月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

111.京都東側の三条小鍛冶-ゲーム刀剣乱舞の聖地から-(月刊「祭」2019.6月21号)

2019-06-20 19:10:35 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-


●刀剣乱舞の小鍛冶
三条小鍛冶宗近と呼ばれる永延時代(987-989)に活躍したと言われる刀鍛冶がいます。この刀鍛冶はゲーム刀剣乱舞の流行により、一躍有名になりました。刀剣乱舞は日本の名刀を擬人化したものが活躍するゲームだそうです。そして、三条小鍛冶の打った刀として登場するのが、現存する国宝の三日月宗近と、小狐丸です。この刀剣乱舞の聖地巡礼の対象となるのが、三条小鍛冶宗近が住んでいたといわれる粟田口です。

●粟田口の小狐丸製作伝承
一番上の写真の通り、京都市にある粟田神社も三条小鍛冶宗近の居住地近くの神社だけあり、刀剣乱舞の聖地となっています。刀剣乱舞に出てきた三日月宗近は現在も国宝として指定され、現存しています。ですが、小狐丸と呼ばれる刀は現存していません。

謡曲の「小鍛冶」は凡そこんな話です。
「宗近は一条帝(980-1011)より刀を打つことを命じられる。相槌を打つ者がいなくて困っていると童子が現れ、相槌をつとめる。無事刀ができて、童子が稲荷の化身だとわかったので、小狐丸とその刀を名付けた」
粟田口では、粟田神社の向かいに相槌稲荷神社があり、ここの稲荷明神が相槌を務めたと言われています。



神戸市北区の八多神社などにも小鍛冶の稲荷相槌伝承は残っています。

●摂関家の小狐 (参考: 石井倫子「《小鍛冶》の周辺」『日本女子大学紀要. 文学部52』(日本女子大学文学部)2003)

12世紀末から13世紀ころ成立の「保元物語」には
「少納言入道ハ、薄墨染メノ直垂ニ、小狐トイウ太刀ハキタリ。
少納言・藤原通憲は小狐と呼ばれる太刀を使っていたと伝わっています。

「殿暦」と呼ばれる藤原忠実の日記の元永元年(1118)十月二十六日条には
野劔。九条殿。世人云。小狐。無文帯。」
と、当時氏長者であった藤原師長の刀のことを書いています。そして、その後の久我通方13世紀成立の「餝抄」を見ると、仁平三年(1153)藤原兼長、翌久寿元年(1154)に藤原師長が小狐を帯刀した記事が残っており、摂関家に伝来していた刀であることがわかります。

しかし、ここでは稲荷明神の相槌伝承はつたわっておらず、三条小鍛冶の名も現れていません。

●後鳥羽院の番鍛冶から永延の刀鍛冶へ(参考: 石井倫子「《小鍛冶》の周辺」『日本女子大学紀要. 文学部52』(日本女子大学文学部)2003)
三条小鍛冶宗近の名前が現れるのは14世紀になってからです。「新札往来」と呼ばれる貞次六年(1367)の名前が見られます。しかし、
後鳥羽院(1180-1239)番鍛冶。-〈中略〉-三条小鍛冶。
と稲荷の相槌伝承の小鍛冶が、一条帝(980-1011)の時代であるのと比べると随分時が経ち過ぎています。
応永三十年(1423)の奥書をもつ「観智院本銘尽」では
「一条院御宇 宗近 三条のこかちといふ 後とはいんの御つるきうきまるといふ太刀作、少納◻︎(言)入道しんせい(藤原通憲)のこきつね 同し作なり」
と、相槌稲荷伝承の設定に似たものとして語られています。
この時あたりから、三条小鍛冶が小狐の作者として認識され始め、相槌稲荷伝承譚ともいえる小鍛冶ができてきたのでしょう。

ここまでは、ゲーム刀剣乱舞のモチーフになった三条小鍛冶の刀剣伝承ができて行く過程をみました。次号では、三条小鍛冶伝承や小狐の伝承がどのように語られるのかを見ていきます。




110.韓国の長方形座布団(月刊「祭」2019.6月20号)

