立て、四手先で軒をささえる。屋根は檜皮葺、鉄製相輪を上げ、軒隅には風鐸がつるされている。塔内部には禅宗様の須弥壇を置き、その上には春日厨子を据え、本尊の多宝如来像を安置する。
この多宝塔は上下層の釣合いもよく、蟇股や木鼻の絵様および彫刻、その他の細部様式も古風でていねいに作られ、この時期としては和様色の強い建築物である。
明治37年2月18日指定
岡崎市教育委員会
墓地の北端に松平氏墓所です
東側から
西側から
説明版です
岡崎市指定文化財
史跡 松平八代墓 八基
元和元年(1615)、松平氏の菩提寺であるこの寺に徳川家康が先祖八代の墓を再建したもので、元和3年(1617)には天領代官畔柳寿学が奉行となり、現在の姿に整備された。
初代 親氏(生没年不詳) 宝篋印塔
二代 泰親(生没年不詳) 宝篋印塔
三代 信光(1404~1488) 宝篋印塔
四代 親忠(1431~1501) 五輪塔
五代 長親(1473~1544) 五輪塔
六代 信忠(1486~1531) 五輪塔
七代 清康(1511~1535) 五輪塔
八代 広忠(1526~1549) 無縫塔
大樹寺は、文明7年(1475)に安城松平家初代親忠が浄土宗鎮西派の勢誉愚底に帰依して開創し、同家の菩提寺とした。
長親の代に安城家が松平総領家となったことにより、本寺は松平宗家菩提寺となった。
元和2年(1616)、家康の遺言により歴代将軍の位牌所とされ、以後十四代将軍家茂までの位牌が納められている。
昭和37年6月15日指定
岡崎市教育委員会
家康の供養塔が西端にあります
家康墓を模した供養塔の説明石碑です
では、次へ行きましょう
岡崎市役所前から国道1号線を西へ、八帖信号を右へ国道248号線です
約2.7kmの大樹寺3丁目信号を右(東)へ、間も無く左手に大樹寺山門です
山門の東側から境内の駐車場に入る事が出来ました
*境内では、駐車場の有料化に伴う工事とテレビ局の中継車が数台止まっていました
山門(三門)です
徳川家菩提所 成道山 大樹寺です
眺望ライン説明版です
今に伝わる歴史的眺望
眺望ライン(ビスタライン)
ビスタラインの「ビスタ」は「眺望・展望」を意味し、大樹寺と岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」と呼んでいます。
これは徳川三代将軍家光公が、家康公の十七回忌を機に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大樹寺の本堂から山門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望むように伽藍を整備したことに由来しています。
時は移り、岡崎城も再建されましたが、大樹寺と岡崎城を結ぶ歴史的眺望は往時のままで、門越しに臨む岡崎城は、まるで額のなかの絵のようです。
岡崎市
山門を潜ると右手に鐘楼です
左手に手水舎です
正面に本堂です
本堂の西面です
岡崎市文化財本堂と開山堂の説明版です
本堂前では、大太鼓の演奏が行われていました
文化財一覧です
*市指定天然記念物の「大樹寺のしい」は本堂の裏側にあるようなのですが見る事はできませんでした
岡崎観光文化百選の説明版です
説明版です
大樹寺沿革
応仁元年(1467)8月23日、井田野の合戦で多くの戦死者が出たので、松平4代・親忠公は勢誉愚底上人に帰依して七日七夜の別時念仏会を修し、敵味方の別なく千人塚を作って葬った。
その後、文明7年(1475)親忠公は、熱心な念佛者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。
それ以来、大樹寺は、松平家・徳川家の菩提寺として1000石近い石高を受け、大樹公寺と称し、二十有余の末寺を持つ東海の名刹となった。
現在でも岡崎城の天守閣と大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。
本尊の阿弥陀如来は平安末期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている。
親忠公は、愚底上人より在家としてはじめて五重相伝を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。
松平家第9代の家康公は、19才の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ「厭離穢土・欣求浄土」の教えを説き、家康公に浄土念佛の尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念佛者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。
この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖同和尚が門の貫木引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが、今もこの貫木は大樹寺に安置されている。
家康公が陣中において人知れず書いた「陣中名号」はたくさんあるが、この寺にも署名された「名号」がおあさめられている。
松平の御八代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓を模した供養塔も岡崎市民により建てられた。
三門と鐘楼は三代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。
西方に見ゆる多宝塔は天文4年(1535)松平7代・清康公の建立で、重要文化財に指定されている。
本堂と大方丈は安政2年(1855)に焼失したが、安政4年、十三代将軍家定公の時に再建された。大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉為恭の描いたもので、146面あり、国の重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。
本殿前東側に家康像です、岡崎市内には家康像があちこちにりますね
本堂西側の建物が開山堂です
墓地の中に多宝塔です
東側から
説明版です
国指定重要文化財
建造物 大樹寺多宝塔(付棟札)1棟
多宝塔とは仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことである。
大樹寺の多宝塔は室町時代のもので、この寺に残る中世建築の唯一のものである。松平7代清康により天文4年(1535)に建立された。
下層は方三間、総円柱、斗組二手先尾垂木付として、また上層は白漆喰塗りの亀腹上に円形の燈身を立て、四手先で軒をささえる。屋根は檜皮葺、鉄製相輪を上げ、軒隅には風鐸がつるされている。塔内部には禅宗様の須弥壇を置き、その上には春日厨子を据え、本尊の多宝如来像を安置する。
この多宝塔は上下層の釣合いもよく、蟇股や木鼻の絵様および彫刻、その他の細部様式も古風でていねいに作られ、この時期としては和様色の強い建築物である。
明治37年2月18日指定
岡崎市教育委員会
墓地の北端に松平氏墓所です
東側から
西側から
説明版です
岡崎市指定文化財
史跡 松平八代墓 八基
元和元年(1615)、松平氏の菩提寺であるこの寺に徳川家康が先祖八代の墓を再建したもので、元和3年(1617)には天領代官畔柳寿学が奉行となり、現在の姿に整備された。
初代 親氏(生没年不詳) 宝篋印塔
二代 泰親(生没年不詳) 宝篋印塔
三代 信光(1404~1488) 宝篋印塔
四代 親忠(1431~1501) 五輪塔
五代 長親(1473~1544) 五輪塔
六代 信忠(1486~1531) 五輪塔
七代 清康(1511~1535) 五輪塔
八代 広忠(1526~1549) 無縫塔
大樹寺は、文明7年(1475)に安城松平家初代親忠が浄土宗鎮西派の勢誉愚底に帰依して開創し、同家の菩提寺とした。
長親の代に安城家が松平総領家となったことにより、本寺は松平宗家菩提寺となった。
元和2年(1616)、家康の遺言により歴代将軍の位牌所とされ、以後十四代将軍家茂までの位牌が納められている。
昭和37年6月15日指定
岡崎市教育委員会
家康の供養塔が西端にあります
家康墓を模した供養塔の説明石碑です
では、次へ行きましょう