ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

埼玉県深谷市、深谷城公園に行って来ました!!

2012-07-01 20:31:56 | 城跡・館跡・陣屋跡
深谷城は、沼地に浮かぶ平城でした

国道17号の旧道は深谷市内を通っています

この道は、嘗ての中仙道です

中仙道を仕切るように、深谷城はありました


で、今の深谷城祉公園は?




案内板は重要ですよね!






深谷城祉公園の西半分には、石垣に白壁の挟間の塀が再建されています



上杉氏の竹に雀の家紋の碑がありました


さてさて、深谷城祉の本当の城祉跡は

隣にある、浅間神社の堀跡でしょうか







稲荷神社は何処にでもありますが、神社の境内の稲荷神社は雰囲気が違います



富士山の溶岩の上に狛犬が乗っているのも浅間神社の趣がします

堀跡の名残を神社の裏手に見ることが出来ました
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群馬県渋川市、怪しい天守閣、箱田城祉と真壁城祉!!

2012-07-01 07:42:16 | 城跡・館跡・陣屋跡
関越高速道路渋川インターから、国道17号線を前橋方面に向かい

新しいバイパス道から、旧道を通り利根川を坂東橋で渡ると三叉路になります

向って、右の山の上が箱田城祉、左の岡の上が真壁城祉が有ります

前橋方面に向かって右側にコンビニがあります



ここから、国道越の山の上に「怪しい天守閣?」が見えます

坂東橋の三叉路を北橘方面へ入って直ぐ

右に案内板があります

温泉施設の奥に隠れて「怪しい天守閣」は見えません

温泉施設の右を回りこむと旅館でした「本丸は旅館?」

南側の腰郭?に当るところに



こんな表示がありました

見上げると、当に天守閣です

さてさて、真壁城祉に向ましょう

来た道を、箱田城の案内板の有った所まで戻り

北橘方面へ行き、先の三叉路を左へ

切り通しの先に案内板かあるので

左に入ると、右の高い所に、木々がこんもりとしている所があります


案内板にしたがって入っていくと

地元のお年寄りがゲートボールをしていました

南側

東側

ゲートボール場の脇に案内板が有りました

お年寄りたちの邪魔になりそうなので

これ以上、写真を撮るのを諦めました、残念です
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群馬県渋川市、白井城祉の続きです!!

2012-07-01 07:03:18 | 城跡・館跡・陣屋跡
本丸から、東側一段下の白井宿の通りに下りて

カーナビに乗っている、白井城祉のしるしの所に行って見ます

住宅街の奥に福祉施設があります

施設の入口に大きな案内板が有りました
  白井城の由来
   白井城は、利根川と吾妻川の合流点に北から突き出した台地の先端に築かれ、自然の要害を
  利用した梯郭式の平城である。本丸を始め、北に二の丸、三の丸、北曲輪、総曲輪、北ノ遠構
  と、南東外側を守るため後に南曲輪、新曲輪が付加され、東ノ遠構が構築されていて東西83
  0m、南北1050mの大城郭である。「長尾正統系図」(雙林寺蔵)には、鎌倉時代の康元
  元年(1256)上野国守護上杉氏の家臣長尾景煕が白井の庄を与えられたころから、築城が
  始められたと伝えられている。世にいわれる「白井長尾氏」である。関東管領上杉憲実の信任
  が厚かった長尾景仲(昌賢)が出ることにより、本格的に築城(1430~50)され、景信
  、景春、政景と受け継がれた、その間、越後長尾氏(上杉氏)―甲斐の武田氏―織田の家臣滝
  川氏―小田原の北条氏の配下となって活躍した、長尾氏は天正18年(1590)に豊臣秀吉
  の小田原攻めの際、前田利家に攻略され滅亡した。
   その後を徳川家康の譜代本多広考・康重父子2万石で封ぜられ、康重の岡崎移封後、松平康
  長・井伊直孝・西尾忠永・本多紀貞と続き、寛永元年(1624)紀貞卒去と共に廃城となる
  。                             子持村教育委員会


施設の敷地との段差は、嘗ての堀の跡でしょうか?

