いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第48週

2025年02月22日 18時26分40秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第48週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

今週、北九州市は寒かったが、晴れの日が続いた。下記天気図のように大陸の冷たい空気が朝鮮半島を経て、九州島に流れ込んできている。

■ 今週の柑橘

レモンを絞りました。

■ 今週のお弁当

庄や 松花堂弁当(google)。「松花堂弁当は、刺身が2種(マグロとブリ)、鶏唐揚げ、豚生姜焼き、ナポリタン、煮物、卵焼き、ご飯、味噌汁、お新香と豪華です」(google)。1,200円。

■ 今週のシンガポールの催し物

今週を含む2/15-2/28の期間、シンガポールではToatal Deenceという訓練が行われいる。国防演習だ。国防演習といっても今年はフィッシング攻撃の訓練だ。google  気づいた理由は、先週、この愚記事(And I told you there's no-one there)にアクセスがあったから。

学校や建物でフィッシング攻撃や停電の模擬演習を実施し、総合防御演習を実施

さて、シンガポールの国防記念日が2/15であるのは、我らが日帝がシンガポールを陥落させた日であるからだ。シンガポールいうまでもなく「原爆投下は必要であった」と主張するリー・クアンユーさんが国父の国だ。もっとも、シンガポールの建国は1965年であり、シンガポール陥落は1942年だ。

 
中央の日本人は杉田一次(左写真)。 「シンガポール」人による日本兵描像(右)

この投稿後、YouTubeのお勧めで出てきた。

■ 今週の「アメリカ真理教」信徒:ついに洗礼? 孫崎享さんの事例

トランプ氏、ロシアとの戦争は「ウクライナが始めた」と主張google

トランプ氏は「私にはこの戦争を終わらせる力があると思うし、うまくいっていると思う。だが今日、『我々は招かれなかった』という声を聞いた。あなたたちは3年もそこにいる。3年後に終わらせるべきだった。始めるべきではなかった。取引をすることもできたはずだ」とウクライナについて誤った主張をした。

トランプ大統領は、ウクライナのために「ほぼすべての土地を彼らに与え、誰も死ぬことのなかった」取引ができたと主張。「だが、彼らはそのようにしないことを選んだ」と結論付けた。 (ソース

▼ おいらは長年疑問を持ってきた。かつて愚記事に書いた;

おいらは、外務省の人はみんな「アメリカ真理教」なのだろうと思っていた。10代の頃、岡崎久彦、『戦略的思考とは何か』を読んで以来だ。一方、あの孫崎享さんが岡崎久彦と同じポストの後継者と知って、????と思ったこともある。

なお、孫崎は「世界情勢の分析方法は岡崎久彦から学んだ」【岡崎久彦メソッド】と云っている(愚記事:孫崎享の正体;尊皇大使は米国の仕掛けで説明)。

そして、今週わかったよ。彼もやはり、「アメリカ真理教」信徒なのだ。そして、どうやら今回が洗礼らしい。


https://x.com/magosaki_ukeru/status/1892470512548286590

これまで、不信心者だけあって、その洗礼には莫大な活性化エネルギーが必要だったと、今回、わかった。つまり、孫崎さんに洗礼を授けるのは、ただの「アメリカ真理教」の神父さんじゃダメだったのだ。孫崎享が必要とした「神父」は、当然彼だった;

それにしても、この人↓が、陰の「アメリカ真理教」の神学者であったとは、お釈迦様にもわかるまい;

  google

まとめ:孫崎享も和田春樹も「米帝」の手先であったとわかる。米ソ「連合赤軍」[1]=ヤルタ・ポツダム体制の21世紀版の<ヤルタ・ポツダム体制>の手先なのだ。

[1] 米ソ「連合赤軍」:
米国は防共国家であった満州国を認めず、チャイナ大陸の国共合作政府を支援し、ソ連と同盟し防共国家であった満州国を滅ぼした。国際共産主義への最大の貢献者は英米である。チャイナ大陸を中共にくれてやった。なお、今となってはソ連の北方領土占領のため米軍が上陸舟艇などを提供し支援していたことが明らかとなっている。米ソは「連合赤軍」であった。(愚記事)

■ 今週借りて読んだ本


今週借りて読んだ本(左端)と手元にあったので参照した本

高橋裕史、『イエズス会の世界戦略』。題名は世界戦略とあるが、広くてインドー日本でのイエズス会の活動、書かれているのは日本。イエズス会は南米でも活動しているが、この『イエズス会の世界戦略』では特に書かれていない。ただし、冒頭で映画『ミッション』(wiki)に言及している。日本でのイエズス会の活動はザビエルが来た1549年から江戸幕府の禁教令が出る1613年までの64年あまりの期間。

愚ブログは「耶蘇と毛唐に気をつけろ!」という狭隘な視点を持つブログだ。そういう前提で感想を書く。

この『イエズス会の世界戦略』は2006年の刊行である。著者は、高橋裕史さん(帝京大学 web site)。研究者情報。専門は、経済史   キリスト教史   日本史。キリスト教史の業績として、イエズス会のヴァリニャーニの『東インド巡察史』の翻訳がある(平凡社)。つまり、当時のスペイン語、ポルトガル語、イタリア語、そして、ラテン語(などなど)が読めるのだ。

『東インド巡察史』:ポルトガル領東インド、すなわちインド、中国、日本、東南アジアなど広大な布教地域を管轄したイエズス会巡察師の報告書。16世紀後半のこれらの地域の政情や生活文化の貴重な史料の本邦初訳。 

内容は(出版社web site);

