保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

広島の旅に思う・・・

2006-07-26 00:56:09 | 船頭の目・・・雑感・雑記
7月の23、24日の二日間、亀岡市が主催する
「親子で平和を学ぶ旅」という企画で広島に行ってきた。

広島を訪れたのは今回で2度目だ。

一度目はまだ学生の頃なので、もう20年近い歳月が経ったことになる。

その当時と比べて街並みの景観もより美しく整備され、広島は
また一段と活気を帯びた街として成長している様に感じられた。

ただ、綺麗な街並みに整備されればされるほど、日本が人類史上唯一体験した、
かけがえのない体験の記憶が、時間という大きな流れの経過とともに風化
してきているなと感じたのも事実である。

悲惨という言葉すら陳腐に感じられる現実が襲った街には高いインテリジェントビル
が建ち並び、数千の人達が原子爆弾の熱さに耐え切れず飛び込んだ川にも
今では観光船が多数行きかい楽しい宴会などの歌声すらも聞こえてくる。

これが‘平和’というものなんだろう。

この風化した‘今’を、風化し崩れ落ちそうな原爆ドームだけが
当時の姿のまま静かに主張をしながら見つめ続けている。

この鉄骨と壁だけで建ち、時間を止めている原爆ドームを前にし、
当時の人々の希望や夢、人生などに思いをはせると、
原爆被害者たちの眠れる魂が今にも自分に叫びかけてくる様に感じる。

今の有り余る平和を享受する自分たちに、彼らは何を語りかけてくるだろうか?
今の日本、争いの絶えない世界の現状をどのように感じていることだろう?

自分はそう考えずにはいられず、彼らの魂に問い掛けてみたい衝動にかられる。

彼らはおそらく、今だ終わることのなく世界で続けられている戦争という
ものの最後に行き着く終焉の姿を体験者として強烈に警告し、
戦争、争いというものへの深い憎しみを叫ぶことだろう。

それは原爆を投下したアメリカという一国への恨むというよりは
戦争を引き起こす人間の内面的な性格、思考への批判であろう。

自国という集団と自己という個人的なエゴや欲望、それを全面的に
肯定する生存競争という論理、そして優れた者が劣った者を選別して
しかるべきという情念への強烈な批判であると思うのだ。

わずか60年前、確かにこの場所で人類史上例を見ない地獄絵が展開した。

現代はこの広島に投下された爆弾の3000倍以上の破壊力を持つ
爆弾が世界には幾らでもあるという。

もし、そのような爆弾が使用されたなら、人類は間違いなく終焉を
むかえるであろう。

この危機に日々直面している我々は、どうすればいいんだろう?
何をすればいいのだろう?

考えれば考えるほど無力感が自分の心を大きく支配していく。
それは死者の魂が明確な答えを示しているにもかかわらず、
現実の世界に移していけないもどかしさでもある。

宇宙で唯一の‘いのち’地球上に命ある全ての生きものの生存を
確立していくためには、国境や思想、宗教や皮膚の色の違いを
越えて‘いのち’とは何か?生きるとはどうゆうことなのか?
という‘原点’に人類が立ち戻らなければならないことだけは
確かなようである。