いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第41週

2025年01月04日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第41週

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九州は麦みその人気が高く、喜代屋でもベストセラーのみそです。昔ながらの麦みそは懐かしくほっと幼い子供のころを思い出します。(喜代屋 web site

甘い。

■ 今週読んだ本:40年の積読の果てに、色褪せた本を読む

10代の頃に買って、少し読んで、面白くないのでやめて、積読してあった三島由紀夫『鏡子の家』を読む。40年あまり前に買った。色あせている。新潮文庫の三島由紀夫は明るい橙色(オレンジ色)[1]。

[1] 橙色=オレンジ色ではないと気づく。

▼ 作品の時期と場所が明確に示されている。1954-1956年の東京。主な登場人物は、杉本清一郎(1929)、山形夏雄(1930)、深井俊吉(1932)、舟木収、 友永鏡子、民子、光子。括弧内は生年。題名にもある鏡子の家は現在のJR信濃町駅の北の高台の洋館。日本家屋も含むお屋敷。その屋敷に母娘(8歳の真砂子)の主、友永鏡子と4人の青年の物語。4人の青年は22-25歳であり、少年時代に焼跡の廃墟を目の当たりに育ったことが本書で強調されている。そして、退屈を感じていると。4人とも大卒(のよう)だ。ちなみに1950年の大学進学率は約10%である。杉本清一郎は丸の内に勤める商社社員、山形夏雄は裕福な家の画家、深井俊吉は大学在学の拳闘(ボクシング)選手、舟木収はボディビルをする俳優。

三島由紀夫は、1955年にボディビルを始め、1956年に拳闘を始めた。1957年に2度目の渡米、1958に結婚している。これらの三島の実人生と登場人物の属性が重なる。重ならないのは山形夏雄の絵画であるが、小説の内容は画家の所業としては容易に想像がつく記載となっている。

問題は登場人物の世界観である。清一郎と夏雄は世界の破滅を考える。一方、世界の破滅を自覚的には考えていないような俊吉と収は「挫折」あるいは「失敗」する。ボクサーの俊吉は日本チャンピオンになり次は世界チャンピオンという時にチンピラに遭難し怪我を負い選手生命を絶たれる。そして右翼団体に入る。俳優の収は美貌にもかかわらず役をもらえず、母親の事業の借金のため高利貸しの醜い女に飼われる。女は収のボディビルで鍛えられた体を刃物え切るつけその出血を啜る。最後は無理心中となり、収はこの醜い女に殺される。

何だ!三島の最期が書かれているではないか。

三島論ではなぜ三島由紀夫はああいう最期を遂げたのか?への回答として、セバスチャンコンプレックスであるとしている(澁澤龍彦 1971、井上隆史2020、 愚記事)。さらに佐藤秀明、『三島由紀夫』(岩波新書 2020)で、「前意味論的欲動」という鍵語で三島由紀夫の作品、言動を読み取る。「前意味論的欲動」とは、「悲劇的なもの」と「身を挺している」のふたつの情動を駆動するものらしい。

難しい鍵語によらず、端的に三島由紀夫の「前意味論的欲動」とは、「腹を切って血まみれになって、至高のために身を挺して、死ぬこと」である。事実、最期にそうした。

腹を切って血まみれになって死ぬことを三島が作品化したのは『憂国』である。その前の作品の『鏡子の家』に血まみれになって死ぬことが出ていた。かつ、無理心中。

無理心中。「無理心中」とは言い過ぎかもしれない。三島由紀夫が自衛隊を襲撃し自殺した時、一緒に死んだのが森田必勝。中村彰彦『三島事件もう一人の主役』によれば、森田必勝は「僕は絶対に三島先生を逃しません」、「ここまできて三島がなにもやらなかったら、おれが三島を殺[や]る」と云っていたとのこと。いくら三島由紀夫が血まみれで死ぬことを欲望していても一人えは踏ん切りがつかなかったのであろう。

▼ 鏡子の家

 車は信濃町にある鏡子の家へ行くのである。
 何となく男たちの集まる家というものがあるものだ。おそろしく開放的な家庭で、どことはなしに淫売屋のような感じがある。そこではどんな冗談も言え、どんな莫迦話もできる。しかも金は要らず、ただで酒が呑める。誰かしらが酒を持って来て、置いて帰るからである。テレヴィジョンもあれば、麻雀もできる。好きなときに来て好きなときに帰ればよく、そこの家にあるものは何でも共有財産になり、誰かが自分の車で来れば、その車はみんなで自由に使うことになるのである。(『鏡子の家』第一部、第一章)

この『鏡子の家』の家の建物のモデルはデ・ラランデ邸(wiki)とされる。デ・ラランデ邸は現在江戸東京たてもの園(wiki)にある。『鏡子の家』では建物の描写は仏蘭西窓についてくらいしかなく、瀟洒であるとか内装についての豪華さについては特に表現されていない。現在でこそこのデ・ラランデ邸がモデルであり、イメージ喚起に役立つかもしれないが、当時は信濃町の高台の洋館の屋敷という記述であり、イメージ喚起に貢献してないと思う。建物の様相はともかく、鏡子の家の雰囲気は上記の状態。つまり、「アナルヒー」、アナーキーと云っている。

藤森照信は『建築探偵の冒険 東京篇』で、まだ信濃町にあったデ・ラランデ邸(三島邸)を実際に訪れた後、『鏡子の家』を読んでみて、その描写が"信濃町の三島邸をそっくり写している"と記し、"おそらく、「西洋かぶれ」の作者は、電車の窓からこの家を見つけ、散歩がてらに建築探偵し、<三島>という表札が気に入って、モデルにしたんだろう"と推測している。wiki

当時の信濃町での位置は下記地図の「南元町」の「南」の字の左の区画である。

▼ 廃墟の巷低く見て? 自分たちは無被害域に生きる

 
東京大空襲 wiki より

空爆により瓦礫と化した東京が復興でその廃墟の姿が消えてゆくことを、鏡子や清一郎は嘆く。廃墟と瓦礫の存在が彼らを安心さえるらしい。その心的機構は不思議である(というか、今では中二病と呼ばれるものか!?)。それがニヒリズムらしい。

さて、廃墟と瓦礫の存在に安心する鏡子や清一郎、鏡子の家は戦前からのお屋敷であり空爆の被害は受けていない。敗戦後は進駐軍に接収されたくらいであるから、屋敷は安泰であったのであろう。清一郎の家については書かれていない。しかし、勤め先は皇居付近のビル街とある。丸の内だ。しかも8階建ての古い財閥の建物とある。三島の念頭には丸ビル(8回建て)があったのであろう。とにかく、戦災とは無縁だ。

戦災に無縁であった建物に暮らし、働く人たちが、空爆により瓦礫と化した東京が復興でその廃墟の姿が消えてゆくことを残念がる物語が『鏡子の家』とわかった。