いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

spin827、スピンハチニナナ

2012年11月04日 19時52分03秒 | 欧州紀行、事情

7月にアムステルダムに行ったとき(愚記事:アムステルダム再訪)、見た張り紙。 今だに、謎。

Google 画像 ⇒ spin827

▼ make it rain !!  ⇒ イメージ@google画像 外国語、特にスラングはイメージで自らのものとするのが肝要です。

(関連愚記事; なぜ、ミッフィーとモンドリアンはオランダで生まれたのか?

雨⇒お金、という連想が、幸せ。 雨 ①Have you ever seen the rain reign ②⇒ 御代の極東・ぬっぽん

■ クリーンルーム関連商売の店先らしい;

 


ろんどん、という表記、そして、パクリと父殺しと謝罪参り???

2012年10月14日 19時45分54秒 | 欧州紀行、事情

杖をついて英国議会に頭を垂れるじいさん。

まわりこんで、下から御尊顔を撮ってみた。

■ そのチャーチルと会って話をしたことがある日本人って何人くらいいるんだろうか?

少なくともその一人が、重光葵である。


昭和16(1941年)年2月、重光葵駐英大使とチャーチル首相

『重光葵手記』の最初が「霧のろんどん」という表題である。ろんどんとひらがな表記。

駐英大使として英首相チャーチルに会見した。

1941年2月24日
1941年3月10日
そして、1941年6月12日に離英する際の会見の計3回について内容が記されている。

(なお、重光離英の10日後に独ソ線が始まる。英国はドイツとの戦争の真っ最中であることはいうまでもない。1941年夏。重光がどうやって日本に帰ったかはまた今度)

さてこの二人、ひとつのドアの鍵穴をお互い覗きこんでいたらしいことが今となってわかってきている。

もっとも、先取はチャーチル。それを目ざとくパクったのが重光というところか。 (特に関連しない愚記事; 当時はすでにおいらは米英撃滅思想を確固したものとしていた。

大西洋会議、 大西洋憲章


―戦艦プリンスオブウエールズ艦上のチャーチルとローズベルト―

重光が離英した2ヶ月後、チャーチルは、戦艦プリンスオブウエールズ艦上で米国大統領と「大西洋憲章」(wiki)を宣言。

8項目からなり、その内容は要約すると以下になる。

  1. 合衆国と英国の領土拡大意図の否定
  2. 領土変更における関係国の人民の意思の尊重
  3. 政府形態を選択する人民の権利
  4. 自由貿易の拡大
  5. 経済協力の発展
  6. 恐怖と缺乏からの自由の必要性
  7. 航海の自由の必要性
  8. 一般的安全保障のための仕組みの必要性

▼ 大東亜会議、大東亜宣言

大西洋宣言を受けて、対抗したのが、大東亜会議(wiki)、大東亜宣言であり、その発案と実行をしたのが、重光葵である。首相は、当然、東條英機である (関連愚記事;  東條内閣は"ボルシェビキ"と外相が書いていた  )。大東亜会議が開かれた1943年11月には、大西洋会議が行われた戦艦プリンスオブウエールズは、開戦直後、大東亜への尖兵として登場したが、日本の航空隊により既に撃沈されていた。

大東亜会議(だいとうあかいぎ)は、1943年(昭和18年)11月5日 - 11月6日に東京で行われた首脳会議。当時の日本(大日本帝国)の影響下にあったアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。(wiki)

● さて、チャーチルと会って話をしたことがある日本人って何人くらいいるんだろうか?の問い;

一枚見つけた;

1953年、すなわちサンフランシスコ講和条約発効の1952年の翌年、敗残国・ぬっぽんの国際社会復帰の魁としての出来事だ。

プリンスオブやまと (当時) が、尖兵だったのだ。  noblesse oblige! 大変だったに違いない。 

なにしろ、これ↓からまだ約10年である;

   

少し関連する愚記事;  「捨て石」島の捨て犬事情 


倫敦参り・2012、あるいは、漱石(1900-1902)がロンドンで見なかったものども

2012年10月10日 20時07分14秒 | 欧州紀行、事情

9月はロンドンに行った。

デジカメ画像集から、「漱石(1900-1902)がロンドンで見なかったものども」を3点示す。

もっとも、伊藤博文が"ロンドンで見なかったものども"という表題でも成り立つのだが...。

▼ 「漱石(1900-1902)がロンドンで見なかったものども」

1.インド人


―バッキンガム宮殿前で記念撮影するインド人―

漱石はロンドンでヴィクトリア女王の崩御に立ち会っている(1901年)[1]。

 20世紀が始まったその年のしかも最初の月にヴィクトリア女王は崩御した。

そのヴィクトリア女王は、インド帝国の王でもあったことはいうまでもない。


 インド帝国

じゃあ、インドを支配していた大英帝国の帝都ロンドンにインド人がたくさんいたかどうかはわからない。

英国政府が一九一九年に制定した「外国人法」は、英国における外国人の雇用を厳しく制限するものであったため、第二次世界大戦直前の英国には、たかだか数千人のインド人が永住していただけだった。 (岡本幸治、『インド世界を読む』)

