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わたしがこの映画でもっとも感動したのは、本浦親子が巡礼の途上で、ある神社の軒下にひそむシーンだ。彼らふたりが、親犬と子犬がじゃれ合うように、なにか、楽しそうですらある場面。
この思い出が、父親にとって数十年間「秀夫は元気でいるだろうか」と三木巡査に手紙を書きつづった強い思いの原点だったのだろう。世間からはじき飛ばされた存在であるが故に、激しくお互いを必要としたのだ。
しかし、息子の方はその過去を、宿命を音楽の中に封じ込め、「父親に一度会え」と求める善意の人間を排除すらしてしまう。このあたりの皮肉は効いている。泣いた泣いた。
丹波哲郎はその自伝で「絶対に完成しないと思っていた」と話すぐらいこの映画は幻の企画だった。ハンセン病をあつかったことで患者から抗議も受け、「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰は続いている。それを拒むものは、まだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、戦前に発病した本浦千代吉のような患者は日本中のどこにもいない」とのテロップを入れることで和解した経緯もある(Wikipediaより)。
それ以上に、狂気を感じるぐらいの画面の美しさはどうだろう。作者たちは、日本の四季の美しさを徹底して追い求め、そしてその影に偏狭な差別があった残酷さを描いて見せた(撮影は川又昂)。古い映画を観るときに不安になるのは、画面が劣化していることと、現在のドルビーサラウンドなどに慣れた耳には音響がひたすらしょぼく感じられることだが、イマジカが最新のデジタル技術を用いて、もう一方の主役である音楽も美しくブラッシュアップしてくれているのでご心配なく。
そして最後に、この映画で誰よりもすばらしく、歴史に残る演技を見せた加藤嘉にふれなくては。ハンセン病は指が落ちたり顔貌がゆがんでしまうことから差別を生んだ背景がある。そんなメイクをしながら、ひたすら息子を恋う父親の演技こそ「砂の器」を単なる大作の位置にとどめていない最大の要因だ。加藤嘉を観るだけでも金を払う価値はあった。イオンシネマよ、次は「飢餓海峡」をお願いします。
が家族の前でも一切話さなかったズーズー弁を伊勢参りと称して出かけた
先々で突然使いまくるという違和感が今もって納得できません。
そうだよなあ、その部分は不自然きわまりない。
TV版の巡査を誰がやったかは知らないけれど
その辺はやっぱり改善されていないんだろうか。
あの橋本忍も気づかなかったのかなあ。
そうなると「球形の荒野」あたりはNコロですか(笑)
にしても松本清張のタイトルのセンスはすごいっすね。
特に「ゼロの焦点」なんて、よく思いつくなあ。
文句たれながらも10回も特集してしまったぐらいですから(笑)
シビックだけどタイプRって感じ。
後ろについたら道をゆずります(笑)
にしても喜多郎をイメージして「砂の器」は……
そういえば確かに電子音楽の旗手でしたもんね原作では。
じゃあ坂本龍一か深町純……ありえねー。
前田米造さんや姫田真佐久さんのような。
それって機材の進化が影響しているのかもしれないけれど、
むしろ自己主張するカメラが敬遠されているのかと……
あ、木村大作というとてつもない例外を忘れてました(笑)