【目次】
プロローグ
第一章 キリスト教とインド世界 イエズス会進出の前史
第二章 イエズス会 創立とその組織
第三章 地上の王と神の使者 俗と聖の饗宴
第四章 「情報」の収集・解析とイエズス会
第五章 「異文化」への処方箋
第六章 神の使者たちの「錬金術」
第七章 聖衣をまとった戦士たち
エピローグ

あとがき

宗教的情熱の下に隠された、宣教師たちのもう1つの顔

イエズス会はなぜ非ヨーロッパ世界の布教に成功したのか? 彼らが日本やインドなどで採用した適応主義政策とは? 布教活動のために貿易や不動産経営で生計をたて、信者と資産保護のため軍事活動も行った宣教師たち。「神の意志」実現のために世界を巡った「イエスの同志」の聖と俗に迫る。

本書には「奴隷貿易」や「人身売買」という語句が一度も出てこない。ましてや、イエズス会が関与したことは明言されていない。さらには、日本に初めてキリスト教(以下、耶蘇 [ヤソ])を伝えたフランシスコ・ザビエルがユダヤ人虐殺者であったこと(google)は書かれていない。

現在ネットで「イエズス会 奴隷貿易」(google)で検索すると、相当の情報が得られる。中には、学術的なものも多い。特に、2021年に刊行された『大航海時代の日本人奴隷』(ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子)が引用されたネット記事が多い。なお、この本(『大航海時代の日本人奴隷』)では、「明白に奴隷貿易にイエズス会が関与していたことが正面から論じられていない」と著者は主張する。そして、イエズス会の悪行を指摘すると、学術的でない形で「炎上」すると云っている。確かに、この本についてwikipediaでは、学術的に問題があると物言いをする人がいる。

  • ^ ソウザの著作は信頼性や文脈化について複数の懸念が寄せられており、定説を形成するには頼りない。2024年時点では査読や追試のあるWP:RS出典が使われるべきだと思います。

この指摘をしている人がイエズス会関係者とはいわないが、奴隷貿易にイエズス会が関与していたことを否定、矮小化、責任転嫁する言説(日本人奴隷を売ったのは日本人だ!)はネットで確認できる。

ところが、今週知ったのだが、デ・ルカ・レンゾという日本二十六聖人記念館(公式web site)の館長であるイエズス会の神父が認めている;

カトリックのポルトガル人が経営していたマカオでも中国人と日本人が拉致され、奴隷として売られていたことは,残忍な人の考えのみならず、限られた人であろうとも、修道士のせいでもあったことを総長に伝えている。この箇所でリベラ神父は,アメリカ大陸の奴隷問題についてドミニコ会の意見や書物を参考に宣教師であれば誰でも知っているはずかのように述べられていることが注目すべきである。イエズス会本部と長崎 〜長崎開港 450 年を振りかえって〜

上記情報が本当であるなら、イエズス会の当事者も認め始めているらしい。もっとも、どこまでどう認めたが問題で、「イエズス会」らしい正当化が潜んでいるかもしれない。

さて、こういう昨今の状況ではあるが、2006年の高橋裕史、『イエズス会の世界戦略』には、「奴隷貿易」や「人身内売」という語句が一度も出てこないのだ。しかし、ここで気を抜いてはいけない。罠があるい違いない。だって、「イエズス会」だもの。もっとも、高橋裕史さんが「イエズス会」関係者であるかは知らない(御本人は、自分は非キリスト教徒であると「あとがき」で書いている)。でも、「イエズス会」を「人道に反する」恥ずべきものであって、そういうものが存在していることが信じられないという気分は持っていないとわかる。なぜなら、「現在の日本でイエズス会は、上智大学、エリザベト音楽大学、栄光学園、六甲学院、広島学院などでカトリック主義にもとづいた教育活動を展開している。イエズス会は創設時の頃より学術研究を主要な活動領域の一環としていたわけであるが、(以下略)」と肯定的に述べているからだ。おいらは、日本に来る前にインドのゴアで逃げていたユダヤ人を捕まえて火あぶりにし、日本に来てからは、武器商人、人身売買で稼いでいた人たちの組織というのは400年早く現れたナチスだと思い、ゾッとし、さらには、こういう組織を再興して、さらには関与する人が現代日本にもいるのだという厳しい現実は、世の中にはいろんな人がいるんだよと世間知らずだったおいらにとって、とても勉強になった。最近のおいらにとってのイエズス会ビンゴは、田中耕太郎だ。おいらの脳内では「イエズス会の非公然部隊が日本で活躍」なのだ。

「しかし、ここで気を抜いてはいけない。罠があるい違いない、」に戻る。

巡察師ヴァリニャーノの日本報告について、高橋裕史は評している;

ヴァリニャーノ自身が「この[日本という]地が有する多様性と特質は、ヨーロッパでは禁じられたり非合法的なものとして位置づけられたりしている数々の事柄を、合法的で不可欠なものとしている」と記しているように、日本の特殊性を総会長以下のイエズス会首脳に広く理解してもらい、たとえば批判の対象となっている在日イエズス会たちの行動の「正当性」を巡察師として立証し、弁護する必要があったからであろう。p95-96

ここで、「ヨーロッパでは禁じられたり非合法的なものとして位置づけられたりしている数々の事柄を、合法的で不可欠なものとしている」ものとは人身売買のことではないか。ヴァリニャーノ自身が人身売買に言及しているとは高橋裕史さんは報告していないし、このヴァリニャーノの文章が人身売買のことを云っているという解釈を高橋裕史はしていない。ただし、今、「高橋裕史さんにあなたの2006年の本にはイエズス会の日本での人身売買に言及していませんね」と問いただすと、「いえ、ヨーロッパでは禁じられたり非合法的なものとして位置づけられたりしている数々の事柄を、合法的で不可欠なものとしているとは人身売買のことです。私は、2006年に非合法活動を無視していません」と答えられる。