 2. 「屋台」の握りずし

ロンドンの中心街には日本食のファーストフード店があった。 Wasabi.

毎日食べるご飯が稲穂の実であると知らなかった元来江戸っ子であった漱石が、ロンドンでは絶対食べなかったであろうものは、握りずしである。

漱石来倫の19世紀末あるいは20世紀最初頭、倫敦(ロンドン)のちまたで握りずしなぞあろうはずもない。

21世紀初頭、あったょ、握りずし。たぶん、器械が 握った 成型したに違いない握りずし。

もつろん、元来、 高踏派 のおいらは、デジカメ画像だけ撮って、食べない。

(そういえば、20世紀末、エリザベス女王を元首と仰ぐカナダ国のエドモントンのホワイトアベニュー沿いのあるショッピングモールに「わさび」という寿司を中心とする日本食・"ファーストフード"店があった。 今でも、あるのだろうか?) 

3. 日本の小説の英訳本を読むロンドンっ子

ロンドンの地下鉄、tubeに乗ったら、村上春樹の1Q84を読んでいる人が向かいに座っていた。

● 漱石なかりせば、春樹は無いのか?という問いに、

江藤淳なら、「絶対そうだ!」と答えるに違いない。

でも、江藤は生前一度も村上春樹に言及してないように、おいらは思う。

やはり、ノーベル賞(西脇順三郎[候補]、大江健三郎)は苦手なのだ、江藤は。


[1]

 日記、漱石全集第一六巻

Mr. Bean と共に出なかったことが、せめてもの幸いではあった。

でも、今度のQueenの葬儀、Rowan Atkinsonはどうやって姿を現すのだろうか?

楽しみだ。

 

 


モンドリアン再見; 四半世紀ののちに

2012年07月22日 21時07分07秒 | 欧州紀行、事情

 
    ― ハーグ市立美術館、モンドリアンブース―


   ― ハーグ市立美術館―

オランダの辺鄙な街での出張業務の後、アムステルダムへの帰途、ハーグで途中下車。

ハーグ市立美術館はモンドリアンのコレクションをもっている。ただし、ニューヨークブギウギ(google)など最後記の作品以前のコレクション。習作からある。

●  もちろんハーグ市立美術館はモンドリアンコレクションだけではなく近世以来のオランダ絵画が展示してある。特に解説で印象深かったのは、オランダでは近世、painting industryが発達したのである、との文句。 industry!

さらには、現代美術の展示も強烈に行っている(例えば、図Z)。おいらが不意打ちを食らったのが、先日ネットで話題になっていた「ラジコン猫」。すなわち、交通事故で愛猫を失った"アーティスト"が、その愛猫を剥製にしてしかもラジコン仕掛けにして「作品」としたもの ( google)。 日頃、キチガイだなんだと奇を衒っているおいらもドン引きの作品。あったさ。全く、不意打ちに目に入ってしまった。その猫と目があった。どうやらビー玉の 目を入れ直してあるらしくまんまるとひらいた目を見てしまった。でも、それ以上見ないことにして、去った。もちろん、画像なし。

 図Z

■ 1987年

今回ハーグ市立美術館で見たモンドリアンコレクションを前回おいらが見たのは四半世紀前だ。1987年。宮城県立美術館 (関連愚記事:仙台参り【2009】 川内・宮城県立美術館 )。

当時の記録を見ると、おいらは1987年10月3日(土)に仙台市川内の宮城県立美術館で開催のモンドリアン展に行っている。午後3時。昭和の時代だ。記録を見ると、土曜の午前は授業に出ている。土曜は半ドンという昭和の時代!

