いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

『江藤と大江』来た

2015年02月27日 22時46分25秒 | 

14時間の賃労働から帰ったら、小谷野敦博士の『江藤淳と大江健三郎』が届いていた。Amazonで事前予約していたのだ。

ぱらぱらめくってみたら、ゲロ吐き江藤を介抱する大江の話が出ていた(P138)[関連愚記事]。

なお、パラ見で、小谷野敦博士が海城学園に感謝していた。そして、冒頭に地図がある。その地図には江藤の市川の借家は出ていない[関連愚記事]。


概して言うと、既に敗戦後長い年月がたっているのに、江藤は自分の周囲だけを「戦前」にしておこうとしているからである。しかも海城学園の理事だったのだから、あの野蛮な学校にいた私としては怨恨すら感じる。

岸田秀と江藤淳の『正論』での対談(これは単行本に入っていないのではないか?)がフォローされていた。

今夜は酒っこ飲まないといけない。

さて、通販で買ったこのお品、電池は別売りなのか?最初から入っているのか?分からないので、とりあえず、充電して寝る。

■ 団塊の残飯

おいらが中二病だった1980年代初頭、古本屋のゾッキ本ワゴンで拾った本。当時、上画像のような本が 捨てられていた 売られていた。

そして、そういう古本屋のゾッキ本ワゴンには三島由紀夫の写真集『薔薇刑』も二束三文で売られていたのを、おいらは見た。買っとけばよかったよ。といっても万が一お金を持っていたとしても『薔薇刑』は買わなかっただろう。なぜなら、いたいけな当時のおいらは本当にショックを受けるくらいdisgusted!(関連愚記事)

これらの古本は元々団塊の世代の人たちが売りはらったものと推定される。団塊の世代の人たちが捨てた本で、おいらは育ったのだ。


■ 今週の 守 破 離

小谷野敦博士の『江藤淳と大江健三郎』の2/3を読んだ。

もちろんこの書は、「他人の伝記作成とは己の自分語りを臆面もなく織り込むことではないのか!」、という書である。

しかも、二輪車プレーである!

江藤淳や大江健三郎など露も知らないが、小谷野敦博士を大好きな当世「十八君」、あるいは「十八さん」にも読める。

江藤がdisられていることはともかく、小谷野敦博士は大江からも「離れた」と書いている。その理由が、かなりポリティカル・コレクトネス系、あるいは、常識人的感性による理由である。

と、もってまわった表現だとわかりずらい。 

小谷野敦博士は、大江健三郎がおまんこにコカ・コーラの瓶をぶちこむ/挿入することを想像したことを、許せなかったらしい。

小谷野敦博士、『江藤淳と大江健三郎』には、小谷野敦博士がいつ・どのように江藤や江藤を読んだのか、そして、離れていったのか、書いてある。

なお、江藤淳と大江健三郎を「破」る、すなわち、すばらしい文学作品、すばらしい文芸評論を世に出すことを、全国125万3千325人の小谷野敦博士ファンは待っているだけである。

ところで、愚記事で小谷野敦博士の『江藤淳と大江健三郎』には両者が「支那皇帝」に会う話はでないだろう(愚記事)と予測しました。
愚記事;小谷野敦博士、『江藤淳と大江健三郎:戦後日本の政治と文学』には書いてないだろうこと。いつものように、愚ブログでは奇を衒ってみる

予想が外れました。 出てました。

▼ 3/1

全部読んだ。 誤字脱字はひとつ見つけた;

1984年に大江が中国に行ったこと。上海で巴金にあったと書かれている。

p284の巴金のフリガナ。巴金は、 き ん。 native pronounciation主義を採っても、Bā Jīn であり、hの音は絶対関係ない。

▼ 大江健三郎が核戦争などによる「全的滅亡」に性的興奮を覚えているのではないだろうか?という指摘を小谷野敦博士はしている。

この指摘の先例は;

わたしには、大江健三郎が、ソ連の金縛りにあって、ソ連の限定核戦争用ミサイル「SS20」に攻撃され、日本人として滅亡することに、無意識のうちで<法悦>を感じているのではないかと思われてくる。

というものがある。

吉本隆明だ。『反核異論』、「反核」運動の思想批判、(1982)に書いてある。

なお、「全的滅亡」という語は晩年近くに江藤が西郷論で使った言葉で(もちろんこの辺のことは『江藤淳と大江健三郎』に書いてある)、小谷野敦博士 が大江を論じるときに「全的滅亡」という鍵言葉を用いたのであるから、江藤と大江は「全的滅亡」という点で交わることとなる。この江藤と大江と「全的滅 亡」を考えることは重要だと思う。


吉目木晴彦、『ルイジアナ杭打ち』について知ったいくばくかの公知情報

2014年07月20日 20時07分23秒 | 

吉目木晴彦さんという作家がいる。作品は多くないが、発表作がのきなみ重要な賞を取っている。

『寂寥郊野』で第109回の芥川賞 (吉目木晴彦:wikipedia

『ルイジアナ杭打ち』(1988年出版)という作品はおいらにとって印象深かった。1997年に読んだ。

吉目木晴彦さんの自伝的小説だ。自伝といっても子供の頃だ。

親の生物学者に連れられ1960年代の米国、しかもまだ人種差別の雰囲気が残る南部での思い出である。

ルイジアナ、バトンルージュ。

『ルイジアナ杭打ち』は、戦後まだ20年での、「敗戦国」から来た日本人のアメリカでの生活の一端を描いている。

出てくる日本人男は学者であり、出てくる日本人女たちは「戦争花嫁」だ。ただし、日本人学者の妻を除いて。

『ルイジアナ杭打ち』はいろんな視点から読める。

そのひとつが、戦勝国軍人の敗戦国民への視線だ。

この『ルイジアナ杭打ち』でかなり目立つ登場人物である元戦車隊長のジェンキンスさんが逮捕され、連行されるとき、主人公(私=ヨシメキ、現地での通称ハリー = 事実上、 吉目木晴彦さん )に叫ぶ;

「ハリー[1]はいいヤツだよ。でもこれだけは忘れてないで欲しいな。ワシらは昔あんたらの国と戦争をして勝ったんだ」 
『ルイジアナ杭打ち』

[1] ハリー: 吉目木晴彦さんの米国での通名= ハリーさんの御尊顔はこちら→google画像[吉目木晴彦]、 ジミーさんはこちら→google画像

これとは別にもうひと場面ある;