さらに、高橋裕史さんが人身売買、奴隷貿易に言及していないことについて、この本(『イエズス会の世界戦略』)では、イエズス会が携わった貿易について、「各種の貿易であるが、この問題については、高瀬弘一郎氏による、一連の広範な研究がその実像を詳細に明らかにしているので、ここではその主要な概要をまとめるにとどめておきたい」(p163)と書いている。つまり、人身売買、奴隷貿易は既に先行研究が言及しているので、言うに及ばずとしているとおいらには受け取れる。のちに、高橋裕史さんは「私は、決して、イエズス会の人身売買、奴隷貿易を無視していません」と云えるのだ。さて、この論理のためには、ひとつ確認する必要がある。すなわち、高瀬弘一郎がイエズス会の人身売買、奴隷貿易を学術的に認めていることである。註の高瀬弘一郎の文献が手元にはないので、ググってみた。少なくとも、2011年の『大航海時代の日本』には「奴隷を正当化するキリスト教徒」とあり、人身売買に言及している(ソース)。ただし、イエズス会の関与はこのソースにはないようだ。もっとも、「奴隷を正当化するキリスト教徒」とあるが、これは公然のことであった。ローマ時代からアメリカ合衆国まで奴隷は存在し、カトリックは承知であった。さらには、イエズス会自身が19世紀でも奴隷売買を米国で行っていた(愚記事)。

▼ 下、豊後、都(しも、ぶんご、みやこ)


人殺し。

昨年末、大分市に行った。それまで、この地が内府と呼ばれてたことも、大友宗麟の領地であったことも、そして、フランシスコ・ザビエルが滞在したことがあるとは知らなかった。ただし、フランシスコ・ザビエルがユダヤ人を火あぶりにした人殺しであることは知っていた。なお、大分駅前で耶蘇坊主の像を見た時、宣教師なんだなろうなと思ったくらいで、誰だか知らなかった。宗麟の近習の耶蘇坊主ぐらいに考えていた。家に帰り、ググってしった。

当時、イエズス会の日本での活躍地域は、下、豊後、都であったと高橋裕史、『イエズス会の世界戦略』に書いてあった。下とは長崎地域、豊後は大分、そして、都は京都だ。

豊後は大友宗麟が集団改宗を行い、信徒が1万人を越えた。大友宗麟は、ポルトガル国王、教皇グレゴリウス13世から親書を受けるほどの交信があった。日本イエズス会の威信を示す「対外的名望の地」であったと『イエズス会の世界戦略』は云う。

1580年、臼杵に修練所、1581年、府内にコレジオ開設。1580-1587年、6か所のレジデンシア設立。
1586年 島津義久の軍が豊後に攻め入り、豊後のすべての教会と施設を破壊。
1587年、宣教師(バテレン)追放令(豊臣秀吉)
1587年、 豊後浦辺でペトロ岐部が誕生。
1588年、教皇シクスト5世は、府内に司教区を設立。
1589年、大友吉統、宣教師(バテレン)追放令

1587年の秀吉の九州平定で、イエズス会の豊後地区は衰退、事実上消滅、とのこと。イエズス会なきあとの豊後の耶蘇運動状況 ➡ 豊後のキリシタン小史

▼ 根本的に理解できないこと:布教の実態

 イエズス会宣教師の布教活動には、彼らが絶対的な価値を信じて疑わないキリスト教を異教の地に宣布し、霊魂を救済するという宗教的動機が強く働いていた結果、迫害や死を恐れることなく実行に移されていったものであることは、何人も認める事実であろう。p194

  そもそも、イエズス会宣教師の布教活動とは具体的にはどういったことを目的としたのか?イエズス会がもっとも信徒数を増やした時期、信徒は万を超えたとのこと。一方、イエズス会の会員は100人ほどである。秀吉のバテレン追放令が出た時、集められたイエズス会の会員は120人であったとされる。もし、信徒が10万人とすると、イエズス会の会員=神父ひとり当たり、信徒は1000人である [A]。ところで、神父の任務、あるいは、神父しかできない任務がある。告解の聴取とか。信徒ひとりの立場に立って、1年間に何回、神父さまに会えるのだろうか?そもそもイエズス会の会員=神父は日本語を話すのであろうか?根本的に、日本人信徒はどういう精神状態、知的状態がキリスト教を信仰するということなのあろう?キリスト教の信仰をどう理解したのだろう?本当に日本人はキリスト教の信仰を理解できたのだろうか?イエズス会の会員=神父は、日本人の信徒の霊魂を救済できたのであろうか?