モ ンドリアンをどうして好きになったか覚えていない。ただ、西部邁の『ソシオ・エコノミクス』の表紙がモンドリアンの『赤・黄・青のコンポジション』であっ た。この表紙でモンドリアンを知って好きになったのか、元々モンドリアンが好きで西部の本にひかれたのかは覚えていない。もっともこの本は1975年刊行 である。

このモンドリアンを表紙に採用したことについて西部邁は1987年に書いている; 

私は自分の最初の書物にモンドリアンの絵を使用した。一五年前の私がフォーマリズムの危険についてまだ無頓着だったともいえるが、それ以上に、形式化への要求が私にあって根深いものであることの確認でもあった。 (西部邁、『貧困なる過剰 ビジネス文明を撃つ』 第五章 形式主義・・・・ 意味の無化)

1987年当時、西部は1980年前半から『大衆への叛逆』を出し、大衆批判へ爆走していた。その頃、浅田彰と西部邁の対談で、浅田に"偉い先生も悪しき文学に目覚める例が多い"と西部を当人の前で揶揄した。果たして、『ソシオ・エコノミクス』という美しい本を出した西部も今じゃ出す本のタイトルが『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。』だ。ずんせいは悲しいのだ。読んでみると、おもしろかったけど。 でも、(何かから)一番"逃走"したのは西部邁センセなのかもしれない。西部邁センセが真正保守というのもおかしいし、生き方が全然真正保守じゃないと思う。"逃走"だろ。"逃走"。そして、「ゴロツキはおめぇ~さんだろう!」というつっこみも否めない。

● なぜ「近代」はオランダで生まれたのか? なぜ、ミッフィーとモンドリアンはオランダで生まれたのか?

        

なぜ近代はオランダで生まれたのか?     なぜ、ミッフィーとモンドリアンはオランダで生まれたのか?

▼ 1987年はNHKの大河ドラマで独眼龍政宗を放映した年。おいらは見なかった。

【政宗公とおいら】:会ったことはない。1987年・昭和62年、おいらは仙台にいた。NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」が 放映された年だ。その春、夏、おいらは仙台のお菓子工場(こうば)でバイトしていた。時給480円。その強欲なお菓子会社(従業員10人くらい)の社長夫 婦は大河ドラマによる仙台観光ブームに便乗してひともうけを企んでいた。白松がモナカから人を引き抜いて工場長(こうばちょう)とし、自分の店をたたんだ 元零細自営和菓子屋さんを職人1とし、和菓子屋の次男坊を職人2とし、ゆべしや笹かまパイなど既存の仙台菓子のコンセプトをぱくっては上記職人さんたちに 作らせて売っていた。(20年経ってその工場をセンチメンタルジャーニーしたら操業していなかった。当時からあった隣の雑貨屋に事情を聴くと、従業員との トラブルで操業中止となったらしい。あの強欲な社長夫婦を思い出し、当然と思った)。

そんな状況なので、その頃の仙台の政宗ブームは知っている。でも、おいらにとって伊達政宗っ て町内会長の先祖に過ぎなかった。全然興味なし。なぜなら、その頃のおいらは概念による全世界の掌握を試みていた (w!)のだ。町内会長はいいのだ。そもそもテレビなぞもってなかったし。仙台に住んでた頃は、青葉城址、大崎八幡宮、 瑞鳳殿など政宗ゆかりの名所は行ったことがなかった。なぜなら、彼は町内会長でしかなったからだ。なにせ、おいらは全世 界の概念的掌握を目指していたのだ

Wach Watch your step !】そして、40歳を過ぎた。全世界の概念的掌握どころか、何も掴めなかった。少年老い易く、学成り難し。筑波山麓でぼーっとしてたら、やってきた、伊達 政宗。仙台で未履修だった伊達政宗。筑波山麓で再履修せよ!だって。Watch my step ! 恐るべし、独眼竜。町内会長の逆襲。 (愚記事: 伊達政宗来ました; 霞ヶ浦湖畔・蔵福寺

▼ 2009年にはあった姿。今日もあれば四半世紀変わらぬ姿。

● 1987年からおいらがよく聞いている曲;

PSY.S - レモンの勇気 [PV]


アムステルダム再訪; スピノザ像参拝

2012年07月18日 21時14分52秒 | 欧州紀行、事情

 

  
- 図1. アムステルダムのスピノザ像 -

おいらは、アムステルダムに縁がある。今回で3回目だ。外国の街で、長期滞在した街を除いて、これだけ何度も行くのは、6回行ったデリー(愚記事群:インド記)や観光も含め行ったマドリッド(3回行った)以外では、このアムステルダムだ。

縁がある理由は明確である。おいらの携わっている技術そしてその科学がヨーロッパで盛んなのだ。なぜかしら北米では盛んではない。次に盛んなのはアジア。ヨーロッパで盛んと書いたが、特にオランダ。だから、オランダに縁がある。あと、技術そしてその科学という観点からは、Elsevierの本拠地がオランダにあることも多かれ少なかれ関連している。

