いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

占領軍・アメリカル師団の進駐した Hara-Machida (原町田)とはどこなのか? 竹前栄治の間違い

2020年07月03日 20時56分56秒 | 武相境

【要旨】竹前栄治(1930-2015)という占領史研究者がいた(wiki)。占領史研究の第一人者であったとのこと。その竹前栄治の著作に些細な間違いがあったので書く。1)何が間違いなのか、2)なぜその間違いが生じたのか、3)なぜおいらが間違いに気づいたのか、4)この間違いの影響(2021.5.4追記)を書く。

【1)何が間違いなのか?】

竹前栄治も編者となっている『昭和史』有斐閣選書、1982年(昭和57年)における竹前栄治自身が執筆している章・第3部、第1章、占領と「開国」の図;連合国軍進駐状況・終戦連絡事務局ならびに委員会所在地(1945年10月15日現在)でのアメリカル師団の進駐場所が間違っている。

 図A
連合国軍進駐状況・終戦連絡事務局ならびに委員会所在地(1945年10月15日現在)(部分) 図中ではアメリカル師団司令部が原町田にあったことになっている。
都県境の東京都側に〇印が示されている。

「アメリカル師団司令部が、東京都町田市に進駐、駐屯していた」と竹前栄治が示していることが間違い。

<アメリカ師団とは?>

アメリカル師団は1945年の日本敗戦の時、進駐してきた米陸軍のひとつの師団。進駐してきた米軍は第1騎兵師団、第11空挺師団など師団名が番号を持つ。それに対し、アメリカル師団には番号がない。アメリカル(Americal)とは何か?アメリカン(american)とは違う。Americaに何か接尾辞(physical、とかradical)が付いたものなのか?違った。アメリカル(Americal)のcalはニューカレドニア(NewCaledonia)のcal とのこと。オーストラリアの東にあるフランス領のニューカレドニアを防衛するための米軍師団。ガダルカナルで日本軍と戦闘。 アメリカル師団の wikipedia あり。ただし、日本進駐時代の情報はない。


連合国軍進駐状況・終戦連絡事務局ならびに委員会所在地(1945年10月15日現在)(部分、凡例) アメリカル師団は番号を持たないので凡例が別途 ☆A となっている

<原町田とは?>

出典 最後の文章に書いてある;「Hara-Machida(原町田)で、アメリカル師団の182旅団は第11空挺師団(仙台に移動)と交代した」。(なお、第11空挺師団(仙台に移動)のことは以前、愚記事に書いた。)

確かに、アメリカル師団はHara-Machidaに来た。

原町田とはどこか? をGoogleマップで見てみよう

Google Map [原町田]  横浜線町田駅と小田急線町田駅を含む町田の中心繁華街。こんなところに進駐軍の基地があったのか?原町田は町田の一区画であり、東京都である。

<何が間違いなのか?>

アメリカル師団は淵野辺(神奈川県相模原市)に進駐したらしい。Google [182nd infantry americal division "Fuchinobe" camp]。少なくとも、町田市ではなく、相模原の大日本帝国陸軍のたくさんあった施設のひとつに進駐した。

アメリカル師団の182歩兵隊の歴史を示すweb site に兵士が淵野辺で撮ったポートレートがある。


Photo #3

Ken Vander Molen poses here in Photo #3 for a studio portrait that he recalled was taken in Fuchinobe. By early November, the mission of the Americal in Japan was complete, and transports began to depart for home.  (ソース:上記歴史を示すweb site

以上のことから、アメリカル師団は、町田市の原町田ではなく、現・神奈川県相模原市淵野辺、当時、大野村に進駐、駐屯した。

したがって、『昭和史』有斐閣選書、1982年(昭和57年)の240-241ページにある「原町田(アメリカル師団司令部)」という情報は、間違いである。

<淵野辺とは?> 横浜線の淵野辺駅付近

図B
栗田尚弥 編『米軍基地と神奈川県』より ⑧が淵野辺の陸軍兵器学校、現在麻布大学

図C
相模原市立公文書館第11回企画展  「軍都計画」と相模原 展示資料目録 より

⑤が淵野辺の陸軍兵器学校

【2)なぜその間違いが生じたのか?】

当時陸軍はこの地域を原町田地域(東京府南多摩郡町田町、現在の東京都町田市)の一部としてまとめて扱うことが多く、同じく大野村に所在した原町田陸軍病院(後に相模原陸軍病院に改称)や原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校)などと共に原町田通信学校と呼ばれる事もあった。 wikipedia[陸軍通信学校]

つまり相模原の陸軍施設一帯を、旧軍は原町田ではないのに原町田と呼称していたのだ。占領米軍はそれを踏襲してHara-Machidaと呼称したに違いない。でも、実際は相模原、あるいは当時の町村である。原町田ではないことは確実である。したがって、学術的には、旧軍が慣習で原町田と呼称していたことを踏まえて、真実の地名と位置を示さなければならない。この間違いをした竹前栄治(占領史研究の第一人者)は、米側の資料でHara-Machidaをみて、このHara-Machidaとは、現在(執筆時当時=1980年頃)の原町田と称する位置だと判断したのだ。

【3)なぜおいらが間違いに気づいたのか?】

アメリカル師団がHara-Machidaに進駐したと、英文で知った。町田に進駐軍がいたのかぁ。原町田のどこだろう?と思った。調べたが、わからなかった(たかだが、ネット程度だが)。そして、ある日わかった。第1騎兵師団の歴史を見ていた。

On 05 September, long lines of vehicles, carrying solders and equipment of the off-loading units, moved west to the designated bivouac area in Hara-Machida District, where Japanese Signal and Ordnance schools were located web site

1945年9月5日、兵士と荷下ろし装置を運ぶ車列が西へ原町田にある指定された野営地に移動した。その原町田には通信学校と兵器学校があった。

つまり、通信学校と兵器学校があったところが原町田とわかった。そこで、ググって、相模原だとわかった。

そもそも、おいらは、町田駅の南裏が、すぐ相模原市と知らなかった。

<竹前栄治と進駐軍キャンプ>

竹前栄治に自伝がある; 占領研究40年 。そこに書いてある;

その後アルバイトとして軽井沢で進駐軍のゴルフのキャディをしたり大学に入ってからは東上線の先の成増にあるキャンプ・ドレイクでビアホールのウェイターをやったり御殿場にあった米軍の第43工兵大隊のキャンプで通訳をやったりしましたが占領についてはほとんど関心がありませんでした。

米軍キャンプでバイトしていたのに、「占領についてはほとんど関心がありませんでした」というのが、すごい。何なんだ!? 竹前栄治。 

キャンプ・ドレイクは知っていたが、相模原方面は知らなかったのだ。

■ 4)この間違いの影響(2021.5.4追記)

竹原が一般向け歴史書『昭和史』で示した図Aでは、神奈川県・相模原地域の米軍基地が厚木だけとなっている。「厚木」はマッカーサーが飛来し、日本に最初の一歩を印したので有名。でも、図B、Cに示された、現在のキャンプ座間などの帝国陸軍の基地だった膨大な面性の進駐軍基地の記載がない。竹原の図(図A)の説明文の「連合国軍進駐状況」にもとる図の内容となっている。

これでは、朝鮮戦争で重要な機能をし、そして、現在は米陸軍の第1軍団(前方)司令部となっている座間地区は敗戦以来米軍に占拠されているという認識がないことを示す。図Aでは、相模原において、厚木以外占領されていないようではないか!