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月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

101.灘のけんか祭おわりの風景(月刊「祭」2019.6月11号)

2019-06-13 06:49:06 | 屋台、だんじり、太鼓台関連


灘のけんか祭は、華やかな屋台の練り合わせ、見事な村練り、豪快な神輿合わせ、御旅山の山登りなどは広く知られています。

ですが、意外と見る機会が少ないのは、各屋台の終わる風景です。昨年(2018年)見ることができた、終わろうとする祭の風景を追っていきます。
残念ながら見ることができない屋台もありました。

●松原八幡神社秋祭り(灘のけんか祭)●
毎年 10月14、15日
15日は屋台宮入り後、松原の「テンテンツク(小屋台)」などとともに3基の神輿が渡御
山陽電車「白浜の宮駅」から徒歩10分くらい?

●妻鹿
今年の練り番です。
激しい神輿合わせの跡が伺えます。
神輿の中を見ることができるのも珍しいかもしれません。





●松原
御旅山や神社からは比較的近い松原。村内を担いで行くところを見ました。
祭が終わるのを惜しむかのように、たくさんの人が見守ります。



●東山、八家
まるで練り合わせをするかのように仲良く台車運行で帰っていました。


●宇佐崎
蔵入れの風景。
蔵の中には旧の屋台がありました。




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99.三木というブランド1―屋台、宋賢―(月刊「祭」2019.6月9号)

2019-06-11 20:42:26 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

 このブログも月刊「祭」となってとうとう100号の大台に近づいてきました。
 そこで、管理人の祭所「三木」がブランドとして扱われているのではないかというお話を99、100号でしていきたいと思います。
 

●屋台
 
祭巡りをしていると、自分はどこの祭に参加しているのかを聞かれることがよくあります。そのときに、三木の大宮八幡宮で祭をしていることを伝えると、「あの会談上るところ」と言ってもらえることがよくあります。昨今では、三木に刺繍業者や祭用品店などができて、祭のものを手に入れるために三木に訪れる人がさらに増えテイルと感じます。そして、この屋台は「三木で」修理した。この屋台は「三木から」買った。などの話を聞かせていただくことが増え、管理人も、三木人としては鼻が高い気分になります。


●宋賢
 金水で知られる志染の石室。父の市之辺王子のように皇位継承で殺されるのを恐れた億計、弘計の兄弟は身分を隠して牛飼いとして志染の岩室へ隠れ住みます。
やがて、酒の席に、来目部の小楯と言う者が郡県を巡検しているときに訪れます。そのときに、二人は身分をあかしました。二人はお互いに皇位を譲り合うも、名乗ることを提案した弟の弘計から皇位につき、顕宋帝となりました。その後、兄の億計が即位し仁賢帝となりました。
 19世紀成立の「播磨名所巡覧図絵」によると「共に百姓の憂苦を知りて、仁恵徳政の帝」だったと伝えます。

押部谷顕宋仁賢神社 
 身分をあかした王子をお迎えした故地と伝わります。

明石の王子
 
17世紀成立の「播磨鑑」によると、「王子権現之縁起は摂州中山寺に所持の由と中山寺」との関係を示しています。「又俗伝」として「二王子がしばらく隠れ住んだところ」としています。

 ところが19世紀になると、先述の「播磨名所巡覧図絵」の通り、二王子伝承のことが長く書かれて中山寺の伝承は姿を消します。つまり、徐々に二王子伝承を民衆がしじしていったことになるといえるでしょう。

宋賢神社
 
江戸時代になると二王子伝承の人気に伴い、明石や西神(当時は明石郡)では二王子にまつわる神社が作られていきました。
 明石市では中津、松蔭「新」田、明石清水、魚住、大久保など。神戸市では玉津などです。特に、「新」田ができたころに、祭神として選ばれるのが興味深いところです。


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東条町

2019-06-11 20:11:53 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

源頼政鵺退治

 

 

 

比叡山西塔 鬼若丸(弁慶の幼名)鯉退治

 

清盛日招き

 

桃山御伝

布引桜四段目 小櫻責め
 清盛によって鳥羽利休に幽閉された後白河法皇を救い出そうと、琵琶法師になりすました多田行綱が潜入。
腰元として入り込んだ娘小桜に内部を案内させるが、不審がられて小桜は捕らえられ責められる。琵琶を弾く行綱の手が動揺で乱れ、父であることを見破られ切りつけられる。(参考 国松君ブログ)