はじめて、オランダに行ったのは2008年

そして、去年(愚記事:スピノザ、 意志の自由、 ルサンチマン)。

その去年、オランダに行く前に、思わせぶり風に、書いた。

▼さて、「近代」はなぜオランダで生まれたのか?という上記『近代ヨーロッパの誕生』に、セファルディ 商人の活躍が書いてあるのかは、これから読んでみる。そして、本記事のスピノザに関する情報は工藤喜作、『スピノザ』である。ところで、よく本出てるスピ ノザ像は、ハーグにあるもの。

 井上円了 ハーグに至り博物館を一覧し、スピノザ翁の銅像に参拝す

でも、アムステルダムにもあるらしい。 (愚記事: 流浪と近代、そしてそのゆくえ...、なにより、隠れ家

去年、これを書いた時、つまりアムステルダムへの出発前、アムステルダムでのスピノザ像を撮ってこようと考えていた。今から思えば丹念にアムステルダムでのスピノザ像の在りかを調べておけばよかった。なのに、「市立音楽ホールの横にある」ぐらいの情報でアムステルダムに行った。そして、勘違いの別の音楽堂の周りを探した。当然、スピノザ像は無かった。

代わりにこの画像を去年は載せた;

 (愚記事:スピノザ、 意志の自由、 ルサンチマン

今年は、ちゃんと調べて行った。あったさ。最上図、最下図。

(それにしてもこのスピノザ像(図1)、iron meidenかよ!?と秘かにつっこみを入れてみた。
← iron meiden)

アムステルダムでのスピノザ像は最近建立された。そしてこの建立は意義がある。なぜなら、スピノザはアムステルダムのユダヤ人コミュニティから追放されたのだ。このアムステルダムでのスピノザ像の建立は、追放された者の「復権」という意味を持つ。


- 正二十面体のオブジェを含めたアムステルダムのスピノザ像全体図 -
アムステルダム City Hall 横の運河のほとりにて. この日は雨だった。

Goole Mapのペグマンで、晴れの日のスピノザモニュメントを見てもらった;


GoogleMap    下の地図の「Spinoza Monument」


『キリスト教の真実』、あるいは、パリでアリストテレスが痴人の愛に墜ちるまで

2012年05月27日 19時40分43秒 | 欧州紀行、事情


 『トマス・アクイナスの勝利』 (部分)[1]、ベノッツォ・ゴッツォリ Benozzo Gozzoli
1471年作、 ルーヴル美術館


 竹下節子、 『キリスト教の真実: 西洋近代をもたらした宗教思想 』(ちくま新書)  Amazon
筑摩書房の喧伝ページ⇒「本書から学ぶべきことは たくさんある。」 『ふしぎなキリスト教』共著者 橋爪大三郎氏、推奨!

竹下節子、『キリスト教の真実』について、すこしつっこみ。 この本の意図はよくわからない。ただ、世間に流布しているある種の説というのは間違いであると訴えたいのらしい。そして、その間違いの説というのを愚ブログでもさかんに流布しているものだ。つまり、耶蘇・ヨーロッパ文明はアリストテレス全集をもっていたわけではなく、別に古代ギリシア文明の「正嫡」ではないのないか?というつっこみである。そして、アラブ・ペルシアなどイスラム文明から思想哲学を継承したことを隠蔽していると指摘してきた。例えば;

この建物は、イスラム教のモスクの上にキリスト教の大聖堂を作ったもの。つまりは、この地における、キリスト教のイスラム教征服の象徴。


過去一〇〇〇年近くも西ヨーロッパから姿を消していたアリストテレスの一連の著作を再発見したことを知ったのだ。新たに発見された古代の知識は、西ヨーロッパの知の歴史上、他に例を見ない衝撃を与えた。

という説。

竹下節子さんはこういう流布された俗説を一掃したいらしい。

でも、「あー、もしもし」と指摘する「エビデンス」があると、おいらは思う。
(ちなみに、エビデンスとはこの本『キリスト教の真実』で不自然に出現する"キーターム"である)

たとえば、竹下さんはいう;

前述したように、古代ギリシャ・ローマに蓄積されていた合理性を重んじる知性を、ローマ帝国の版図に広まったキリスト教が継承し、大規模な図書館を各地につくってきた。「キリスト教世界で失われたアリストテレスをアラビア語の翻訳のおかげで発見した」という「近代西洋史観」は明らかに誤っている。
 五五五年に設立されたヴィヴァリウム図書館には、アウグスティヌスの神学書と共にプラトンやアリストテレスの著作があった。プトレマイオスも収められていた。 (『キリスト教の真実』、p104-105)

