ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

長野県飯山市、伝静間氏館跡です!!

2018-09-12 08:50:53 | 城跡・館跡・陣屋跡
静間地区は、飯山市役所の南南西約3kmのところ

山裾の道路沿いに飯山高校が有ります

高校の東側すぐ下側に伝静間氏館跡(静間神社)が有ります

北側道路脇に車を止めさせて頂きました

静間神社の敷地は、嘗ての館跡です

石段と鳥居です

説明板が有ります
  静間神社と伝静間氏館跡について
 当該の静間神社境内は静間小太郎館跡と伝承されているが、静間
小太郎についての史料は現存していない。ただし、関連の静妻(志
津摩・志妻・志津間・閑妻)氏については「保元物語」や「平家物
語」などの「軍記物語」に散見し、平安末期の静妻氏の存在は明ら
かであろう。
 NHK放送のテレビ番組「平清盛」でおなじみの保元の乱(11
56)を記す「保元物語」では平清盛と同様、後白河天皇方として
の源義朝の配下に志津摩太郎・同小太郎(各写本により字は異なる
)などが見える。
 また、「平家物語」には越後の平家党の城氏の配下に閑妻六郎が
見えるが、善光寺平の横田川原合戦で城氏が源氏の木曽義仲に敗退
し、静妻氏も衰退したと推察される。
 清川の対岸のやや下るところには北畑館があり、伝承では小倉四
郎太夫の館などあるが、静妻氏との関連については明らかではない

 これらの館跡は支配下の集落や水田地帯を一望する高台にあり、
静妻氏以降も若槻新庄静妻郷の地頭やその代官が居住することがあ
ったであろうし、甲越合戦時代には飯山城の防御線としてこれらの
館跡が利用された可能性もある。
 したがって、厳密には現在の静間神社境内が平安末期の館の遺構
を残しているとは断定できないが、神社敷地には土塁が現存し、以
前は館跡の西・南・東に廻っており、その外側に空堀の跡も散見し
た。館跡東側の郷倉の西では箱堀状の空堀が発掘調査されている。
 古来より武将の館跡として村の要であったこの地が、安土桃山時
代ごろには神社敷地となっており、江戸初期には諏訪社・明神社(
伊勢社)の二社が飯山城代の皆川氏より神領寄進や安堵をうけてい
る。
 その後、江戸後期以降に諏訪社が現中町交流センター敷地に移り
、明治時代には静間村社となっていた。
 ただし、現静間神社の建物は中町組の神明社として引き継がれ、
明治42年に田草神社・屋敷諏訪社が静間村社諏訪社に合祀され、
大正13年に無格社伊勢社(現館跡の中町組氏神)に村社諏訪社・
大山衹社(大久保組の山の神社)・無格社伊勢社(字松尾の北畑組
氏神)が合祀された。
 すなわち、上記6社が合祀されて、静間神社と改称されたのであ
る。なお、その他に数社が合祀されているかは不明である。
 静間神社の本殿は安政4年(1857)再建伊勢社に建築物、祝
詞(のりと)殿(幣殿)は大正13年の建立、拝殿は建築年代不詳
である。
 なお、昭和50年代の聞き取りでは、静間神社門前の3祠につい
たは、南から館跡土塁上にあった祠・中町区梨の木地籍のおっしゃ
んじ(御石神か?)からの祠・中町区水野氏宅から移動された祠と
なっている。
 毎年の9月第3土曜日・日曜日に行われる静間神社例大祭は3台
の屋台が繰り出し、老若男女こぞって屋台曳きに当たる。笛太鼓の
伝統音楽を奏で、提灯がゆれる屋台の様子は、近隣地域のみならず
、県内でも特色のある祭りとなっている。ちなみに、屋台は蓮地区
のものと同様、飯山市の有形民俗文化財となている。
 以上のように、静間神社は先住民の歴史の中に鎮座し、地域の良
民の信仰の要であり、住民同志の連携を深める場所でもある。
   (平成24年9月吉日  文貴静間区および静間神社)







境内南側には土塁などの痕跡は見当たりません

本殿の載っている部分が土塁の跡だそうです

西側から確認できます

では、次へ行きましょう
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