ドン・シーゲル監督 クリント・イーストウッド主演 (’71 米)
屋上のプールで若い女が泳いでいる。
遠く離れたビルの屋上から、狙撃手のスコープがその女をとらえる。
肩口から血が噴き出し、女は絶命する。狙撃手は逃走する。
ちょっとびっくりするぐらい背の高い、サングラスをかけた男(刑事)が、狙撃の現場へ大股で向かう。カメラは、あらゆるアングルからその男を追う。ビートのきいたジャズが流れている。男が、何かを見つける。薬莢。ボールペンを使って指紋がつかないように紙袋(ハリー・キャラハン、と名が書いてある)にその証拠品を入れる。もう一つ、男が見つける。狙撃手のメッセージ。自らを【スコルピオ】と名乗っている。
……開巻、ここまでを一気に見せる。何度観てもため息が出るほどうまい。ドン・シーゲルの演出、ブルース・サーティーズの撮影、ラロ・シフリンの音楽。いずれも最高。ほいでまたハリー・キャラハン役のクリント・イーストウッドのかっこよさったら!
中学生だった初見の時は、あまりの面白さにブッとんだ。グリーンハウスに併設された名画座シネサロン(「愛のコリーダ」の号参照)で観たのだが、ひんぱんに現れる修正のゴニョゴニョ(当時はポルノしかまともなボカシはかけていなかったように思う)にも異様に興奮した。若かったなあ。
で、21世紀になって、無粋な修正は消え、ヘアーまるだしで観たこともあって(笑)、再見でも興奮しまくった。やっぱり凄いわこれ。
見逃せないのは、オープニングの証拠品の扱い方に象徴されるように、警察無線がひたすらリアルであったり、ライトを消して現場に到着するパトカーとか、細かい捜査活動がしっかり描写されていること。ハリーのスーパーマンぶりを絵空事に見せない工夫が満載。
往時の字幕では、高瀬鎮夫という名人が“お不潔ハリー”という名訳をつけていた。その名の通り、結構お間抜けではあるが、とにかくハードに捜査を進めるハリーは、まるで観光案内のようにサンフランシスコの名所を巡り、マグナム44をぶっ放して犯人を始末していく。おかげでその時代らしく、暴力礼讃だとの上映反対デモまであったらしい。ま、わからんでも……
今回、作り手(イーストウッドを含めて)たちがダーティハリーに託した仕掛けが、大都会の不道徳を嘆かせる、一種の装置としての機能だと気づいた。乱れた性風俗、無能な政治家、正義が完遂できない組織としての警察……
そして結局、ラストではその装置にバッヂを捨てさせる。おー、実はものすごく道徳的な映画だったのだ。題名に反して、清潔な、大傑作。
飄々としながらも、内心では悪を(そして悪を放置している警察という存在を)憎悪し、憎悪しすぎるあたりがこの作品の妙味なので、うなずけないですなー。
わたしも実はイーストウッドのベストはこれじゃないかと思います。後年の彼の監督作は、あまりにも名作、ってあたりがねー。
双葉十三郎さん的な表現なら☆☆☆☆★★。大傑作だよ。
ドン・シーゲルらしく名作をめざしたわけじゃないのは明白。
でも、物語をつむぐってことにあれほど長けた人はなかなかいない。
そこに“役者としての”クリント・イーストウッドがからむんだから。
乱暴な話だけど、ミッション・インポッシブルの新作にもオレは
同じ匂いを。同時代の作品はなかなか評価されない。でも、
あれもいい映画だったなぁ。
実現できない企画だもんね。
むかし観た名作を、ふたたび映画館で観ることができるのは
一定程度の規模を誇る街の住人だけってのはさすがにさみしい。
同様に、映画館のデジタル化によって、午前十時がもう
やれないってのは、国に余裕がなくなってる証拠だな。
いや、デジタル化自体は賛成なんだよオレ。
フィルムは劣化すっじゃん!