間違いというより、不正確、あるいは意味をなさない記述である。プラトンやアリストテレスの著作があったが問題ではなく、アリストテレスのどの著作があり、そのあった著作がどれだけヨーロッパの神学者に影響を与えたかである。

現在アリストテレス全集と纏められている著作群において、12世紀以前にヨーロッパ人、つまりはラテン語人が知っていたアリストテレスの著作群は、『範疇論』、『命題論』(ボエティウス[480-524]がギリシア語からラテン語に訳した)。これらのラテン語翻訳に基づいて、ラテン語圏の神学者は活動したはずだ。一方、ヴェネティアのヤコブはアリストテレスの著作群のうち、『分析論』、『トピカ』、『詭弁論駁論』をギリシア語からラテン語に訳した。 ([2]ネタ元、「一 スコラ学における「アリストテレス文献」の翻訳の状況」、"4 スコラ哲学の意味"、山本耕平、新・岩波講座 哲学14、1985年)

だから、12世紀以前にヨーロッパ人、つまりはラテン語人はアリストテレスの全著作を知っていたわけではないのだ。竹下さんも五五五年に設立されたヴィヴァリウム図書館にというなら、どんな著作があったか調べて書いておけばよかったのだ。数行で済む。新書の制約などいうものはない。かように、この本はすべてにわたっておおざっぱである。 筑摩書房の真実!

やはり、のちラテン語に訳されたアリストテレスの著作群の一部はアラビア語から翻訳されたのだ。『自然学』、『天地論』、『気象論』など。そして、アヴェロエスの『二コマコス倫理学』、『修辞学』、『詩学』の註釈書もアラビア語からラテン語に翻訳した[2]。

「キリスト教世界で失われたアリストテレスをアラビア語の翻訳のおかげで発見した」というのは、あながち間違ってはいない。

ただし、おいらもわからないのだが、そもそもローマ時代のキリスト教(ローマンカトリックの世界)にアリストテレスのギリシア語の全著作がすべてラテン語に訳されたわけではなさそうだ。そうであるならば、キリスト教世界で失われたという言い方そのものが論理的になりたたない。

やはり、ローマンカトリックの神学者など知識人は12世紀以降初めて、アリストテレスの全貌を知ったのだ。

したがって、竹下節子、『キリスト教の真実』はおかしい。

▼トマス・アクイナスについての視点で考えてみよう。

もし、アリストテレスがキリスト教世界で読み継がれ註釈され続けてきたとするならば、13世紀になって突如として、トマス・アクイナスのような現在でもローマンアトリックの歴史に残る第一の神学者が現れるはずがない。トマス・アクイナスの出現は、アリストテレスの全著作のラテン語世界への流入の結果なのだ。アラビア語⇒ラテン語の翻訳センターがトレド

そして、ラテン語人がアリストテレスを読解するためには、先駆のアラブ哲学者アヴェロエスなどの註釈書が必要だったのだ。でも、その後ローマンカトリックの神学はこのアリストテレスのアラブ経由の受容を「闘争」と考えたらしい。勝ち負けの話にした。それが、上記の『トマス・アクイナスの勝利』 だ。 トマス・アクイナスの前で倒れこんでいるのが、「打ち倒された東方賢者、アヴェロエス」ということらしい。


 -「打ち倒された東方賢者」、 『トマス・アクイナスの勝利』 (部分)―
     (尚武 [勝負] にこだわる耶蘇をよく表している。) キリスト教の真実 !

ただし、ラテン語人がアリストテレスの全著作をラテン語に訳したのは確かに12世紀以降であるが、すべてがアラビア語からの翻訳ではないらしい。上記トレドとは別にシシリーにおいて、アリストテレスの著作群のうち、『自然学』、『生成消滅論』、『霊魂論』、『形而上学』、『二コマコス倫理学』などが、ギリシア語⇒ラテン語へと翻訳された。12世紀以降。

参考アリストテレス文献のギリシア語原典からのラテン語への翻訳はロバート・グロステスト(Robert Grosseteste, 1175-1253)とメルベケのギヨーム(Guillaume de Moerbeke, 1215?-1286)によって完成された。[2]

とある。木田元のいう、”トマス・アクィナスはフランドル出身のムールベーケのギヨームという友人のつくったラテン語訳でアリストテレスを読んでいるんですね。ギリシア語の原文は読んでいません”のムールベーケのギヨームだ。

