いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

大日本帝国を亡ぼした男・近衛文麿;文民主導の国家総動員の対チャイナ全面戦争、盧溝橋事件、コミンテルン、尾崎秀実、ゾルゲ、中共の親

2020年07月07日 19時42分06秒 | 日本事情

7月7日、七夕。盧溝橋事件の日。愚記事、七夕、あの日、盧溝橋で会えた織姫と彦星@1937 で書いた;

今、もっとも検証すべき仮説が盧溝橋事件は「コミンテルン」が「絵」を描いたものであったこと。一方、日本の帝都は東京の政府中枢・首相官邸には「コミンテルン」の工作員が事務室を持っていたことは「史実」である。しかしながら、首相官邸に事務室を持っていたコミンテルン工作員の尾崎秀実がどう具体的に「支那事変」を拡大させていったかの詳細は不明である(愚記事; 日本政府 内閣官邸にコミンテルンがいた日々  )。

「コミンテルン」の話は、今では、ネットで珍しくもない。主に、我らがウヨが流している情報だ。でも、うわさによると、アカデミズムの史学会では、「コミンテルン」の話は御法度らしく、「コミンテルン」を口にすると学者生命を失うらしい、と口さがない京童が云っていた。もっとも、ゾルゲが「コミンテルン」であったというと、やはり、学者生命を失うかもしれない。なぜなら、ゾルゲは「コミンテルン」ではなく、赤軍の組織の構成員であったからだ。

昭和末期。今思うと、昭和末期には石井花子が生きていた。テレビのドキュメンタリー番組で、十代だったおいらは見た。石井花子は、東京での、ゾルゲの愛人である。その頃、支那事変、ひいては日米開戦は「コミンテルン」の策謀であったという説(三田村武夫、「大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義」)はあったが、ほぼ認知されていなかった。一方、支那事変、ひいては日米開戦は軍部/天皇制ファシズムによるものであるという歴史観が、支配的であった。史実としての近衛内閣の対チャイナ戦争拡大や国家総動員法などはその軍部独走歴史観では事実上「無視」されていた。近衛文麿は軍部ではないからだ。あるいは、近衛は強硬な軍部に抵抗したが、軍部が独走したという話になっていた。さらには、尾崎秀実は『愛情はふる星のごとく』を著わし、軍国主義政府の犠牲になった平和主義者であったという扱いであった。

◆時は流れた◆

それでも、「大日本帝国を亡ぼした男・近衛文麿」という歴史観は、中川八洋の一連の著作に認められる。しかしながら、『近衛文麿とルーズヴェルト 大東戦争の真実』は1995年であり、『大東亜戦争と『開戦責任』』は2000年である。昭和ではない。

◆非ウヨも◆

21世紀では、非ウヨ、(元?)左翼の人も「コミンテルン」策謀論を語る。特に簡潔によくまとまっているのは、鷲田小彌太、『昭和の思想家67人』(PHP新書)、2007年。11ページではあるがよくまとまっている。章立ては;

敗戦の思想ー尾崎秀実
1 日支戦争拡大の論理
2 コミンテルンの思想
3 国家走力戦体制ー国家社会主義
4 日米開戦ー敗戦の思想

 少し、コピペする;

 第一次近衛内閣が生まれたのは昭和十二年=一九三七年六月四日である。翌月七日、北京郊外の盧溝橋で日支の軍事衝突が起こったが、現地で十一日停戦協定がととのった。ところが近衛政府はこの機をとらえて、戦火の拡大を図ったのである。すなわち「北支派兵声明」を出し、巨額の軍事追加予算をつけ、「北支事変」を「支那事変」と呼称変更し、チャイナ全土に軍を進めようとしたのだ。しかも政府は、昭和十二年一月六日、「国民政府を相手とせず」という声明を発する。チャイナ政府とは停戦しない、チャイナ全土を制圧するまでは戦争をやめないという声明である。自ら泥沼戦争を買って出たわけだ。「北進」論から「南進」への国策転換である。
 この国策変更は、外的必然によって引き起こされたのではなかった。一部始終が近衛内閣の意志であった。近衛は「国民政府を相手とせず」の声明を、その五日前に開かれた御前会議で決まった早期講和方針を無視して、出したこともつけ加えておこう。
 この「南進」論を論壇で展開したのがジャーナリストであり、チャイナ問題の専門家として注目されていた尾崎秀実である。同時に尾崎は近衛のブレーン(顧問)であり、その政策に直接思想的影響力を行使できる立場にいた。(以下略)
鷲田小彌太、『昭和の思想家67人』(PHP新書)

一方、(今の人は全く知らない)菅孝行の『三島由紀夫と天皇』にある;

尾崎秀実[ほつみ]たちの諜報活動は、中国の日本軍が、「南方」に進むのか、ソ連領に向けて「北進」するのか、その動向を逐一ゾルゲを介してソ連に伝えるとともに、首相の近衛文麿に働きかけて「北進」をやめさせる一方、米英との緊張を高めることによって、中国侵略を抑止する方向に戦争の性格を誘導する戦略の一環だったと言うことができる。また、彼らは内政では、大政翼賛会に「一君万民」の統治実現の「希望」を託していた。 菅孝行、『三島由紀夫と天皇』


★ でも、なぜ?

昭和末期に共有されなかった認識;「尾崎秀実に入れ知恵された近衛文麿がチャイナとの戦争を全面化させた。戦争の責任は軍部や軍国主義者(ばかりでは)なく、戦争イデオロギーをもった文民政治家である。」がなぜ今広まっているのか?

冷戦終結、ソ連崩壊が原因ではないかと思いつく。例えば、今、ヴェノナ文書などで共産主義者の工作員であった人たちが明らかになっている。ノーマンとか。でも、ゾルゲ事件に関しては、上記の鷲田小彌太が根拠にする知見にソ連崩壊後の情報公開に基づくものはない。

なぜか? 思いつくのは、戦争責任を軍部だけに押し付ける学者勢力が衰退したからであろう。

「先の大戦で転向も含め共産主義者が、知的に、参画したこと」に言及することは、なぜかしら、はばかられていた。例えば、天皇制ファシズムという用語があるが、近衛新体制、国家総動員法や大政翼賛会、支那事変翼賛を知的に参画した知識人は「ファシスト」とは呼ばれないのであった。さらには、ねえ、この戦争の使命は、老いたる大陸に一つの新しいバイブレイションを捲きおこすのですよ。兵隊は実に元気です。 と扇動していた朝日新聞も「ファシスト」とは呼ばれない。軍国主義新聞ともよばれていない。

★ 中共の育ての親=大日本帝国

今思うに、一番の尾崎ー近衛の策謀の成果は、中国共産党の成長に違いない。日本軍と国民党軍を戦わせ、中共軍・八路軍は逃げ回っていた。

つまり、大日本帝国の最大の「負」の遺産は、支那大陸の中国共産党による支配を実現させたことである。

帝国と真に提携するに足る

新 興 支 那 政 権 の 成 立 発 展 を 期 待 し 、

両 国 国 交 を 調 整 し て 更 生 支 那 の 建 設 に 協 力 せ ん と す

愚記事