閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

「論の周辺・危機に瀕する蔵書文化」という記事を読んだ(毎日新聞)

2017-10-08 22:26:50 | 日記

紀田順一郎の「蔵書一代」という本の紹介記事なのだが、「何を今更、ちゃんちゃら可笑しや」ということです。 やはり新聞記者という連中には「古本・古書店」に関する関心が全くないということをさらけ出している記事と思う。そしてこれが世間の「良識」と思われる、というより記者が疑いもなくまさしく自分こそが伝達者であると思って書いていることが「怖い」。
 「蔵書一代」という言葉は古本業界では昔から言い伝えられてきた言葉で、「続かない」と同義語・言い換えである。学者・研究者の世界を見渡すと、親子二代で同じ分野の研究をしているという例はまず稀。われらがすぐ思いつくのは金田一・河竹・物集などの辞書・叢書の編集からみを除いてはまずいないのではないか。有名な学者ではない世間の人でそれなりの蔵書をもっていて、それが息子に引き継がれることはまずないし、まして残された奥さん・娘や息子嫁にとっては完璧に「ゴミ」でしかない。その蔵書が古本屋に任されるのはまだまだ幸いな方で、おそらく世の大半の「蔵書」はゴミ処分されている。それをいちいちもったいないとか、図書館にとかいう方が現実離れした「希望的楽観・空論」に過ぎない。
 この先言いたいことは多いけれど、一点に絞れば、その原因は住宅事情ということに尽きる。名前だけは「マンション」だの「ビラ・メゾン・シャトー」と銘打ってはあっても実態は、一戸建ちで「ウサギ小屋」アパートなら「ハチの巣か鼠小屋」という「家」で「蔵書」ができるか!? ことは本だけの話ではない。物入がないから靴も洋服も「買いたいけれども置き場がない」床の間は無いから掛け軸はダメ、玄関が狭いから置物も置けない、壁は傷をつけたくないから額絵もかけられない。現実にわが店のお客さんで今店頭にあるちょっと分厚い本、「ほしいし、必要な本だけど、置き場がない」から買えないという。百貨店は言わずもがな、わが業界、骨董業界、家具屋、美術商あるいは陶磁器の窯元等々。なぜ今売れ行き不振か、それは「家が狭い」の一言に尽きる。逆に昔ほど広くはなくとも一戸立ち、集合住宅でも今一つの「納戸」があり、和室と床の間があれば上記の業界の売り上げは全く違ってくるだろう。少し話が大きくなるが、昔会社でも上のクラスのお付き合いといえばまず「茶の湯」であり「謡」だった。そこで古いしきたりや器具・道具・設え・調度が話題になり、普請道楽ということも芽生えた。当然ながら知識の蓄えに本は必要、字も書けなくては恥をかく、キチンとしたところへ出るには服装も必要。という具合であったのだけれど、交際がゴルフであり麻雀にとってかわられるとこの「知識・教養」がまるで不要になり着るものも大衆化したブランド品に成り下がってしまったが、それを何とも思わないどころか「大衆化」という美名を与えて肯定してしまった。 芸術・文化には「無駄」が必要なことは歴史が教えている。今の日本人の生活には「無駄」を生む余裕は全くない。これでは本の売り上げはもとより「文化」は育たない。
 この話は もっと広がりをもつのだけれど今回はこの辺で閉じる。今の政治家はもとより霞が関の連中の「教養」の低さ・無さは 「亡国」の兆しだと思う。

コメント
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