 一九六六年のことだった。
 ある日、大学構内で起きた出来事、ごく些細な出来事に過ぎなかったし、それで誰かがあからさまに傷つけられたというわけでもないので、今では両親もそんなことがあったのをすっかり忘れてしまっているのだが、私は覚えている。あれは初夏の夕暮れでまだ表の明るい自分に、学生ユニオンの裏側にある庭を父と母と一緒に歩いていた時だった。昼間降った雨のせいで、鏡の塔のように夕陽を乱反射する大きな菩提樹の木の陰から、白い制服を着た学生がふたり、肩を揃えて歩いてくるのが見えた。
「士官学校の生徒だよ。見てごらん・・・・こっちの方へ曲がってくるから」
 ルイジアナにいる間、私の両親はよく第二次世界大戦の話をした。(中略) 
 父(略)は海軍兵学校で第二次世界大戦の終わりを迎えた。
 (中略)
 あの日、父は私に士官学校の生徒の足許をよく見ろと言った。径に沿って曲がる時にもふたりの足並が乱れないのを見せようとした。
 「訓練でああなるんだ。自然に足並が揃う。私もやったんだぞ」
 父は私と並んで実演してみせた。そうじゃない、膝を曲げないんだ。
 士官学校の生徒達は私達に気づいた。私は彼らの様子をじっと観察していた。やがてふたりとすれ違った。その時、ほんの一瞬、彼らの咎めるような不快そうな視線で父を見やった。
 どうしてだか今でもハッキリ覚えている。
 日本は戦争に負けてよかったのだというのが私の両親の一致した意見だった。勝っていたら軍部が威張ってどうしようもなかっただろう。
 かつて毎夕 ルイジアナ州立大学の構内を散歩していた頃の私は、自分の父祖達が以前自ら負けてよかったと言うような戦争をしたのだと聞かされたものだった。
『ルイジアナ杭打ち』

■ 戦勝国軍人の敗戦国民への視線の話から、離れて、上記引用の中の;

日本は戦争に負けてよかったのだというのが私の両親の一致した意見だった。勝っていたら軍部が威張ってどおうしようもなかっただろう。
 かつて毎夕 ルイジアナ州立大学の構内を散歩していた頃の私は、自分の父祖達が以前自ら負けてよかったと言うような戦争をしたのだと聞かされたものだった。

このくだりはよい。 戦後日本というのはこういう気分が支配的であったのだ。負けた結果の戦後はいい世の中だ、という気分が支配的だったのだ。

 「自分の父祖達が以前 自ら負けてよかったと言うような戦争をしたのだ と聞かされたものだった」

別においらはこの海軍兵学校出の元ぬっぽんB & B = bed & brackfast =Best and Brightestの売国的言動、あるいは、敗北主義的言動を責めているわけではない。

おいらだって、そうだ;  ありがとう、アメリカ。自由です。快適です。いつもおばかなことを書いても、おまわりさんに捕まりません。

これが、戦後だ。 

でも、海軍兵学校出身者がこれだけ言明した文章をおいらは見たことがなかった。

蛇足ながら、この時(1945年、昭和20年)のぬっぽんの B & B  は、 海軍兵学校生徒であったと歴史は伝えている。

 日本が戦争に負けてよかったのだと言ったとされるのはフィクションかもしれない。でも、この主人公の父親、すなわち海軍兵学校75期生の吉目木さんは人物を特定することができる。ネットの公知情報によってである。

 海軍兵学校出身者は名簿が公開されている。勝手に公開されているといってもいいのだろう。しかも、ネット上にでもだ。

『ルイジアナ杭打ち』には主人公の家の名字がヨシメキと書かれている。

⇒ 海軍兵学校75期生の名簿の吉目木さん 

どうやら、この「日本が戦争に負けてよかったのだ」と発言したと"作り話"=小説に描かれている海軍兵学校出身者は吉目木三男さんらしい。

そして、さらには仙台の出なのだ。知らなかった。吉目木というのは仙台伊達家家臣のひとつの名字[1]なのだ。

[1] 仙台藩一門 涌谷要害伊達(亘理)氏の家臣に吉目木の名が見える。

竹雀1級の試験対策には、姉歯ばかりでなく、吉目木も注意苗字だったのだ。

なお、1966年に東北大学から学位を受けている。『ルイジアナ杭打ち』は1966年、1967年の頃の出来事だ。


ソース

すなわち、昭和20年10月付で卒業した海軍兵学校75期吉目木三男さんは、ゾル転して、故郷の東北大学で生物学を学んだのだ。おそらく、1966年(昭和41年)6月に学位を取ったので、アメリカの大学に研究員として雇われる資格ができたのであろう。そして、渡米。

小説『ルイジアナ杭打ち』では1966年春には吉目木三男さんは既にルイジアナ州立大学に出仕。辻褄をあわせるのなら、吉目木三男さんは既にルイジアナ州立大学に出仕中に一時帰国して、「論博」審査を受けて、学位取得、ということか。

つまりは、敗戦時は海軍兵学校で海軍将校になることに頓挫した吉目木三男さんはゾル転して、生物学者として学位を取って、旧敵国に出稼ぎに行って、士官学校生徒を見つけ、つい自分についての追憶に耽ってしまった結果、不快そうな視線を射られたのだ。

と、ブログでもtwitterでもほとんど言及されることのない『ルイジアナ杭打ち』について書いてみた。

蛇足ながら、海軍兵学校未卒→転々→東北大学で哲学の徒、についてはかつて言及した。→日帝海軍最年少の復員兵、あるいは日帝廃棄物; 木田元さん私の履歴書


なつかしい本の話、村上春樹、『風の歌を聴け』

2014年03月12日 20時30分25秒 | 

 実際この社会では、あらゆる行為がいつの間にか現実感を奪われてしまう。学生の暴力行為が、「革命ごっこ」としか見えないのは、かならずしもテレビのせいだけではない。彼らの反体制運動が、一九六七年秋以来過激化してとどまるところを知らないのは、彼らのあの手に届かぬものに対する欲求があり、なにかを経験したいという渇望が熾烈だからであろう。(中略) 間もなく沖縄・反安保闘争の挫折を主題にした小説が数限りなく書かれるであろう。そしてそれは、いわゆる「経験」が経験の影にすぎなかったという残酷な認識に到達したものでないかぎり、すべて私小説の実質感と抑制を失った”私小説の影”のようなものになり、しかも決して私小説の限界を超えることがあるまいと思われる。  江藤淳、 『「ごっこ」の世界が終ったとき』、初出、『諸君!』 1970年1月号

今日は都内に外勤だった。常磐線で、村上春樹、『風の歌を聴け』を読んだ。

(あわせて、呉智英、『読書家の新技術』、1982年刊行、も読んだ。その本で呉智英さんは「資本主義の会社に勤めている人。何の恥ずかしいことがあろうか。がっちり儲けて、そして読書をしてほしい」、と書いてあった。「ありがとう、呉智英さん」とサラリーマンのおいらはつぶやいた; 愚記事:1980年台前半、おいらが中二病に罹患し、こじらせていた頃、おいらは、背広着て、仕事に行く「サラリーマン」というものだけにはなりたくないと念じていた。

先日来の、"おいらが耽読した呉智英さんの本は、『封建主義、その情熱と論理』、『インテリ大戦争』、『大衆食堂の人々』の"初期三部作"(と勝手においらがよんでいる)3冊"と同時期に読んでいた本だ。