おいらは、全く理解できない。

[A] 『イエズス会の世界戦略』によると、ヴァリニャーニ来日の1579年、信徒数10万人、イエズス会員55人とある。イエズス会員ひとり当たり信者が約2,000人となる。

邪推するに、実態は、イエズス会の会員は大名など最高政治指導者に取り入り、その最高政治指導者を篭絡して、イエズス会の活動に奉仕させたのだろう。その手段、篭絡する手段が、経済と政治(軍事)だ。

この邪推と整合するのは、イエズス会の豊後からの撤退は、豊後が経済的にも政治的にも魅力がなくなったからだろう。万の草莽の信徒は置き去りだ。京都と長崎が政治、経済の中心地だ。日本の首脳の魂を征服することで、日本全体を征服する戦略だったのだろう。

 

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第47週

2025年02月15日 18時04分55秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第47週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週のメタセコイア

■ 今週のお「魚」:鯨 = 大きな魚

古くは鯨が哺乳類ではなく魚と考えられていたため、その大きさが普通ではなかったことから、「京(兆の1万倍の単位)」のような計り知れない魚ということで「魚」と「京」をあわせて「鯨」となったといわれていますgoogle

北西太平洋産 イワシ鯨(wiki

食感は基本的のやわらかかった。マグロのよりはやや肉感がある。

■ 今週のˈbʌfeɪ/

すからーくグループの「しゃぶ葉」に初めて行った。「しゃぶ葉」は食べ放題のしゃぶしゃぶ屋さんだ。<荊の簪を挿した御方さま>はすかいらーくグループの株を持っていて、おいらは優待券の恩恵に与かれる。これまで、「しゃぶ葉」に行ったことがなかった。理由は、<荊の簪を挿した御方さま>がお肉が苦手だからだ。おいらが、どうしても行きたいというので、奢ってもらった。選んだコースは一番簡素な豚バラ+鳥のみのもの。<荊の簪を挿した御方さま>はお肉を食べないのだが、同席の人は同一メニューを注文すべしとのことで二人前を注文。

豚バラは一皿、約50g。

 豚バラは一皿、約50g。10皿食べた。鳥が一皿。

■ 今週借りて読んだ本

堂本正樹、『回想 回転扉の三島由紀夫』。2005年の刊行。もう20年前だ。堂本正樹[wiki]は、三島由紀夫の8歳年下の「寝友」。ここで「寝友」とは親友のもじりで、褥を共にする友ということだ。松村剛の「造語」とのこと。この本に書いてある。ただの同性愛の恋人同志であったばかりでなく、切腹愛好家同志であった。腹を裂き、腸が飛び出す切腹の凄惨な状況の絵を出汁にして二人で昂奮しあい、切腹ごっこをしていたというのだ。

果たして、堂本正樹は映画『憂国』(三島由紀夫が切腹を演じる映画)の演出を行った。

『回想 回転扉の三島由紀夫』には三島との出会いからのことが書いてある。おいらが、興味深かったのは、堂本正樹の「外人嫌い」。ここで、外人とはただ外国人を指すのではなく、端的に進駐軍兵士のことだろう。堂本が三島と出会ったのは昭和24年(1949年)、まだ占領下である。最近、おいらが認識したことは、敗戦後、占領下では進駐軍の同性愛者が占領下日本(Occupied Japan)で大いに羽目をはずしていたことである。その当時、米国、特に米軍では同性愛は宗教上、そして法的にも、厳しく禁じられていた。それでも、同性愛者たちはいたはずだから陰で秘かにやっていたのだろう。それが、占領地日本の巷に出ると米国のように厳しく禁じられていないので、同性愛の米軍関係者は、大いに楽しんだらしい。男の街「娼」もいた。以前、TBSラジオ、「安住紳一郎日曜天国」でゲストの「伝説のオネエ・吉野ママ」(google)が敗戦直後、進駐軍兵士相手のハッテン場があったと証言していたのを聴いた記憶がおいらにはある。「男のパンパン」と云っていた。進駐軍同性愛者たちは、権力を背景に、「クラブ」を日本人とつくったりした。そういう同性愛クラブに三島は関係があった。鎌倉での「外人の乱痴気パーティーに三島と堂本が参加したことを堂本は書いている。こういう背景で敗戦後日本の同性愛者世間では「外人」が少なからずいたのだろう。それを堂本正樹は嫌ったと報告している。堂本が初めて三島に会った場面を描く一文章が興味深かったのでコピペする;

 そこに、三島由紀夫はいた。
 蒼い縞のワイシャツを着、白い艶のあるネクタイをし、同じく白いズボンを穿いていた。シャツの袖口からは、芝翫論を見せてくれた人と同じく剛毛が覗く。
 頬の剃り跡が青く、顎にくびれがあり、しかもしゃくれた顔は、進駐軍の兵隊を思わせた。(堂本正樹、『回想 回転扉の三島由紀夫』、第一章 八歳違いの「兄貴」)

顎にくびれがあり、しかもしゃくれた顔は、進駐軍の兵隊を思わせた 頃の三島↓

 

堂本正樹は能と歌舞伎の愛好者で、その造詣は深く、三島は能をよくわかっていなかったと報告している。

当時は慶応の旧制中学の学生、その後、慶応の国文に進み、中退とある。戦時中は鎌倉に疎開していた。ところで、堂本正樹は1933年生まれ、江藤淳、愚記事で江藤淳が、三島由紀夫を「殺した」のか?とある江藤淳は自称1933年生まれ、本当は1932年生まれで似たような年齢であるから、同じく鎌倉に疎開していた江藤と堂本は鎌倉ですれ違っていたかもしれない。ただし、堂本正樹の実家は裕福だったらしく敗戦後も能や歌舞伎を楽しんだ。この頃、江藤淳が能や歌舞伎を楽しんだとは伝えられていない。当時、江藤が熱中したのは西洋古典音楽であり鎌倉から日比谷公会堂に通ったことが報告されている。そもそも江藤の著作に能や歌舞伎が出てくるのだろうか?ピンとこない、というか出てこないのだよ。能はともかく、この頃から歌舞伎=サブカルチャー嫌悪?