これを読むと、トマス・アクイナスのアリストテレス読解はムールベーケのギヨームのギリシア語⇒ラテン語翻訳に依存しているととれる。

ただし、もし、トマス・アクイナスのアリストテレス読解にトレドルート、つまりアラビア語⇒ラテン語の翻訳が関係なくとも、"「キリスト教世界」がずっとアリストテレスを失わず保持していた"という見解は成り立たない。なぜなら、ムールベーケのギヨームのギリシア語原典の写本は12世紀以降にラテン語圏に入ってきたものだから。

▼この12世紀のアラブ経由のアリストテレス著作群のヨーロッパへの流入で、神学と教会には軋轢があり、その原因はアリストテレスの哲学だったらしい。アリストテレスの思想の影響で自然や論理を無視できないと悟った神学者と教会の軋轢。特にパリ大学。

しばしば、大学におけるアリストテレスの講義が禁止された。教会によるアリストテレス思想の排除。

▼ そして、痴人の愛

でもそんなアリストテレスもこうなっちゃうのだ。女性によるアリストテレス馴育。


ハンス・バルドゥング、『フュリスとアリストテレス』、ルーヴル
1503年作。

それにしてもこれが谷崎の元ネタなんだべか?

彼は、限りなく美しさがましてゆくナオミの肉体の、奴隷として生きていく。

今夜のまとめ⇒ 哲学は神学の婢である!

谷崎・『痴人の愛』とは、アリストテレスへの註釈(オマージュ)だったのだ。

アヴェロエスも真っ青だ。

恐るべし、谷崎!

 


[1]


 『トマス・アクイナスの勝利』 (全体)、ルーヴル

[2] 「一 スコラ学における「アリストテレス文献」の翻訳の状況」、"4 スコラ哲学の意味"、山本耕平、新・岩波講座 哲学14、1985年


受難; 耶蘇の真実、あるいは、i SAW her standing there!

2012年05月20日 22時42分50秒 | 欧州紀行、事情


-Martyrdom of Saint Julitta with a saw-
(聖ジュリッタ(母=her)の のこぎり引き による殉教)[部分]

ジュリッタとクイリコ母子の殉教を描く絵画(全体↓)


  ―『Altar frontal of Saint Quiricus and Saint Julitta from Durro』
      (ドゥーロの礼拝堂の祭壇板絵- 聖キルクと聖ジュリッタの殉教)
   バルセロナ、カタルーニャ博物館、ロマネスクアートのブースにて―

確かに、耶蘇は受難を核とする宗教だ。

例えば、われらがヤマトタケルは、剣を握り、鎧で腹部を護り、闘い、征服する。

それとは対照的に、イエス・キリストは腹部を晒し、無抵抗に殺され、そして追随者は受難する。

▼この絵((ドゥーロの礼拝堂の祭壇板絵- 聖キルクと聖ジュリッタの殉教)で、ジュリッタとクイリコ(キルク)母子はのこぎり引き、釜ゆで、斬殺、くぎ打ちを受ける。

ジュリッタは一体どうやって殺されたか?、むしろ分からない。

wikipedia;  Quiricus and Julietta

母ジュリッタは、 息子が最年少の殉教者の冠を得たことで神に感謝し、自分も信仰を最後まで捨てず、首をはねられ殉教するというお話です。(紀元304)

でも、正岡ってこれに近いかも???

それにしても、やはり世界史で最も人を殺したの「類」は、耶蘇類に違いない  

授難; 耶蘇の真実。   (バチカンとナチス

そして、授受難マリア。 恐るべし!耶蘇。 (一般のイスラム教徒への無差別攻撃容認 米軍大学、原爆が「前例」と講義


与太ネタ


  I saw her standing there !

I SAW HER STANDING THERE by The Beatles [IN MONO]


日本で見ないもの; ヴォルヴィック [ボルヴィック] いちご風味

2012年05月13日 16時58分40秒 | 欧州紀行、事情

おふらんすで、見つけたもの;


ヴォルヴィック [ボルヴィック] いちご風味@逆子生まれ;下記画像参照↓

おふらんすにあった。自販機にあった。

でも、自販機だけではないのだ。おふらんすのカフェで「ミネラルウヲーター」を頼むと、

"シロップ"を入れるか?、と聞いてくる。 びっくり。 スペインではないことだ。

なお、日本では、ボルヴィック レモン はある、と今ネット検索で知る。 

ただし、ほのかな甘みとレモンの香りが楽しめるらしいのだ。

かなり香りの強い"ヴォルヴィック [ボルヴィック] いちご風味"とは違うのだろう。

恐るべし、おふらんす。

■関連しない愚記事;

