お寺のオバサンのひとりごと

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無我

2007年05月12日 | 仏教
 きょうは法専寺仏教壮年会の総会&懇親会でした。
 懇親会の折、I氏が「『生と死』も、自分がなす『善と悪』も本当に紙一重だと思う」と仰って、「まさにそれが仏教ですよ」と話したことでした。

 自分がなす「善悪」も紙一重。
 「水戸黄門」の登場人物のように「いい人」「悪い人」とはっきりは分類されないのが私。その場、その時の縁によって、何をしでかすかわからない・・・

 仏教では「無我」を説きます。
 みんな「自分がある」と思っている自分の「我」ですが、「諸行無常」が真理であるように、「我」も「無常」、つまり常ならず、移り変わる。
 固定的な「我」というものはない・・・ということです。

 じゃあ、今「自分」と思っているものは何か・・・というと、それは「仮我」。
 自分の身体と考え(精神)で仮に成り立っている我ということです。
 「仏教」のテキストによれば、「因縁がとければ、解体されるもの」と書かれています。

 ひろさちや氏の「仏教初歩」すずき出版 の中では、「預かっている『自分』」「『わたし』とは借りてきたもの」と表現されています。

 ーーーわたしは、「わたし」をほとけさまからお借りしているーーー

 p101 わたしたちみんな、それぞれ「自分」をほとけさまからお借りし、預かっています。だとすれば、わたしたちは、その「自分」を大事に使わねばなりません。(略) ほとけさまからお預かりしている命だから、粗末にしてはいけません。

 自殺はもちろん言うまでもありませんが、暴飲暴食もお預かりしている自分のいのちを大切にしてないこと・・・

 きょう、懇親会でS氏が「飲み過ぎ危険のメーターでも身体に表示されれば、用心するんだけど・・・自分ではわからんで、限度を越えてしまうもんね」

 そうです、何事も「わかっちゃいるけど、やめられない」
 
 お酒好きの方ならば、その場、その時の感情で楽しく、あるいはやけ酒で、身体(内臓)を酷使。

 仏さまから「お預かりしている命」といつも思っていれば、穏やかに大切に生きてゆけるのでしょうが、すぐ、忘れちゃうのが凡夫。
「無我」の境地なんて、遠~い、遠~い。  

 仏さま、ごめんなさ~い
 
 
コメント (2)
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