施設の南側の畑の中にも、堀の名残のようです


これは、何でしょうか?説明などが無いのでよく解りません

白井城祉は、本丸の城跡に竹やぶも無く、公園化も進んでいない

良い城跡だとおもいます
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群馬県渋川市、白井城祉には、大きな石土台の枡形門跡が有りました!!

2012-07-01 06:49:07 | 城跡・館跡・陣屋跡
関越高速道路を渋川インターで下りて

国道17号線を沼田方面に行きます

吾妻川を渡ると、左側に「道の駅こもち」が有ります

この、西側の河岸段丘の先端部分に白井城祉が有ります

坂道を上がって温泉施設の中を通って住宅地の中を

案内板にしたがっていきますが、案内板は「徒歩ーー分」とあり

車で行けるのか心配しましたが、車で本丸まで行けました


北郭

三の丸

二の丸

大きな堀がありました、二の丸と三丸の間です、反対側は堀底が畑なっていました

二の丸と本丸の間です

東側の堀です

白井城址の標柱です

入口の大きな土塁です

本丸入口西側の枡形小口の石垣です

東側は祠の乗った、土塁が高く聳えています

本丸の中は東側が公園的になっていますが西半分は畑です


案内板があります
 白井城址案内板
   白井城址は利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に自然の要害を利用して築かれ
  た城である。
   全体が三角形に近い構造で、城の中心である本丸は吾妻川沿いにあって西側は断崖に面して
  おり、それ以外の方角は高さ3~4mの土塁に囲まれている。
   北側には枡形門があり、太田道灌が指導したとの伝承が残る石垣が現存する。本丸を出て深
  い堀を土橋で渡ると北へ二ノ丸、三ノ丸と続き、その間にも堀が残っている。三ノ丸の外側に
  は、北の守りとして北郭・金毘羅郭があり、本丸に南東側にはささ郭・南郭・新郭が連なてい
  る。さらに城域の北と東には、それぞれ北遠構・東遠構の堀があって総郭(城下)を囲む構造
  になっていた。
   なお城の護りの一部として、玄棟院(曹洞宗)・源空寺(浄土宗)をはじめとする大小の寺
  院が周囲に配置されている。また白井城の南東には仁居谷城があり、堀跡等も確認されていて
  両者の関係が注目される。
   いつ頃築かれたかは諸説あるが、15世紀中頃に関東管領山内上杉憲実の信任が厚かった長
  尾景仲(昌賢)によって築かれたと考えられる。景仲は月江正文禅師を開山とする雙林寺(曹
  洞宗)や、「白井の聖堂」と呼ばれる学問所を開いたことでも知られてる。その子孫も白井城
  やその周辺をめぐる戦国の攻防の中にそれぞれの名を残したが、天正18年(1590)に豊
  臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家に攻略されて開城し、戦国の城としての役割を終えた。そ
  の後は、徳川家康の関東入りにしたがい本多広孝・康重が城主(2万石・後5万石)となり、
  この頃現在の姿に整備されたと考えられる。康重の岡崎移封後は戸田康長・井伊直孝・西尾忠
  永・本多紀貞と続くが、寛永元年(1624)紀貞の病没とともに廃城となった。
   これ以後の経過は明らかでないが、明治時代以降は農地化されていたと思われ、昭和40年
  代の土地改良事業におても大幅な地形の改変はなく、堀や土塁など城としての地形が良く残っ
  ている。なお、平成16年3月には本丸部分が子持村の史蹟に指定され、保存と活用がはから
  れていくこととなった。
                                  子持村教育員会



歌碑もあります


土塁の上の犬走り

更に南側にも土塁の下に堀と土塁が見えます

本丸の南側の笹郭です

南側土塁の先端も見ることが出来ます


笹郭入口の土塁上に祠が並んでいます、物見櫓が有ったのでしょうか?

南西側に吾妻川の断崖から渋川市の町並みが見えました

白井宿側に移動します
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