お役立ち情報ブログ

日々の生活やビジネスにおいて役に立ちそうな情報を収集、公開しています。

「731部隊細菌戦」の特別企画展が韓国で初の開催、人体実験の様子を生々しく再現―中国メディア

2013年10月16日 07時58分35秒 | 歴史問題
2013年10月14日、韓国・天安の独立記念館ではこのほど、「日本731部隊細菌戦」の特別企画展が始まった。企画展は10日から今月末までの予定で、731部隊に関する展覧会が韓国で開かれるのは初めて。人民網が伝えた。

企画展が始まってから、関心を持つ多くの韓国人が参観に訪れている。展示では、日本の関東軍が中国侵略期間に現地で行った衝撃的な人体実験に関する実物の資料を公開。生体実験に使用された手術用のペンチや鉄製ケージ、細菌培養箱、細菌兵器、防毒マスクなどを展示して、731部隊が現地で行った人体実験などの残虐な様子を再現した。

参観に訪れた韓国の人々が展示を眺める時の表情は一様に厳粛な面持ちで、これらの残虐行為がかつて実際に発生したことをとても信じられないといった様子だった。(翻訳・編集/碧海)

七三一部隊元隊員証言記録


   質問      山本 真(大分協和病院 医師)
   回答      森下清人(元七三一部隊少年隊2期生)

インタビューは大分協和病院において91年9月に行われた


<少年隊に入隊>

これからはね、森下さんが見たこと、体験したことを一つ一つ描いていっていただけたらなと思うんですよね。できたら今日は七三一部隊に入隊するまでのことを、その少年隊にはいるまでのところからお聞きしたいんですが。まず生れはどこになるんですか?

生れは私は野津原。大分県の野津原(現 大分郡野津原町 大分市の西隣りに位置)。

ああ野津原ね。小学校は?

大分の金池小学校。

いつ七三一に入ることになったんですか?

昭和17年。そのころは若者は職業といったらやはり兵士、それか満蒙開拓団か軍属かかぎられたところです。昭和17年の3月29日が、今の王子中学あそこが大分高等小学校、そこを卒業した。それで職業安定所の馬場静夫というのがその当時の所長で私とこの遠縁だったんです。どこにいこうか開拓団にいこうかといって悩んでいたんです。

長男さんではなかったんですね?

長男です。6人兄弟やけどあとは女ばっかし。家をつごうだとかは非常時だから毛頭なかった。親父も勤め人でしたし。市役所の土木課に出てましたから。それで3月26日に卒業して、馬場さんからいいところがあるから行くかといわれて、どこだといったら満州だというので、その晩考えて、晩飯のときに親父に満州いくけんなといったら、こめえときから悪かったもんだから、お前が行くならどこでん行けいうてこうきた。それで次の日に門司にいって。

すぐ次の日に。満州のどこにいくとかいうことは判らなくて、軍属ということだけで。軍属というのが僕はよくわからないんですが、兵隊じゃないんですね?

兵隊じゃない。軍隊に属するんですね。給料は軍隊からでるんですね。

階級はないんですね?

階級はあります。4段階くらいに分れますね。ええと下から庸員、雇員、判任官、高等官。高等官いうのは佐官級です。少年隊は庸員になります。

そういうことで行かれて、すぐ満州に渡ったんですか?

下関で各方面から来るのを2日待った。滝沢という班長が迎えに来た。それから舟にのって釜山にいった。これが揺れて揺れて。皆吐いとりましたなあ。船倉なんですよ。それでエンジンいうんですか、スクリューいうんですか、あの音がうるそうてねえ、私も気分悪くなりました。それから釜山からは汽車にのって。確か夜でした。

その当時何歳?

14歳ですね。高等小学校卒業した時だから。ちょっと3,40人、九州ばかりで。途中新京によって食事をして。関東軍の兵舎みたいなとこでした。

http://www3.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国人強制連行の「軍艦島」、日本政府が世界文化遺産に推薦か=悲惨な史実をどう扱うか?―韓国紙

2013年09月18日 07時15分33秒 | 歴史問題
2013年9月16日、韓国紙・朝鮮日報によると、日本政府はかつて多くの韓国人を強制連行し労働に従事させた代表的な施設を、「明治日本の産業革命遺産、九州・山口と関連地域」として、世界文化遺産へ推薦する方針を固めた。中国メディア・人民網が伝えた。

