先日、聞かせていただいたことです。
仏教は、「私の心を問題」としています。
つまり、私の感受性の問題です。
よく、誤解されるのですが、浄土教は
この世は「穢土」だから、「浄土」に行って幸せになる・・・
この世は、ままならないから、あの世で自由に思い通りの生活をする・・・
という 現実逃避 を言っているのではありません
「浄土」は、どこかにある「理想の別世界」のことでなく、
私の心の世界のことです。
同じく「穢土」も、(私を棚上げして)この世(他人)が汚い
と言っているのではなく、
私の心の世界のことです。
「浄土」は、あらゆることに悩んだり、不幸を感じない世界(心の状態)
全てのものが楽しみで、全てがシアワセと感じとる心を 清浄
と言う
清浄とは、「我」という感受性がないこと
執着心、自分の都合がないこと
お釈迦様は、身体的苦痛や苦悩の「第1の矢」を受けても、「第2の矢」を受けられない(それをマイナスとされない)
それが 悟り
と聞かせていただきました。
むむむ・・・私には、ほど遠い「悟り」「浄土」であります。
仏教は、「私の心を問題」としています。
つまり、私の感受性の問題です。
よく、誤解されるのですが、浄土教は
この世は「穢土」だから、「浄土」に行って幸せになる・・・

この世は、ままならないから、あの世で自由に思い通りの生活をする・・・

という 現実逃避 を言っているのではありません

「浄土」は、どこかにある「理想の別世界」のことでなく、
私の心の世界のことです。
同じく「穢土」も、(私を棚上げして)この世(他人)が汚い


私の心の世界のことです。
「浄土」は、あらゆることに悩んだり、不幸を感じない世界(心の状態)
全てのものが楽しみで、全てがシアワセと感じとる心を 清浄

清浄とは、「我」という感受性がないこと

執着心、自分の都合がないこと

お釈迦様は、身体的苦痛や苦悩の「第1の矢」を受けても、「第2の矢」を受けられない(それをマイナスとされない)
それが 悟り

と聞かせていただきました。
むむむ・・・私には、ほど遠い「悟り」「浄土」であります。