 

五条大橋(義経(伝・幼名牛若丸)と弁慶の戦い  義経の幼名が「牛若丸」となるのは、たしか室町時代の御伽草子などだったはず)
比叡山の弁慶が「鬼」若丸  鞍馬寺の義経が「牛」若丸。御所から見ると、鬼門の方角に比叡山、丑の方角に鞍馬寺がある。

大江山頼光木渡り (源氏の祖先、凡そ10世紀頃 源平盛衰記などにその名が残る。)

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98.倒された龍、守られた龍(月刊「祭」2019.6月8号)

2019-06-10 19:26:55 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
俵藤太秀郷が勢多川(滋賀県大津市・琵琶湖から流れ出る唯一の川。)の橋を渡っていると、二十丈(60メートル)ほどもある、見るも恐ろしい大蛇が橋に伏していた。普通の人なら見ただけで卒倒してしまうほどの大蛇であったが、秀郷は何事もないかのようにその蛇を踏んづけて乗り越え、橋を渡って去っていってしまった。
 それから間もなく、小さな男が秀郷の前に現れた。その男が言うには、
 「私はこの橋の下に住んで2000年あまりになります(龍神です)。たくさんの人を見てきましたが、あなたほど勇敢なものは見たことがありません。私は、今の住処の場所を争ってきたものがいまして、その者にずっと悩まされています。で、勇敢なあなたにその敵を討ち取っていただきたいのです。」
 秀郷は即座に承諾し、その男を案内人に立て、今来た道を帰っていきました。
 勢多川の橋につき、川の中に入っていきました。なんと、その底には、美しい龍宮城が建っていたのです。
 そこで、飲み食いの接待をうけているうちに、深夜になりました。そんな時、敵の襲来だと周囲があわただしくなりました。
 秀郷は肌身離さず持っている大きな弓と、矢を三本用意して、敵の襲来を今か今かと待っていました。
 夜半を過ぎた頃、雨風は一通りすぎて、雷鳴が絶え間なく轟いています。
 しばらくすると、比良山のほうから二列に並んだ二、三千程の燃える松明を要した島のような物が龍宮に近づいてきました。それをよく見ると二列の松明は、全て左右の手に持ったものでした。
 なんとこれは、百足(ムカデ)の化け物のようです。
 秀郷は、一本目の矢を化け物の眉間に射かけますが、その矢は刺さりません。
 二本目の矢を同じところに寸分たがわず射たのですが、それでもその身を貫くことが出来ません。
 そして、三本目、最後の矢です。秀郷は唾を吐きかけ、また、同じところを射ました。
 唾を吐きかけた効果なのか、同じところを三度も射た効果なのかは分かりませんが、その矢は眉間を射抜き喉まで到達しました。化け物の手の松明の火は消え、その体が倒れるすさまじい音が大地に響き渡りました。
 近づいて、見るとその化け物の正体はやはりムカデでした。
 龍神は喜び、ムカデ退治のお礼として、いろいろな褒美を秀郷に与えました。
 太刀に巻絹、鎧。そして、頭を結った米俵と赤銅の突き鐘。
 その米俵は中を取っても取っても、米はつきませんでした。そこから藤原秀郷の別名を「俵藤太」と呼ぶようになりました。
 そして、鐘は三井寺に納められました。


俵藤太のムカデ退治の様子です。これは、平将門征伐とも関連があることを書きました。

この物語は、屋台の意匠としても好まれています。姫路市英賀神社の山崎屋台の欄干男柱などに使われています。

●倒された龍
下の写真は「三木の祭―屋台・獅子舞・写真集」(三木市観光協会)2002に掲載された、三木市岩壺神社大塚屋台の先代水引幕も俵藤太の「龍」退治となっています。ですが、藤太が退治したのは「ムカデ」で龍は藤太に守られています。
これは、源満仲が住居を定めるために放った矢が九頭龍に当たったという川西市多田神社の伝承を描いたものと思われます。

