滝地区は、那須烏山市役所烏山庁舎の南西約2kmのところ
那須烏山市役所烏山庁舎東側の城山通りを南へ出て、直ぐの「那須烏山市役所前」信号を右(西)へ、県道10号線です
道成りに一山超えるように約1.6kmの「滝入口」信号を左(南)へ
約1.2kmでJR烏山線の踏切を越えます、約300mで斜め右(南)へ入り「竜門橋」を渡ります
約100mで右手に太平寺の東向き参道石段が見えて来ます
左手(東側)に入って「龍門ふるさと民芸館」の駐車場に車を止めさせて頂きました
「天台宗 瀧尾山 太平寺」寺号標です
龍門の滝周辺案内図に説明書きです
瀧尾山正眼院太平寺
延暦22年(803)坂上田村麻呂が、蝦夷討伐の折り逆賊調伏の祈願のため、千手観音菩薩を安置し大願成就を祈って堂宇を建立したと言われております。
太平寺は、烏山城主代々の御領地南滝村に祭祀されていた、天台宗の寺院で、将軍吉宗公に信任厚かった大久保佐渡守常春公が轉領の祈寺社係りに命じ、観音堂を大改築したと言われ、千手観音立像、天蓋(県指定)、二十八部衆木像、風神雷神像、仁王像、額絵馬(間引絵馬)、榧(天然記念物)等は文化財指定を受けています。
境内には「特殊墓域」があり二代城主大久保忠胤公の三女於十、四女於志賀(通称蛇姫様)、五女於霜の墓があります。
参道石段を上りましょう
三門の仁王門です
文化財標柱です
説明版です
那須烏山市指定文化財 太平寺仁王門
太平寺は、延暦22年(803)坂上田村麻呂が蝦夷討伐の大願成就を祈願し、のの地に堂宇を建立したのが始まりで、嘉祥元年(848)慈覚大師により再興されてち言われています。
中世以降、この地を領していた那須氏により崇敬され庇護を受けていました。しかし、天祥13年(1585)那須氏の内紛により一族の千本城主千本資俊、隆継親子が本寺で誅殺されるという事件も起こっています。
天祥18年(1590)那須氏が小田原征伐への遅参を理由に豊臣秀吉より領地没収され、領主が短期間で交代する状況が続きます。
仁王門は、寛文元年(1661)烏山城主堀親昌が、父親良の菩提を弔うため東江寺を建立した時の建築で、寛文12年(1672)信州飯田に転封の際、太平寺に寄進、移築されたものです。
市内で唯一残る楼門で、仁王像を安置しています。
このほか、太平寺の歴史を物語る多くの文化財が指定されています。
*栃木県指定有形文化財ーーー木造 千手観音菩薩立像(室町時代)・天蓋(江戸時代)
*那須烏山市指定有形文化財ーーー鎌倉時代ーーー木造 風神・雷神像
室町時代ーーー木像 二十八部衆像、透かし彫り嵌込み扉
江戸時代ーーー本堂、木造仁王像、烏山城主大久保家累代位牌、間引絵馬、宝篋印塔、阿弥陀堂千体仏、太平寺カヤ
平成28年3月 那須烏山市教育委員会
仁王門を潜ると正面に本堂(観音堂)です
右手奥には南向きの阿弥陀堂です
右手に目的のカヤの木が見えました
位牌堂の北側にカヤの木は立っています
位牌堂の案内板に位牌の一覧が記されています
烏山城主大久保家暦代
初代 享保10年~享保13年(1725~1728)大久保佐渡守常春
二代 享保13年~宝暦 9年(1728~1759)大久保山城守忠胤
三代 宝暦 9年~明和 6年(1759~1769)大久保伊豆守忠郷
四代 明和 6年~文化 2年(1769~1805)大久保山城守忠喜
五代 文化 2年~文政10年(1805~1827)大久保佐渡守忠成
六代 文政10年~嘉永 元年(1827~1848)大久保佐渡守忠保
七代 嘉永 元年~元治 元年(1848~1864)大久保佐渡守忠美
八代 元治 元年~明治 2年(1864~1869)大久保佐渡守忠順
大久保家は、享保10年から明治2年の版籍奉還まで144年の間続いた。
位牌堂右手に市指定有形文化財で江戸時代の「宝篋印塔」です
南東側からカヤの幹が見えました
「那須烏山市指定文化財 太平寺のカヤ」と「とちぎ名木百選」の標柱です
南側から、目通り幹囲3.5mの大木です
西側から見上げました
