心の風景 認知的体験

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今日の長い引用

2009-09-01 | わかりやすい表現
「リーダーフレンドリーネス」というのは、コンテンツの問題というよりは「呼吸」の問題である。
易しい話でも、書き手と読み手の呼吸が合わないと意味がわからない。
逆に、ややこしい話でも、呼吸が合えば、一気に読める。
「一気に読める」というのと「わかる」というのは次元が違う出来事である。
わからなくても読めればいいのである。
何の話かよくわからないのだが、するすると読めてしまうということはある。
意味はわからないが、フィジカルには「入る」。
ロックミュージックで、歌詞は聞き取れないが、サウンドには「乗れる」というのと似ている。
そのような読みの方がむしろ「深い」とも言える。(内田樹ブログより)

***
通常、これくらい長い引用は、許諾が必要
しかし、内田先生は、ブログの著作権フリー主張者(だっとと思う)ので
引用させていただいた
なお、
C&P活用の学生さんへ
だとしても、引用先の明記は必須
そのことはよくしっておいてください

●希望----心を元気にする習慣づくり④

2009-09-01 | ポジティブ心理学
希望----頭を元気にする習慣づくり④

「希望があれば艱難辛苦もなんのその」

● 「夜と霧」
 フランクル。知る人ぞ知るですが、希望をフランクルから語りはじめるのはやや深刻すぎるかもしれません。
 フランクルは、「夜と霧」(原題「強制収容所における1心理学者の体験」)を書き、生きる意味の喪失こそが精神病理の根本原因であるとして、実存分析を提唱しました。
 そのフランクルの言葉です。
 「希望は、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ」
 その過酷な境遇に思いをはせると、この言葉は、強烈です。
 そして、希望という言葉の意味の重さにおののきさえ感じてしまいます。

● 絶望から生まれる希望
 ポジティブ心理学者・セリグマンは、実は、動物を使った学習性無力感の研究でよく知られていました。
 学習性無力感の実験とは、まさにナチス強制収容所の動物版です。
 何をしても何も報酬が得られない(そこから脱出できない)状況に長く置かれると、何もしないことを学んでしまうのです。いわば、絶望すること(無力感)を学習してしまうのです。
 フランクルは、しかし、人間では、こうした限界状況に置かれてさえもなお、希望を失わない人の存在に注目しました。
 「生きる意味」の哲学的な吟味は、フランクルに任せるとして、こうした絶望的な状況でなお希望を失わないための条件って、どんなものかを少し考えてみました。それは、とりもなおさず、希望を持つとはどういうことかにつながるからです。

●希望を持つために
 まずは、現状の認識ですね。どこかに現状が変わる兆しを見つけることが必要です。
 状況が絶望的であればあるほど困難な作業になりますが、人の現状認識は、基本的に、その人に負うていますから、普段から、ポジティブな認識の習慣を付けておくことがおすすめです。
 これについては、別途、すでに取り上げましたので、そちらのほうを参照してください。
 
 現状認識にも関連しますが、希望をもつためには、孤立しないことです。
たとえば、冤罪事件。
 徹底した孤立に追い込み、絶望させ、自白となってしまいます。
これもまた、とても難しい作業になりますね。
 冤罪事件は極端です。
普通の生活の中では、ちょっとした努力で自分なりのつながりを維持することは可能です。
 たとえば、ITネットワークの活用です。
対人関係の苦手な人でも、多彩なつながりを作り出せます。また、作れるような環境があれこれ用意されています。
やや安易すぎるところもありますが、ないよりはましです。

 さらに、現状を少しでもみずからの力で変えることができる状況を作り出すことです。
 フランクルの体験記のなかに、みずからの空腹を我慢して、餓死寸前の人にパンを分け与える話があります。自分で状況を作り出すと言っても良いかもしれません。こうしたことがこうした状況でもできるかどうかは、過去の生き様、あるいは、強固な信念の有無が問われるところですね。
 養老孟司氏もこう言います。
 「毎日がつまらない人は、「このままでいい。世界はいつも同じだ」と決め付けている人なんです。」
 自分のささやかな試みは、ユビキタス・ドネーション。つまり「寄付あるところどこでもいつでも寄付を」の心がけです。
 なんでもいい。おおげさなことでなくともよい。
私利私欲でない小さな行為からはじめる良いと思います。
 
 そして時間的な展望です。
 いずれこの過酷な状況は、時間がくれば解消するはずとする確信です。
 戦争ならいずれ終わるはずとの確信。冤罪ならいずれは晴れるはずとする確信です。
 この「いずれ」が大事ですね。これが、希望を生み出す時間的な展望です。
 たぶん、これなら誰にもできそうな感じがしますね。少し考えてみる価値があるかもしれませんので、項をあらためて考えてみたいと思います。
 その前にちょっと気になるデータを一つ紹介しておきます。
 NHK放送文化研究所が5年ごとにおこなっている調査項目「あなたの目標が現在にあるのか、未来にあるか」の結果です。
 1973年と比較すると、2003年では、すべての年代で、「現在を志向する」が「未来を志向する」を上回っているのです。
 これでは、なんだか、希望の話を持ち出すのも気が引けてしまいます。

