椎谷観音堂は、柏崎市役所の北北東約13kmの所
日本海に突き出した観音岬の上に在ります
国道352号線を北上、椎谷地区を過ぎて椎谷岬トンネルの手前を旧道へ入ります
椎谷鼻灯台の手前を右へ、大きな
駐車場が有ります
日本海の海岸線の南に東京電力柏崎刈羽原子力発電所を遠望します
観音堂へ行きます
石像やお地蔵様・宝篋印塔などがならびます
観音堂が見えて来ます
手水舎です
観音堂です
説明版です
椎谷観音堂
今より千二百余年の昔、嵯峨天皇の弘仁二年(811)のこと、当椎谷の海に毎夜不思議な光が
現れました。村人達は何の光かと思い、網を下ろしますと聖観世音菩薩の御像が上がりました。
村人達は山の上に立派な御堂を建て、御像を安置しました。
それから八〇〇年余の寛永元年(1624)の冬、山伏がこの御堂に泊まり、暖を取るため仏像
などを燃やし、本尊様をも燃やそうとしました。するとその瞬間轟然たる大音響、百雷が一時に落
ちたかと思われる様な恐ろしい音がし、御堂は焼け落ちてしまいました。御堂に行き火を消し本尊
様を探しましたが見当たりません。
ちょうどこの時、佐渡の国羽茂軍宿根木村の丸山治久という人がありました。最早五十歳になる
のに子どもがありません。そこで遥か海を隔てた椎谷の観音様のご利益を信仰し、何卒男の子を授
け賜えと一心にお願いし、観音様のお告げを貰って可愛らしい男の子を授かりました。名前を忠三
郎とし、それはそれは大切に育てました。この忠三郎さんは僅か二歳か三歳で最早立派に読み書き
が出来る世にも稀な天才児でした。治久さん夫婦はいよいよ可愛がって育てる内に、寛永七年とな
り忠三郎さんが七歳の正月十七日、別段苦しむ様子もなく眠るように息絶えて死んでしまいました
葬儀を営むこととなり、時にお母さんが今一目と御棺の蓋を取ってみると、御棺の中には忠三郎さ
んの影も形もありませんでした。
お母さんが不思議なことに思われて
玉手箱 両親ここに 置きながら 掛子は抜けて 何処なるらん
と詠まれました。すると何処からともなく
吹き散らす 風にうらみは 春の花 紅葉の秋に 一葉残らん
と言う返歌がありました。
忠三郎さんが死なれた前夜、椎谷観音堂の住職の夢に観音様が現れ「我は佐渡の丸山治久が切な
る願いに答えて、彼が一子忠三郎となって生まれたが、今又帰る時節が来たので当山に帰るであろ
う」というお告げがありました。翌日山に登り御堂を開いてみますと、昨日まで居られなかった本
尊様がお帰りになられました。今この本尊様を秘仏として、住職一代に一回の御開帳としています
現在の御堂は明和七年(1770)のものです。
椎谷の馬市・馬市法要
慶長五年(1600)関が原の戦い、慶長十九年(1614)大阪冬の陣、元和元(1615)
年大阪夏の陣で功績nあった堀直之は元和二年に椎谷領を下知されました。直之公は大変馬好きな
殿様で領内の人々に馬を飼うことを勧め、馬を貸し与えたりして品種改良、増産を図りました。毎
年碑七月一日には領主が種馬、子馬の閲覧し駿馬を見つけると買い取っていました。この日は一般
にも馬の売買が許可され、これが次第に盛んになり馬市と呼ばれるまでに発展しました。柏崎文庫
(関甲子次郎著 柏崎市立図書館蔵)によれば安政年間(1854~60)には七〇〇〇余頭、明
治十五・十六年(1882・1883)四千~六千頭の馬が集まったと書かれており、日本三代馬
市(ほかに安芸の広島、奥州の白河)に数えられていました。今は七月一日に椎谷馬市法要が行わ
れ、多くの絵馬が昔を思い起させます。
平成二十二年十二月吉日 寄贈者 椎谷堀家二十二代 堀 光宗
柏崎市尾崎家十八代 尾崎忠良
観音堂の前におおきな椎木が有ります
御堂の東側に大ケヤキが有ります
根元が柵で保護されています
市指文化財天然記念物 椎谷観音大欅の標柱です
欅の大木の石碑です
樹令 約千年位
周囲 約6m50cm
直径 約2m余 だそうです
東側の根元には観音像がありました
怪しい天守閣です
文化財の倉庫の様です、文化財の案内板が有りました
直ぐ西側には、香取神社が有ります
拝殿です
本殿です
説明版が有ります
香取神社の由緒
香取神社の祭神は経津主命である。経津主命は剣を神格化した神といわれ、武勇の神として武家
の崇敬も篤く天孫降臨に先立って芦原中国を平定したと日本書紀などは伝えている。
椎谷香取神社は椎谷藩四代藩主 堀式部少輔直定候の元禄十一年(1698)に上総・下総・武 蔵の地に領していた四千五百石が越後の蒲原・三島の地四千五百石へ替地になり、椎谷藩 堀家が
既に越後に領していた五千五百石を合わせて一万石の全てが越後に集約された。
この時、藩の領土鎮護・武運祈願の神として旧領内、下総の香取神宮を分祀して椎谷の産土の神
と定めた。歴代藩主は勿論、近郷の崇敬も極めて篤く、藩主は江戸定府であるが椎谷に居られる祭
礼の日には家臣を随えて藩主自ら参拝祈願をされ、毎年の祭礼には米二石を寄進、藩主からの奉納
物のあり厚く保護されて来た。
往古より香取立と称して、出陣の際や船出に際し香取の神に参拝して門出を祈願する風習があり
戊辰の役(1868)五月には椎谷藩士一同が当社に参拝し武運長久を祈願して出陣した。西南の
役(1887)には藩士二十七名が当社に祈願して出征し目出度く凱旋してその名を連ねた扁額を
奉納した。
寛政十二年(1800)には十二代藩主 堀近江守直起候が領内の庄屋に呼び掛け金十両の寄付
を集め神殿(現在の神殿)を再築、天保十一年(1840)には拝殿(現在の拝殿)を増築し、そ
の後、明治三十四年(1901)に幣殿並び拝殿の修復が成された。
平成十九年(2007)七月一六日午前十時十三分震度六強の中越沖地震が発生し、震源地に最
も近いこともあり震災の判定では「全壊」と云う甚大なる被害を受けたが幸いにも修復が可能と判
断された。
震災後二年余り風雪にさらされ椎谷住民も一時は修復再生をあきらめかけた。そんな中、新潟県
の中越沖地震復興基金からの一部支援が決まった。椎谷住民は、香取神社は”心のよりどころであ
り、貴重な文化遺産”である。どうしても後世に伝え残さなくてはいけない神社であると決意し、
不足していた資金を苦労して調達した。
平成二十一年十一月から修復工事を始め、翌二十二年(2010)九月十二日竣工式を迎えた。
寄贈者 椎谷堀家二十二代 堀 光宗
柏崎市尾崎家十八代 尾崎忠良
少し長くなってしまいましたm(__)m
では、次へ行きましょう