おふらんすをめぐるアホども 
昔はここで、ひそひそ話し 
・ 逆上する おふらんす語 教師
せめて、もっと人殺しの顔をして、「なんて土人の国なんだ!」といってみた 
一握のクスクス
・ アメリ:労働力の再生産


今日のお勧めブログ記事;

大学院に進学しても研究者と呼べる程の力を身につけていないから

企業も採用に踏み込んでこないのが今の現状だそうである。

かくして、就職は理系の場合

修士>学士>博士の図式 が成り立つ。

 そして、美しき誤解;

なにせ彼らは、語学力においても、

英語で書かれた文献を相当数読み読解能力が高い。

また、英語で論文を書いたり、英語で発表したりと

語学力には特筆すべき点が多々。

超・優秀なのである。 

↑ まつがい;

■さらにおいらも不思議に思うのが、読み書きできない博士。英語ができないのはザラとしても、日本語もろくに 書けない御仁も結構多い。論文書けない!報告書書けない!特許書けない!。どうやら背景には、上記マスター全入と同じく、ろくに選抜もせず、そしてまとも な教育もせず、しまいには実験だけさせて、教官が論文を書くということをやって博士をとっている人たちが少なからずいるらしい。公然の秘密なのだろう。勇 気をもって実態を書いているブログ⇒博士号、の意味。 (愚記事より)

参考愚記事: ・無駄な公共事業としての肥大化した大学院教育;子供だましのぼけ と 文部科学省大臣官房付のつっこみ


ピレネーを越えてみた、 【その2】

2012年05月09日 20時25分30秒 | 欧州紀行、事情

ピレネーを越えてみた、【その1】で、ハカにたどり着いたおいらは、5日後にペルピニャンにいた。ペルピニャンはフランスの地中海の街。

理由は、ピレネーを越えてみた、【その2】  を実行するためだ。


ペルピニャン


ペルピニャン

そのペルピニャンから、ヴィルフランシュ=ド=コンフランへはこの赤い列車でいった。

ヴィルフランシュ=ド=コンフランで黄色い列車へ乗り換えだ。セルダーニュ線。

セルダーニュ線は標高差が大きい山岳路線である。標高427mのヴィルフランシュ=ド=コンフランから標高1592mのペルシュ峠を越え、標高1143mのブール・マダム駅を経由し標高1230mのラトゥール=ド=カロル駅に到達する。ペルシュ峠の前後の区間の勾配は55パーミルと60パーミルに達する。Bolquère-Eyne駅は標高1592.78mのところに位置しておりフランス国鉄で最も高いところにある駅である。また途中に存在するフォンペドルス高架橋(セジュルネ高架橋)とカサーニュ橋(ジスカール橋)は歴史的建造物に指定されている。そのほか約20のトンネルがある。 」(wiki

そして、ピレネーです;

 黄色い列車の終点は、ラトゥール ド キャロル駅です。まだ、フランスです。
標高1200メートルの高原の盆地です。

ここまで乗って来たのはおいらども以外二人でした。


ラトゥール ド キャロル駅

まわりには何のお店もない。

20分歩いて、飯屋にたどり着く。その1同様その店の女主人も愛想がよかった。

デザート食べる暇なし。再び歩いて、ラトゥール ド キャロル駅へ戻る。


renfe(スペイン国鉄) とSNFC(フランス国鉄)が並ぶラトゥール ド キャロル駅。ここからトゥールーズへ行ける。そのための立派な列車(図右)。

左のレンフェの赤帽列車はバルセロナ行き。これに乗る。

ラトゥール ド キャロル駅を出たあと仏西国境を超える。そして、プチセルダ駅に着く。その駅ではスペインのpoliciaが列車に乗り込んできた(下図の立っている左からの二人)。おいらどもは”見た目”が外国人なのであろうからかパスポートの提示を求められた。

この後、バルセロナに直行せずに、リポールという街で途中下車。


 

この後、バルセロナへ、19:30には着いた。

 


ピレネーを越えてみた、 【その1】

2012年05月06日 16時11分36秒 | 欧州紀行、事情

ピレネーを越えてみた。と言っても、巡礼者のように歩いたり、登山者のようにピレネーの山に自分の手足で登ったり、縦走したりしたわけではない。ただ、ピレネーを越える乗り物で物見遊山しただけなのだ。ピレネーはフランスとスペインの境にある。フランス側からスペインに行った。フランスの町ポーからスペインのハカまで。

