私が船でお客さんに保津峡谷案内を
する時に必ず聞くことがあります。
それは「角倉了以を知っていますか?」
というものです。
角倉了以(すみのくらりょうい)。
私の仕事である保津川下りの生みの親にして
江戸初期、海外貿易・河川改修などの事業に着手し
一世を風靡した豪商です。
元は室町幕府付きの医師の家柄で、祖父の代から
土倉を営み,巨大な高利貸資本を蓄積しました。
これを基盤として豊臣秀吉から朱印船貿易を
許可する朱印状を得て海外貿易で膨大な財を築く。
その後、徳川家康からも引き続き朱印船貿易の
許可を得て、幕府経済を支えた人物といわれます。
でも、どういう訳が歴史の表舞台に取り上げられた
こともなく、知名度はあまり浸透していないようです。
私が投げかけた質問に答えられるお客さんは
一隻に1~2人いればいいほうで、ほとんどの
お客さんがご存知ないようです。
その遺産で仕事をしている者としては
寂しい限りですが、何とかこの400周年を
契機として了以の功績にスポットを当てなくては
という使命感をひしひしと感じています。
了以が保津川開削に着手したのは、1606年。
徳川幕府の命を受け、丹波亀山藩(今の亀岡)と
嵯峨を結ぶ河川産業水路の開発にありました。
政治の中心が江戸に移り、衰退の一途を
辿っていた京都の経済復興と安定を目指し、
肥沃な農産地である丹波経済圏と京都経済圏を
船の水路によって結ぶことで「迅速に大量の物資を安全に」
輸送できる流通の大動脈開発を手がけたのです。
(保津川の開削風景が書かれた瑞泉寺縁起 写真提供・瑞泉寺)
さらに1614年には京都洛中鴨川横に「高瀬川」
を開削、下流に整備した伏見の港を経由し
淀川から大坂への物流輸送ルートの開発にも成功しました。
この事業により、丹波経済圏と京都経済圏さらに
大坂経済圏を川水路でつなぐことが可能となり、
海外、内の物流が活発化し、物価の安定、新規商売の
参入などで関西圏の経済の活性化が図られたという
歴史的にみても一大事業が生まれました。
まさに了以は物流の革命児でした。
この水運事業は明治時代の鉄道の普及とともに
姿を消す事になりましたが、その中で当時の姿を
そのままの形のまま今の世に残しているのは
私達の‘保津川下りのみ’なのです。
その意味からも来年の保津川開削記念は
亀岡や遊船だけの行事でなく、京都や大阪など
関西ゆかりの地域とともに祝っていきたい
と私は個人は思っていますが・・・・
400年の歴史を今に伝える保津川の一員と
して、自身のブログで、少しでも角倉了以を知って
いただけるととても嬉しいはっちんです。
する時に必ず聞くことがあります。
それは「角倉了以を知っていますか?」
というものです。
角倉了以(すみのくらりょうい)。
私の仕事である保津川下りの生みの親にして
江戸初期、海外貿易・河川改修などの事業に着手し
一世を風靡した豪商です。
元は室町幕府付きの医師の家柄で、祖父の代から
土倉を営み,巨大な高利貸資本を蓄積しました。
これを基盤として豊臣秀吉から朱印船貿易を
許可する朱印状を得て海外貿易で膨大な財を築く。
その後、徳川家康からも引き続き朱印船貿易の
許可を得て、幕府経済を支えた人物といわれます。
でも、どういう訳が歴史の表舞台に取り上げられた
こともなく、知名度はあまり浸透していないようです。
私が投げかけた質問に答えられるお客さんは
一隻に1~2人いればいいほうで、ほとんどの
お客さんがご存知ないようです。
その遺産で仕事をしている者としては
寂しい限りですが、何とかこの400周年を
契機として了以の功績にスポットを当てなくては
という使命感をひしひしと感じています。
了以が保津川開削に着手したのは、1606年。
徳川幕府の命を受け、丹波亀山藩(今の亀岡)と
嵯峨を結ぶ河川産業水路の開発にありました。
政治の中心が江戸に移り、衰退の一途を
辿っていた京都の経済復興と安定を目指し、
肥沃な農産地である丹波経済圏と京都経済圏を
船の水路によって結ぶことで「迅速に大量の物資を安全に」
輸送できる流通の大動脈開発を手がけたのです。
(保津川の開削風景が書かれた瑞泉寺縁起 写真提供・瑞泉寺)
さらに1614年には京都洛中鴨川横に「高瀬川」
を開削、下流に整備した伏見の港を経由し
淀川から大坂への物流輸送ルートの開発にも成功しました。
この事業により、丹波経済圏と京都経済圏さらに
大坂経済圏を川水路でつなぐことが可能となり、
海外、内の物流が活発化し、物価の安定、新規商売の
参入などで関西圏の経済の活性化が図られたという
歴史的にみても一大事業が生まれました。
まさに了以は物流の革命児でした。
この水運事業は明治時代の鉄道の普及とともに
姿を消す事になりましたが、その中で当時の姿を
そのままの形のまま今の世に残しているのは
私達の‘保津川下りのみ’なのです。
その意味からも来年の保津川開削記念は
亀岡や遊船だけの行事でなく、京都や大阪など
関西ゆかりの地域とともに祝っていきたい
と私は個人は思っていますが・・・・
400年の歴史を今に伝える保津川の一員と
して、自身のブログで、少しでも角倉了以を知って
いただけるととても嬉しいはっちんです。