■東這田の屋台工芸■
ここで紹介するのは、兵庫県三木市東這田の屋台。平成十四年に新調されたが、それ以前の急屋台にスポットをあてていくことにする。
まずは、工芸面から見ていく。
といっても、画像はあまりないので分かりにくいのは、堪忍してください。
まず、現役の屋台にも使われているのが富山井波の名彫師・川原啓秀によるものである。江戸時代のものと比べて非常に彫が細かいようである。
そして、本体は、淡路の大工柏木福平によって組み立てられたという。さらに、水引幕や高欄掛などの縫い物もまた、淡路の梶内製となっている。また、その刺繍の内容も、海の国淡路に違わぬのか、高欄掛は壇ノ浦の合戦となっている。その中で、目をひくのが、写真にあげた一場面。平知盛が、壇ノ浦の合戦において、もはやこれまでと碇を持って自ら海に沈む場面である。やがて、怨霊となるのか、甲羅に人面を負う平家蟹がすでに現れている。めでたい祭りの場面においてこの場面はいかがなものかと思う人もいるかもしれない。だが、この東這田は、かつての三木城の主である別所長治公の堂塚を要する土地柄である。この長治公、秀吉の城攻めに際し、自らの命と引き換えに三木の民を救った英雄として語り継がれている。そして、この東這田では、その堂塚を今日まで大切に守り抜いてきているのである。このような敗者である長治公に対する心配りを考えると、東這田の高欄掛の場面に敗れ去る知盛を選ぶのも、東這田の人々の優しさのひとつと取れるのかもしれない。
とにもかくにも、東這田屋台の工芸面においては、淡路の色が強く出ていると見ることができるだろう。
*水引幕を鳳凰船に乗った神功皇后の三韓征伐としていましたが、誤りでした。東這田屋台関係者の皆さま、読者の方々に、間違えた情報の掲載のお詫び申し上げます。
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東這田の先代の高欄掛。壇ノ浦の合戦で碇を持って自ら海に沈む平知盛。やがて、怨霊となるのか、甲羅に人面を負う平家蟹がすでに現れている。 |
■東這田屋台の祭りのときの役割■
さて、東這田屋台が注目に値するのは、その工芸面だけではない。
東這田屋台の道中を担ぎ歩くときの掛け声と、東這田屋台が美坂神社の春祭りではたす役割は同じ三木市内においても大きな特徴を示している。
掛け声は、通常時は大宮八幡宮や岩壷神社の屋台の掛け声と共通した、「打ってくれー あーもひとっせ」による担ぎ上げと「よいやさ」、「伊勢音頭」を採用している。だが、時々、近隣の大宮八幡宮や岩壷神社の祭りで慣らした若者がこの祭りに参加したときに必ずと言っていいほど戸惑うことがある。今まで普通にあっていたはずの歌が合わない、聞いたことの無い歌詞が歌われているという経験を多くのものがしているだろう。
それは、「デカンショ節」が担ぎながら歌われているときである。デカンショ節は丹波の国篠山で、毎年8月16日に行われているデカンショ祭りで盆踊りの歌として歌われているものである。丹波の国ののんびりとした文化を、勇壮な屋台練にみごとに取り入れているこの練りに魅了される人も多い。
そして、もうひとつ珍しいのは、屋台がただ練りまわされるためのものとしてではなく、実用的な役割を担うということである。美坂神社の春祭の本当の意味でのメインは、神に対する獅子舞の奉納であるとされる。その獅子舞奉納の際、写真のように小さな太鼓と笛だけでお囃子が演奏されるわけではない。舞のボルテージが上がってくると、ヨーイヨ-イの掛け声とともに、屋台の大太鼓が打たれるのである。これは、淡路都筑で行われるようなのだんじり歌奉納のための移動式太鼓演奏台と同様の役割を東這田屋台が持っているといえる。それは、丹後半島に伝わる太鼓台(曳きだんじり型練り物)の役割とも共通する。
一方、この獅子舞はどうやら姫路方面から伝わったものであるという。
つまり、淡路都筑地方の移動式太鼓演奏台としての役割を、屋台に与えつつ姫路の獅子舞を奉納するという、よくよく見れば独特の屋台文化をこの美坂神社では形成しているということができるであろう。
工芸面では、富山井波、淡路を融合し、祭りにおいては、丹波篠山、姫路、淡路を融合している東這田屋台。この独自性が後世に伝わることを願わずにはいられない。
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2001-2007年頃ジオシティーズウェブページ「祭・太鼓台」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsuなど)に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。
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