2015年2月6日、仏メディアRFAは記事「731部隊から救出されて70年、いまだ癒えぬ傷」を掲載した。
731部隊は旧日本軍の研究機関。生物兵器の開発や人体実験など数々のおぞましい行為を手がけていたことで知られている。部隊の拠点は史跡として残されているが、ナチスの強制収容所のようなおぞましさに満ちている。中国メディアの報道では少なくとも3000人が死亡したというが、日本は731部隊の暴行について正式に認めてはいない。
「血債(人民を殺害した罪)は必ずやあがなってもらう」と話すのが李鳳琴(リー・フォンチン)さん。父は1941年に行方不明となった。その行方を探し続けたが、50年以上も過ぎた後になって731部隊に殺害されたことが分かったという。「長年父を探し続けた、その苦しみは筆舌に尽くしがたいものです」「731部隊は木材工場に偽装されていました。捕まった中国人は“マルタ”と呼ばれ、まるで木材のように扱われたのです」と怒りを露わにした。終戦から70年、731部隊が残した傷跡はいまだ癒えていない。(翻訳・編集/増田聡太郎)
三一部隊元隊員証言記録
質問 山本 真(大分協和病院 医師)
回答 森下清人(元七三一部隊少年隊2期生)
インタビューは大分協和病院において91年9月に行われた
<少年隊に入隊>
これからはね、森下さんが見たこと、体験したことを一つ一つ描いていっていただけたらなと思うんですよね。できたら今日は七三一部隊に入隊するまでのことを、その少年隊にはいるまでのところからお聞きしたいんですが。まず生れはどこになるんですか?
生れは私は野津原。大分県の野津原(現 大分郡野津原町 大分市の西隣りに位置)。
ああ野津原ね。小学校は?
大分の金池小学校。
いつ七三一に入ることになったんですか?
昭和17年。そのころは若者は職業といったらやはり兵士、それか満蒙開拓団か軍属かかぎられたところです。昭和17年の3月29日が、今の王子中学あそこが大分高等小学校、そこを卒業した。それで職業安定所の馬場静夫というのがその当時の所長で私とこの遠縁だったんです。どこにいこうか開拓団にいこうかといって悩んでいたんです。
長男さんではなかったんですね?
長男です。6人兄弟やけどあとは女ばっかし。家をつごうだとかは非常時だから毛頭なかった。親父も勤め人でしたし。市役所の土木課に出てましたから。それで3月26日に卒業して、馬場さんからいいところがあるから行くかといわれて、どこだといったら満州だというので、その晩考えて、晩飯のときに親父に満州いくけんなといったら、こめえときから悪かったもんだから、お前が行くならどこでん行けいうてこうきた。それで次の日に門司にいって。
すぐ次の日に。満州のどこにいくとかいうことは判らなくて、軍属ということだけで。軍属というのが僕はよくわからないんですが、兵隊じゃないんですね?
兵隊じゃない。軍隊に属するんですね。給料は軍隊からでるんですね。
階級はないんですね?
階級はあります。4段階くらいに分れますね。ええと下から庸員、雇員、判任官、高等官。高等官いうのは佐官級です。少年隊は庸員になります。
そういうことで行かれて、すぐ満州に渡ったんですか?
下関で各方面から来るのを2日待った。滝沢という班長が迎えに来た。それから舟にのって釜山にいった。これが揺れて揺れて。皆吐いとりましたなあ。船倉なんですよ。それでエンジンいうんですか、スクリューいうんですか、あの音がうるそうてねえ、私も気分悪くなりました。それから釜山からは汽車にのって。確か夜でした。
http://www3.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm
731部隊は旧日本軍の研究機関。生物兵器の開発や人体実験など数々のおぞましい行為を手がけていたことで知られている。部隊の拠点は史跡として残されているが、ナチスの強制収容所のようなおぞましさに満ちている。中国メディアの報道では少なくとも3000人が死亡したというが、日本は731部隊の暴行について正式に認めてはいない。
「血債(人民を殺害した罪)は必ずやあがなってもらう」と話すのが李鳳琴(リー・フォンチン)さん。父は1941年に行方不明となった。その行方を探し続けたが、50年以上も過ぎた後になって731部隊に殺害されたことが分かったという。「長年父を探し続けた、その苦しみは筆舌に尽くしがたいものです」「731部隊は木材工場に偽装されていました。捕まった中国人は“マルタ”と呼ばれ、まるで木材のように扱われたのです」と怒りを露わにした。終戦から70年、731部隊が残した傷跡はいまだ癒えていない。(翻訳・編集/増田聡太郎)
三一部隊元隊員証言記録
質問 山本 真(大分協和病院 医師)
回答 森下清人(元七三一部隊少年隊2期生)
インタビューは大分協和病院において91年9月に行われた
<少年隊に入隊>
これからはね、森下さんが見たこと、体験したことを一つ一つ描いていっていただけたらなと思うんですよね。できたら今日は七三一部隊に入隊するまでのことを、その少年隊にはいるまでのところからお聞きしたいんですが。まず生れはどこになるんですか?
生れは私は野津原。大分県の野津原(現 大分郡野津原町 大分市の西隣りに位置)。
ああ野津原ね。小学校は?
大分の金池小学校。
いつ七三一に入ることになったんですか?
昭和17年。そのころは若者は職業といったらやはり兵士、それか満蒙開拓団か軍属かかぎられたところです。昭和17年の3月29日が、今の王子中学あそこが大分高等小学校、そこを卒業した。それで職業安定所の馬場静夫というのがその当時の所長で私とこの遠縁だったんです。どこにいこうか開拓団にいこうかといって悩んでいたんです。
長男さんではなかったんですね?
長男です。6人兄弟やけどあとは女ばっかし。家をつごうだとかは非常時だから毛頭なかった。親父も勤め人でしたし。市役所の土木課に出てましたから。それで3月26日に卒業して、馬場さんからいいところがあるから行くかといわれて、どこだといったら満州だというので、その晩考えて、晩飯のときに親父に満州いくけんなといったら、こめえときから悪かったもんだから、お前が行くならどこでん行けいうてこうきた。それで次の日に門司にいって。
すぐ次の日に。満州のどこにいくとかいうことは判らなくて、軍属ということだけで。軍属というのが僕はよくわからないんですが、兵隊じゃないんですね?
兵隊じゃない。軍隊に属するんですね。給料は軍隊からでるんですね。
階級はないんですね?
階級はあります。4段階くらいに分れますね。ええと下から庸員、雇員、判任官、高等官。高等官いうのは佐官級です。少年隊は庸員になります。
そういうことで行かれて、すぐ満州に渡ったんですか?
下関で各方面から来るのを2日待った。滝沢という班長が迎えに来た。それから舟にのって釜山にいった。これが揺れて揺れて。皆吐いとりましたなあ。船倉なんですよ。それでエンジンいうんですか、スクリューいうんですか、あの音がうるそうてねえ、私も気分悪くなりました。それから釜山からは汽車にのって。確か夜でした。
http://www3.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm
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