●自分史づくり
 回想は、現在から過去に向けての自分物語作りになります。それと頭の元気作りの話はすでにしました。
 これに対して、希望は、現在から未来に向けての自分物語作りになります。
なお、物語づくりとは、フランクルの言う「生きる意味」作りの一つといってよいかもしれません。
 回想と希望とが一貫したものになれば言うことなしなのですが、希望が問題になるのは、この一貫性が途切れしまったときです。 

青年期の心性の一つに、時間的展望の混乱があります。
 いまこの瞬間にすべてをかけてしまい、過去とも未来ともあえて断絶してしまうのです。極端になると、命さえかけてしまう心性です。
 普通はそこまではいきません。
時間的な展望の適度の混乱の中で、少しずつ過去、現在、未来の一貫性を作り出していきます。その過程で、未来をにらんだ希望が大事な役割を果たします。
こちらのほうは、心の世界での一貫性の途切れですが、もう一つ、絶望的は状況が自分の力の及ばない外的な力で作り出されてしまうこともあります。
政治的な力、経済的な力によるものがその代表的なものです。 
昨今の不況の嵐がどれほどの人々を絶望の淵に追いやったことか。
こうした力の負けないためには、時間的な展望、つまり、現在から過去を回想し、未来を予想してみる習慣を付けることではないかと思います。
実は、自分も、今回、この原稿を書きながら、この時間的な展望をかなり意識させられました。そして、なんとなく、人生の当面の総括ができたような感じがしています。
自分史作りのようなことを時折やってみるのが良いかもしれません。



ニュースが楽しい?

2009-09-01 | 心の体験的日記
押尾学
酒井法子
いけめん
成熟美女がここ2,3週間、ニュース画面に頻出
話題は暗いが、実に見ていて気持ちよい?あきない
お礼をいいたくなるほど

芸能人、とりわけ若い芸能人のストレス
ものすごいものがあると思う
酒が飲めれば、それで発散できる
くさなぎくんのように
でも、お酒が飲めない芸能人は薬に頼るのかなー



勝ち負け

2009-09-01 | 心の体験的日記
 日課というか、趣味というか、パソコンを立ち上げると、まずは、頭を元気にする
ことも兼ねて(言い訳!)、一人マージャンゲームをします。実に楽しいのですが、しかし、勝負なので負けるとくやしい。勝つとうれしい。しかも、いつも勝てるわけではありません。だいたい3,4回に一回くらいしか勝てません。
 ひそかに(別に誰が監視しているわけでもないのですが)、負けたままで仕事モードに入るのは気分が悪いので、勝つまではやると決めています。したがって、仕事モードに入るまでの30分もかかってしまうこともしばしばです。
 たった一人でやる勝負でも、これほど勝ち負けにこだわる自分にときどき笑ってしまいます。
@@@@
[
勝つためには全力を振り絞って,最後まであきらめずに相手を打ち負かす努力を続けるべきです. しかし,それは決して,相手の人格や存在まで否定することではありません. 勝負とは,それを通して相手を尊重することを学び,自分が成長するものです」(林成之「勝負脳の鍛え方」現代新書より)

プリンター復活

2009-09-01 | 心の体験的日記
夏休みで家で仕事が多い
プリントしたいことも多くなる
そこで、2年くらい動かなかったプリンターを動かす
ことをマニュアルにしたがってやってみた
2500円だすと、業者の人がやってくれる というチラシもきっかけ

動きました
ただ、インクがない
早速k-ズ電気で買ってきた<=それにしても、1200円はたかい!
ばっちり動く

前はいくらやってもだめだったのになー
IT機器は本当に気まぐれ

心身一如

2009-09-01 | 健康・スポーツ心理学
●実感としての心身一如
 「がんばっていい成績をあげよう」と思えば、そう思わないときより成績があがる。このとき、「成績をあげようとの思い」が心の問題、成績を挙げるためのさまざまな目にみせる努力が身体(行動)の問題。というように、ほとんどの場面において、心、と身体の一体「感」は、誰しもが抱いている実感であろう。  
 しかし、心と身体は、まったく別物。両者は、似ても似つかない原理原則で動いていることも確かで、古来から、この実感と現実とのズレが哲学者や心理学者の関心を引きつけてきた。

●  哲学者R.デカルト(1596-1650)はかつて、脳の中央部にある松果体に注目し、ここが心と身体が交流する場所ではないかとした。このように、心と身体とが交互作用をする場を設定する立場を交互作用説と呼ぶ。この説は、現在の神経心理学のドグマになっている。 

台風一過

2009-09-01 | 心の体験的日記
台風直撃らしい
ということで、大学は2時半で学生に帰宅を促すことに決定
夏休みでも部活や集中講義でかなりの学生がいることを知った

便乗して早退
ところが、待てど暮らせど、いっこうに来ない
結局、ちょぴりの雨と風だけ

ただ、一気に秋の気配