2013年10月14日、韓国・天安の独立記念館ではこのほど、「日本731部隊細菌戦」の特別企画展が始まった。企画展は10日から今月末までの予定で、731部隊に関する展覧会が韓国で開かれるのは初めて。人民網が伝えた。
企画展が始まってから、関心を持つ多くの韓国人が参観に訪れている。展示では、日本の関東軍が中国侵略期間に現地で行った衝撃的な人体実験に関する実物の資料を公開。生体実験に使用された手術用のペンチや鉄製ケージ、細菌培養箱、細菌兵器、防毒マスクなどを展示して、731部隊が現地で行った人体実験などの残虐な様子を再現した。
参観に訪れた韓国の人々が展示を眺める時の表情は一様に厳粛な面持ちで、これらの残虐行為がかつて実際に発生したことをとても信じられないといった様子だった。(翻訳・編集/碧海)
七三一部隊元隊員証言記録
質問 山本 真(大分協和病院 医師)
回答 森下清人(元七三一部隊少年隊2期生)
インタビューは大分協和病院において91年9月に行われた
<少年隊に入隊>
これからはね、森下さんが見たこと、体験したことを一つ一つ描いていっていただけたらなと思うんですよね。できたら今日は七三一部隊に入隊するまでのことを、その少年隊にはいるまでのところからお聞きしたいんですが。まず生れはどこになるんですか?
生れは私は野津原。大分県の野津原(現 大分郡野津原町 大分市の西隣りに位置)。
ああ野津原ね。小学校は?
大分の金池小学校。
いつ七三一に入ることになったんですか?
昭和17年。そのころは若者は職業といったらやはり兵士、それか満蒙開拓団か軍属かかぎられたところです。昭和17年の3月29日が、今の王子中学あそこが大分高等小学校、そこを卒業した。それで職業安定所の馬場静夫というのがその当時の所長で私とこの遠縁だったんです。どこにいこうか開拓団にいこうかといって悩んでいたんです。
長男さんではなかったんですね?
長男です。6人兄弟やけどあとは女ばっかし。家をつごうだとかは非常時だから毛頭なかった。親父も勤め人でしたし。市役所の土木課に出てましたから。それで3月26日に卒業して、馬場さんからいいところがあるから行くかといわれて、どこだといったら満州だというので、その晩考えて、晩飯のときに親父に満州いくけんなといったら、こめえときから悪かったもんだから、お前が行くならどこでん行けいうてこうきた。それで次の日に門司にいって。
すぐ次の日に。満州のどこにいくとかいうことは判らなくて、軍属ということだけで。軍属というのが僕はよくわからないんですが、兵隊じゃないんですね?
兵隊じゃない。軍隊に属するんですね。給料は軍隊からでるんですね。
階級はないんですね?
階級はあります。4段階くらいに分れますね。ええと下から庸員、雇員、判任官、高等官。高等官いうのは佐官級です。少年隊は庸員になります。
そういうことで行かれて、すぐ満州に渡ったんですか?
下関で各方面から来るのを2日待った。滝沢という班長が迎えに来た。それから舟にのって釜山にいった。これが揺れて揺れて。皆吐いとりましたなあ。船倉なんですよ。それでエンジンいうんですか、スクリューいうんですか、あの音がうるそうてねえ、私も気分悪くなりました。それから釜山からは汽車にのって。確か夜でした。
その当時何歳?
14歳ですね。高等小学校卒業した時だから。ちょっと3,40人、九州ばかりで。途中新京によって食事をして。関東軍の兵舎みたいなとこでした。
http://www3.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm
企画展が始まってから、関心を持つ多くの韓国人が参観に訪れている。展示では、日本の関東軍が中国侵略期間に現地で行った衝撃的な人体実験に関する実物の資料を公開。生体実験に使用された手術用のペンチや鉄製ケージ、細菌培養箱、細菌兵器、防毒マスクなどを展示して、731部隊が現地で行った人体実験などの残虐な様子を再現した。
参観に訪れた韓国の人々が展示を眺める時の表情は一様に厳粛な面持ちで、これらの残虐行為がかつて実際に発生したことをとても信じられないといった様子だった。(翻訳・編集/碧海)
七三一部隊元隊員証言記録
質問 山本 真(大分協和病院 医師)
回答 森下清人(元七三一部隊少年隊2期生)
インタビューは大分協和病院において91年9月に行われた
<少年隊に入隊>
これからはね、森下さんが見たこと、体験したことを一つ一つ描いていっていただけたらなと思うんですよね。できたら今日は七三一部隊に入隊するまでのことを、その少年隊にはいるまでのところからお聞きしたいんですが。まず生れはどこになるんですか?
生れは私は野津原。大分県の野津原(現 大分郡野津原町 大分市の西隣りに位置)。
ああ野津原ね。小学校は?
大分の金池小学校。
いつ七三一に入ることになったんですか?
昭和17年。そのころは若者は職業といったらやはり兵士、それか満蒙開拓団か軍属かかぎられたところです。昭和17年の3月29日が、今の王子中学あそこが大分高等小学校、そこを卒業した。それで職業安定所の馬場静夫というのがその当時の所長で私とこの遠縁だったんです。どこにいこうか開拓団にいこうかといって悩んでいたんです。
長男さんではなかったんですね?
長男です。6人兄弟やけどあとは女ばっかし。家をつごうだとかは非常時だから毛頭なかった。親父も勤め人でしたし。市役所の土木課に出てましたから。それで3月26日に卒業して、馬場さんからいいところがあるから行くかといわれて、どこだといったら満州だというので、その晩考えて、晩飯のときに親父に満州いくけんなといったら、こめえときから悪かったもんだから、お前が行くならどこでん行けいうてこうきた。それで次の日に門司にいって。
すぐ次の日に。満州のどこにいくとかいうことは判らなくて、軍属ということだけで。軍属というのが僕はよくわからないんですが、兵隊じゃないんですね?
兵隊じゃない。軍隊に属するんですね。給料は軍隊からでるんですね。
階級はないんですね?
階級はあります。4段階くらいに分れますね。ええと下から庸員、雇員、判任官、高等官。高等官いうのは佐官級です。少年隊は庸員になります。
そういうことで行かれて、すぐ満州に渡ったんですか?
下関で各方面から来るのを2日待った。滝沢という班長が迎えに来た。それから舟にのって釜山にいった。これが揺れて揺れて。皆吐いとりましたなあ。船倉なんですよ。それでエンジンいうんですか、スクリューいうんですか、あの音がうるそうてねえ、私も気分悪くなりました。それから釜山からは汽車にのって。確か夜でした。
その当時何歳?
14歳ですね。高等小学校卒業した時だから。ちょっと3,40人、九州ばかりで。途中新京によって食事をして。関東軍の兵舎みたいなとこでした。
http://www3.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm