いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

今日もつくばで; さらば! 筑波山麓 ③ 20世紀末-21世紀初頭 科学技術バブルの税金御殿

2014年10月19日 19時12分54秒 | 筑波山麓

ちくしょう、転勤だ!ということになったので、筑波山麓で今まで間近で観察できなかったものを見て回っている。

JST  Ninomiya House

大学の教育の場面では「大学院重点化」、文部省(当時)以外の省庁は傘下の研究所への予算の増額、が始まったのは1990年代中頃である。(今からみれば)科学技術バブルの膨張開始であった。

現在、まだ「ポスドク問題」とか(一部?)騒いでいるが、信じられない。なぜなら、2000年には「ポスドク2000年問題」と研究者の間では話題になり、こんなに博士を増やしては、そのうち破たんするのは明らかであるという認識があった。もちろん、この「ポスドク2000年問題」は「Y2K問題」にかけた表現である(=Y2K問題::コンピュータのプログラムにおける西暦の表示方法により、コンピュータ制御の不具合で事故が起きるのではないかと危惧されたこと)。もっとも、今から見れば、この認識は研究者世間全体の共有認識ではなかったのだ。

なぜなら、それから15年あまり、「無駄な」博士が量産されているからである。

「無駄な」博士となったおいらが、まだ「有益な」博士になろうとがんばっていた頃、つくばは二の宮に御殿ができた。

まだ20世紀末であった。建てたのは科学技術庁(当時)の傘下の独立行政法人;科学技術振興機構(略称JSTである。

当時は、未だ、TXも開通しておらず、つくば駅付近では高層マンションは建設されていなかった(とおいらは記憶している)。

小泉内閣時代の独法批判の嵐にも特に問題化されなかったと、おいらは記憶している。

いままでは、西大通りから遠目に見るだけであったが、見に行った。

人気は感じられなかった。画像は示せないが、低層階の部屋はカーテンがひかれていなかった=人がいないんじゃないか。

 



今日もつくばで; さらば! 筑波山麓 ② 吉沼 ;仙台足軽22人のふるさと

2014年10月15日 19時56分10秒 | 筑波山麓


         ↑ 小貝川
常陸下総両国知行所拾八ヶ村絵図 (宮城県図書館蔵)の部分図
   筑波郡四村(大園、吉沼、大砂、西高野)

つくば市北西部、小貝川沿いにある吉沼。江戸時代に仙台伊達家領であったところ。

延宝5年(1677年)、筑波郡吉沼に22人が名主などの推挙で仙台伊達家足軽に選出。身分は武士。このとき、江戸藩邸から九曜紋の付いた紋付が運ばれ足軽に給付。職責は、領内の治安維持、年貢・諸役金の催促、市横目・夜廻りなどの在地勤務。それとは別途、江戸や津方(潮来 も含む、房州内浦・館山、下総、銚子)での勤務。江戸(の仙台伊達家藩邸)には「定詰足軽衆三十四人」が配置されていた。その補助的役割を吉沼足軽は担っていたらしい。

関連愚記事; 江戸時代の筑波山麓 『非正規'賃金'労働者』、仙台伊達家足軽

足軽は現地の農民から大庄屋や村役人の推挙によって任用されたものであり、給与も低く御用の時以外は保有地や預かり地を手作りして生計をたてていた。

(以上、史実の出典は、内山純子氏の研究結果。例えば、『大穂町史』、『宮城の研究3、仙台藩の飛地』など)

もちろん、足軽時代の面影は神社くらいしかないが、街全体が何時代かわからない、高度成長期の昭和より古い時代の面影を残している。

■ 青い目のお人形が来た吉沼; 関連愚記事: 黒い目のお人形

青い目のお人形は、日本に、11970体来たらしい。そして、茨城県には243体来たのだ。


『大穂町史』からコピペ

1927年頃だ。このがきんちょたちは、この時平均8歳とすると、日米開戦の1941年には、22歳となるのであった。

↑ この人形は現存するらしい!


wiki 青い目の人形

● 青い目の人形が来た1927年から約10年後、吉沼郊外には大日本帝国陸軍航空士官学校西筑波分教場、西筑波飛行場が建設される。

 パレンバン 「空の神兵」の稽古場 に他ならない。 YouTube; 空の神兵


今日もつくばで; さらば! 筑波山麓 ① 日庄ふとん店

2014年10月12日 19時26分39秒 | 筑波山麓

さらば! 筑波山麓

ちくしょう、転勤だ!ということになった。筑波山麓での見納め遊山で過ごしてる。

"筑波研究学園都市"は周知の通り人造都市である。その街の背骨のような道が「学園東大通り」である。がくえんひがしおおどおおり。とーだい(東大)通りではない。"つくば学園都市"は建設当時、つくば市はなかった。現在のつくば市は多くの町と村の合従体である。

  愚記事; ひろひとさんのゴーサイン

さて、極私的記録。 1997年12月、おいらは"つくばに"やって来た。

バンクーバーからのフライトはがらすきで、隣の座席に横になり寝て渡洋した。見た目があきらかにぬっぽんずんでしかない客室乗務員(@黄色い人)が英語でサービスするので、英語で応答し続けた。おいらのことを「華人」さまだと思ったのであろう。

おいらは"つくばに"やって来た理由は、ポスドク2巡目を始めるためだ。カナダから成田へ夕方に到着した。その成田空港で買った雑誌『文藝春秋』には江藤淳の評論、「第2の敗戦」が載っていた。「たくぎん」が潰れて間もない頃だ。「たくぎん」が潰れるということの衝撃は、今となっては、限られた世代の道産子にのみ理解されるのだろう。成田からバスでつくばセンターについたおいらは、タクシーで、東大通りの竹園付近のホテル・ニューたかはし に行き、泊まった。ホテルにチェックインすると間もなく、今度のボスとなる人から電話があった。すなわち、フロントにおいらがチェックインしたら直ちに連絡するよう指示があったに違いない。その晩はゆっくりできるとのおいらの期待ははずれ、今度のボスとすっかり日が暮れた時間に会わねばならなかったのだ。会った。それが初対面だった。そのボスは晩飯を共にしたいと思っていたのだ。

「何が食べたい?」と新ボス。

「カレーライス! 典型的な日本風カレーライス!」とおいらは即答した。

その時、即答したことに新ボスが何か感じたことが表情に出たことを、おいらは見て逃さなかった。のち、こういう質問に即答するとは思わなかったと述懐している。おそらく、初対面のカナダ帰りのポスドクとの会食について、何か腹案があったのかもしれない。

我々は竹園の スカイトット すかいとっと に行った。 今はもうない [google; 竹園 カレー すかいとっと]。

つくばについて、ホテル・ニューたかはし に何泊したか覚えていない。今の記憶では到着の晩、ひと晩だけだったと思う。次の晩からは研究所の付属の宿泊施設=ベット部屋、に泊まったのだと記憶している。一方、すぐに不動産屋に行き、アパートを決めた。すぐ決めた。特に考えずに決めた。のち11年間暮らすこととなる(愚記事; 11年暮らしました)。

その時アパートを斡旋した不動産屋のその営業のひとは、現状の経済状況は「壊滅的だ!」と言った。たくぎん破綻を受けて、数年前に生じたバブル崩壊を現実のものとして不動産屋が実感していたのであろう。この不動産屋のその営業のひとが持っていた「恐慌感」は、おいらがカナダで感じていた日本恐慌状態!と整合していた。

おいらがカナダで感じていた日本恐慌状態!と不動産屋のその営業のひとが、現状の経済状況は「壊滅的だ!」と言ったことを、国研の研究者に話すと、全然反応が違って、「どこのクニの話ですか???!!!」という感じだった。今から思えば当時は、おいらが tax-eaterという言葉=概念=文節できる能力=認識能力を持っていなかったのだ。食税ぬっぽん研究者さまは、こういうものだったのだ。と今、思う。1998年1月のことだ。

さて、アパートを決め、札幌に一旦帰った。理由は車を取りにかえるためだ。つくばは車がないと生きていけない。苫小牧発、大洗行きのフェリーに乗り、つくばに再来したおいらのしたことは、ふ と ん を買うことである (なお、苫小牧発、大洗行きのフェリーには、 見 送 り の じ い さ ん はいなかった)。 そのふとんを買ったのが、学園東大通りに面した、一の矢・八坂神社に近い「綜合寝具日庄」である。車で乗り付け、ただちに買って、アパートに帰った。

 

竹園のカレー屋、スカイトットは無くなってしまったが、ふとん屋日庄はまだあるのだ。

なぜ、1997年にこのふとん店・日庄で寝具を買ったかというと、このふとん店を知っていたからだ。

そして、極一部のつくば市民を除いて、この東大通りにおける「綜合寝具日庄」の意味、位置づけはわからないだろう。

「綜合寝具日庄」が面する東大通りにおいて、このあたりは両側に人造の並木が続く、まるで高速道路にように=つまりは左右の文物は並木のみで立ち止まって何かするような通りではない==通るだけのための大通りという雰囲気なのである。

さて、その「人造の並木が続く、まるで高速道路によう」な道路は、いつ、何のためにつくられたのか?

それは、ひろひとさんがゴーサインを出した"筑波研究学園都市"の北端の目玉施設がKEKだからである。

KEK=高 K エネルギー E 研究所 K !

どういうabbreviationのつくりかたなんだ! 昭和のぬっぽん!

"筑波研究学園都市"の北端の目玉施設であるKEK(高エネルギー研究所)とつくばセンターを結ぶためである。


1972年のKEK。 トリスタンのカケラもない。


1997年のKEK

おいらが、初めてつくば山麓にやってきたのは、周恩来より相当遅れた[1-2]頃、すなわち、昭和は終わっていたが20世紀はまだ終わっていなかった頃だ。

 おいらが初めてつくばに来たのは平成になって間もなく。仙台からみんなで車で行った。今から思うと国 道6号線で南下、学園東大通り入口の交差点から東大通りに入った。ナビをするわけでもないが、車外の風景と地図の地名を照らし合わせていた。運転者と今ど こを走っているか確かめていた。オオカドマメって読んだことは記憶がある。  (愚記事; 十六大角豆(じゅうろくささげ

 

    (  [1] 周恩来が若き時日本に留学していたことは有名。そんで、筑波山にも遊びにきたんだとさ! 遊学する周恩来!  

    [2] ▼ 筑波山と周恩来   )

そして、その後しばしば、筑波山麓に来た。KEKで実験するためだ。1990年代前半。その時は、筑波の状況は今とは相当違っていた。例えば、夜中に食事に行くのは、当時やっていたのは、春日あたりのファミレスのみであり、大穂のKEKから車で飯を食いにいったのだ。大穂、柴崎=桜テクノパークあたりは全く拓けてなかった。

そういう実験修行の間で、いつも目に入るのが、何も沿道に目立った店がない、学園東大通りの一の矢付近のこの布団屋であった。

ポスドクで筑波に来て、ふとんが必要なので、行ったのだ。


一の矢・八坂神社付近 1997年


一の矢・八坂神社付近 1972年


一の矢・八坂神社付近 1960年  東大通り建設前

 


土浦城

2014年10月05日 17時18分38秒 | 筑波山麓

ちくしょう、転勤だ!ということになり、筑波山麓にいる時間も限られてきた。 筑波山麓に来て17年あまりになるが、土浦城と隣接している市立博物館には 行ったことがなかった。つくばに来て、この地が谷田部細川家・一万六千石でもあったことを知り、興奮し、陣屋跡やその陣屋の門(愚記事; 谷田部細川一万六千石)を見物したりした。谷田部細川家の史跡の調べかたは、谷田部町史をみることだった。当時は既につくば市が発足していて、元の谷田部町立図書館はつくば市立図書館の一分館となっていた。なお、上記リンクの愚記事で谷田部細川家の陣屋跡は有名で谷田部公民館にある。一方、当時はその門であったものは現在移築されていてある民家の門となっている。それを探し出して撮った画像が上記愚記事の向かって右の画像である。

その後、もっと興奮する史実に出会った。仙台伊達家が龍ヶ崎に領地を持って、陣屋を置いて、江戸時代中支配していたといことだ。知った経緯は、ある人から聞いたことである。その人は、おいらが、竹雀!政宗!仙台!と騒ぐので伊達マニアと知っていたので、教えてくれたのだ。その人がなぜ龍ヶ崎が仙台伊達領であったと知ったのは、地元ミニコミ誌の記事に載っていたのをみたのだ。それをみて、これをおいらに知らせあげれば、喜ぶと思ったのだろう。

直ぐに、龍ヶ崎市立資料館(愚記事; 伊達政宗、来ました。)と図書館に行って調べた。調べると、仙台領は龍ヶ崎にとどまらず、なんと! このつくば市の一部にもあったと知る。吉沼である。さらに、にこにこできたのは、その大大名である仙台伊達家がこの地で足軽を臨時?採用したことである。ポスドク真最中であったおいらは、すっかりうれしくなってしまった(愚記事;江戸時代の筑波山麓 『非正規'賃金'労働者』、仙台伊達家足軽 [なお、この記事はポスドクを止めて相当たってから書いたものである])。

こういう人のあまり知らないことをつついては喜んでいたおいらは、つくばに一番近い江戸時代の大きなお城は土浦城であり(江戸時代と限定しないと、つくばには小田城というのがある)、つくば近辺で一番有名なお武家さまが譜代であり老中を輩出する土屋家と知っていた。でも、あまりにも周知なので、特に行く気にはなれなかった。というか、いつでも行けるだろうと思っていたのだ。そして、昨日、そのうちつくばを離れなければいけなくなったので、行った。

■ 土浦の街

城下町土浦の中心街は今の時代に順応するのに苦労している。すなわち、典型的な江戸時代の城下町であり、その街並み、道の走り方が、現代の自動車社会には不適当である。つくばは車がないと生きていけない。そして、車で楽に生きていける。すなわち、街の道順が単純。行く先には大型駐車場がある。これに対し、土浦の中心部は車で入り込むと、戦国時代に城下町に不用意に乗り込んだ先遣隊のように、道に迷い、なにが何だかわからなくなる。そもそも、目的地にたどり着けない。土浦の中心街で車を駐し、車から降りて街で何かしようとする気力を奪う。

(事実、この10/4に土浦城に行ったとき、なんと、おいらは土浦城に車でたどり着けず、駅の交番で道順を聞いたのだ ← 事実)

さらには、土浦は、幸か不幸か、B29の洗礼も免れているので、道路拡張の城下町再開発を受けていないのだ。つまりは、金沢の街みたいなもんだ。

もっとも、残念なのは、金沢ほど江戸情緒も残ってないので、半端なのだ。

なお、現在、土浦市とつくば市の合併の話もあるときいて驚いている (伊達+細川+土屋= 200万石弱、で新しい「幕府」がつくれそうではないか!?!?!?)。

以下、土浦城、通称、亀城;


(この企画展は終わっています)

土浦の藩主は譜代の土屋家とは何となく知っていたが、特に詳しくは知らなかった。そもそも、井伊、土井、酒井、堀田くらいしか譜代大名を知らない。

土浦城に隣接する市立博物館の展示の第一は江戸時代に土浦の藩主であった土屋家の文物である。

土屋政直が一番有名らしい。なぜなら、老中を30年間もやったからだ。この老中30年というみて、江戸時代のいつの30年だろう?と思った。展示を見ると5代将軍綱吉から八代将軍の吉宗までの30年間だという。その時、おいらの乏しい江戸幕府に関する知識を総動員すると、その時代って「側用人の時代」じゃないか!つまり、老中の役割と権力が衰えた時代ではないのか!? そして、思い出した。「側用人」を排して将軍と老中による幕府運営という家康の幕府運営の本義に戻ろうとした吉宗に「辞めさせられたのだなぁ~」と。その根拠は昔テレビで見た場面。NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」。幕府の政治やそもそも江戸城のつくり(櫓の数など)を吉宗が老中に質問する場面。ふがない老中たちはまともに答えられない。

家に帰って、ネットで調べた。そうしたら、おいらが昔みたはずのNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」でのこの場面にも、土屋政直がいたらしい。土屋政直を演じていたのが、名古屋章とのこと(wiki NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗)。

土屋政直はふがない老中ではなかったのだ;

綱吉~吉宗時代初期の老中。紀州藩と昵懇で、吉宗の将軍就任をサポートする。(wiki NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗

元禄11年(1698年)に老中首座となり4人の将軍に仕えたが、側用人政治を展開していた新井白石と間部詮房には内心反対し、7代将軍徳川家継の後継者争いの際、側用人の廃止を条件として徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍になると老中達に口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは3問中2問を答えることができた政直のみだったという。 (wiki: 土屋政直)

■ 武田遺臣系

土屋家は、元々、武田家の家臣であったと知る。家康は武田の遺臣を味方に抱えたことは有名。のちの幕府でも武田遺臣系という人たちが多く活躍。

▼この日(10/4: 10月の第一土曜日)は、土浦の花火大会。午前中の土浦城訪問とは別途、夜に遠くから眺めた。


今日もつくばで; 何年かぶりで西武筑波店に行った

2014年07月13日 18時51分48秒 | 筑波山麓

 何年かぶりで西武筑波店に行った。最後に行ったのは何時であったか正確には思い出せない。2009年には行ったはずだ。そして、震災(2011年)後は行ってないと思う。今週末行った理由は明確。あるお菓子を買いにいった。西武筑波店に売っていると情報を得たからだ。今思えば、そのお菓子の本店が並木(つくば市の街の名前)なので、そちらでもよかった。駐車場の面倒を考えると、そちらの方がよかった。

西武筑波店の駐車場の各スペースに動物の名前がついていた。階数の数字とA、Bだけでは、自分の車を停めたスペースを忘れ、自分の車を探してうろうろする人のためだろう。 おいらは、うさぎに停めた。 つまりは、そんなに上の行かなくとも駐車スペースが空いていたのだ。この時点で少し、気づいた。

 

人が少ない。週末の夕方なのに、人が少ない。10年前の西武筑波店の平日の午前中のような感じ(記憶)である。

ララガーデン、イーアス、イオンなど郊外型=野外駐車場付きのショッピングモールに負けて、人が少なくなったと推定している。

JR土浦駅前の斜陽化は、TXつくば駅前でも起こっているのだろうか?

西武は、今はつぶれたダイエーと共に、国策=皇策で、つくばに出店。 その運命は????

国策って大げさかと思われるが、おいらが、アラサーで、成田空港経由で、筑波山麓にたどりついた直後の早春、筑波西武店には「筑波大学」の表示をつけた貸切バスに乗せられた新入生が「買い出し」に来ていた風景を目撃。 あ~、筑波!と感慨に耽った記憶がある。ただし、15年以上昔のことである。

■ 福来氷

買いに行った菓子は、つくば産の御菓子(御菓子処 いとう [google])、福来氷。

フクレみかん([1]とreferences therein)を使った、ゼリーを基調とした砂糖菓子。

表面に砂糖の「薄氷」を張っている。(なお、フクレミカンの産地は凍らないので、ミカンがなるのですが...)

少し苦味に通じる独得のフクレみかんの香りがする。

 


栗塚、 そして、船橋洋一 『内部』がきた、あるいは、円本を肴に

2014年02月19日 19時00分00秒 | 筑波山麓


 栗塚

栗塚なんてことばがあるのか知らなかった。あった→ google

栗塚古墳、ってのもあった; リンク

裁かれる江青女史の言葉 ― 

「私に過ちはない。もしありとすれば、ただ一つ、それは権力闘争において、おまえたちに破れたことだ」。

さすがに元女優、恐らく一世一代の名台詞であろう。 

福田恒存、『問いただしき事ども』(1981年、新潮社; 初出:中央公論 昭和五十六年 [1981年] 三月号) (かなづかいなどは勝手に今風に変更;訳文も勝手に変えた)


http://news.takungpao.com.hk/history/story/2013-07/1774136_2.html

 3日前の愚記事 [リンク] で、船橋洋一、 『内部』の古本を発注したことを書いた;

来た。

船橋洋一は1980年2月から1981年12月まで朝日新聞の北京特派員だったのだ。

その北京・中国滞在を基にした本。内容は当時、随時、記事になっていたもの。

文化大革命が終り(1978年)、四人組が逮捕され、裁判にかけられていた時期だ。

船橋洋一、 『内部』でもエピソード的に触れられている;

また、八〇年末のいわゆる「林彪・四人組」裁判で法廷に引きずりだされた江青夫人が、居並ぶ裁判官、検事をにらにつけ「一体お前たちの中で長征したものはいるのか。私は故毛沢東主席に従い、長征したのだ」といった趣旨の言葉を吐いたが、これなども中国共産党内で長征幹部の持つマジックを物語るものであり、江青発言はその意識をそのままに表したに過ぎない。

もっとも、文革終焉と船橋在中の間には中越戦争があった。日本政府・大平正芳が小平によるベトナム懲罰戦争を「黙認」した話はまた今度。

ちなみに、この1981年の時点で、福田恒存は「 「四人組」の運命はまだはっきりしない。毛沢東の文革派はまだ生きている」といっている。

今から見れば、文革が終ったこの頃と六四天安門事件の1989年の10年間が日中関係が良かった。 日中の小春日和!

(この小春日和に、中曽根康弘さんは靖国参拝で中共に妥協した! 妥協すべきと思ったほど、日中は小春日和であったのだ;
もっとも、中曽根さんが靖国参拝をやめる理由、すなわち、"親日派"="民主改革派"の胡耀邦+趙紫陽の立場を慮ったという考えは、小平の六四天安門事件で全くの"勘違い"であったと判明する)

船橋洋一、 『内部』にはさまざまなことが書いてあるが、やはり文革後の中国社会の細部を書いてある。

たとえば、傷痕。

傷痕文学とは文革で受難した者たちの回顧文学である。船橋が中国にいた時(1980-1981)にはすでに、世に出ていた。

中国で1977年から1979年ごろにかけて書かれた、文化大革命の悲惨さを描く一連の文学作品。廬新華の「傷痕」に基づく名称。劉心武の「班主任」などがある。 (傷痕文学:デジタル大辞泉site

船橋洋一、 『内部』には「傷痕」という一節を含む"「歴史問題 - 引きずる重い過去」"という章がある。そこには文革で戦前に京大を出た医学博士で医師の夫(chinese)を殺された日本人妻の体験記が紹介されている。1980年に名誉回復の葬式が執り行われた。「きょう来てくれた人の中には、かつて先頭に立って私たちを迫害した人もいた。そういう人に対しても母は微笑を絶やさず手を握っていたが、私は笑えなかった」と娘の話。さらに、「追われた元のポストに旧文革派の幹部が居座っていたり、」と1980年の北京の状況が船橋洋一、 『内部』では報告されている。上記、福田恒存の指摘はまんざら的はずれではない。

▼ 傷痕皇帝

この船橋洋一、 『内部』にはいたるところに下放青年の話が出てくる。すなわち、1955年前後の生まれ(を中心に)、特に北京、上海などの大都市部の青年が文革前期(1967-9年ごろ)に地方の農村に移住させられたこと。船橋が北京にいた1980年頃は彼ら下放青年たちが20代中盤あたりでまだまだ生まれ故郷の都市に貧困の農村から復帰することを切望していた頃だ。

1980年と言えば、中国で大学が正常化して数年後の頃だ。

この下放青年は傷痕世代である。そして、今の皇帝さまは典型的な下放青年である。ただし、中国共産党高級幹部子弟の典型的な下放青年。他の下放青年とは違って、北京に復帰、大学に行けた。

この船橋洋一、 『内部』の時代には、30年後に下放青年から皇帝=中国共産党総書記が出るとは夢にも思わなかったろう。

なお、船橋洋一、 『内部』を読むと、この頃1980年にはすでにエズラ・ヴォーゲルは中国に出はいりしているとわかる。おそるべし、毛唐さまの研究力。

■ まとめ

 
  長征幹部     下放幹部
(関連愚記事;毛主席に従い


今日の元ネタ

  
問ひ質したき事ども (1981年) 1円 Amazon    内部(neibu)―ある中国報告 1円 Amazon

『円本』の呼び名は出版社側の命名でなく[5]、たまたま、1925年大阪、1927年東京に登場した市内1円均一の『円タク』から、派生したと言われる。 

1円は当時、大学出の初任給の約2%に相当した[6]。それを廉価とうたえたほどに、それまでの本は高価だった。 (wikipedia


いか註; 現在の大卒初任給(平均)は、20万1800円だそうだ[根拠]。 そうすると、大学出の初任給の約2%とは、4000円となる。

本1冊、4000円。 


ぶどうの木再生日記;第47週目

2014年02月08日 08時03分54秒 | 筑波山麓

■ 今週の借景生活


  今週の借景生活  - ”金閣” 付き -

● 今週の北海道で見ない風景


  たちばなに雪


  竹に雪

▼ 今週の春


 オオイヌノフグリ

▼ 今週の「山の手右翼」

長谷川三千子センセイがNHKの経営委員とやらになったとも知らずにいたが、ニュースで見た。「長谷川三千子氏、政治団体代表の拳銃自殺を称賛(google)」。

おいらは、長谷川三千子センセも野村秋介さんについての世間の誰もが得ることができる情報の一部を少しは知っているのだが、長谷川センセの野村秋介さんへの追悼文のことは知らなかった。長谷川三千子センセは極右なんだから(関連愚記事; 極右、あるいは偽毛唐、そして何より、狂気 )、そういうことがあったとしても、そんなもんだろうとしか思えない。

長谷川三千子センセは言っている; 

戦後にはびこった、「民主主義」の大宣伝や、「進歩的文化人」たちがその元凶なのでもないことを、彼は知っている。それらは単なる症状にすぎない。本当の根は、日本人がとことん戦い抜いて全滅するかはりに生き延びてしまったことにある―その事実を彼は、くっきりと見て取ってゐるのである。

だから、「戦って、ちゃんと死んだ」野村秋介さんが好きだったのだろう。そして、今、なぜか、NHKの経営委員だ。

NHKの経営委員って、長谷川三千子センセってテレビみてるんだろうか? そうなら、少しショック。

で、今日、wikiで初めて知った。長谷川三千子センセは野上弥生子の孫なんだ(wiki)。

野上弥生子と言えば、右翼の長谷川三千子さん理解のため、参照として戦後民主主義真理教の教祖について、江藤淳の(口述筆記)文章を引用しよう;

 だから大江君なんか大変ですよ。この人は褒められることしかしていないから、もっと大変だ。それも公私ともに褒められることしかしていないから。これはもう、大変ですよ。まあ才能があるから、どうやら乗り切ってきてるんだけれども、それだってねえ。
 (中略) 僕は大江さんってのはね、やっぱり何かこう、ライフ・スタイルとか、いろんなものの上に、ある憧れの対象というものがあると思う。渡辺一夫先生とか、野上弥生子さんといかね、そういうものがあるんだと思いますよ。これは非常に大衆的な感情なんです。大江君はその大衆的に瀰漫している感情の高いところを代表しているのであって、もうすこしわかりやすく言えば、やっぱりあれは一億総中流階級の気分、ないし感情を代表しているんです。
江藤淳、 『離脱と回帰と  昭和文学の時空間』

             
(昭和の)大衆感情の代表   (昭和の)大衆感情を逆なで→平成大衆へのプロパガンダ経営を
 @努力して教祖        @祖母の孫娘@@父の娘: 「別に褒められなくてもいいの」


   「山の手左翼」

* 蛇足の引用;

ミヨシ:  僕は、自分が東京の山手で生まれたとか四国の一小村で育った --という言い方で語り始めたくはないのです。一度そういう言い方をしてしまうと、そのレッテルが固着して東京人とか四国の小村の出身だったとかいうことになり、どこか違う空間に移動しても、依然としてその起源を続けるということになってしまう。  マサオ・ミヨシ X 吉本光弘、 『抵抗の場へ』

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今日もつくばで、 師走初日の洞峰公園、あるいは、皇帝夫妻 (J- Royal couple) Lodhi Gardens へ