なぜこの本を借りて読んだかというと、三島論に引用されているから。つまり、三島のあの死の動機を「腹を切って血まみれになって、至高のために身を挺して、死ぬことという側面もあったとの説の根拠が堂本正樹の証言なのだ。

三島論ではなぜ三島由紀夫はああいう最期を遂げたのか?への回答として、セバスチャンコンプレックスであるとしている(澁澤龍彦 1971、井上隆史2020、 愚記事)。さらに佐藤秀明、『三島由紀夫』(岩波新書 2020)で、「前意味論的欲動」という鍵語で三島由紀夫の作品、言動を読み取る。「前意味論的欲動」とは、「悲劇的なもの」と「身を挺している」のふたつの情動を駆動するものらしい。

難しい鍵語によらず、端的に三島由紀夫の「前意味論的欲動」とは、「腹を切って血まみれになって、至高のために身を挺して、死ぬこと」である。事実、最期にそうした。

腹を切って血まみれになって死ぬことを三島が作品化したのは『憂国』である。その前の作品の『鏡子の家』に血まみれになって死ぬことが出ていた。 (愚記事

三島にとって死とは社会からの退場というばかりでなく、即物的に自分の肉体が棄損されることを想定し、かつそれを願望していたらしいこと。今、思えば、三島は死体趣味的なところがある。ただの死体趣味ではなく、死体が「棄損」される状態。何かといえば、豊饒の海の3巻目の「暁の寺」でインドはガンジス川の火葬に立ち会う場面。屍が次々と火に委ねられていく場面、炎の中での遺体の動きなどが「いきいき」と描かれている。何のことはない、三島は猟奇的な死体愛好者なのだ。やはり、「病気」だ。「憂国」などではないのだ。

■ 今週見た YouTube 計4時間

【特別対談】生誕100年・三島由紀夫が予言した日本の危機(執行草舟先生×富岡幸一郎先生)前編後編

執行草舟の話を富岡幸一郎が聞くという計4時間の動画。全部みた。そもそも、執行草舟は怪しい、というのが、おいらの「偏見」だ。胡散臭い。そして、富岡幸一郎。おいらは、富岡幸一郎を、江藤淳や西部邁を知って数年後に知った。当時は、この「兄ちゃん」が江藤淳や西部邁を「渡り歩き」、ついには執行草舟にたどり着くとは想像もしなかったが。

 

 顔がきれいなんです。生前の三島に会っていたら「ほだしを掛けられた」かも?

 

 

 


続、つくば戦後開拓集落について

2025年02月14日 04時58分52秒 | 筑波山麓

愚記事で「今日はつくば記念日;松竹梅のつくば戦後開拓集落について」がある。定常的にアクセスがある記事である。敗戦直後の緊急開拓についての話だ。現在のつくば市ばかりでなく、日本各地で生じた話。

1945年(昭和20年)11月9日に閣議決定した「緊急開拓事業実施要領」においては、戦後の混乱期の深刻な食糧不足を背景に、大量の復員軍人・海外引揚者・離職者を帰農させ、その食糧自給を図るため、農地開拓を緊急に実施することとした。wiki

現在のつくば市では、松見、竹園、梅園はそういう緊急開拓事業関連地区であったことを上記愚記事で書いた。

さらに、松見、竹園、梅園以外の緊急開拓事業関連地区らしき場所がわかった。洞峰沼「湖畔」。財団法人 つくば市高齢者福祉事業団が発行した「高齢者福祉事業だより No13 お元気ですか」(平成13年)に出ていた。2001年の資料。荷物を整理したら出てきた。

 二の宮 山田栄吉

洞峰地区に入植 数々の恩忘れず

 昭和二十一年、四月、一緒に満州から引き上げてきた私を含む四人は小野崎に入植しました。住居ができるまでは長屋を借り、四人で共同生活をしながら、田圃作りに毎日二キロの道を通い、一方で住まい作りをしました。材料は内原日輪兵舎の払い下げと土浦の瀬古沢魚店よりいただいた古材でした。


1972年の洞峰池付近の地図。高層気象台が、現在の気象研。

1972年の地図を見ると、洞峰池に加え、松野木池もある。のち、学園都市建設でここは洞峰公園となり、松野木池は埋め立てられた。地図で点線として現在の西大通りの予定地が見える。池のまわりは北側が広葉樹、南側が針葉樹域となっている。水田は洞峰池の北東部に認められる。上記の戦後開拓者であった山田栄吉さんは、この洞峰池の北東部の水田で農業に従事したと思われる。上記「洞峰地区に入植 数々の恩忘れず」に書いてある;

 茨城の農法は今までの知識では全然通用せず、失敗の連続でした。水稲の種子は満州でも作った陸羽一三二号、農林一号より早く、出穂の時期スズメにやられ駄目、大豆・小豆も駄目。漬物用の青首大根だけは捕れました。

↓現在の洞峰公園


愚記事より 最近の洞峰池


愚記事より

■ 内原日輪兵舎、あるいは、満蒙開拓青少年義勇兵

この山田さんの回顧で知らなかったことをいろいろ知る。ネットでググれるおかげだ。山田さんは「つくば」(現在のつくば市小野崎)で移入者として住まいの建材として内原日輪兵舎からの払下げを使ったとある。内原日輪兵舎、もちろん、知らない。ググった。わかった。水戸にあった満蒙開拓団に参加する青少年(満蒙開拓青少年義勇軍(wikipedia))の訓練場だったらしい。➡満蒙開拓青少年義勇軍のための内原訓練所

以前は満州入植のための訓練施設であった内原日輪兵舎は、敗戦後は満州から引き上げた青少年の一部の内地での帰り先であったらしい。そして、内原日輪兵舎に滞在し、内地での入植先を探したに違ない。

上記山田さんの回想には直接書いていないが、おそらく山田さんは満州から水戸の内原日輪兵舎に引き揚げ、そこで、「つくば」の開拓地を紹介され、入植したと推定される。

これらの推定の根拠は、類似の経緯で土浦に入植した人の証言だ(リンク)。

■ 満州帰りの山田栄吉の「つくば」でのその後

(昭和)二十六年には妻を迎え、県の補助を得て馬を買い馬耕が出来るようになり、体も少し楽になりました。西瓜、タバコ、酪農とできることは何でもやり、どうやら生活が成り立つようになった頃、降って湧いたのが学園都市の話でした。区画整理地区となり、当集落は公園整備のため洞峰沼周辺は全面買収との事でした。
 県・公団と交渉に渡り歩きましたが全然埒があきません。それでは国会議員にお願いしようと、議員会館に陳情に行き、運良く市川房江さんにお会いでき事情を聞いていただいたのが懐かしい思い出です。 

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第46週

2025年02月08日 16時08分24秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

  「犬歯」が抜ける。

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第46週

■ 今週の筑豊境


節分


降雪


雪遊び


霜柱


2月4日の天気図

■ 今週の購入品

山形のお米、はえぬき。13,300円/15kg。

1993年に山形県で開発された「はえぬき」。名前は「生え抜き」という言葉に由来しており、山形で生まれ山形で育つという意味が込められています。その名の通り、山形の気候や風土に適したお米で、山形県以外ではほとんど作られていません。「はえぬき」は山形の気候や風土を計算して作られて品種ですので、他の地域では山形県ほどの品質に育たない為と言われています。

はえぬきは非常に美味しいお米です。その美味しさが高く評価されており、品種登録からわずか数年で山形県内の作付けシェア60%を獲得したほどです。米の一粒一粒がしっかりとしており、適度な水気と旨味、そして炊き上がりの形が崩れず、心地の良い歯ごたえと甘みを感じることが出来ます。また、粘り気が少なくべっとりとしないので冷めても美味しく、お弁当やおにぎりに特に向いています。

山形県産はえぬき は、コシヒカリのような粘りの強さと ササニシキのようなあっさりした食感を併せ持つ特徴あるお米です。冷めても食味が落ちにくくパサつかないのでお弁当、おにぎりなどにもよく利用されるお米として有名なお米です。地元山形の定番品種で、価格もお求め安く、有名寿司店などにも利用されています。ソース

■ 今週の詰合せ

 

■ 今週知った閉店

1.鎌倉の左可井

 

ある本に名刺が挟んであった。穴子の左可井。あー、なつかしいと思った。昔、行ったことがある。

鎌倉参り 2015 2015年11月08日 16時23分46秒 | 東京・横浜

 

ネットでググってみると、閉店していた。

 左可井閉業(google

2.立川の米軍ハウスのお店

外から見ただけ。愚記事:昭和記念公園2019、砂川口から出て基地外の米軍ハウス(維新もの)を見た

《閉店》上砂町・旧米軍住宅の立川アメリカンヴィレッジ入口にあるアメリカンダイナー『ムーンハウス(MOON HOUSE)』が10月17日に閉店するみたい

■ 今週のお別れ:28年間寝そべり続けたソファー

 

28年間寝そべり続けたソファーが昨年末、ソファー内部の枠組み?が座屈した。

500円を北九州市に払って、廃棄した。

■ 今週の「古典」を読んで、気づいたこと:「日米同盟」なき最有力親米派@教祖の「バイブル」

 岡崎久彦、『戦略的思考とは何か』(Amazon

岡崎久彦 尊師。「アメリカ真理教」の教祖さまだ。日本の内政が「ザイム真理教」に支配されているかどうかは、おいらは、わからないのだが、外交・防衛政策は「アメリカ真理教」に支配されていると信じる。おまけに、司法も支配されている(今の日本司法は傀儡司法であり、象徴が田中耕太郎)。

さて、おいらが10代に読み、印象深かった本。1983年。この時代の「空気」は、1979年ソ連アフガニスタン侵略、1982年北海道大演習場「火力戦闘演習」、1983年大韓航空機撃墜事件とソ連脅威論の絶頂期。

その後、ときたま取り出しては読むのだが、改めて気づいた。その気づいたことは愚ブログでさんざん言ってきた言説としての「日米同盟」問題。すなわち;

<江戸しぐさとしての「日米同盟」>:

「日米同盟」なんて言葉は、池田勇人の時代や佐藤栄作の時代、そして福田赳夫の時代にもなかったのだ。もちろん、吉田茂の時代には、当然、ない。

昔からあって、ずっと続いていると思われてるが実は昨日、一昨日つくったにすぎない「伝統」を「江戸しぐさ」というが、「日米同盟」こそ「江戸しぐさ」である。

そして、その「日米同盟」という言葉を日本政府の正式文書に使ったのは、おいらが現在調べる限り、どうやら大平正芳内閣らしい。

(もっとも、今の若い人にとって大平内閣時代なんてのは十分に昔、すなわち「江戸時代」みたいものなので、「日米同盟」なる名称は相当伝統ある言葉になるのだろうか? おじさん、年を取ったょ。)