 
図左:3Dで示されたピレネー山脈。航空図からパクってきたので、赤線は空路。本文に関係なし。
図右:路線図。濃い灰色部分がフランス領、白の部分がスペイン。Pau(ポー), Oloron(オロロン), Jaca(ハカ), Huesca(ウエスカ), Zaragoza(サラゴサ)は街の名前。324とか654は時刻表での該当のページ。距離ではない。

行き方は、ヨーロッパの鉄道時刻表で調べた。トーマスクック。

ポー(フランス)からバスでオロロン(フランス)へ行く。オロロンからまたバスでスペインのカンフランクへ行く。カンフランクからは鉄道、スペイン国鉄のrenfeでピレネーを越えた平原の大都市サラゴサまで直通でいける。その列車は途中ハカやウエスカという町にも停まる。峠はオロロンからハカのあたり。おいらは、ハカで降りた。

ポーまでは朝一の航空便でパリから行った。ポーの空港は日本で比較すれば、鳥取空港や米子空港より小さく、閑散としていた。ポーの空港は郊外にあった。これから乗るバスが発するポー駅は街にある。空港から街までバス。乗客はおいらども以外ひとり。

ポー駅。昔はパリからポーを通りピレネーを越える鉄道がマドリッドまで走っていたらしい。

今はbus de substitutionである。12時20分発オロロン行き。

ポー駅のホームで見た猫。

ポー駅ホーム。

 
オロロン行きのバス。

バスの客は8人くらい。3人のグループの英米人(おそらく米国人)とフランス人。スペイン語を話している客はいなかった。

バスからの風景。まだまだピレネーには遠いが、地形は水平さを失い、丘陵地帯となっていく。

土地利用は牧草地。牛、羊が飼われているのが見えた。

バスは1時間弱でオロロンに着く。


オロロンの街。

 

オロロンでもバスは鉄道駅に着いた。

駅前に人影は見えない。次の仏西国境を越えるカンフランク行きのバスの出発まで1時間半あまり駅前のカフェで時間を潰す。本当は昼ごはんを期待していたのだが、カフェのおばさんは、「食べ物はないんだよ」( in 拙い [1] English)、すまなそうにいう。でも、「サンドイッチを買ってきてあげるから何がいい?」 in English と聞いてくれる。而して、パテ&ピクルスのフランスパンサンドにありついた。

2016後記:[1] なぜ、拙いと書いてしまったかというと、このあとおいらが聞きたい質問があった。そうしたら、このおばさんは、「それじゃ、娘を連れてくるよ」と言って、英語ができる娘を連れて来てくれた。今[2016]思えば、ここは、フランスだったのに。 フランス人は全く英語を話さないとうのはデマである。

ここまでポーからオロロンのバスの切符はフランス国鉄(SNCF)のネットのサイトで購入できた。

一方、オロロンからカンフランクまでの切符はフランス国鉄からもスペイン国鉄(renfe)のサイトからも買えなかった。

そもそも本当に運行しているのか!?とか少し不安だった。結局、バスの運転手さんに直接支払った。10ユーロ。

 

オロロン駅からカンフランク行きのバス。乗客は5人くらい。 そして、ピレネーです。

バスは渓谷を走ります。道は曲がりくねるということはありませんでした。画像は車中から撮影のためいいものがありません。仏西国境はトンネルで越えたようです。トンネルに入る直前にバスが事務所みたいところに寄りました。バスの運転手さんが事務所の人に何か言いました。おそらく国境事務所なのでしょう。乗客に対するチェックはなかった。

そして、カンフランク。およそ1時間半かかった。

カンフランク駅。廃舎。20世紀前半はパリ―マドリッドの鉄道で栄えたらしいです。

 

この画像の左に見える赤い車両がサラゴサ行きの列車。 安易で安楽な流れ旅を気取るおいらは、これに乗るのだ。 

列車の左の「掘っ立て小屋」で切符を売っていた。

このカンフランク駅の赤帽列車は(キルケゴールのいうところの)ヘーゲリアンであるとわかる。

なぜなら、「大伽藍を打ちたてた横の掘っ立て小屋」で運行しているから。

2両編成の列車で出発。

30分あまりでこの日泊る街ハカ(Jaca)に到着。18:23。

 

黒猫が出迎えてくれた。

ハカはオリンピックの開催地にも立候補するウインタースポーツの盛んな街らしい。夏は避暑地なんだろう。リゾートだ。そんな目的のホテルに泊まる。客はほとんどいない。中世の大聖堂がある中心街から歩いて20分ほど。

カッコーが鳴いていた。


【後記】 ピレネーを越えてみた、 【その2】  もあります。