では、次へ行きましょう
那須烏山市役所烏山庁舎東側の城山通りを南へ出て、直ぐの「那須烏山市役所前」信号を右(西)へ、県道10号線です
道成りに一山超えるように約1.6kmの「滝入口」信号を左(南)へ
約1.2kmでJR烏山線の踏切を越えます、約300mで斜め右(南)へ入り「竜門橋」を渡ります
約100mで右手に太平寺の東向き参道石段が見えて来ます
左手(東側)に入って「龍門ふるさと民芸館」の駐車場に車を止めさせて頂きました
「天台宗 瀧尾山 太平寺」寺号標です
龍門の滝周辺案内図に説明書きです
瀧尾山正眼院太平寺
延暦22年(803)坂上田村麻呂が、蝦夷討伐の折り逆賊調伏の祈願のため、千手観音菩薩を安置し大願成就を祈って堂宇を建立したと言われております。
太平寺は、烏山城主代々の御領地南滝村に祭祀されていた、天台宗の寺院で、将軍吉宗公に信任厚かった大久保佐渡守常春公が轉領の祈寺社係りに命じ、観音堂を大改築したと言われ、千手観音立像、天蓋(県指定)、二十八部衆木像、風神雷神像、仁王像、額絵馬(間引絵馬)、榧(天然記念物)等は文化財指定を受けています。
境内には「特殊墓域」があり二代城主大久保忠胤公の三女於十、四女於志賀(通称蛇姫様)、五女於霜の墓があります。
参道石段を上りましょう
三門の仁王門です
文化財標柱です
説明版です
那須烏山市指定文化財 太平寺仁王門
太平寺は、延暦22年(803)坂上田村麻呂が蝦夷討伐の大願成就を祈願し、のの地に堂宇を建立したのが始まりで、嘉祥元年(848)慈覚大師により再興されてち言われています。
中世以降、この地を領していた那須氏により崇敬され庇護を受けていました。しかし、天祥13年(1585)那須氏の内紛により一族の千本城主千本資俊、隆継親子が本寺で誅殺されるという事件も起こっています。
天祥18年(1590)那須氏が小田原征伐への遅参を理由に豊臣秀吉より領地没収され、領主が短期間で交代する状況が続きます。
仁王門は、寛文元年(1661)烏山城主堀親昌が、父親良の菩提を弔うため東江寺を建立した時の建築で、寛文12年(1672)信州飯田に転封の際、太平寺に寄進、移築されたものです。
市内で唯一残る楼門で、仁王像を安置しています。
このほか、太平寺の歴史を物語る多くの文化財が指定されています。
*栃木県指定有形文化財ーーー木造 千手観音菩薩立像(室町時代)・天蓋(江戸時代)
*那須烏山市指定有形文化財ーーー鎌倉時代ーーー木造 風神・雷神像
室町時代ーーー木像 二十八部衆像、透かし彫り嵌込み扉
江戸時代ーーー本堂、木造仁王像、烏山城主大久保家累代位牌、間引絵馬、宝篋印塔、阿弥陀堂千体仏、太平寺カヤ
平成28年3月 那須烏山市教育委員会
仁王門を潜ると正面に本堂(観音堂)です
右手奥には南向きの阿弥陀堂です
右手に目的のカヤの木が見えました
位牌堂の北側にカヤの木は立っています
位牌堂の案内板に位牌の一覧が記されています
烏山城主大久保家暦代
初代 享保10年~享保13年(1725~1728)大久保佐渡守常春
二代 享保13年~宝暦 9年(1728~1759)大久保山城守忠胤
三代 宝暦 9年~明和 6年(1759~1769)大久保伊豆守忠郷
四代 明和 6年~文化 2年(1769~1805)大久保山城守忠喜
五代 文化 2年~文政10年(1805~1827)大久保佐渡守忠成
六代 文政10年~嘉永 元年(1827~1848)大久保佐渡守忠保
七代 嘉永 元年~元治 元年(1848~1864)大久保佐渡守忠美
八代 元治 元年~明治 2年(1864~1869)大久保佐渡守忠順
大久保家は、享保10年から明治2年の版籍奉還まで144年の間続いた。
位牌堂右手に市指定有形文化財で江戸時代の「宝篋印塔」です
南東側からカヤの幹が見えました
「那須烏山市指定文化財 太平寺のカヤ」と「とちぎ名木百選」の標柱です
南側から、目通り幹囲3.5mの大木です
西側から見上げました
では、次へ行きましょう