これらの本はおいらが、はたちくらいの時に読んだ本だ。村上春樹、『風の歌を聴け』は1979年の作品である。1986年に文庫本化された(と今からみればわかる)。おいらは28年前、村上春樹の『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』を読んで、びっくりした。こういう小説があるなんて。1986年だ。つまりは、初版よりかなり時間がたっていたのだ。この後、『ノルウエイの森』が出版される。バブル絶頂期。もし、おいらが最初に『ノルウエイの森』を読んだら、村上春樹を嫌いになったに違いない。だって、気持ち悪い。村上春樹を気持ち悪いと非難するひとが少なくない。理解できる。

村上春樹の初期3部作(とおいらが勝手に名付けている)、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』は、その気持ち悪るさとやや距離をおいていると思う。どういう点かというと、最近おいらが知った言葉でいうとこの3部作、特に『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』は「傷痕文学」なのだ。

傷痕文学とは文革で受難した者たちの回顧文学である。

つまりは、1960年末期の叛乱の時代とされる時期に大学で、どういう形であれ、紛争に巻き込まれ、場合によっては革命を夢想し、そして、挫折した男の話なのだ。村上春樹、『風の歌を聴け』には書いてある;

 十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。少し気を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える・・・ そんな気がした。

(違うページからの引用)

そして僕は機動隊員に叩き折られた前歯の跡を見せた。

なので、村上春樹のこれらの作品は、上記江藤が指摘する 「間もなく沖縄・反安保闘争の挫折を主題にした小説が数限りなく書かれるであろう。そしてそれは、いわゆる「経験」が経験の影にすぎなかったという残酷な認識に到達したものでないかぎり、すべて私小説の実質感と抑制を失った”私小説の影”のようなものになり、しかも決して私小説の限界を超えることがあるまいと思われる」 というのではなく、ちゃんと、いわゆる「経験」が経験の影にすぎなかったという残酷な認識を示しているのではないかと思う。

それにしても、『風の歌を聴け』は結局のところよくわからない。何かとても思わせぶりなところがあり、それを知的に探りあてることが求められているのか?実は、本当に経験の影なのか?のちに、また結婚詐欺の小説か!という突っ込みを出来させることになる村上文学。その嚆矢となる事例が『風の歌を聴け』には、早々と、きちんと書かれている (!!!!!!???????);

「ねえ、私を愛してる?」

「もちろん。」

「結婚したい?」

「今、すぐに?」

「いつか・・・・・もっと先によ。」

「もちろん結婚したい」

「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」

「言い忘れてたんだ。」

(中略)

「嘘つき!」

と彼女は言った。

●村上春樹が早大時代に何をしていたのか知らない。呉智英さんはがんばっていたらしい。それが宮崎学の『突破者』という本に書いてあるとwikipediaで知った。今度、見てみよう。

  

鼠が大学を去ったのには幾つかの理由があった。その幾つかの理由が複雑に絡み合ったままある温度に達した時、音をたててヒューズが飛んだ。そしてあるものは残り、あるものははじき飛ばされ、あるものは死んだ。    村上春樹、『1973年のピンボール』

とまれ、1980年代初頭は、1960年末期の叛乱の時代とされる時期に大学で、どういう形であれ、紛争に巻き込まれ、場合によっては革命を夢想し、そして、挫折した男で、その後、会社など組織に入らないで30歳を超えた作家・物書きが世に出始めた時期らしい。 おいらは、それらにぶつかったのだ。

*村上春樹の作品における海ゆかば、山ゆかば; よく出る日本兵の屍

村上春樹の作品は、当時としては浮世離れした「洒落た」バーや当時一部の趣味のいい人たちしか聞かなかったであろう(?)音楽やそれに似合う登場人物などがでてくる。そういう点で人気が出たとされる。でも、今日気づいた点。『風の歌を聴け』でも『羊をめぐる冒険』でも日本兵の屍が出てくる;

 25年前、ニューギニアのっジャングルには虫除け軟膏を塗りたくった日本兵の死体が山をなし、今ではどの家庭の便所にもそれと同じマークのついたトイレ用パイプ磨きが転がっている。  『風の歌を聴け』

日露戦争が始まると村からは五人の青年が徴兵され、中国大陸の前線に送られた。彼らは五人とも同じ部隊に入れられたが、小さな丘の争奪戦の際に敵の榴弾が部隊の右側面で破裂し、二人が死に、一人が左腕を失った。戦闘は三日後に終リ、残りの二人がばらばらになった同郷の戦死者の骨を拾い集めた。彼らはみな第一期と第二期の入植者たちの息子だった。戦死者の一人は羊飼いとなったアイヌ青年の長男だった。彼らは羊毛の軍用外套を着て死んでいた。  『羊をめぐる冒険』

▼ なお、wikipedia の呉智英の情報で、「(呉智英さんが)影響をうけたもの 西部邁など」、とある。変だと思う。西部邁の『大衆への反逆』は1983年刊行である。一方、呉智英の『封建主義 その論理と情熱』は1981年の出版である。西部の「大衆批判」、民主制への疑問よりよっぽど先である。この『封建主義 その論理と情熱』は公然と民主制を批判した書としては戦後出版史で他に先例を見つけるのが難しい書ではないだろうか? ただし、おそらく、当時は ネタ だろうと思われたに違いない。

もっとも、西部邁の『大衆への反逆』は「大衆批判」とは言え、実際は知識人=専門人批判であり、普通の庶民を攻撃するものではない。したがって、その点大衆食堂を経営する夫婦の下種な欲望を目ざとく指摘する呉の『大衆食堂の人々』は、実は、かなり過激である。 タブー=普通の庶民を攻撃するな!を侵犯する恐れがあるからである。


この夏、ユンガーの『労働者』の邦訳が出るらしい

2013年07月28日 19時17分08秒 | 

 

― しかしながら、ここには労働に従事していない原子が存在しないこと、我々自身がこの激烈なプロセスに心の底まで取り込まれていることを、快感の入り混じった驚愕の感情とともに察知するためには、この我々の生活自体を観察すること、完全に解放されてあると同時に冷酷な規則に縛られ、そして煙を上げて灼熱する領域、運輸の物理学と形而上学、モーター、飛行機、百万都市を備えた、この我々の生活自体を観察することで充分である。総動員は、人為的に実施されるというよりも、むしろ自ら生じると言った方が適切である。それは戦争と平和の双方において、秘密に満ちた逃れようのない要求の表現であり、我々をこの要求に服せしめるものは、大衆と機械の時代の中に置かれたこの生活なのである。かくして、個々の生活が全てますます明白に労働者の生活となり、また騎士の戦争、王の戦争、市民の戦争の後に、労働者(3)の戦争が続く。この戦争の効率的な構造とその高度の冷酷さとついて、我々はすでに二十世紀最初の大きな対決を通じて、予感を与えられた。 ― (エルンスト・ユンガー、『追悼の政治 忘れえぬ人々/総動員/平和』 [川合全弘 編訳]、の"総動員、III"、1930年)

Amazon

訳注 [川合全弘] (3) ― 労働者という語は、ナチス党の正式名称(国民社会主義ドイツ労働者党)の中に取り入れられている[こ]とからも分かるように、ワイマール期ドイツにおける流行語のひとつである。ユンガーにおける用語法の特徴は、第一次世界大戦の経験を背景として、労働者の概念が兵士の概念と重ね合わせて理解されていることであろう。言い換えれば、ユンガーは、総力戦の中で兵士が味わった個人的自由の喪失の経験に照らして、この語を、技術の急速な発展とそれが現代人の生活にもたら[す]否定的変化とをシンボリックに表現する語として用いている。


8月上旬刊行予定:ユンガー『労働者』

それにしても、ユンガーって「こないだ」まで、生きていたんだょ。; wiki [エルンスト ユンガー]

 9.11は見せてやりたかった; 労働者の戦争なんて、終わっちまったって。 鋼鉄の嵐 ! in a civilian area

▲ twitter [ユンガー 労働者]

▼関連愚記事;

Narble(犬理石)の崖の上で誰が踊る !? 

 

 


唱紅は、野心喚起の響き

2013年06月16日 19時43分34秒 | 

もうすっかり過去のニュースになってしまった。薄 熙来(Bó Xīlái 、和名(笑):はく  きらい) [関連愚記事] の失脚。大変な野心家であったが、中国共産党の権力闘争で敗れ、失脚した。その薄 熙来の「コピー」が、「毛沢東」になれなかった男、(google)である。

薄 熙来は、人民煽動と動員をひとつの手段として成り上がったといわれる。

「共同富裕」のスローガンを掲げて格差是正や平等・公平をアピールし、民衆をひきつけた。そして、大衆を動員し毛沢東時代の革命歌を歌わせる政治キャンペーン「唱紅」を展開した。「唱紅」の目的は古き良き共産党のアピールであったが、これが思わぬ懐古ブームを巻き起こし、人々から好評を得た。wiki

毛沢東時代の革命歌を歌わせる政治キャンペーン「唱紅」で人民を鼓舞、煽動し、自らの野心の手段としたのだ。そして、彼が煽動し人民をして「唱紅」せしめた響きで、薄熙来自身大いにその野心が励まされたに違いないのだ。

■ 30年ぶりに林真理子の本を読んだ。

30年前の本に書いてあった;


 私の少女時代というのは、父親によって実に複雑な色彩に彩られていた。
 幸福だったといえば嘘になるだろうし、不幸だったといえば、ちょっと言いすぎたかと口をつぐんでしまう。
 そんな日々を私はおくったのであるが、私の父親というのは今考えても本当にいいかげんな人物であった。
  「お父さんはとにかくあなたにそっくり。お父さんを見ていて嫌なところがあったら、それはそのままあなたの性格だと思いなさい」
 と私はよく母親に言われていたものだ。私のだらしなさ、根性のなさ、わがままなところは、すべてこの父親から受けつがれたものらしい。今にしてみれば、つくづくそれがよくわかる。 (「節操なき「男性像」が私を苦しめる」、林真理子、『夢見るころを過ぎても』 1983年)

▼  
 私の母はみんなに言わせると「貧乏クジをひいちゃった」女だそうだ。もうすでに年老いた彼女はきっとあのまま田舎でうずもれていくのであろうが、彼女の同級生というのがスゴイ。
政治家や実業家夫人などそうそうたるメンバーが揃っているのだ。
 私はこの母の友人たちに、幼いころからずいぶんと可愛がってもらった。特に上京してからは、親戚同様にしょっちゅう上がりこんで、夕食をたらふく食べさせてもらった後、おこづかいまでもらっていたのである。 (林真理子、 『花より結婚きびダンゴ』 1984年)

そして、今年(2013年)の新刊に書いてある;

 林真理子の母親は大正4年 (1915年) 生まれ。山梨という田舎ではめずらしく女子専門学校(いまの女子大) を出た。その後、相馬で女学校の教師をし、東京で旺文社に勤める。そこで、銀行員だった男性と結婚。林真理子の父のことだ。

 結婚後まもなく、満州の国策会社に転職した父と共に中国にわたり、商社に勤めていましたが、父が現地召集になった後で妊娠していることがわかり、昭和19年(1944年)に単身帰国して、故郷の山梨で男の子を生みました。
 翌年、終戦になっても、父は帰ってきません。戦後の混乱の中で、母は、生きていたら私の兄となるはずだった初めての子どもを病気でなくします。
 その後、二年たっても三年たっても、父は帰ってきませんでした。生活のために、母は、実家で古本を売り始めました。それが、私の実家が営んでいた林書店の始まりです。
 そして、父が生きているのか死んでいるのかさえまったく分からないまま年月が過ぎ、終戦から八年後、女手ひとつで店を切り盛りしていた母のもとへ、ひょっこり父が帰ってきました。翌年に私が生まれました(生死不明だった期間に父が何をしていたかというと、なんと共産党の傘下に入り、有名な日本人医師の下でプラセンタの研究をしていたといのです―)。
 私が生まれた翌々年には弟も生まれましたが、教養が深く働き者の母と、享楽的で、毎朝、中国共産党の革命歌を歌う変わったおじさんの父が、うまく行くはずありません。 (林真理子、『野心のすすめ』)

30年目の真実! 「毎朝、中国共産党の革命歌を歌う変わったおじさんの父」だったんだ。

毎朝の「唱紅」で愛娘の野心を育てていたのだ!

林真理子は『野心のすすめ』でいう;

* 野心を持つことを私がすすめ続けるのは、自分が本当に何も持っていなかったところからのスタートだったということには自信があるからです。

* せめて、正真正銘ゼロからスタートした私の話から何かを感じて、野心を持ってもらうことはできないだろうか―。それを信じて、再び本論に戻りたいとおもいます。

 うーん。 うそだよね。 正真正銘ゼロからスタートした私 

 「唱紅」で鼓舞、煽動されて育ったんじゃないか!

正真正銘ゼロからスタートした私  :実績がゼロでも、動機をもっていたのだ。その動機=野心の起源が何であるかが重要である。

 もちろん、「毎朝の「唱紅」で愛娘の野心を育てていた」というのは冗談であるが、林真理子が「野心」をもったのはその家庭環境によるところが最大因子に違いない。この「家庭環境」には上記の1983-4年頃の回想にもある母親の友達たちとの交流も含めてである。

(それにしても、「最近の若者」の野心の無さ、というのは、いいんじゃないの!? だって、言うじゃない、野に賢心なし、って[???])

▼ 唱紅と野心の果てに;

  
得意のひと     失意のひと

▼ まとめ; 唱紅と野心の果ては、あざなえるなわのごとし (糾える縄の如し)。


『おいらは君たちにブギを配りたい』、 昭和の成仏のために。

2011年10月27日 19時29分01秒 | 

笠置シズ子 買物ブギ Shizuko KASAGI,1950 高画質

おいらは君たちにブギを配りたい、 昭和の成仏のために。

1950年作品。 fabricated in Occupied Japan だよ。ありがとう!配給元のYouTube.

テレビがない時代に「テレビアン」って。

でも、おちが、めくらとつんぼって、「最近の「放送自粛用語」の体たらく、芸術を何と考えているか」、という問題ではなく、

笑いの質が下種なだけでしょう。やっぱ、敗戦ぬっぽんのめりけん風俗&関西風俗にふさわしい。

『僕は君たちに武器を配りたい』

 

『僕は君たちに武器を配りたい』という表題に一瞬でしびれ、ろくに情報も集めず、即座に取り寄せ。

『僕は君たちに武器を配りたい』

京大No1の授業!という思わせぶりの広告文句から、『切りとれ、あの祈る手を』(愚記事: ・役に立つこと ・お金になること ・職にありつけること)みたいな本だと、勝手に思い込む。さすがにこんな本とは思わなかったが、何かラディカル処世術と期待した。

来た。見た。全然違った。

ゲリラ戦。グローバル経済の時代。20年前までは"護送船団式"疑似資本主義でやって来た我らが 愚国 祖国・ぬっぽんに、本物のむき出しの「資本主義」が来る事態に至って、京都大学(など)の秀才ちゃんはどうすべきか!?という観点の本。 『君たちは 秀才ちゃんたちは、どう生きるべきか』という21世紀版だ。 

瀧本センセの本はひとまずおいて、キモイ自分語りをするならば、

20年前までは"護送船団式"疑似資本主義でやって来た我らが 愚国 祖国・ぬっぽんに、本物のむき出しの「資本主義」が来る今日の事態に至って、

おいらは、瀧本センセのご指摘なさる「奴隷の勉強」の"成果"の一部を労働力商品として資本家さまに売り、バイトとして、むき出しのグローバル資本主義のなか「尖兵」のバイト= 瀧本センセのご指摘なさる「奴隷」として、がんばっている。例えば、愚記事⇒草莽微賎の地球化

そんで、『僕は君たちに武器を配りたい』。大部分は「ヨタ」のオンパレードだ。

本書の基本的な方向と結論には同意する。つまり、20年前までは"護送船団式"疑似資本主義でやって来た我らが 愚国 祖国・ぬっぽんに、本物のむき出しの「資本主義」が来る事態に至って、どうすべきか?に対し、日本が蓄積してきた資本をもっと展開して、かつきちんとmanagementして、しかるべき事業を世界的に展開し、労賃の安い労働者とこれまでの既存技術を利用して、G⇒G+ΔGを実現せよということだ。そのためには、資本の適切な管理・運営が、つまりは投資活動が不可欠であること。

そして、投資活動にはリスク管理とリスク管理のための情報収集とその解析、判断能力が必要であることなどなど。

こういう、命題には異議はない。

でも、その論証がめちゃくちゃである。具体的には、ある擁護すべき命題が提示され、論証されのだが、論証の方法が事例報告である。つまりは、擁護すべき命題を肯定する事例が紹介されるのだ。でも、その事例採用がめちゃくちゃである。

一例として、「エキスパート=専門家は食えなくなる」という命題が提示される。でも、その論証に引っ張り出されのが、「石炭産業」である。どひゃー! おいらは、「エキスパート=専門家は食えなくなる」という命題はもっともだし、石炭産業も確かにその事例だろう。でも、この本の本義は「20年前までは"護送船団式"疑似資本主義でやって来た我らが 愚国 祖国・ぬっぽんに、本物のむき出しの「資本主義」が来る事態に至って、どうすべきか?」ではないのか? もっと、最近の適切な事例を挙げるべきだ。「石炭産業」の衰退っていつの時代だよ。 (この本では「石炭産業」も日本長期信託銀行の破たんもごっちゃに事例として引用されている。経済史的状況が全然違うのに。

例えば、反証として、たしかに日本でも石炭産業は衰退、全滅した。でも、当時石炭産業で潤っていた三井や三菱などの財閥は、石炭産業が絶滅しても別途産業で生き残っている。三井や三菱だけではない、麻生んちだって生き残っている。 (そして数十年後、東電、JALも生き残っているんじゃないのか!)。その石炭エキスパートは確かにその専門は陳腐化した。でも「財閥」内で異業種エキスパートに転換したのだろう。この転換が可能であった理由は石炭産業衰退の時代はまだ高度経済成長時代であったので、新しい産業分野が次々起き、慢性的な人手不足であったからだ。一度でも何らかのエキスパート=専門家になったものは潜在的に新しい産業への適応順応能力があったからだ。それと「財閥」の雇用慣行も理由だ。繰り返すと、これは高度成長期の特殊な経済史的状況でのこと。最近の技術が陳腐化した凡庸IT技術者は、確かに、「エキスパート=専門家は食えなくなる」。なぜかしら、石炭エキスパートもIT技術者もごっちゃに引用されている。

つまりは、「アメリカに行きました。ホストファミリーのボブはとてもフレンドリーでした。やはり、アメリカは自由でいい国だとおもいました」的な文章のオンパレードなのだ。すなわち、黒人差別題や貧困問題なぞ全く出ない、アメリカバンザイ!印象論みたいなものだ。

■そして、元・東大法学部助手、の運命は?

この瀧本センセは東大法学部助手から、マッキンゼーへという履歴とのこと。「東大法学部助手」という意味は何か?を書く。瀧本センセ本人も書いているように 「東大法学部助手」というのは大学院に行かなくとも「学者」コースに乗れるキャリアパスである。このキャリアパスは東大法学部に固有のものらしく、世間に知られている学者さまでは山口二郎センセ (関連愚記事)、佐々木毅センセ、そして何よりあの丸山 眞男センセ(関連愚記事)がこの 「東大法学部助手」さまである。

その 「東大法学部助手」さまが、武器、ゲリラ戦など思わせぶりな言葉を弄し、本を出したのだ。

元・日本一の秀才ちゃんが、「秀才ちゃん」を投げうって、なんかやってみましたというものだ。

ご丁寧に、取って付けたように、本書『僕は君たちに武器を配りたい』には、「 丸山 眞男センセ」モードかなんだか知らないが、吉野源三郎の『君たちはどういきるか』が出てくる。(どう生きたかたかって、インテリさまだか何だか知らないが、木偶の坊のように鉄砲かついで戦争さいったさ⇒愚記事:①鉄砲担いで。②:日帝学徒 だめだめgoogle

そして、「自分の頭で考えない人々はカモにされる」(本文157ページ)と書いてあるごとく、『僕は君たちに武器を配りたい』という表題に一瞬でしびれた、「自分の頭で考えない」おいらは、まんまとカモにされたのだ。

●でも、さんざんのヨタ話の後に書いてある;

社会に出てから本当に意味を持つのは、インターネットにも紙の本にも書いていない、自らが動いて夢中になりながら手に入れた知識だけだ。(略)資本主義社会を生きていくための武器とは、勉強して手に入れられるものではなく、現実の世界での難しい課題を解決したり、ライバルといった「敵」を倒していくことで、初めて手に入るものなのだ。

だそうです。

どうすりゃいーんだよ?! 学部3年生!

と、資本主義社会を生きていくための武器も貧弱だけど資本主義社会を生きて手にいれたよかったという画像は少しある。それが、愚ブログのカテゴリーの、インド、中国、北米の中にあるものかな。ありがとう!資本主義!

●関連リンク;

::星海社新書編集長(32歳)。「武器としての教養」というコンセプトのもと、ジセダイのジセダイによるジセダイのための新書をつくっています!!::⇒  編集者twitter

(続く)



 

 

 


パコ・ロカ、『皺』、あるいは、全員、銃殺刑だった・・・

2011年09月20日 19時44分51秒 | 

パコ・ロカの『皺』を読む。原著はフランスで出版されたマンガ。作者はスペイン人。表題の『皺』は養老院でのお話。よい。

息子夫婦に連れられ、老人ホームに入ることになった元銀行員のエミリオ。そこでは、たくさんの老人たちがそれぞれの「老い」を生きていた。やがて彼らは 「アルツハイマー」という残酷な現実と向き合うことになり……。大切な人の顔も、思い出さえも、なにもかもが失われていくなかで、人生最後の日々に人は何 を思うのか――。 まさに一本一本刻まれた「しわ」のように、さりげない描写を静かに積み重ね、2007年にフランスで刊行されるや話題となった表題作『皺』

というAmazonのお品書き。

『皺』のハイライト; tramposo!   いか@さま、ね!

  
Paco Rocaのサイトより。  右、上記翻訳本(訳、小野耕世[72歳]、高木奈々[30歳])より。

■『皺』もよかったが、おいらは、一緒に載っている『灯台』もおもしろかった。スペイン内戦に巻き込まれた/飛びこんだ青年のお話。

  

作者のパコ・ロカは、1969年の生まれ。生まれたのはヴァレンシア。ヴァレンシアは地中海に面した街。バルセロナの近く。1969年の生まれということはまだフランコ政権時代ということになる。つまり、フランコ総統が死んで、ブルボン王朝の王政が復古する1975年の6年前だ(関連愚記事; ・スペイン行った、2009 ・マドリードにおいてフランコ総統を始め,多くの人々から温かく迎えられましたが,■今日スペイン国王が来日)。

作者のパコ・ロカは、スペイン内戦の話がすこしでも公然と語られ始めた頃に物心がつき始めたではないだろうか?でも、スペイン内戦の話について、パコ・ロカは直接身近な人に聞いている;

インタビューに答えて、

当時つきあっていたガールフレンドのおじいさんが、実際に内戦に参加していた人で、当時の話を私にしてくれたのです。16歳で内戦に参加、血気盛んな若者だったので、故郷も恋人も捨て、未来に希望をかけて戦争に言った。そのおじいさんの本来の夢は、機関車の運転士になることだったのですが、内戦のせいでその夢はついえ、すべてが変わってしまいました。彼は共和国派だったので、当然敗者になってしまい、フランスに逃げるしかなかったのですが、ほとんどの人が国境で捕まり、強制収容所に入れられてしまった。(続く) 上記、パコ・ロカ、『皺』に掲載の作家インタビューより。

おもしろいのが、何よりパコ・ロカがフランスに来て、活動していることである。

この『灯台』は、スペイン出奔青年の歴史を超えた物語にほかならない。

Amazon; 皺 (ShoPro Books) [単行本]

パコ・ロカ、『灯台』を気に入った人にお勧め;

Amazon; ぜんぶ、フィデルのせい [DVD]

 

 


12世紀ルネッサンス、アリストテレス翻訳事情

2010年06月22日 19時03分55秒 | 

―2010年6月21日の筑波山麓の夕暮れ―

■『中世の覚醒』の原著"Aristotle's Children: How Christians, Muslims, and Jews Rediscovered Ancient Wisdom and Illuminated the Middle Ages"のアマゾンレビューに書かれた★★☆☆☆の辛口コメントを読んでみた。

ひとつの指摘はアリストテレスのラテン語への翻訳をギリシア語から12世紀前半にベニスのジェームスが行ったというもの。なるほど、wikiにもある→James of Venice

この指摘はアリストテレスのラテン語の翻訳にはアラビア語訳アリストテレス全集が重要であったというルーベンスタインの主張への反論。

■12世紀ルネッサンスのアリストテレスのラテン語への翻訳事情を改めて確かめる。

元ネタ;
1.クラウス・リーゼンフーバー、『西洋古代・中世哲学史』(Amazon
2. 『哲学の原型と発展 哲学の歴史I (新・岩波講座 哲学)』 (Amazon)

前者は『中世の覚醒』の読後購入、後者は積んどく物件。昨夏、札幌に退蔵していた本をすべて筑波山麓に引き取ったものに入っていた。四半世紀ぶりにまともに読まれる。

十三世紀の諸学問の興隆は十二世紀の西欧における知的関心と研究活動の開花に起因するものであるが、この間のアラブ人の哲学と科学の本格的な受容とアリストテレス全著作の翻訳は、この流れをさらに加速した。西欧では、十二世紀の中頃にアリストテレスの著作の翻訳が組織的に行われるようになるまでは、ボエティウスの訳で伝わった論理学書の一部分(「旧論理学」)以外のアリストテレスの著作は知られていなかった。一方、イスラーム世界ではアラブ人がすでに七世紀からギリシアの哲学と科学を受容し始めていた。ビザンティン帝国の領域であったシリアやエジプト、あるいはその周辺であったペルシアには、ギリシア哲学と科学の研究機関があり、それらにはイスラームによる征服後も存続したため、ギリシアの文献はこのような径路を通じてすぐさまアラビア語に翻訳された。アラブ人学者たちはこうして西洋のラテン世界よりも二〇〇年も早く、十世紀の半ばにはアリストテレスの全著作を手に入れていた。その後およそ一二〇〇年頃まで、アラブ世界はギリシア的な学問研究の中心地となったのである。
(中略)
 ラテン的な西方キリスト教世界が、アラブ人の科学と哲学、およびアリストテレスの著作といったアラブ世界の知的富をスペインのトレドやシチリアのパレルモで活躍した翻訳者たちを通じて受け入れ、消滅から救ったのは、ちょうどこの時期であった。また、十ニ世紀後半からは直接ビザンティンからもギリシア哲学の原点がもたらせ始め、それらのラテン語訳も行われた。

アラブ哲学とアリストテレス受容、 12 十三世紀のスコラ哲学とアリストテレスの受容、『西洋古代・中世哲学史』(クラウス・リーゼンフーバー)―

見た限り、『西洋古代・中世哲学史』にはヴェネティアのジェイムスはみあたらなかった。

一方、『哲学の原型と発展 哲学の歴史I (新・岩波講座 哲学)』の第4章、山本耕平、スコラ哲学の意味には、一 スコラ哲学における「アリストテレス文献」の翻訳の状況というドンピシャの項がある。

ボエティウスの紹介のあと、12世紀の話へ。

ヴェネティアのヤコブ(Jacob de Venetia)は一一二八年頃『分析論前・後書』『トピカ』『詭弁論論』をギリシア語テクストからラテン訳した。

とある。ヴェネティアのジェイムスは出てこない。一 スコラ哲学における「アリストテレス文献」の翻訳の状況ではこの後、トレドのアラビア語からラテン語訳への話となる。合わせて、シシリーのパレルモのヅレデリック二世の宮廷が翻訳所であった話。その後、

 アリストテレス文献のギリシア語原典からのラテン語への翻訳はロバート・グロステスト(Robert Grosseteste, 1175-1253)とメルベケのギヨーム(Guillaume de Moerbeke, 1215?-1286)によって完成された。

とある。木田元のいう、”トマス・アクィナスはフランドル出身のムールベーケのギヨームという友人のつくったラテン語訳でアリストテレスを読んでいるんですね。ギリシア語の原文は読んでいません”のムールベーケのギヨームだ。

見た限り、こちらにも、ヴェネティアのジェイムスはみあたらなかった。

▼問題はヨーロッパ人がギリシア語原典からラテン語へ翻訳するときに、アラビア語の註釈書の役割だと思う。現在の日本で古典ギリシア語から現代日本語に直接翻訳がなされている。だから、日本語人はプラトン全集だのアリストテレス全集などが読める。もっとも、ドイツ語や英語から翻訳したものでも日本語のプラトン全集だのアリストテレス全集はできる。ただ、明治初期にはじめてプラトンやアリステレスを知った日本人は直接古典ギリシア語を読めなかったはずだ。だから、ドイツ語なり英語を経由してプラトン全集だのアリストテレス全集の内容を理解したはずだ。

これは、ラテン語人の古典ギリシア語から直接翻訳に至るまでのアラビア語の役割が、日本語人の古典ギリシア語から直接翻訳に至るまでのドイツ語・英語、その他現代西用語の役割と同似である。それにしても、現代の日本人のアリストテレス学者でこの中世のアラビア語文献をも研究している人っているのだろうか?もっとも、このアラビア語の註釈書の大部が失われているらいいとも聞く。

▼ヨーロッパ人がギリシア語原典からラテン語へ翻訳するときのアラビア語の註釈書の役割の話に戻って、12世紀のアリストテレス・インパクトで形成されたのが"ラテン・アヴェロイスト"というグループ。アヴェロエスとはアラブ語文明のアリストテレス学者。そのアヴェロエスに影響うけたラテン語人のアリストテレス学者が,
Siger de Brabant (also Sigerus, Sighier, Sigieri, or Sygerius), (c. 1240 – 1280s),; 『哲学の原型と発展 哲学の歴史I』ではシジェ、『中世の覚醒』ではシゲルス。パリ大学人文学部の教授。信仰の真理と理性の真理の存在を認める「二重真理説」を認めた。カトリック教会とあつれき。のち、異端審問官に召喚される。


And, Can your bird still sing?

2009年09月14日 02時04分16秒 | 

君は、ブルジョアを見たか?

がきんちょの頃、その頃はすでにジョン・レノンが死んでいたのだが、それを受けて彼の伝記などがたくさん出版されていた頃、本屋で立ち読みしていた。

見た、ブルジョア一族集合写真。中心にジョン・レノンとオノ・ヨーコ。
たぶん撮影されたのは1970年代。

その写真を二度と見ていないので、当時の印象の記憶であるが、その写真にびっくりした。こういう人たちが日本にもいるのか!と。一族数十人が写っていたのではあるが、全く違う世界の人たちという印象を受けた。みんな、マンガのようなブルジョアの様相を示していた。もっとも、当時、本当のブルジョアが出てくるマンガなぞなかったのではあるが。

一歩まちがえると、なんちってビスコンティのマンガ映画みたい。その写真は本物なので、そう受け止めるしかないのだが、もしあの写真が映画の1シーンなら、世間からは、マンガ映画だろう!と笑い物になりそうな雰囲気。

もう一度見たいなあの写真。 オノ・ヨーコの出自を知らない人のために、→Wiki オノ・ヨーコ。 彼女は戦前にNY在住 (w)、そのころジョンは貧乏船員の赤子。

戦前日本のブルジョアって、世界で一番金持ちだったと経済史の人が言っていたような記憶がある([要]参照、w)。なぜなら、19世紀後半-20世紀前半には欧米には多少なりとも社会民主主義的風潮が高まり、むき出しの資本主義が抑制されはじめたからだと。でも、日本は違った。

日本の戦前エスタブリッシュメントでも、世界一金持ちの大ブルジョアと、近衛文麿ちのような華族とは状況が違ったのだろう。

この違いを考えるとなぜ公爵近衛が、左右の"貧乏人"の平準化運動に担がれたか、なにより自身が河上肇へのシンパシーを公表するパフォーマンスを行っていたか推定がつく。

『羊をめぐる冒険』の鼠は大ブルジョア子息

で、今日書きたかったことは、『羊をめぐる冒険』の"鼠"は大ブルジョア子息であること。そして、「全共闘」崩れらしい。そして、そして、最後は""を抱え込んで自殺する。で、『羊をめぐる冒険』のこのくだりを読んでいたら下記聴こえてきました↓;

When your prized possessions start to weigh you down
Look in my direction, I'll be round, I'll be round


(拙訳: 世間がうらやむあんたの大資産が、あんたをダメにし始めたら、
俺を見ろよ、あんたの周りにいるぜ)

↓こちらですが、映像がすごい。赤尾敏センセも映っています(0:44当たり)!
You tube; And your bird can sing

●この記事作成の動機は、『羊をめぐる冒険』を昨日来読んだことと、ポールもヨーコも「著作権を死後70年に延長しろ」といってるけどと知ってのことです。それにしても、ジョンは、イマジンでもpossessionに言及。 possessionコンプレックスかよ!とつっこみ。そして、<ヨーコも「著作権を死後70年に延長しろ」>が本当なら、greedyブルジョアに乾杯! 三つ子の魂なんとやら。


林達夫 IV

2009年07月28日 19時38分32秒 | 

南の島で見た虹

■ 今となっては誰も見向きもしない林達夫。

拙記事:
林達夫 I: 歴史の暮方の後で
林達夫 II: 栗の実、はじまりました。
林達夫 III: 海

▼ 例えばこのような文章:<文壇こぼれ話⑩> 取れなかった原稿⑦ 林 達夫さん 常務理事  岡崎 満義には、

そこは50坪くらいあったろうか、庭というより畑だった。戦時中、軍部や警察からにらまれて、まともな執筆活動ができない時期に、林さんは園芸雑誌に「鶏を飼う」「作庭記」など、いわゆる“思想”的論文からはなれた文章を書いて糊口を凌いでいたのだが、そのおおもとがこの庭だった。

これは、林達夫 I: 歴史の暮方の後で に書いてあるように、「事実」と異なることが1984年の林の死後、特に1980年代後半、には明らかとなっている。

陸軍参謀本部の注文を受けて対外情宣画報会社・東方社の制作のトップが林達夫であったことは、戦後必ずしも広く知られたことではなく、さらに当事者が長い間特に公表しなかったこともあり、徐徐に解明されたのは1980年代以降であった。山口昌男がこの東方社-林達夫を知った経緯は、林達夫 III: 海に書いた。

■今日は、渡辺一民が1988年に出した『林達夫とその時代』に書いてある、渡辺の「東方社-林達夫」問題の認識の仕方をコピペする。Amazon: 林達夫とその時代

 わたしはつい最近、八方手をつくしたすえやっと『FRONT』を五冊だけ手にとって見る機会に恵まれた。「1~2」と記されている「海軍」号、「3~4」の「陸軍」号二冊、「5~6」の「満州国建設」号、「8~9」号の「空軍」号で、「海軍」号はドイツ語版、「陸軍」号は中国語版と英語版、「満州建設」号は英語版、「空軍」号は中国語版という内訳である。A3判というが、これほど大判の雑誌には、一八九八年四ヶ月だけつづいたフランスの諷刺週刊誌『ル・シフレ』の合本以外わたしもこれまでお目にかかったことはなく、それを見るのに大きなテーブルのうえに拡げて地図をまえにしたように覗きこまなければならなかった。いまでこそその一冊、中国語版「陸軍」号をとりあげて、この「幻のグラビア雑誌」の性格をこの眼でたしかめてみたい。
 雑誌は左開きで、表紙はすでに聞きおよんでいた小西録の《さくら天然色フィルム》の最初の使用によるものであろう、色は全体として青みがかかり、軍刀を手にパイロットが飛行機の昇降口から出てくるところが正面から写されている。表紙うらの見かえし左ページのまんなかに金色の星印がおかれて「亜細亜的礎石―日本陸軍」と大きな文字が印刷され、右ページにはお濠端からとった二重橋の写真だ。次をめくると見ひらきページで、左上段に横にゴチで「一九四〇年的亜細亜風景」と大書きされ、そのしたに左から帯状に三列、右ページまで食いこんで一三枚の小さな写真がならべられ、その一枚一枚に雲崗石窟、万里の長城、ゴビ沙漠、蒙古の草原、上海市街など占領地域がうつり、右ページには写真の帯を中断して中国の地図が拡がり、その中国大陸と向かいあうかたちで、防寒具に身を固め銃剣をもって立つ歩哨の上半身が配されている。つづいて「一八四〇年鴉片戦争」と印刷されて当時の中国地図と絵四葉がならんでいる見ひらきページ、頭に「再請問:日本是不是亜細亜的侵略者?」と活字がならび日本を含めた極東地図で埋められたおなじく見ひらきページ、そのあとの「日露戦争」という大見出しで、大山元帥の法典入城から乃木・ステッセル会見の場面までの六葉の絵と、ロシアからのびた黒い魔手が日本を囲んでいる極東地図を収め、細かな文字で日露戦争の原因を説明した片側びらきで都合三ページの見ひらきがくる。 (略)

 こうして五冊のグラビア雑誌を丹念に見おわったあと、わたしはあらためて『FRONT』という刊行物の意味について考え込まされてしまった。これが海外向けのものであって日本国内ではほとんど流布されなかったということが、その刊行に軍がかならずしも協力的でなかったということが、あるいは本格的で芸術性の高い作品によって編集されていたということが、それが戦争遂行のための有効な手段のひとつだったという事実の重みにたいして、いったいどれほどの関係を持つことなのだろうか。そんなことはまったくかかわりなく、『FRONT』は芸術的にすぐれたものだっただけに、いやそうであればあるほどますます完全に、その担わされた使命を期待どおりにはたしたにちがいないのだ。とすれば、いかなる事情があったにせよ、それを企画し制作した人々にはやはりそれなりの大きな責任が生じるのではなかろうか。そしてわたしの脳裏に反射的に浮かんできたのは、執筆停止命令をうけて東京市社会調査課千駄ヶ谷分室の臨時雇となり、四二年の《日本文学報国会》には恥をしのんで入会を申請し、敗戦直前には世田谷船橋で圧延伸張工として働かねばならなかった中野重治のことであり、脱獄して訪ねてきた旧知の高倉輝に外套を貸したただそれだけの理由で投獄され、敗戦の一ヶ月半後疥癬と栄養失調で獄死しなければならなかった三木清のことであった。その三木清の死後林達夫はこう語っている―「私が多少とも交渉をもった非合法時代の共産党員は、野呂栄太郎にしろ、島誠にしろ、亡妹にしろ、そしてTにしろ、何度もつかまりながら、つひに一度も私に累の及ぶやうな口供をしたことはなかった。これは逆にいえば、私はこれなら信頼するに足ると確信することのできない人々には、一切どんな因縁があっても心を許そうとしなかったためでもある。三木の寛宏な温かさと私の狭量な冷たさはこんなところにもあらわれているといえるだろう。―だが、それにしても、やはり運であった。」(「三木清の思い出」) もちろん《東方社》理事長であった林達夫は、中野重治のように恥をしのんで《日本文学報国会》への入会願を書く必要はまったくなかったのである。
 
 (意略: 林は東方社・『FRONT』刊行と同時に岩波の雑誌『思想』の編集もしていた。林は『思想』について”日本のジャーナリズムで、戦争中レジスタンスを事実上やっていた雑誌があったとれば、それはほかならぬ『思想』であったであろう”と自賛。  )

ともあれ林達夫はみずから選択したポリティックによって、みずからの砦を死守し、たとえ装われたものにせよ奴隷の言葉をいっさい語ることなく、戦時下のきびしい時代をみごとにくぐり抜けたのだった。


なぜ、林達夫?
渡辺一民がなぜ『林達夫とその時代』を書いたかの一端が"あとがき"にある;

それでも林達夫に焦点をあてて昭和の精神史を振りかってみよう

林達夫を見ると、昭和の精神がわかるらしい。そういえば、日本の軍国主義に対する批判の姿勢を一貫してくずさずに生きた林達夫。その思想はどこから来たか。戦前と戦後を通して「声低く」語った政治的・社会的発言の数々。 という神話が今でも流布しているが (これは上記:戦時下のきびしい時代をみごとにくぐり抜けた:ばかりでなく、戦後も死ぬまで事実上ばれず今に至っていることを示す)、実は陸軍参謀本部御用達の宣伝屋さんであり、戦後は全く口をつぐんで、文化人稼業を続けた林達夫の生き方について、渡辺一民は上記引用のごとく、中野重治と三木清を対照させ、林達夫の行き方・精神を浮かび上がらせている。

おいらとしては、林達夫の行き方・精神の参照として、どうしても、大元帥→ファミリー・グランパを思い出さずはいられない。やはり、まさに昭和の精神なのだ。

さらに、渡辺は、わたしにとっての林達夫の問題は、まさに西洋と日本ということにあった。そしてわたしは林達夫を取りあげることによって、十月革命以後一国の枠のなかで考えられる文学史も思想史もなくなったという私見を、日本の精神史のうえで立証してみようと企てたわけだった。と理由を書く。

文学史も思想史ではなく、政治・軍事問題の点なのだが;

林達夫はソヴィエト信仰は強く持っていたらしい。戦後の『共産主義的人間』に至るまでは。

林達夫問題とは直接関係ないのだけれども、参謀本部―ソビエトというラインは、今もって謎のライン。ゾルゲ事件で今でも未解明なのは、参謀本部の誰かが情報提供者であることは間違いないが、その情報提供者が誰であるか。

東方社は、参謀本部―ソビエトというラインの何かなのである。