2019-06-19 20:27:24 | コリア、外国

●信心深さ
韓国の寺院に行って感じるのはその信心の深さです。日本のように仏教徒が90%をこえることもなく、30%くらいですが、その信心は強いように感じます。
管理人は一人旅で異国に来た開放的な気分もあり、上着のアロハシャツを脱いでランニングシャツで寺域内を歩いていたところ、優しく諭されました。
その一方で、節約のために昨日のご飯の残りで作っていただいたおにぎりをたべようと、寺内の売店で海苔(約40円)だけ買うと、自家製のキムチやおにぎり、デザートの饅頭まで頂くということもありました。正直儲けよりいただいた食材のほうが高くついているはずなのに、、と優しい国民性に触れることもできました。



↓慶尚道海印寺 世界遺産の八萬大蔵経を、安置する経蔵


また、釜山市梵魚寺のように昼食を無料で提供していただける寺院もあります。寺院がセーフティネットになっているともいえるかもしれません。


●長方形の座布団
この写真を見てください。長方形の座布団です。

この形のものが韓国ではよく使われます。
その理由は
リンク先の55秒あたりのところに答えがあります。



信者の方達は立っては膝をつき、礼拝するという行為をなん度も繰り返します。なので、長方形の座布団だと膝あたりまでカバーできるので礼拝しやすいのです。

●韓国の宗教への帰属意識
韓国は檀家制度はなく、また、小単位の地域ごとに寺院があるというわけでもなさそうでした。なので、町内会の延長で寺の行事に参加するということもあまり見られませんでした。
なので、土俗的な仏教というよりも、より、教義に即したものを求めるという一面が日本よりも強いようです。よって、ひたすらに仏への帰依を表現する手段として何回も膝をついての礼拝が残るのでしょう。その習慣が長方形座布団を作ったといえそうです。

109.描かれた浮物刺繍-(月刊「祭」2019.6月19号)

2019-06-17 22:18:37 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●歌舞伎衣装と浮物刺繍
現在の屋台の工芸で大きな役割を果たしているのが浮物刺繍です。この技術がいつ頃からできたのかは分かりませんが、江戸末期には全国各地でし赤い羅紗生地に縫い付ける浮物刺繍が施された山車が出てきていたようです。

四国では歌舞伎衣装などでもこの浮き物刺繍が好んで使われていました。それらを調査してまとめたのが尾崎明男(ここでの尾関明氏と同一人物)氏らの観音寺太鼓台研究グループがおこなった「地歌舞伎衣装と太鼓台文化Ⅰ〜Ⅲ」2015、2016、2017です。


また淡路では人形浄瑠璃の衣装で使われています。洲本文化博物館大展示室で見ることができます。


●雀踊り人形
大阪では天神祭のお迎え人形などにも用いられていました。
それを再現したもの?現物?が大阪くらしの今昔館で展示されていました。

江之子島西町が元々所有していた雀踊りと呼ばれる演目の人形です。七月に雀の格好で踊るのでそう名がついたそうです。腰回りに獅子の浮き物刺繍が施されたものを巻いています。


この人形を記録した弘化三年(1846)の文章がのこっています。しかも絵入りです。


作ったのは柳文三という名の人形細工人です。


「衣装大略」が記してあり、「褌襠(まわし) モヘキ(も碧)ラシヤ(羅紗)シカミノヌイ(しがみ・獅噛みの縫い)金糸」とあります。

描かれた浮き物刺繍を見ましたが、もしかしたら同様のものが他にもあるかもしれません。




108.駅前ノスヽメ-岸和田地車観覧-(月刊「祭」2019.6月17号)

2019-06-17 21:37:54 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
昨年は約20年ぶりに岸和田のだんじりを見に行きました。といっても、あれからさらに岸和田地車の人気は高まったように思います。見にいったところで、結局いいところは何も見れないのではないかという懸念がありました。
ですが、それは杞憂でした。しかも駅近の究極、駅前はやり回し観覧のベストスポットでした。

●春木駅前
地車の数も少ないですが、ゆったりと見れました。








春木駅前やり回し

●岸和田駅前
カンカン場などのイメージから本当に見れないかなとおもったのですが、意外とゆっくりと見ることができました。


岸和田駅前やり回し

商店街を抜けてやり回し



107.上方山車文化(月刊「祭」2019.6月17号)

2019-06-17 16:15:53 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●上荷茶船仲間所有船形山車「天神丸」
(大阪くらしの今昔館発行のパンフレットより)
元禄年中(1688-1704)上荷茶船仲間(荷物運搬業の同業者の仲間)が所有していたものです。現在は大阪メトロ天神橋筋六丁目駅すぐの「大阪市くらしの今昔館」で展示されています。
寛政四年(1792)天満の大火で罹災しますが、彫刻や焼け残りの部品を保存していました。天満宮遷宮950年を祝う前年の嘉永四年(1851)、修復されますが、大正15年(1926)を最後に組み立てられることはありませんでした。平成十二年(2000)12月大阪市指定文化財となっています。






●精巧な工芸
彫刻や工芸は精巧そのものです。
飾り金具や木彫で装飾されています。







今の地車だと波にウサギなどのデザインで、下側についていることが多いのですが、ウサギが上部についています。



●構造
内ゴマですが、前後二輪ではなく、ローラー型の車輪が前後に一輪ずつついています。


普段は部品ごとにバラして保存していたようで、組み立てる時は、楔を打ってバラバラになるのをとめています。


元禄期という江戸時代前半に原型が作られており、当時隆盛した日光東照宮などに見られる「塗られた彫刻」がこの山車にも見られました。





106.若者たちの仕事(月刊「祭」2019.6月16号)

2019-06-17 09:10:24 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●宝
もう二十年も前の話です。管理人もまだ青年団所属の時に、入団したての後輩のことを「宝やなあ」と友人の父親が言いました。
20年を経た今、まさしくその通りだったということを感じています。そこで、屋台やだんじりで、青年団入って間もない若者の仕事はどんなことをするのかみていきます。

●雑用
はじめはやはりこれです。
三木市大宮八幡宮明石町青年団の場合は、入団間もない若者(高校生から20才くらい)は「弁当運び」をします。屋台運行から少しの間抜けて、境内の上で団員が食べる弁当を店から運びます。太鼓のバチを磨くのも彼らの仕事となります。
加東郡社町佐保神社下組では、屋台がとおれるように二俣の棒で電線をあげます。
加西市北条町住吉神社の多くの屋台では、台車の出し入れは若者の役割となります。


●盛り上げ
「元気」でいられること。これも若者の特権であるように思います。
上述明石町青年団では、入団間もないものは宮入り前に綱を取りに行き、それを大声で降ろして行くというのも一つの役割です。管理人の記憶ではここ十年ほどですが、その間で一つの「夢」となっていたようです。
北条町住吉神社のとある青年団では、入団間もないものの中から、声出しのリーダー役を決めるという試みもなされていました。
尼崎の貴船神社では前方で山合わせをする地車の後方に乗り、盛り上げます。

写真は前方。クリックすれば、後方の様子がわかります。写真と映像のだんじりは違うものかもしれません。



●宝への配慮
青年団入団当初は高校生であることが多く、未成年者への配慮が求められます。
先述の貴船神社の例だと、山合わせをする前方は非常に危険なものとなります。
また、北条町住吉神社の場合で台車の出し入れが、若者に任せることができるのはその台車の性能によるものです。二輪式や前輪が方向を固定されていないものを使用するなど、方向転換が容易なものを用いて横からすばやく取り付けることができます。さらに、手を詰めないための配慮で手すりが取り付けてあるのもかなりの割合でありました。
若者たちに活動を通して、社会性を育むとともに、安全に配慮する姿が各地の祭で見られました。

●とある他地域から入団した青年団員の話
ある時、とある春祭り地域の青年団一年目の若者の話を聞くことがありました。彼の地元はその春祭り地域ではなく別の過疎化地域で、そこでは秋祭の担い手として頑張っています。
その彼は、青年団員として楽しく一生懸命頑張れたようですが、「10%だけ満足できなかったことがあった」といっていました。
管理人は「もっと俺らにも雑用ばっかりじゃなくて、指揮者的な役割をさせてほしい」とか「もっとかっこいいことしたい」とかそんなことを言うのかなと予想していました。ですが、彼の言葉は全く予想とは違うものでした。
「今自分はこうして、A町の青年団として楽しく活動させてもらっている。だけど、自分の地元が人手不足で困っているんだし、本当なら同じように人手不足で困ってるB町でやるべきだったのではないか。」という内容のことを言いました。少なくとも管理人が彼くらいの年頃でにそこまで深く考えることは一切なく、最近の若い人に希望を持ってしまいます。
こんな若い人たちがいたら未来の日本に希望を持てる気がします。きっと、彼の後に続いて、人手不足のB町にも入団する若者が増えることと思います。我々おださんは宝の持ち腐れとならないように、律するところは律したいものです。



105.船に乗る観音(月刊「祭」2019.6月15号)

2019-06-16 23:53:04 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●當麻寺にて
その仏像を見たのは當麻寺にてが行われた日でした。




當麻寺の練り供養は、中将姫が御本尊の当麻曼荼羅を織り上げ、西国浄土に行けたという伝承に由来します。
観音菩薩たち二十五菩薩が中将姫を現世まで迎えに来て西国浄土に連れて行く様子を表しています。では観音菩薩はどこから来られるのでしょうか。

●石光寺の観音
石光寺は中将姫が曼荼羅を織るための糸を染めた所だと言われています。
そこに残るのが、この観音像です。


たしか18世紀ころの作品だったと記憶していますが、全くの見当違いもしれません。観音菩薩は補陀落と呼ばれるインド南部の山にあるといいます。インドなので日本からは船で渡る必要があり、補陀落渡海と呼ばれる帰らぬ行に臨む人もいました。

「でも、観音さんが船漕いで迎えに来てくれたら、補陀落渡海もせんですむ」
そんなことを思って作られたのかもしれません。

●もう一つの船乗り観音
さて、同様の作品はないかとネットサーフィンしたところ、出てきたのが宇治平等院内にある船乗り観音です。
こちらは座ってます。さすがに補陀落は遠いのでしょうか。
宇治平等院も、當麻寺も平安時代半ば頃から阿弥陀信仰、西国浄土信仰の聖地として知られつづけたところです。迎えにきてくれて、送ってくれるそんな観音さまのお姿を描きたくなるのも当然なのかもしれません。




104.船鉾の工芸(月刊「祭」2019.6月14号)

2019-06-16 11:06:14 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●播州人に人気!? 船鉾
祇園祭の話を播州の祭仲間とするとき、かなりの確率で話題に上るのが船鉾です。
応仁の乱前からその存在は他の山鉾などとともに文献で確認でき、桃山時代や江戸時代になるとその姿が絵に描かれるようになります。
修士論文(妄想拙文?)作成用に管理人が作成した絵図をもとに当時の姿を見てみましょう。
もとにした絵は「祇園御霊会細記」とよばれる宝暦七年(1757)の本です(リンク先は鈴鹿文庫所収の本書当該ページ)
そして現在はこんな感じです。


「祇園祭細見」の著者である松田元氏も指摘していますが入り組んだ屋根や、華やかな装飾が取り付けられています。

●播州屋台との共通点
播州人が船鉾に親近感を抱くのは、全体で「神功皇后の三韓遠征」を表しているからだけではありません。それは、梵天を思わせる、金塗りの鷁(げき)の彫刻や、両舷の水引幕の浮き物刺繍によるものでしょう。そこで、それぞれの作品の来歴を見ていきます。参考にしたのはやっぱり「祇園祭細見です。

●鷁

龍頭と一対にして水難避けのお守りとして貴人の船に用いる習慣があったそうです。
製作は宝暦十年(1760)で、長谷川若狭という者により作られたそうです。
ちなみに龍頭は三韓遠征から帰ってくる様子を表した、最近復興した凱旋船鉾の先端についています。↓


●浮き物刺繍
播州の祭マニア垂涎の作品が、下の両舷の水引幕でしょう。糸縒りによる微妙な色の変化に加え、他の祇園祭の作品よりも立体感に満ちた作品となっています。

作者は円山応挙門下であり船鉾町生まれの西村楠亭の下絵だそうです。天保七年(1836)の製作です。

●屋台文化の工芸が花開いた江戸末期
こうして見ると、屋台、太鼓台が広がり始めたころ、その工芸も花開きはじめたことが見て取れました。絹常が幕末に京都から小野へ移り住んだという伝承も納得できる気がします。
祇園祭の場合、どうしても舶来品に目が行きがちですが、日本の歴史や文化を考えるには、刺繍や彫刻をより細かく見る必要がありそうです。

103.韓国寺院の本堂・大雄殿仏と祭(月刊「祭」2019.6月13号)

2019-06-15 18:08:22 | コリア、外国
韓国の仏教寺院に行くと、その雰囲気が日本と非常に似ており、また日本でお馴染みの仏様がいらっしゃることに親近感を覚えます。
ですが、やはり、異なる言語で異なる政治体制の元=異なる文化の元育まれた信仰や寺院、そして祭は日本とは異なるものに発展していました。

●新羅や高句麗、高麗においては仏教は手厚く保護されてきました。ところが李氏朝鮮時代になると、儒教が国教となり廃仏策が吹き荒れました。

第3代 太宗 七年(1407) 宗派を7つ(曹渓宗・天台宗・摠南宗・華厳宗・慈恩宗・中神宗・始興宗)に統合します。

第4代 世宗 六年(1424)さらに7つの宗派を禅、教の2つに統合しました。
曹渓宗・天台宗・摠南宗→禅宗
華厳宗・慈恩宗・中神宗・始興宗→教宗

ちなみに世宗は訓民正音=ハングルを作った人物であり、朝鮮半島の人々にとっては文化的、精神的な拠り所となっています。

朝鮮の廃仏策の根拠となったのは、その迷信性でした。逆に言えば、寺院として政府の弾圧から生き残るためには、迷信性や御利益を求めるものより必要だったのは、その学問としての性質や、原理主義的な信仰だったと言えます。

●韓国の大雄殿仏・(本堂)
仏教の教理に従っての仏教は、伽藍配置にも忠実に現れてきます。例えば日本では観音菩薩や閻魔大王、そして神社においては護法のための善神が本堂仏(神)となります。韓国の寺院では最近では観音宗などという教団があるのですが、基本は如来が大雄殿にきます。しかも、「東方薬師」や「西国阿弥陀」なども大雄殿仏となることはほとんどありません。少なくとも管理人は見たことありません。

↑南原市実相寺、阿弥陀如来をまつる極楽殿

↑南原市実相寺、十王がいる冥府殿

大雄殿仏となるのは、教宗だと毘盧舎那仏(奈良の東大寺=大花厳寺でもまつられています。)、禅宗だと釈迦牟尼仏が多いようです。
釜山市 梵魚寺の大雄殿


南原市 実相寺の普光殿(本堂)

実相寺伽藍配置図


●韓国の法会
韓国の法会も盛大なものになります。地域で法会を盛り上げるというよりも、信者で盛り上げるという要素が強いように見えることが多いです。
近所で祭を盛り上げるというわけではないので、盛り上がったとしても、飲酒もなく日本の祭のような混沌としたものにはなかなかなりません。
そして、メインイベントは有名な僧による講話となります。





102.城下の屋台(月刊「祭」2019.6月12号)

2019-06-14 04:41:25 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
明石市岩屋神社は2016年に屋台を復活させました。7月のおしゃたか神事と呼ばれる淡路の岩屋神社からの神の来訪?召喚?をあらわす神事で有名な神社です。

7月の祭が海の祭だとすると、屋台の祭は神輿をとともに村内を練り歩く、陸の祭と言えます。
なんと氏子域は神戸市の高津も含まれているとのことです。











場内を担ぎました。