ある確かめたいことがあって司馬遼太郎の「播磨灘物語」をよみかえした。1975(昭和50)年の初版 とあるから(たぶん出たとき読んだはず)実に38年ぶりに再読したことになる。彼の「代表作」とは言えないかもしれないけれど、語り口や、事実の点綴の間に「この時期××は・・・」という書き出しの 脇道に少しそれていわゆる「書込み」という周辺の説明・解説を加えるという彼の小説の様式はすでに確立されている作品だろう。「書込み」を読みながら、その後ろに「古本屋」が介在していることが 気になるのは商売柄やむを得ない。
「書込み」に関しては、小生の知る範囲では松本清張が先んじている。彼の小説は一人の死体を巡って実に様々なしかも綿密・膨大な周辺描写がなされ、単に文字数で見ただけでも西村京太郎、山村、内田、などの作品との歴然とした「差」が分かろうというものだ。
およそ、考証を必要とするものを書くならば、近々に出版され新刊で読めるもので間に合う訳がないことに思い至る人は少ない。司馬遼太郎と松本清張の公開された書斎のことは前に触れた。ほかにも長谷川伸、山手樹一郎、江戸川乱歩、大仏次郎(「パリ燃ゆ」などのために集めた資料はのちにフランス文化庁が買戻しを申し入れたほど貴重かつ膨大なものものであった)海音寺潮五郎、等々。今どきに時代小説を書こうという人で 出版社の目にかなった人はこれらの資料を使うについて便宜を図ってもらえるらしい。これらの蒐集は殆んどすべてが古本屋の仕事ということはもっと知られてしかるべきかと。
話を司馬氏の小説に戻すと、この「書込み」が今回読んでみてちょっと鼻に付いた、というのは正直なところ。要するにちょっとくどい。
この語り口は、歴史資料館、博物館などの「学芸員トーク」のようだとは言えまいか。 読者は「小説」を読むというよりは、神妙に歴史の解説を聞く雰囲気になってしまう。ここいらが「司馬史観」と喧伝され、信奉者が現れる所以だろう。 最初に読んだ時の記憶は定かでない、しかし、ほとんど覚えていなかったということは大した感銘は受けなかったということだろうし、このたびも前述のような感じを持ってしまった、確かによく書かれているのはわかるけど・・。主観(好意・惚れ込み)が過ぎませんか?(坂本竜馬についてこの点は指摘している人が幾人かある)
そしてまた、もし、これを朗読するとしたらどうなるでしょう? 本であれば先の分量が分かっていて
、おもしろくないと思えば飛ばすこともできる、一応読むにしても先行きが分かる。しかし、なにも知らない人がこの小説を「聞いたら」どう思うでしょうね? 「書込み」部分はどんな具合に受け取られるでしょうか、終わってしまえば(記憶にあればですが)「ああ、あれは周辺説明の部分であったか」といえるだろうが、聞いている途中はそうはいくまい。 たとえば「日曜名作座」などでやるとすればどうなるものか興味がありますね。
ここで、西洋文学の延々と「書込み」が続き、どこまで行けば本筋なの?という小説は(プルースト他)いくつもある(というより西洋の文学とはそういうものらしいが) これらの長編小説に「朗読」というのはあるのだろうか? 新たな疑問の雲が湧いてきた。