この龍は兄弟で住んでいて、もう1匹は逃げてしまったといいます。

●俵藤太に守られた龍
一方の藤太が守った龍はどんな龍でしょうか。
瀬田唐橋の雲住寺には下の写真の絵が張られていました。



跋難陀大龍王と書かれています。ウィ●ペディアによると、跋難陀龍王は難陀龍王と兄弟とされており、難陀龍王の像容は頭に九匹の龍を擁するそうです。となると先述の九頭龍の兄弟もまた、跋難陀と言えるかもしれません。

同じ龍が、あるところでは弓で倒された伝承を、あるところでは弓で守られた伝承をモチーフにするのも祭の面白さと言えます。


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97.新居浜太鼓台-祭の名著紹介-(月刊「祭」2019.6月7号)

2019-06-09 13:32:24 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

●太鼓台の本格的な研究書
平成2年、太鼓台研究史に大きな一歩が刻まれます。編集、発行(新居浜市立図書館)「新居浜太鼓台」が発刊されました。非売品で兵庫県立図書館、吹田市立図書館には所蔵されています。

大きく写真編、研究編、資料編の3つに分かれています。

●写真編
・太鼓台一覧 川西地区8台、川東地区13台、上部地区9台、大生院地区2台
・太鼓台のある神社
・現在は運行していない自治会の太鼓台
・大島のだんじりなど
・新居浜市内太鼓台関係地図
・旧新居浜太鼓台
・写真で見る太鼓台の歴史
・各地の太鼓台
・各地の太鼓台写真地図
・明治の太鼓台と現在の太鼓台の比較
現在これだけのものが発刊されても大きな価値はありますが、発刊が凡そ30年前なので、今となってはわからなくなっていたかもしれない当時の様子がカラー写真で残っています(画像はコピーしたものなので白黒ですが、現物はカラーです)。


●研究編
・成願寺整「太鼓台のふるさと」
新聞記者として連載していた記事などをまとめたもの。全国の太鼓台を紹介しています。この記事を頼りに出かけたものです^_^ 屋台、だんじり、タイコなど様々な呼び名があるものを「太鼓台」と命名したのが著者だと聞きました。確かに、伝わりやすい名前です。
・尾﨑明男「新居浜太鼓台の周辺」
太鼓台の成り立ちや伝承までを調べています。学生時代の管理人に最も影響を与えた記事(論文)です。
貝塚の太鼓台の屋根の日本のふさ付き棒・マラが付いている様子は伊勢神宮外宮(吉野裕子氏の説によると北斗七星の象徴)の刺車紋に似ているといいます。

ほかにも屋台屋根内部に神の依り代となる籠が入っていることなど、太鼓台とは何なのかを膨大な事例から考えています。

●越智廉三「史料に見る新居浜太鼓台の歴史」
古文書に書かれた新居浜市内の祭礼についてつぶさに調査しています。江戸中期ころにおいてはだんじりやお船が隆盛しており、文政頃から神輿太鼓や太鼓の記述が見られることを紹介しています。また、嘉永二年(1849)の「餝物調べ」という記事についてまとめてあり、当時すでに水引幕で「龍宮海(りゅうぐうあま・あまのたまとり)」が使われていたことなどに言及しています。

●加地和夫「布団〆と飾幕」
新居浜太鼓台を特徴付ける豪華な刺繍について、四国や淡路の刺繍業者の歴史を紹介しています。多くが江戸末期から明治にかけての創業でした。そして市内の太鼓台の刺繍の題材を悉皆調査し、表にあらわしました。

●粂野徳義「新居浜「祭り太鼓」と「太鼓台」」
太鼓打としての寄稿。太鼓をいかに打つべきか、そうすることで、担ぎ手たちはどう変わるかを書いています。基本の打ち方の一つ、ドンドンドンは一二三と徐々に強く打つことでリズムが生まれると、三木のドンでドンとは少し違うようです。

●佐藤秀之「大島八幡宮秋季祭礼と夜宮」
大島の祭についての考察。古文献から大島の太鼓の形式を推定し、それが長崎のコッコデショと近いことがわかります。さらにコッコデショを担ぐ樺島町では伊予の舟衆からつたわったという伝承があり、大島では昔コッコデショを担いでいたという伝承もあることから、大島からコッコデショが伝わった可能性を指摘しています。


●資料編
・太鼓台あれこれ-太鼓台調査表より-
・『郷土研究』記載の太鼓台関係記事
・太鼓台関係史料
・太鼓台関係年表
先述の大島の太鼓の史料「(天保四年1833 大島中之町所蔵文書)太鼓入用帳」などが掲載されています。五色五段の布団であることがわかり、購入する色が上であるほど長いのが興味深いです。
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96.加西市の神輿文化(月刊「祭」2019.6月6号)

2019-06-08 16:51:46 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
加西市の祭文化といえば、龍王舞や鶏合わせ、黒の屋台に着物といった北条節句祭を思い浮かべる人が多いと思います。
もちろん管理人もそのうちの一人です。

ですが、それ以外にも加西市独特の風習を見ていきたいと思います。

●ヨイヤッサーヨイヤッサー ヨイヤサーサー
加西市泉町内の神社では子どもの神輿を担ぐ時は「ヤンチキドッコイショ」のない掛け声をかけるそうです。

●七つの神輿
加西市池上町の日吉神社では、現在は六基、元々は七基の神輿がでていました。滋賀県大津市坂本の日吉大社と同じく七基です。池上町の日吉神社で七基の神輿が出るのは、日吉の神は七神が基いることと、この地域が大工の村であることによるものと考えられます。

●神輿
この写真は加西市中野にある稲荷神社です。



本殿の彫刻も見事です。


十二支の彫刻



そして拝殿


何かがみえます。











棒が出ています。



神輿です。


このように拝殿に神輿を収蔵する箱を吊るしてそこに保存するという方法をとる神社が加西市にはいくつかありました。
これもまた、一つの知恵と言えるでしょう。
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95.魅せる彫刻師(月刊「祭」2019.6月5号)

2019-06-07 23:56:09 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●彫刻技術の復興、あるいは再認識
かつての高度経済成長に伴い、機械化がすすみ手づくりの良さは失われていき(忘れられ)つつありました。播州屋台においても電飾などはこのころに発展しますが、彫刻、大工、刺繍などに関しては、あまりかえりみられることはなかったようです。彫刻の人物が修理から帰ってくると石に変わっていても文句を言う人はいませんでした。
このような状況に警鐘を鳴らしたのが粕谷氏らの民間の研究者(未だにこの辺の研究は祭の些末な問題だなどと言う人もいて、プロはいません。)です。

インターネットの普及に伴い、祭関係者の間にも屋台製作技術への関心が高まり、それとともに、屋台製作技術を復旧(あるいは元々あったものを発揮)する業者が増えてきました。また、屋台・だんじり製作を志す若者も増えてきているように感じます。

●群雄割拠
業者を見る目が厳しくなり、なり手も増えてくると自然と業者の群雄割拠の時代となります。言い換えれば、買い手市場ともいえるでしょう。
かつては、技術がなくてもやっていけるじだいもあったのかもしれません。しかし、今となっては、優れた技術は「当たり前」であり、+αでその技術をどう魅せるかまでに神経を使っているような印象をうけます。
その典型的な例が彫刻だといえるでしょう。

●spirits of Japan さかい春の陣
そんな当たり前に腕がある彫刻師の一人である、前田暁彦氏(堺市出身)はご自身の会社木彫前田工房の10周年を記念して、大仙古墳の公園にて大きなイベントを今年の3月23、24日に開催しました。


そのイベントは、芸人さんの司会や市長さんらの挨拶などを含む盛大なものでした。
子どもの体験や、足場を組んで屋根の高さから見れるようにするなど、本物のだんじりの彫刻の技術を体験できるイベントでした。
キャッチコピーも「止まっているだんじり見たことありますか」と洗練されたコピーでした。池田市のチキンラーメンなど、地域のグルメも豊富で老若男女➕マニアが一日中楽しめるイベントとしても大成功といえるものでした。


●元々いい彫刻をいかに魅せるか
堺市大山公園でだんじりイベントで、彫刻師の前田暁彦氏の作品が展示されていました。



日本庭園という格好の舞台での展示です。


その中の家屋内で主だった展示がなされていました。黒い背景を用いるとより、彫刻のもつ立体感がわかりやすくなるようです。他社の写真集などでも使われているのを見たことがあります。



