●刀剣乱舞の小鍛冶
三条小鍛冶宗近と呼ばれる永延時代(987-989)に活躍したと言われる刀鍛冶がいます。この刀鍛冶はゲーム刀剣乱舞の流行により、一躍有名になりました。刀剣乱舞は日本の名刀を擬人化したものが活躍するゲームだそうです。そして、三条小鍛冶の打った刀として登場するのが、現存する国宝の三日月宗近と、小狐丸です。この刀剣乱舞の聖地巡礼の対象となるのが、三条小鍛冶宗近が住んでいたといわれる粟田口です。
●粟田口の小狐丸製作伝承
一番上の写真の通り、京都市にある粟田神社も三条小鍛冶宗近の居住地近くの神社だけあり、刀剣乱舞の聖地となっています。刀剣乱舞に出てきた三日月宗近は現在も国宝として指定され、現存しています。ですが、小狐丸と呼ばれる刀は現存していません。
謡曲の「小鍛冶」は凡そこんな話です。
「宗近は一条帝(980-1011)より刀を打つことを命じられる。相槌を打つ者がいなくて困っていると童子が現れ、相槌をつとめる。無事刀ができて、童子が稲荷の化身だとわかったので、小狐丸とその刀を名付けた」
粟田口では、粟田神社の向かいに相槌稲荷神社があり、ここの稲荷明神が相槌を務めたと言われています。
神戸市北区の八多神社などにも小鍛冶の稲荷相槌伝承は残っています。
●摂関家の小狐 (参考: 石井倫子「《小鍛冶》の周辺」『日本女子大学紀要. 文学部52』(日本女子大学文学部)2003)
12世紀末から13世紀ころ成立の「保元物語」には
「少納言入道ハ、薄墨染メノ直垂ニ、小狐トイウ太刀ハキタリ。」
と少納言・藤原通憲は小狐と呼ばれる太刀を使っていたと伝わっています。
「殿暦」と呼ばれる藤原忠実の日記の元永元年(1118)十月二十六日条には
「野劔。九条殿。世人云。小狐。無文帯。」
と、当時氏長者であった藤原師長の刀のことを書いています。そして、その後の久我通方13世紀成立の「餝抄」を見ると、仁平三年(1153)藤原兼長、翌久寿元年(1154)に藤原師長が小狐を帯刀した記事が残っており、摂関家に伝来していた刀であることがわかります。
しかし、ここでは稲荷明神の相槌伝承はつたわっておらず、三条小鍛冶の名も現れていません。
●後鳥羽院の番鍛冶から永延の刀鍛冶へ(参考: 石井倫子「《小鍛冶》の周辺」『日本女子大学紀要. 文学部52』(日本女子大学文学部)2003)
三条小鍛冶宗近の名前が現れるのは14世紀になってからです。「新札往来」と呼ばれる貞次六年(1367)の名前が見られます。しかし、
「後鳥羽院(1180-1239)番鍛冶。-〈中略〉-三条小鍛冶。」
と稲荷の相槌伝承の小鍛冶が、一条帝(980-1011)の時代であるのと比べると随分時が経ち過ぎています。
応永三十年(1423)の奥書をもつ「観智院本銘尽」では
「一条院御宇 宗近 三条のこかちといふ 後とはいんの御つるきうきまるといふ太刀作、少納◻︎(言)入道しんせい(藤原通憲)のこきつね 同し作なり」
と、相槌稲荷伝承の設定に似たものとして語られています。
この時あたりから、三条小鍛冶が小狐の作者として認識され始め、相槌稲荷伝承譚ともいえる小鍛冶ができてきたのでしょう。
ここまでは、ゲーム刀剣乱舞のモチーフになった三条小鍛冶の刀剣伝承ができて行く過程をみました。次号では、三条小鍛冶伝承や小狐の伝承がどのように語られるのかを見ていきます。