2015年の世界文化遺産登録を目指して推薦するこれらの遺産には、福岡県の八幡製鉄所や長崎県の長崎造船所、「軍艦島」と呼ばれる長崎県の端島炭鉱跡など28カ所が含まれている。これらの施設には、幕末~明治期の急速な発展を果たした重工業の歴史を示すうえで世界遺産に登録する価値があると日本政府は判断。17日にも正式に発表するという。

だが、かつて韓国人がこれらの施設に強制連行され、過酷な長時間労働や賃金不払いの憂き目に遭っただけでなく、多くの人が命を落とした。この悲惨な事実に、日本は目を背けている。長崎造船所には第2次大戦中に約4700人の韓国人が徴用され、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾で多くが命を落とした。また、端島炭鉱には1944~45年にかけて約800人の韓国人が強制的に連行され、このうち122人が炭鉱事故などで死亡した。

日本政府は今回の世界遺産登録申請に当たり、こうした事実をどう扱っていくのだろうか?また、日本のメディアも関連報道のなかで、こうした史実については全く言及していない。(翻訳・編集/本郷)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「朝鮮人はランクが下なのか」朝鮮学校生徒の呟きに透ける、蔑まれる“在日”の厳しさ

2013年09月15日 07時27分56秒 | 歴史問題
 ドキュメンタリー番組を日々ウォッチし続けている映画監督・松江哲明氏が、ドキュメンタリー作家の視点で“裏読み”レビューします。

【今回の番組】

 9月10日放送『地方発ドキュメンタリー ~いま、“在日”として生きる 大阪・朝鮮学校の1年~』(NHK)

 ここ数年で「在日」が蔑む言葉として使われるようになったと思う。

 気に食わない意見には「お前、在日だろう」とバカやアホといった単語と同じような意図で使われる。そして「在日」の後には、韓国人、朝鮮人という単語が省略されている。アメリカ、中国ではなくコリアンが、なぜここまで嫌悪されるようになったのか。

 北朝鮮の政策や韓流ブームに対する反感、いろいろ挙げられるだろうが、僕には「在日」という言葉が、そのように使われてしまうことに疑問を感じる。外国人として日本に存在することが、なぜ許されないのだろうか。さまざまな事情を抱えて生きることが認められない思想に、いま社会で生きることの窮屈さを想像する。

 『いま、“在日”として生きる~大阪・朝鮮学校の1年~』は「在日」という言葉そのものと向き合うことから始まったドキュメンタリーだと思った。

 2012年の4月からカメラは回る。舞台は中大阪朝鮮初級学校。番組は約1年にわたって、50人の生徒と教師の生活を追っている。戦後、在日コリアンが母国の文化や言葉を教えるためにつくった学校だが、当時とは大きく様子が変わっている。

 各教室に飾られていた北の将軍様の肖像画は、今はもうない。代わりに校舎の入り口に、韓国の大統領と北朝鮮の指導者が握手をする写真が飾られている。

 この日の勉強は、朝鮮語を用いながら日本の選挙制度について教えていた。僕は、昔の朝鮮学校とはずいぶん変わったんだなと思った。金日成をたたえるような教育は、僕も時代錯誤だと思う。生徒たちのほとんどは三世・四世といった、日本で生まれ、これからも日本で暮らす子どもたちだ。日本で生きる教育が必要なのは当然だろう。一方で「自分が何者であるのか」というアイデンティティについては、しっかりと教える。このような社会状況だからこそ、特に。

 生徒のひとり、ソン・ウォンテ君は「朝鮮人はランクが下なのかな」と語る。今の日本で生活をしていて、そう考えてしまう気持ちはわかる。しかし、それは間違っている。人種の違いはあるが、それは優劣ではない。

 番組で紹介されたエピソードのひとつに、日本の生徒との交流会があった。帽子にボールを乗せて競争をするゲームで、ウォンテ君は他の子たちよりも圧倒的な力を発揮していた。その時、教室は彼を応援するコールでひとつになっていた。その様子こそが彼自身が架け橋となっていたことを証明していた。
●教師の給料も滞る経営状況
 この朝鮮学校は、30年以上続いていた大阪府と大阪市からの補助金も打ち切られてしまった。北朝鮮からの援助金は月額10万円程度。月1万5000円の授業料と寄付では、年間3500万円の運営費もままならない。教師の給料も滞っている状態だ。それでも学校を続けるのは、生徒たちに民族的な素養を身につけさせるためだ。