つまり、「日米同盟」なんて言葉は「最近」できたのだよ、と云っているのだ。

さて、古典の『戦略的思考とは何か』には、「日米同盟」という言葉がない。この本は1983年刊行なので、日本政府は公式に「日米同盟」という言葉を使っているのに、外務省の岡崎は使っていないのだ。『戦略的思考とは何か』には、「日英同盟」は頻出する。この本の主旨は世界はロシア/ソ連とアングロサクソンとの覇権競争である。歴史的にみて、アングロサクソンについた方がいいから、米国に加勢するように自衛力も高めよというもの。そういう主旨なのに、「日米同盟」という言葉はない。ないものをないというのは相当確認作業が必要である。従って、正確にいうと、おいらは『戦略的思考とは何か』において「日米同盟」という言葉を確認できなかったというべきだ。でも、実際、ないのだよ。「日米同盟」という言葉がないので、日本の同盟国アメリカ、あるいは、米国の同盟国日本という記述、発想もない。

では、どうやって、この本で日米関係を表現しているのか?何のことはない、「日米安保」である。これは、今では普通に「日米同盟」といっているのに、1983年にはそうではなかったことの典型事例である。

ところで、なぜ「同盟」という言葉に愚記事がこだわるかというと、戦争を禁じられた国と戦争を普通にする国の間で「同盟」というものが成り立つのであろうか?日英同盟のときとは、日本政府の状況がかなり違う。戦争を禁じられた国の実力組織と米軍の共同作戦というのは、法的運用上、できるのであろうか?

『戦略的思考とは何か』に戻って、なぜ、岡崎久彦が「日米同盟」という言葉を使わなかったのか?その原因として、鈴木内閣の伊東外相辞任「事件」の影響があるかもしれない。1981年のことだ。すなわち、鈴木首相とレーガン米大統領の首脳会談後、日米共同声明を発表した時にさかのぼる。声明には、初めて日米の『同盟』という言葉が盛り込まれた。鈴木首相は『同盟』に、軍事的意味合いは含まないという見解を示したが、伊東外相は『当然含まれる』と明言。閣内不統一に陥ったソース)。岡崎は、外務省から防衛庁に出向して対米協力として「軍事」的貢献をすることに従事していた[1]。こういう背景で「日米同盟」という言葉の使用には躊躇したのだろうとおいらは推定している。

[1] 西村はその後内局に移動するが、上司が岡崎久彦。愚ブログでは、「アメリカ真理教の大尊師」とお呼びしている。外務省から防衛庁に出向していたのだ。西村繁樹は三海峡封鎖戦略を立てる。すなわち、ソ連艦船のオホーツク海への進出を阻止し、原潜による核戦争で(事実上)米海軍に有利になる状況をつくる。この「対米支援」(西村、自衛隊、日本政府は日本防衛と云っている)を以て、西側諸国の防衛の一端を担うという大義を掲げ、外交的カードとした。これこそ、江藤淳が云う「アメリカの日本人によるアメリカのための兵力」の運用だと思うだが。(⑤西村繁樹『三島由紀夫最後に会った青年将校』 2019年

この「古典」、「日米同盟」という言葉がないばかりでなく、「吉田茂」もでてこない。

「日米安保」は「アメリカ真理教」の第一原理である。でも、講和条約に至るまで、安保条約を締結するという発想は外務官僚の中で必ずしも主流ではなかった。なぜなら、ポツダム宣言には講和条約締結後、占領軍は撤退すると書いてあるからだ。占領軍である米軍にそのままいてほしいと願う政治家が、日本は憲法9条があり、自衛戦争さえ放棄しているのであり[α]、自分を守ることができないので、米国様にお願いして駐留してもらうことにしたのが、旧安保条約だ。米国の日本防衛義務がなく、日本の内乱に出兵できる条約だ。これを強烈な政治力で推進、実現したのが吉田茂だ[2]。吉田茂あっての「日米安保」だ。吉田茂は日英同盟同様世界の支配勢力である「アングロサクソン」と組めば日本は安泰だと考えた。実際は、占領米軍がそのまま駐兵する日本の保護国化である。属国日本の誕生。つまり、岡崎の「アメリカ真理教」の本当の祖は吉田茂である。しかしながら、この「古典」、「日米同盟」という言葉がないばかりでなく、「吉田茂」もでてこないのだ。これは興味深い。理由は推測できる。当時、対ソ戦略のために軍事的に対米協力しようとする勢力は「軍事リアリスト」と称された。岡崎久彦はその筆頭とされた。称したのは=レッテル張りをしたのは「保守本流」派である。すなわち、「吉田ドクトリン」の信奉者たちだ。永井陽之助。この『戦略的思考とは何か』刊行後、永井陽之助と岡崎久彦とが相手を意識した論を多く書いた。永井陽之助ははっきり岡崎久彦を批判した。「軍事リアリスト」は、「吉田ドクトリン」を逸脱するものだ、と批判した。こういう背景で、岡崎久彦は、<吉田茂>は「保守本流」防衛政策の象徴なので、忌避したとおいらは推定している。

[2] 吉田の強烈な政治力に「酷使」されたのが、外務官僚の西村熊雄である(回顧は興味深い)
[α]「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせられるようであるが、私は斯くのごときことを認めることが有害であろうと思うのであります。」国会における吉田茂内閣総理大臣答弁(ソース

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筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第45週

2025年02月01日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第45週

■ 今週の筑豊境

■ 今週の繕い物

■ 今週のお米:自給率100%?の麺麭

お米のブール(フランソア
国内産米粉のほのかな甘みが特徴のシンプルなソフトフランスです◎穀類中に米粉16%使用◎本製品には小麦を含みます。

国内産小麦でつくったとある。お米の原産地を確認することを忘れてしまったのだが、国産米であれば、自給率100%だ。

■ 今週の豪産品

ふるさと納税、北海道 平取町。北海道民おすすめ『ラムしゃぶ』

 

