この2月に出版した「お寺は何のためにあるのですか?」法蔵館 の中にも書かせていただいていることですが、
お経というのは、真理を覚られたお釈迦様が、私たち達を導いて、悩み、苦しみ、悲しみを超え、真理を悟らせよう、と説かれた仏法です。 お経は私たちへの説法です。
最初は、お釈迦様の国のインドの言葉だったのが、中国に伝わり、翻訳されて漢文となり、そのまま日本に伝わりました。
今でも漢文のまま読むので、お経が何やらあやしげな呪文に聞こえるのです。
お経をあげるのは、亡くなった方に聞かせるためでもなければ、病気を治すための不思議なパワーを期待して・・・でもありません。
私たちが、さとりの仏さまと向き合う(私のこころを問題にする)ために、つまり、自分で称えながら、自分の目で、自分の耳で、自分の心で「仏の心を聞く」ために、お経をあげるのだと私は味あわせていただいています。
諸行無常が真理なのに、自分だけその法則から外れていたいと願望し、普段、仏の心に手を合わせることもないのに、 自分が困った時だけ、自分の願望のために神・仏まで利用しようとする、そういう浅ましい自分の姿に気づかされた時、本当の意味で、お経を有り難く味わうことができるのだと思います。
宗門では、「お経は仏徳讃歎(仏さまの徳を讃える)ためにあげる」と教えられています。
お経というのは、真理を覚られたお釈迦様が、私たち達を導いて、悩み、苦しみ、悲しみを超え、真理を悟らせよう、と説かれた仏法です。 お経は私たちへの説法です。
最初は、お釈迦様の国のインドの言葉だったのが、中国に伝わり、翻訳されて漢文となり、そのまま日本に伝わりました。
今でも漢文のまま読むので、お経が何やらあやしげな呪文に聞こえるのです。
お経をあげるのは、亡くなった方に聞かせるためでもなければ、病気を治すための不思議なパワーを期待して・・・でもありません。
私たちが、さとりの仏さまと向き合う(私のこころを問題にする)ために、つまり、自分で称えながら、自分の目で、自分の耳で、自分の心で「仏の心を聞く」ために、お経をあげるのだと私は味あわせていただいています。
諸行無常が真理なのに、自分だけその法則から外れていたいと願望し、普段、仏の心に手を合わせることもないのに、 自分が困った時だけ、自分の願望のために神・仏まで利用しようとする、そういう浅ましい自分の姿に気づかされた時、本当の意味で、お経を有り難く味わうことができるのだと思います。
宗門では、「お経は仏徳讃歎(仏さまの徳を讃える)ためにあげる」と教えられています。