閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

ピート・シーガー氏と大牟田。

2014-02-06 10:05:10 | 日記

  ピート・シーガー氏と大牟田。  訃報に思う

 先週、合衆国のコンテンポラリー・フォークソングあるいはプロテクト・ソングの産みの親というべきピート・シーガー氏が亡くなったと報道で知りました。 1963年の三川坑爆発のすぐ後に彼の大牟田公演が予定されていたことを覚えている方がどれだけいらっしゃるだろうか。 その当時は大牟田市全体が喪に服し、歌舞音曲はすべて自粛という雰囲気で、それを理由に大牟田音楽愛好会は彼の公演を中止したのでした。まだ高校生の筆者はアメリカン・フオークソングについてはなまかじりの状態で、彼がありきたりのポップスやクラシックのいわゆる歌い手ではない、少し毛色の違う人だというくらいの認識しか持っていませんでした。珍しい公演を聞けず、残念なことだと思って、愛好会の事務所ですでに来ていたプログラムをもらいに行ったことを覚えています。レコードのジャケットを小さくした枡形の地味なプログラムでした。このプログラム、持っているのだが、今どこにあるかわからないでいる、結局役に立たないわけっで、こういうことがアマチュアの欠点!  後で知ったことですが、彼は九州の公演の合間に当時水俣在住で水俣病の記録をしていた写真家のユージン・スミス氏(もう忘れ去られてしましましたね)を訪ねて行って、その後の大牟田公演であったそうです。彼がもしそのまま大牟田へ来ていたらきっとあの大災害、事件に感じることがあったはずで、民衆の悲しみにどんな感想を持ったか、事件を題材にした曲をつくったのではなかったかなどと思って、誠に残念でなりませんでした。 事前にもっと彼のことを知っていたら音楽愛好会に働きかけることもできたでしょうし、彼に会いに行って大牟田の炭鉱爆発のことを伝えることもできたのに、と、これは後からの悔み言。 今では知る人もすくなくなったようですが、彼はバンジョーの名手であり(「バンジョーをかき鳴らせ」 という歌も作っている)、ベトナム戦争に真っ向から反対の歌を作り、自ら歌い、多くの歌い手を育んだ人でした。巨星墜つ。かの地ではボブ・ディランも父親を亡くした気持ちでいるのではないでしょうか。

 この時代のビートルズやプレスリーがいまでももてはやされているのに比べると、まことに不思議。 そしてゴールデンゲイト・カルテット、ブラザーズ・フォア、キングストントリオ、P.P.M. といったコーラスがはやらないのも不思議。日本で有名だったダーク・ダックスはゴールデンゲイト・カルテット(彼らも大牟田で、小生の知る限り2度公演した)のコピーだったことも今や誰も・・・。 この辺だけは「十年ひと昔」というのは活きているようで。

今、4月の丸善ギャラリーでの即売会の目録作りで頭の中の大方は占めています。江戸から明治初期の物で よくわからないというのがいくつもあって普段の勉強不足畫たたって困っています。

 

 

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