鮎屋地区は、洲本市役所本庁舎の南西約7kmのところ
洲本市役所本庁舎北側の県道76号線を西へ
約700mで洲本川を潮橋で渡った「新潮橋北詰」信号を左(西南西)へ、国道28号線です
約700mの「青雲橋北詰」信号で左(南西)へ、洲本川を青雲橋で渡り返します、まだまだ国道28号線です
約1.5kmの「宇原」信号を左(南)へ、約300mの「池田橋」信号を右(南西)へ、県道473号線です
約700mで「鮎屋の滝・鮎屋ダム」の標識に従って斜め左(南)へ、県道534号線です
約2.9kmで「鮎屋の滝⇒」の標識を斜め右(西)へ、約400mの茶色の壁の建物と所を右(北西)へ入って直ぐ斜め左へ
坂道を下るように進むと道路左手に大きな幹が見えました
北側の一段高い道路から楠神社を見ました(北西側から)
回り込む様に進むと広場があり奥にクスノキ見えます
鮎屋班消防器具庫の建物です
建物脇に車を止めさせて頂きました
西側から目的のクスノキです
南側から、目通り幹囲9.0mの巨木です
東側から
北東側から、何本かの合体木なのかもしれません
北側から楠神社の鳥居です
額には「楠大明神」の文字が有ります
楠神社社殿です
広場の南西端から鮎屋班消防器具庫の建物とクスノキを見ました
そばには石組の五神名地神塔です
天照太神、少彦名命・大巳貴命・倉稲魂命・埴安媛命の五柱の名前が刻まれています
*徳島藩では、五神名地神塔を祀る信仰が藩の主導で広まった。徳島城下にある富田八幡宮の祠官・早雲古宝が寛政元年(1789)に藩主蜂須賀治昭に進言したのが始まりとされ、各村浦では五角柱の地神塔を奉斎し、庄屋が斎主となって春秋の二回、五穀豊穣を祈願した。塔の造立と祭儀は大江匡弼の『春秋社日醮儀』に従って行われたと考えられている。
淡路島は、藩政時代には徳島藩に属していました。
(以上、ウィキペディア一部抜粋です)
では、次へ行きましょう
2024・6・6・16・20
洲本市役所本庁舎北側の県道76号線を西へ
約700mで洲本川を潮橋で渡った「新潮橋北詰」信号を左(西南西)へ、国道28号線です
約700mの「青雲橋北詰」信号で左(南西)へ、洲本川を青雲橋で渡り返します、まだまだ国道28号線です
約1.5kmの「宇原」信号を左(南)へ、約300mの「池田橋」信号を右(南西)へ、県道473号線です
約700mで「鮎屋の滝・鮎屋ダム」の標識に従って斜め左(南)へ、県道534号線です
約2.9kmで「鮎屋の滝⇒」の標識を斜め右(西)へ、約400mの茶色の壁の建物と所を右(北西)へ入って直ぐ斜め左へ
坂道を下るように進むと道路左手に大きな幹が見えました
北側の一段高い道路から楠神社を見ました(北西側から)
回り込む様に進むと広場があり奥にクスノキ見えます
鮎屋班消防器具庫の建物です
建物脇に車を止めさせて頂きました
西側から目的のクスノキです
南側から、目通り幹囲9.0mの巨木です
東側から
北東側から、何本かの合体木なのかもしれません
北側から楠神社の鳥居です
額には「楠大明神」の文字が有ります
楠神社社殿です
広場の南西端から鮎屋班消防器具庫の建物とクスノキを見ました
そばには石組の五神名地神塔です
天照太神、少彦名命・大巳貴命・倉稲魂命・埴安媛命の五柱の名前が刻まれています
*徳島藩では、五神名地神塔を祀る信仰が藩の主導で広まった。徳島城下にある富田八幡宮の祠官・早雲古宝が寛政元年(1789)に藩主蜂須賀治昭に進言したのが始まりとされ、各村浦では五角柱の地神塔を奉斎し、庄屋が斎主となって春秋の二回、五穀豊穣を祈願した。塔の造立と祭儀は大江匡弼の『春秋社日醮儀』に従って行われたと考えられている。
淡路島は、藩政時代には徳島藩に属していました。
(以上、ウィキペディア一部抜粋です)
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「石組の境内社」ですが、いわゆる「社日」、「地神様」というものですかね。岡山県でよく見ました。瀬戸内海地方には多いのでしょうか。