 建設から40年以上たつ校舎を修理する予算もない。「朝パッと目が覚めたら学校がなくなっているんじゃないか」と語るオ・リファ先生は、街へ出て寄付を求めるビラを配る。だが、受け取る人はほとんどいない。オ先生は「関心がないのと、もらったらダメという雰囲気もあるんでしょうね」と語る。

 その後、カメラは罵声を浴びせる男性の姿を捉える。

「こら、かかってこいや、ふざけんな。ここはニッポンや。朝鮮、朝鮮言うなら朝鮮に帰れよ」

と声を荒らげる。

 通常、テレビのドキュメンタリーでは、次のシーンへ展開する際にまとめのようなコメントで映像の補足をするが、この映像に関しては何も語られず、フェイドアウトで処理するだけだった。テレビらしからぬ手法が、より印象を強く残すことになったが、僕は、こんな光景が取材中日常茶飯事だったのではないか、と想像させられた。

 「僕は何か悪いことをしたのでしょうか」と聞く生徒たちが、日本人に壁をつくってしまうことを、オ先生は懸念している。

 しかし、そんな心配を無視するかのように12月、北朝鮮のミサイルが発射された。さらに地下核実験の実施。このようなニュースが流れるたびに、教師たちは生徒の登下校に同行する。ウォンテ君は、修学旅行で訪れた広島の原爆ドームを見た感想をこう語る。

「原爆を持たないからこそ、平和な世界だと思う。核はいらない。話し合って解決したらいいのに」

 子どもの視点は、まっすぐであるがゆえに鋭い。

 卒業式で先生は「みなさんは、かけがえのない存在です。社会の状況は厳しいですが、一人ひとり黄金のような宝物です」と伝えていた。未来を見据えた、強い言葉だと思う。

 そしてその想いに応えるかのようなメッセージが、番組の最後に紹介される。学校のことを知ってほしい、と続けてきた一般公開授業に訪れた日本人が、黒板にメッセージを残していたのだ。

「仲良く助け合おうね」

「共に生きていく道を考えよう」

 僕は、今こそ朝鮮学校が、本来の意味での民族的素養を育てることの大切さと直面していると思う。そしてマイノリティは、社会を映す鏡のような役割も担っている、と改めて気付かされた。「かつてない厳しさ」だからこそ。
(文=松江哲明/映画監督)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

侵略戦争

2013年08月16日 15時52分03秒 | 歴史問題
http://www.youtube.com/watch?v=lF3sVZDszRE

http://www.youtube.com/watch?v=XZafS-37Uxc
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元日本軍兵士 木に括りつけた中国人を銃剣で刺したと明かす

2013年08月13日 10時07分18秒 | 歴史問題
 戦後生まれが1億人を超え、総人口の8割近くに達している。第二次世界大戦終了から68年。を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今こそ元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみよう。ここでは元陸軍第62師団独立混成第4旅団独立歩兵第13大隊兵士の近藤一氏(93)の証言を紹介する。

 * * *
〈近藤氏は大正9年生まれ。昭和15年12月、20歳で徴兵。中国に送られ、山西省遼県(現・左権県)の陸軍第62師団独立混成第4旅団第13大隊に歩兵として配属。昭和19年8月沖縄に移り、20年4月~6月の激戦を経験。〉

 中国に着任して最初の4か月は現地で初年兵教育を受けた。今にして思えば、この現地教育は「人を殺す人間になるための教育」だった。

 ある時、木の幹に括りつけた中国人2人の前で下士官が「刺殺訓練をする」と言った。私たち初年兵(約70人)は彼らから30メートルほど離れて二列縦隊で待機。「突けっ」という号令で、先頭の2人が銃剣を装着した三八式歩兵銃を抱えて走り、相手の左胸に突き刺した。その後も順番に繰り返し、7~8番目だった私は、すでにぐったりとしていた中国人を刺した。思っていたより軟らかい感触だったのを覚えている。

 また別の日、手足を縛られ座らされた中国人を前にし、下士官が中国製の青竜刀を手に「今日は首切りを見せる」と言った。青竜刀を振り下ろすとスパッと切れた首が地面をコロコロと2~3メートル転がった。人の首を斬るのは簡単だと感じた。「ひどい、残酷だ」などとは思わなかった。

●取材・構成/池田道大(フリーライター)

※SAPIO2013年9月号
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする