「芻蕘」
書こうと思う事はいっぱいある、しかしそれは政治や防衛や災害や、といった分野であまり書物にかかわって書けるものではなくここでは取り上げていない。
近頃、久留米・有馬藩と筑後立花藩に関する本に目を通した。自分の知識の整理、積み上げのためである。これまた小説のようにするすると読めるものではない、というのが事あるごとに「確認」作業をする、要するに書いてあることに「ほんまかいな?」という事が多いからなかなか先へ進まないことになるのだ。
新しい書物・研究を読めばそこそこに知識の見直し・修正や追加があって楽しくはあります。
漢文・漢籍にはほとんど知識はないと言える程度で時々もどかしい思いをするのだけれど、柳河の儒者に関するところを読んでいて今のご時世・政治に示したい一文があったので書きとどめることとした。
「子云く、上、民言を酌めば則ち下、上の施を天とし、上、民言を酌まざれば則ち犯す。下、上の施を天とせざれば則ち乱る、故に君子、信譲以て百姓に涖めば、則ち民の報禮重し。詩に云う、先民言へる有り、芻蕘に計ると」 今風に言えば「孔子が言った、上に立つ者が民意を酌み取れば、民は上からの恵与を天与と仰ぐが、上の者が民意を酌まなければ逆らうようになる。民が上からの恵与を天与と仰ぐようでなければその国は乱れるであろう。君子が誠信と謙譲を旨として民に臨めば、民からの返礼は思いものになる。名君は草刈りや柴刈りにも事を計る。」 要するに上に立つ者は多くの(下々の)人の意見を聞くべきであり、其の度量が必要、という云い。
これは「礼記」の一節だそうで、安藤間菴が柳河藩の家老になった立花寿賰に提出した意見書の一節にある。 今の日本の(だけとは限らないか)政治家・官僚にこの言葉が判るだろうか? 以前安岡某という代々の保守系政治家が「師」と仰いだという人物がいたけれど、そのころにも思ったが彼らは一体何を教えられてきたのだろうか?今の政治家・官僚には「教養」が全くない、それは彼らの「字」を見るとまさに一目瞭然。そして彼らの文章に「引用」が全くないのも「教養」のなさの表れであろう。
このところ漢詩・漢文は静かなブームだという。支えている人たちはまず殆どか保守・自民党支持者と言える。彼らは学んだことを党や議員先生方にどう反映させているのだろうか。幼稚園の子どもの集団のような霞が関・永田町の連中を一掃したいものだ。政治家・官僚の無知は犯罪である。 「知らざるを知らない」ことは恥ずかしい、ハズなのだけれど。