保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

男たちの大和を観てきました。

2005-12-20 23:59:08 | 映画・芸能界
今日、400年記念計画で多忙な日々の
隙間を縫って「男たちの大和」を観てきました。

この映画は、私の友人数名が出演している作品として、
制作段階に入った2年前から配役やストーリー展開など
の話を聞いていたので、一日も早く観ておきたかった
作品なのです。

今からわずか60年前、祖国と愛する人を守りたい一心で
自らの命をなげだした若者達。その悲しくも誇り高く
生きる姿を今年度の日本映画最大のスケールで描く大作です。

物語は鹿児島の漁村にひとりに女性がやって来てくる
ところから始まります。その女性は
「北緯三十度四三分、東経一二八度四分へ行きたいのです」
と漁協で願い出ます。
その場所こそ、60年前に悲劇の大戦艦「大和」が撃沈した場所でした。
偶然彼女を乗せた漁師神尾こそ大和の生き残りで、
彼女の父内田曹長を知る人だったのです。


ストーリーはまだ観てない人が多くおられると
思うので、この辺までにしておきますが、
この映画は古典的な戦争映画ではないことだけは確かです。
しかも、従来の戦争映画のような特別な上級軍人達の
英雄ストーリーはなく、下士官や二等水平という大勢の
無名戦士達の目線で描かれているのが新鮮でよいのです。

その当時を生きた若者なら皆が持っていたであろう愛するもの
への心情を、出演者全員が体全身で演じているのを感じました。

映画は大和の乗組員のひとりひとりに人生があり
家族がいる。その愛する家族を、友を、祖国を
守りたいその一心で「水上特攻」という死が確実な
作戦に向かう乗組員の葛藤と悲しみが随処に描かれています。

特に最愛の家族のとの最後の別れのシーンは涙を誘います。

この作品の主旨である「死ぬことの意味」と
生き残った者が背負おう「生きることの意味」、
また「戦争の悲惨さ」という重要なテーマを
真摯に描き切っていたと感じます。

映像の面では、尾道に実寸スケールの大和を
全体の約1/2にも及ぶ範囲で再現して、
実際の戦闘風景を最新のデジタル技術を駆使した
スペクタクル映像で描き、戦闘の悲惨さ、恐怖を
リアリティーある迫力感に溢れる映像に
仕上げています。


私が特に印象に残ったシーンは、死を賭けて戦う意味を問う
兵士達に長島一茂演じる臼淵大尉が説得するところです。
大尉はこう発言しています。
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めるのが
最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。
私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める。それ以外にどうして日本は救われるのか。
今、目覚めずしていつ救われるのか。
俺たちはその先導になる。日本の新生にさきがけて散る。
まさに本望じゃないか。」

負け戦に身を捧げ、その失敗から学び、立ち上がる
新生日本に、次の世代に希望をかけ死んでいった人達。
僅か60年前の出来事です。

新生日本はこのような多くの犠牲の上に、
失敗から学び、力強い復興を成し遂げました。
が、それと同じく、あの時代の人が備えていた
規律や礼儀、潔さや勇気など失ったものも多いと
感じます。

これらの人達は、あの世から今の日本の姿を
一体どのような気持ちで見ているのでしょう。

時代は移り、戦争をリアルに語れない世代へと
日本は移っていきつつあります。
今の日本は私的な経済繁栄、物質的欲望に
うつつを抜かし真の進歩を軽んじてはいないか。

臼淵大尉の言葉が聞こえてくるようです。

私達は敗れて目覚める。

死者は黙して語らず、戦争体験者も少なくなる中、
このような映画を私達戦争を知らない世代が観て
後世に語り伝えていくことこそが戦没者たちへの
最高の供養になると信じます。

英国王子方から返事がきました。

2005-12-19 20:54:22 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
保津川下り400周年を記念して、ご招待した
英国のウイリアム、ヘンリ王子お二人から
このたび、ご返事が返ってきました。

この「英国王子保津川下りご招待プロジェクト」に
ついてはこのブログでも9月22日付けに記載したので
ご存知の方もおられると思いますが、地元保津小学校の6年生が
「是非、400年の記念の年に英国王子方に保津川下りをしてほしい!」
との願いから、招待状に手紙を添えて英国総領事館を訪問したと
いうものです。

王子方の返事が書かれた手紙には、残念ながら
「来年は保津川には行けない」というお断わりの
内容が書かれていましたが、子供達は自分たちの
思いが直接王子方の下に届き、またご自身方の
丁寧な返事まで戴けたことで、一つの達成感を感じ
大満足しているようです。

王子方の手紙には「来年はふたりとも兵役で軍隊に入るので
日本には行く事が出来ません。」という理由も書かれており
「折角のお誘いなのにお応えできません」と労いの言葉も
書かれていたそうです。

保津川下りと英国王室との関係は、大正11年にまで遡ります。

当時、日英同盟が結ばれたことで、英国と日本は親密になり
大正11年、英国王室から若きプリンス・ウェールズ皇太子を
日本にお迎えしました。

その時に保津川下りも楽しまれたのです。

400年の目玉になるかも!と期待された英国王子ご招待計画
はこのように成就しませんでした。
が、これからも私達は世界中の人々から愛される
日本の川下りを目指し精進して行きたいと思っています。

でも・・・保津川下りは日本の川下りですので、
400周年はやはり日本の天皇陛下や皇太子ご夫妻
にお乗り頂きたいですね~

そうそう~「日本観光立国」を世界中にアピールしている
小泉純一郎総理大臣にも是非、この機会にお越し頂き、
日本の中で保津川の自然の素晴らしさを感じ取って
いただきたいです。

谷垣大臣宜しくお願いします~

上の写真は皇太子をお迎えする為の新造船の進水式の様子です。


☆個人的には高倉健さんや浜田省吾さんもご招待したいですが・・
 招待状送らせてもらおうかな。
 そういえば原田龍二さんや合田雅吏さんも
 まだお乗り頂いてないですよね~
 来年こそはご招待しますので
 是非、ご家族でお乗りくださいませ。

平安京を造営した保津川の‘筏流し’

2005-12-18 20:10:19 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
今、私達の保津川下りの船が流れる
保津川水運の原点、それは‘筏(いかだ)流しに
端を発します。
その歴史は古く、最初に保津川に筏が
流れたのは平安時代以前にも遡ると
云われています。

亀岡の教育委員会の古い文献によると、
保津川の水運は延暦6年(787)の
長岡京遷都・造営用の木材が筏に組まれて
流れていった記録が残っています。

桓武天皇は6年後の延暦13年(794)、
平安京遷都で都を造営する大事業に着手しました。

都建設の大事業は大量の木材を必要としました。

その供給地を保津川上流地域である丹波国山国荘
の山林に求め、天皇により禁裏御料地にも指定しました。

同地域は当時から地質と気候が天然林に適する土地柄
であったことから、造営用に必要に杉、ヒノキ、松、アテ
などが豊富に生えていたのです。

しかもこの地は平安京の西部に流れつく桂川(保津川)の
上流であることから、水運という輸送手段により
効率よく大量に運び出せる方法がとれるという好条件の
場所でもありました。

筏による木材輸送は長岡京遷都から平安京遷都へと
都の移転の計画を積極的に推進する動機にも
なったことが容易に考えられるところです。

平安京造営という大事業を成し得た桂川の筏流しは
その後も需要が増加し、川沿いの集落に筏を組替える
中継地となる浜(津と呼ばれた)各所に造られ、
地場産業として定着することになったのです。



中世には近衛家の所領として「保津筏師荘」が
あり、また、豊臣秀吉も保津や山本などの
筏師保護する政策がとられるなど、桂川水運による
材木運搬の重要性を当時の支配者が
しっかり認識していた後が窺えます。

安土桃山から近世になると京都、伏見、大坂など
で城や都市建設が盛んになり、材木の需要はさらに
増加しました。地理的にも輸送手段的にも経費が
掛からない桂川の筏は木材流通に欠かせないルート
だったことがわかる。

嵯峨の天竜寺、大坂城、伏見城などの建設用の
木材も保津川を筏に組んで流れていったのです。

この筏は私達遊船の船が流れた江戸時代にも
並行して流れていましたが、明治時代に入り
鉄道が普及したことで、その長い歴史に
幕を閉じました。

しかし、筏事業が京都の遷都計画を進ませ、その後も
長らく京都を支えてきた水運業であったことは
誰も異論がないところだと思います。

私達、保津川下りもこの400年を迎えるに際して
その水運の原点である筏の存在に思いを馳せて
後世に伝えて使命を感じています。


角倉了以を知っていますか???

2005-12-17 12:10:54 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
私が船でお客さんに保津峡谷案内を
する時に必ず聞くことがあります。

それは「角倉了以を知っていますか?」
というものです。

角倉了以(すみのくらりょうい)。
私の仕事である保津川下りの生みの親にして
江戸初期、海外貿易・河川改修などの事業に着手し
一世を風靡した豪商です。

元は室町幕府付きの医師の家柄で、祖父の代から
土倉を営み,巨大な高利貸資本を蓄積しました。
これを基盤として豊臣秀吉から朱印船貿易を
許可する朱印状を得て海外貿易で膨大な財を築く。
その後、徳川家康からも引き続き朱印船貿易の
許可を得て、幕府経済を支えた人物といわれます。

でも、どういう訳が歴史の表舞台に取り上げられた
こともなく、知名度はあまり浸透していないようです。

私が投げかけた質問に答えられるお客さんは
一隻に1~2人いればいいほうで、ほとんどの
お客さんがご存知ないようです。

その遺産で仕事をしている者としては
寂しい限りですが、何とかこの400周年を
契機として了以の功績にスポットを当てなくては
という使命感をひしひしと感じています。


了以が保津川開削に着手したのは、1606年。
徳川幕府の命を受け、丹波亀山藩(今の亀岡)と
嵯峨を結ぶ河川産業水路の開発にありました。
政治の中心が江戸に移り、衰退の一途を
辿っていた京都の経済復興と安定を目指し、
肥沃な農産地である丹波経済圏と京都経済圏を
船の水路によって結ぶことで「迅速に大量の物資を安全に」
輸送できる流通の大動脈開発を手がけたのです。

(保津川の開削風景が書かれた瑞泉寺縁起 写真提供・瑞泉寺)

さらに1614年には京都洛中鴨川横に「高瀬川」
を開削、下流に整備した伏見の港を経由し
淀川から大坂への物流輸送ルートの開発にも成功しました。

この事業により、丹波経済圏と京都経済圏さらに
大坂経済圏を川水路でつなぐことが可能となり、
海外、内の物流が活発化し、物価の安定、新規商売の
参入などで関西圏の経済の活性化が図られたという
歴史的にみても一大事業が生まれました。
まさに了以は物流の革命児でした。

この水運事業は明治時代の鉄道の普及とともに
姿を消す事になりましたが、その中で当時の姿を
そのままの形のまま今の世に残しているのは
私達の‘保津川下りのみ’なのです。

その意味からも来年の保津川開削記念は
亀岡や遊船だけの行事でなく、京都や大阪など
関西ゆかりの地域とともに祝っていきたい
と私は個人は思っていますが・・・・

400年の歴史を今に伝える保津川の一員と
して、自身のブログで、少しでも角倉了以を知って
いただけるととても嬉しいはっちんです。

保津川開削400年へ向け準備進む!

2005-12-16 10:12:22 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
一年で一番多忙を極めた‘京都の秋’
を終え、冬の落ち着きを取り戻した
保津川下り。

いよいよ来年に迎える「保津川開削400周年」
を向け、各記念行事の準備が動き出しました。

地元亀岡では亀岡市を中心に遊船や商工会、市民が
一体となった委員会が発足される模様です。

有史以来、地元亀岡に多大な潤いをもたらしてくれた
「ふるさとの川、保津川」への熱い思いを具現化する
企画がおおいに期待されるところです。

私達保津川遊船でも来年度に実施する行事に
付いての最終的な詰めを進めている所です。

遊船では毎年3月に行っている‘春の開幕’行事を
400年記念の年と位置付け、「保津川下り400年の開幕」
と銘打って大規模な記念イベントを計画しています。

予定では2006年3月12日(日曜日)に遊船乗船場前の
駐車場を全面開放してステージを設営したイベントを
企画しています。

当日船に乗られる人もそうでない人も、一日保津川400年を
祝い楽しんでもらえるようなイベントにしたいと考えています。

角倉了以が400年前に保津川を開削した物語を
、亀岡子供の本研究会(今年文部科学大臣賞を受賞)
制作の大型紙芝居で語ってもらうほか、ダンスユニット
あり歌ありの楽しい舞台演出で盛り上げたいと
思っています。

遊船待合室内には保津川の歴史と今昔物語としての
パネル展示場を設置します。
今のその準備の為、担当委員達が市歴史資料館
全面協力の元、展示内容の作成に掛かっています。

観光シーズンが終り、一息ついたと思った途端、
来年向けた事業がスタートしました。

どうやら、かなり多忙な年末になりそうな予感です・・・

今年最後の「浜省の会・最終章」を開催

2005-12-15 16:22:17 | 船頭
12月もいよいよ後半。
今年も残すところ、あともう2週間余り。

本当に色んなことがあった年でしたが、
自分の中では4年ぶりの活動となった
浜田省吾さんに魅せられた年でもありました。

その活発な活動に導かれ、私達も周りも
浜省を中心に大きく盛り上がりました。

その月一回ごとに開催された「浜省の会」でした。

2年前に私はっちんと主婦えみさん、報道マンの
米田さんの3人で結成された「浜省を歌う会」も
今年、多種多様な新規メンバーの加入を頂き、大きく
バージョンアップが図られ「浜省ファンの会」
として広がってきたことは、会長としてこの上ない
喜びでもあります。

その一年の集大成といえる「浜省の会・最終章」が
先日行われ、浜田省吾イヤーとなった今年について
メンバーの皆さんと熱く語り、歌いました。

場所はご存知、浜省の会の専属料理人西田浩二さんの
お店「京懐石・門」。

師走の忙しい時期だったので、参加者はやや少なめ
だったのですが、今回はクリスマスパーティーも
兼ねることから、子供達の参加もあり、賑やかな
宴となりました。


お料理も今回はオール西欧風の洋食にまとめて頂きました。
最高級の部位をあぶった鹿肉のローストに、車えびやアサリを
たっぷり入れた海鮮ものブイアベース、あぶりサーモンなど
洋のごちそうがず~らりと並び、子供達もおめめ黒々状態に!
京懐石という和の料理人でありながら、この美味さ!
西田さんは本当に料理の天才です!


トドメは七面鳥のローストチキンです。
これまでの「浜省の会」には趣を変えた
クリスマスムードたっぷりの宴でした。

新曲にライブとアクティブな活動の年となった
2005年も11日のさいたまスーパーアリーナで
ファイナルを迎えました。

今年一年、浜省ともにパワーアップした
メンバーたち。

来年は皆さん、更なる飛躍の年にしましょうね!

もちろん、浜省の会も今以上に盛り上げ、みんな
お互いが、いい刺激を受け合える会にしていきたいですね。



女刑事みずきに原田龍二さんがゲスト出演!

2005-12-14 09:02:56 | 原田龍二さん
今週15日(木)に放送される
ドラマ・女刑事みずきの最終回に
原田龍二さんがゲスト出演されます。

原田さんは毎週月曜日に水戸黄門の
助さんとして活躍されておられますが、
今回は久しぶりの現代劇なので
ファンのひとりとしてはとても
楽しみです。

今回の原田さんの役どころは、浅野ゆう子さん扮する
主人公・みずきの亡き夫役としての出演です。

原田さんの登場シーンは、みずきの回想シーンの
中だけとのこと。
1シーンのみの登場だそうです。
ファンの方々は、しっかり見逃すことなくご覧下さい。

話は、強盗殺人放火事件を追いかけていたみずきの
元に容疑者の名前が浮上、それが10年前
みずきの夫(原田龍二)を殺した非行少年で
ある事が判明、動揺を隠せないみずき・・・ 

ここから先は放送でということで。

★女刑事みずき 
テレビ朝日系列 毎週木曜日・PM20時~20時50分に放送

冬本番!保津川下りの冬船

2005-12-13 23:39:52 | 船頭
12月に入り、保津川下りの船も
冬使用の船・冬季船に装いを変えて
運航しております。

連日の寒空にもかかわらず、保津川下りには
まだまだ、大勢のお客さんがお越し下さっています。

以前は冬に川下りを営業していることすら
あまり知られていなかった冬季船ですが、
昨年来、ブログでも度々紹介していたので
今年はお客さんが増えている様に感じています。

また、冬季船についての問合せも増えてきています。
これからも地道に保津川の冬の船を紹介し、アピール
していきたいと思ってます。

冬季船を紹介する際によく聞かれるのが、
船内の様子についてです。

オープン船に乗った人ほど冬季船のイメージが
沸きにくく「船内はどうなっているの?」と
疑問に思われるようです。

真冬の川の上、身も凍らんばかりの寒い渓谷地を
下る冬の船遊びですから、当然、船内の環境が
とても気になるところです。


写真を見てもらうとわかると思いますが、
床の上に柔らかいじゅうたんを敷き詰め、両サイドは
プラッチック製のスライド式窓で固め、屋根は透明な
ビニールで船内全体を囲います。
前方と後方も透明のビニールですので、視界を
さえぎることなく谷間に吹く冷たい風をシャッタアウトする構造です。

船内の中央部にストーブも設置してあり、船内はポカポカ!

クッションなどを持参されて座られると、
より快適な船下りが楽しめると思います。

ストーブは消防法上安全装置が付いていますので、
急流での衝撃により消火することもありますが、
船内の温度は適度に保たれています。

最近は冬の京都も人気が高まっているとのこと。

保津川周辺にもボタン鍋で有名な亀岡・湯ノ花温泉や
渡月橋に下流から温泉が湧き出た嵐山の温泉街もあり、
春や秋とは一味違った温かい情緒がある‘冬の京都’
に触れることができるのではないでしょうか。

これから年末年始に掛けて京都では数多くの
伝統的な行事が目白押しです。
冬の京都の楽しみ方の一つに保津川下りをオススメします。

‘おせち料理’にかける京料理人の心

2005-12-12 21:32:13 | 京都情報
厳しい冷え込みが続く12月の京都。

今日は京料理の話をしたいと思います。

12月に入ると京料理の店では
「おせち料理」の準備が始まります。

京都の料理人にとって「おせち料理」は
1年の集大成なのです。

その年の季節ごとに出してきた独自の創作料理を
京情緒溢れる雅やかな1段~3段の‘重箱’に
盛り込み、1年を締めくくる伝統の行事なのです。

はっちんのマブダチで、京料理界の若き旗手と
して注目されている「京懐石・門」の西田浩二さんも
今週から「おせち料理」の準備に取り掛かられました。

「京懐石・門」・・・京料理を支える食材の宝庫・
丹波亀岡の地に店を構え、伝統の京懐石料理と斬新な
西洋風技法と食材の融合により独自の京料理の世界を
創作し表現し続ける料理人・西田浩二さんが経営する
お店です。

西田さんは京都・岡崎にあった、伝説の高級料亭
「まる多」の主人丸田明彦氏(故人)に師事し、最後の内弟子
として薫陶を得た本格派の京料理人さんです。

彼と師匠との火花飛び散るような熱く厳しい修行、
心温まる師弟関係のやり取りはNHKの
人気番組「にんげんドキュメント」で全国に
紹介されたのでご存知の方も多いと思います。

この写真は雑誌「VOGUE」6月号に記載された
西田さんの料理です。

見てわかる様に、彼の作る京懐石はただの料理というより
見る者に感動と驚きを与える‘芸術品’ですらあります。

「京都の料理は季節感を大事にし、目でも料理を楽しませるのが伝統」
「京料理人はお客さんを感動させる演出家」
という師匠・丸田氏の考え方を伝承されています。
また、「お前は京料理の食材の産地・丹波亀岡で、自分の
京料理の世界を広げてみろ!」という師匠の遺言を守り
京都亀岡に店を構える熱い男でもあります。

西田さんのおせち料理には師匠が最後に伝授した
‘丹波牛の都焼き’という日本に一つしかない
料理も入っています。


これはNHKのTVにも取り上げられましたが、
京料理になかった「肉」を使った創作料理で、
「京料理に新しい伝統を」と丸田氏が作り上げ、
西田さんに授けたという一子相伝の作品です。

西田さんは今週から大晦日の31日まで、この
都焼きを含む素材、味、彩りを備えた
約40種類の料理を創作し、
今年の集大成を表現するそうです。

長き伝統を誇る京料理は、技と心を真摯に受け継ぎ、
新たな発想と感性を磨くことに余念がない
彼ら料理人によって後世にも受け継がれることでしょう。

京都の料理人達の熱い冬が、始まります。

☆京懐石・門ではおせち料理のご予約、お申し込みを承っております。
 もちろん全国発送も行っております。
 伝統の京懐石のおせちで新年を迎えるも優雅ですよ。

 
☆2006年 京おせち料理

●一段おせち料理  定価15,750円(税込) 
 核家族用のおせち お引取りのみの販売

●二段おせち料理  定価31,500円(税込)
 伊勢海老 丹波牛都焼き 丹波黒豆 三陸あわび
 他40種類余りのお料理

●三段おせち料理  定価43,000円(税込)
 伊勢海老 丹波黒豆 丹波牛都焼き 三陸あわび
 和デザート、スイーツ他40数種類余りのお料理、
 を三段引き出し付きの重箱に盛り付ける雅な演出

ご予約は12月23日(土)まで。
すべて手作りですので、数に限りがあります。ご申し込みはお早めに!

詳しくは京懐石・門のHP



心洗われる島・奄美大島

2005-12-11 18:08:15 | 船頭
12月8日~10日まで、保津川遊船の
社員旅行で鹿児島県の奄美大島へ
行ってきました。

私自身初めて奄美を訪れたのですが、
先ず感動したのは海の美しさです。
もちろん透明度の高い海水もそうですが、
ロケーションが素晴らしいのです。


遠く水平線まで見渡せる広い海、
湾曲した海岸に岩山が浮び、色とりどりの
珊瑚礁が敷きしめられています。
水平線に夕日が沈む風景はまさに圧巻!
言葉が出ないほどの美しさです。

すべてがゆっくりと感じられ、多忙を極めた
秋の仕事疲れを癒すのには最高の地でした。


砂浜には「バーコラ」と呼ばれる藁ぶきの屋根で
こしらえたコテージもあり、南国情緒を盛り上げます。
この「バーコラ」に腰掛け、暫し、遠くの水平線を
眺めていると、自己陶酔の世界に入り込んでしまいます。
ここには確かに時間が止まった空間があるように感じました。

♪もう~誰の心引き裂くことなんてない この車もギターも
売り払い海辺の町 潮風と波の音を枕に ひとり暮らそう~♪
と思わず浜田省吾の‘夏の終り’を口ずさんでいました。


そんな優しく人を心を癒してくれる奄美の海には、
マリンースポーツのメッカというアクティブな面も
併せ持っています。
はっちん達は2泊3日の中の一日が完全自由行動
だったのでスキューバーダイビングを楽しんできました。


3年ぶりダイビング、少し緊張しましたが、以前潜った時に
人生感まで変えるほどの感動を覚えた海底との遭遇。
その体験を再びできる喜びでワクワクのはっちんです。

いざ!海へ!!12月でも気温は20度超える奄美大島。
海に足をつけても冷たさは全く感じません。
顔を水面につけるとすぐそこに珊瑚礁があるのも
南の島ならではのこと。珊瑚礁と熱帯魚に導かれるように
海底深く潜っていきます。

海底は珊瑚の山並が続き、一気に深くなる谷のような
所をたくさんあります。浮力の維持、気圧の調整を
抜かりなく行い、海底深く潜ります。
中に大きな珊瑚の洞窟を発見!
順番に潜りぬけて行きます。
海水の冷たさを感じながら、綺麗な珊瑚に囲まれながらの
水中散歩です。海底を見渡しながら改めて自然の偉大さを
感じて感動するはっちんです。

結局、2ダイブを完了。途中、スノケリングも楽しみ、
丸一日、奄美の海と戯れ、堪能させて貰いました。
皆さん、お疲れ様でした。

こうして奄美の海に、身も心も触れることが出来、
癒された旅でした。

この島は、手つかずの自然も多くあり訪れる人に感動を
与えていますが、もう一つ感動したのは現地の人が
人情深く私達に接して下さったことです。

通りすがりのおばさんが、現地で採れた夏みかんを
何げなしにくれたり、釣りのスポットやコツを
丁寧に教えてくれたおじさん、美味しいラーメン屋を
詳しく教えてくれた若者達など。

私達、内地の人間が失い、忘れかけた人としての
大切なものがこの島には今も確かに息づいているのを
感じました。
そして何か懐かしさのようなものを感じ癒されました。

もっと長く滞在したい、そしてまた、必ず
訪れてみたいと感じさせてくれる島。

それが奄美大島でした。

奄美の海、人たち本当に‘アリガッサマアリョウタ’~