2013年12月01日 16時18分27秒 | 筑波山麓

  2週間前 [愚記事:今日もつくばで、 つくば公園通り~洞峰公園 ]

 

 

■ 今日、天皇皇后両陛下が訪れたのは ローディーガーデン (→ 愚記事:ローディーガーデン 

ニュースでは;

インドを訪問している天皇皇后両陛下は、1日、首都ニューデリーの公園を訪れ、歓迎のため集まった大勢の市民らと交流されました。

と報道された。しかし、どの公園かは報道されていないものもあった。 

なお、プラナキラでの慰霊・献花の行事はないらしい(関連愚記事;1942年のデリーに、3000人の日本人がいた。 英国管理下、106名が抑留中死亡[ソース]  )。

▼ インドでの報道;

・ Japan's Royal couple at Lodhi Gardens

・ Google Indian News

There is no intention whatsoever to counter China through the visit's political significance. The visit is non-political," Sakutaro Tanino, Press Secretary to the Emperor, said.

● 蛇足、 日印マンセー!


愚記事; 日印弁当

 


今日もつくばで、 炎上処理とつくばの地理・歴史

2013年11月03日 19時51分27秒 | 筑波山麓


 国土地理院 までのご案内 (本家サイト) 

■ 炎上した仕事の後始末のため、3連休は仕事だ。 でも、朝から晩まで実験する必要もない。さらには、誰もいないので、気が楽。 メールも電話も来ないし。 3連休二日目の今日は午前中に、実験。 実験といったって、~窓に並べたフラスコ瓶に、月の雫集める~ ような優雅なものではないのが残念。そもそもフラスコなどといった上品な実験器具も、今日は、使わない。 大量合成のやりおなしである。大きな装置を使うのだ。大量の薬品を使うのだ。

やっていることは下記のごとし;

・理系の研究というのは、大半が作業だ。朝9時から夕方8時まで、機械を使って試みる。

・たいていは、実験機械を大きく強くする、ということしか考えつかない。

美術博士 純丘曜彰教授のドイツ大学講義日誌殿、ブログ記事:考える、という仕事

そして、

・そんなのは、民間企業でやればいい。

そうなんです。 やっています。 でも、ひとつ大前提条件があるんです。

・役に立つこと ・お金になること  (関連愚記事;  ・役に立つこと ・お金になること ・職にありつけること ) 

儲からなければ、いけないのです。 カネ儲けです。 難しいです。 つらいです。

▼ 午後は、西大通り沿いにある、国土地理院の企画展「つくば ときの記憶」 を見物にいく。

北海道のように原野に新しい街を作る方が、まだ楽なような気がする。

つくばの学園都市の現在の複雑さは旧来の伝統的村落に人口都市を上書きしてできたことにもある。

もっとも、このことは予想されていなのだろう。だから、比較的人や村落のない地域を一生懸命選んだのだ。

それが、今のTXつくば駅を中心とする地域。 地理的には台地で、水の便が悪く、田んぼはもちろん、畑も少ない。土地利用は雑木林。

旧来の道路(橙茶色)に都市計画での新規道路(青色)。

中心部(東西南北大通り)は整然としているが、周辺は古来の道で、むちゃくちゃ。

▼ 歴史 

地理に歴史を見るのは楽しい。古い地図と新しい地図を比べるとその地域の変遷がわかる。

知らなかったこと。 つくばは松林で有名である。 っていうか、昔、移転で東京からつくばに来た人たち(現在の年齢65-75歳)は、しばしば、「昔は、松林しかなかった」という。

例えば、赤塚公園の松群は、学園都市建設の時に、従来の松林を残したものらしい。

ソース

で、その松林はつくば固有のものではなかったと知る。 すなわち、江戸時代まではこのつくばの台地は落葉樹が植生していた。近代に入り、東京が発展し、東京での燃料需要が高まった。その当時の家庭用燃料は木炭だ。それで、つくばの台地の落葉樹は切られ、木炭と化した。その後に植林されたのが、松というのだ。だから、この松も近代以降の姿なのであろう。

 ソース