熱心にほぼ毎日書きこんでいるある古書業者が「馬鹿な事、愚痴バッカ書いていい加減で止めんね」とある仲間から言われてちょっとがっかりしたということだ。 小生も始めたのがすでに「流行り」を過ぎていたころで、今や「ささやき」とかいうものが「当たり前」なのだそう。 わずかな閲覧者しかなく、しかも反論・返信不可では「あんたなんばしよっとね」といわれるのもむべなるかな、ではあります。しかし「余計なお世話だ、俺は書きたい、言いたいことを書くだけ」ともいえるのもお分かりでしょう。
話変わって、知人から「古雅書店」を検索したら色々書いてあって、中に「本は自分で探せといわれた、偏屈オヤジだ」とあるそうである。小生はその記事を見つけていないのだけれど、そう書かれるについて心当たりはいくつもある。
以前にも書いたことがあるが、店に入ってくるなり「○○はないかね」という人は相変わらず多い。数日前も表の百均・特価台を20分くらい見ていた人が店に入るなり例の「○○はないかね」というセリフ。当方はその本を知らないので「わかりません」というと「無いかね」と、「いや、その本を知らないのでわからないのです、どうぞ自分で見てみてください」というと「探せというのか」「分類は?」という決まり文句である、「これくらいの本で昔出たのでココへ来ればあるかと思ったのだが」「私はその本を知らない、大きさなど知っているのなら
あなたが一番わかるはずだから、棚をご覧になってみてください、ここになくてなおお探しなら相談には乗ります」とここまで言うとほぼ全員店を出ていきます。その間一分もかからない、均一を見るに20分かけた人が、たった8坪の店の棚を見ようともしない。「昔の本だから・・」という人の「昔」も問題で、早ければ5・6年せいぜい十数年前の本を「昔の本」といい、「新刊でまだあるでしょう」といえば「高いから古本で安く」と、それならばなおの事「自分で探せよ」といいたくなります。 わが店の「悪口」を書いた人もおそらくこの手合いでなんでも思ったことを「してくれる」と思っている。わが店は「自ら輔るものを助ける」主義です。着物のように「これはお似合いで、お勧めしますよ」なんぞ いま顔を見たばかりの人間の読書歴がわかるわけはなく「古本屋のおすすめ」を期待するにはあと10年はかかるだろう。 ここ数日全く来客無し、あったのは上記のようなのがいただけ。商店街の人通りも田んぼの畔道程度。
複数の市史編纂などの需要が一段落し、閉山20周年の「特需」がなくなったので、とにかく日本の古本屋とAmazonとを頑張る他無し。