実はこの作品にもライトが当てられています。立体感を伝えるための工夫です。


●腕があり、イベント企画力もある製作業者
1 かつて、腕はないのに、イベント企画力や、営業力「のみ」で運営している業者が批判の対象となりました。
2 そこから、イベント企画力はなくとも腕のある業者に光が当たりました。
3 見る目が肥え、腕のある業者が増え、競争は、腕のある業者VS腕のある業者VS腕のある業者、、、となります。
4 結果、腕があり、イベント企画力もある業者さんが生まれてきているのが、現状のようです。






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94.真庭市のだんじり(月刊「祭」2019.6月4号)

2019-06-07 04:34:29 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
岡山県真庭市のだんじりを紹介します。

主にだんじり祭は勝山地区(10月19.20)と久世地区(10月24-26)、落合地区(10月21)で行われます。上の写真は勝山地区の玉雲宮です。

●真庭市の秋祭
元禄期ころより祭の原型ができ、だんじりが運行しはじめたのは幕末ころからのようです。
落合地区を除くと、五社の合同祭典を行なっており、これは祭の原型ができたころからのもののようです。勝山、久世においては基本一神社に一だんじり、神輿となっています。
では、だんじりそのものを見ていきましょう。写真は勝山の図書館横で常時展示されてあるものです。

●だんじりと言う名の太鼓台
家屋型の屋根の太鼓台に見えますが、かつぎ棒が低い?



●現在はだんじり型に
現在は車輪をとりつけだんじりになっています。

方向転換が容易な仕掛けになっています。

ぶつけ合いにも適した形です。


これは、荷馬車を改造したものが原形といわれています。
このような形になったのは、勝山では明治期、久世では大正期です。
真庭は林業が盛んで、木材の運搬に馬車を使っていました。真庭のだんじりは産業が祭に与える影響の大きさを感じさせる資料といえるかもしれません。

太鼓台からだんじりへの変化は岡山県津山市でも見られます。
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93.津山市のだんじり(月刊「祭」2019.6月3号)

2019-06-06 06:24:27 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
岡山県津山市の徳守神社のだんじりを紹介します。

徳守神社は天平期の創建と伝わり、天文期に火災にあったようです。その後、森氏が津山城創建に際し、鎮守の杜として慶長年間に現地に再興したそうです。

●徳守神社の秋祭
祭は上記の森氏の再興ののころから神輿の巡行があったそうです。さらに神輿は文化年間に新調されます。この時にはちょうどだんじりが作られ始めた頃と重なります。

●津山まつり同時期に市内ではだんじりが引かれる祭があるようです。

では、だんじりそのものを見ていきましょう。

●精巧な彫刻
文政から明治にかけての精巧な彫刻が見られます。



●だんじりと言う名の太鼓台
家屋型の屋根の太鼓台に見えます。


●戦後間も無くトラックをばらしたまのを台車としてとりつけました。ハンドルつきのだんじりになっています。赤丸がハンドルです。

足元はこんな感じです。

太鼓台からだんじりへの変化は岡山県真庭市でも見られます。それは後ほど紹介します。
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92.神社の塔(月刊「祭」2019.6月2号)

2019-06-05 22:19:08 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
今日からヘビー投稿にチャレンジします。

神仏集合の名残りで、仏塔が残る神社が県内にはいくつかあります。今回は神戸市北区六条八幡神社と養父市の名草神社の2つを概観します。

●神戸市北区六条八幡神社
右(東)側に三重塔が見えます。左(西)側は本殿で八幡神がいらっしゃいます。

由緒書きを見ると、六条八幡の六条は六条判官こと源為義からとったのがわかります。



檜皮葺きの屋根の三重塔。維持が大変かもしれません。室町期の建立と推定されるそうです。

八幡神は多くの場合阿弥陀仏と習合されます。西に阿弥陀を配し、東に塔を配置するのは、加西市北条の酒見寺にあり、東に多宝塔、西に常行堂を配置します。

●名草神社(元但馬妙見の上宮)↓

養父市と美方郡香美町の間にある「神社」です。但馬妙見の上宮、奥の院でした。明治期の神仏分離策により、妙見菩薩の本体は下宮であった日光院に移りました。↓


塔は江戸時代に出雲大社に材木を売った「仏縁」により、寛文年間(1661-1673)に塔を移築したと言います。



四方で塔を支えてくださっています。


現在の加古川市志方町の八幡神社も志方妙見と呼ばれていましたが、一説によるとこれも但馬より勧請したとつわります。

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