北海道で食べるジンギスカンなど羊の肉は全て輸入品であることは知っていた。1980年代からそうであった。当時、高校生であったおいらは羊の肉は全て輸入品であると知って、少し衝撃を受けた。さて、内地の人が「ラムしゃぶ」を食べるようになったのは何時頃からだろう?むしろ、シナの火鍋経由で知った人もいるのかもしれない。遅くとも1970年代末に北海道の家庭では「ラムしゃぶ」を食べていた。ただし、「ラムしゃぶ」という言葉があったかは憶えていない。当時、「ラムしゃぶ」専門店はなかったと思う。ジンギスカン専門店は多数あった。ジンギスカン専門店がなぜたくさんあったかというと、ジンギスカンの家でやると臭(にお)いが問題だからと思われる。ところで、1980年前半には、おいらの行動範囲では、肉屋に「ラムしゃぶ」用の肉は常時並べて売られていなかった。もちろん、ジンギスカン用のラム肉、マトン肉は売られていた。一方、「ラムしゃぶ」用の肉は半冷凍の肉を薄切りにしてもらって購入していた。常時並べて売られていなかったので、その場で切ってもらうのだ。話は、飛ぶが、カナダ(牛肉の大産地)ではすき焼き用の薄い肉が売っておらず、牛肉は安かったが、すき焼きができなかった。もっとも、カナダの牛肉では脂がのっていないのので、すき焼きにしても合わなかったであろう。話を1980年代前半の札幌に戻して、当時(1980年前半)の肉販売事情を想いだすと、マトンが100g、60円代、ラムが80円代だった。おおざっぱに云って、豚が100g、100円~、そして、牛肉が100g、>400円。まだ、牛肉の自由化が進展していなかった。何より、北海道では牛肉の消費量は、全国的に見て、顕著に低かった。牛肉のすき焼きやしゃぶしゃぶを、おいらの家では、やったことはなかった。高校生の頃は近所の肉屋に行ってジンギスカン用のラムを買って(2-400g)、台所でフライパンで、羊臭を発散させながら焼いて、自家製のたれ、あるいは、ベルのジンギスカンのたれを用い、おやつがわりに食べていた。

■ 今週の和食:お寿司&天ぷら

■ 今週の欠け

お寿司&天ぷらを食べたお店のお茶碗が欠けていた。

■ 今週の訃報、激急追放、あるいは、パラノイアの顛末、そして、生き残った者について

今週月曜日、1月27日朝6時からのTBSの生島ヒロシの番組を聞いた。月曜コメンテーターの森永卓郎が、いつものように、電話出演。ただし、相当具合がわるそうあった。声がたえだえだ。先週と大違い。激変したとのこと。あぁ、これは本当に長くはないな、「死ぬ死ぬ詐欺」とのつっこみも洒落にならないなと思わせるものであった。そして、驚いたことは、森永卓郎の訃報より先に、その日の夕方帰宅すると生島ヒロシが降板させられたとの報であった(生島ヒロシがTBSラジオを降板&無期限活動自粛、パワハラ・セクハラだけではない「身内びいき」の私物化)。翌日火曜日に森永死去。こういう事情で、1・27『おはよう一直線』が伝説回(google)となった。

さて、愚ブログでは20年前に森永卓郎に言及している(2005年12月14日、吉良邸に松の廊下 by 森永卓郎)。その中で森永卓郎を、金子勝と並べて、「彼らはトーダイ出だけれどadministratorに入っていない。つまり、実質的なパワーエリートのなりそこないである。しかしながら、世俗への未練だけはトーダイ出であり、いろいろ芸を工夫して、実社会に影響力を及ぼしている」と書いている。この見立ては20年後も妥当であって、最期はザイム真理教論で世論を席捲し、世論を「煽動し」財務省批判を惹起せしめている。事実、ネットで見る森永追悼の言葉として「本当のことに気づかせてくれてありがとう!財務省が30年の日本経済停滞の元凶です!」といったものが溢れている。森永卓郎は緊縮財政政策を批判し、財務省などが云う財政危機というのは嘘であり、日本政府の財政は健全である。したがって、赤字国債をもっと出しても問題ないと主張している。一方、資本主義については時機に破綻すると主張する。

これだけネットで森永卓郎が話題になる中で、誰も指摘しないことは、森永卓郎こそがパラノイア的人間であることだ。資本主義というのは何よって駆動されているのかを説明する仮説に「成長パラノイア」論(google)がある。森永卓郎は資本主義を人格として駆動させる資本家[1]たちを「病気」として、いくらお金があっても不安で到富衝動から逃れられないと解釈している。資本家たちは全人生を到富行動に捧げる勤勉な人たちだ。つまりは、パラノイアだ。ところで、全人生を勤勉に休むことなく倦むことなく注文原稿を一度も落とすことなくレギュラー番組を病欠することもなく「富」と名声のために捧げたのが森永卓郎である。30年あまり、精力衰えることなく出ずっぱりであった。

[1] (前略)彼は、抽象的富の斬新的取得が彼の操作の唯一の推進的動機たるかぎりでのみ、資本家として、または、人格化されたー意志と意識を与えられたー資本として、機能する。第四章 貨幣の資本への転化 カール・マルクス、『資本論』(長谷部文雄 訳)

 

さて、(2005年12月14日、吉良邸に松の廊下 by 森永卓郎)では、森永卓郎と金子勝との会話について言及している。奇しくも二人はラジオ番組「大竹まことゴールデンラジオ」にてそれぞれ月曜日と金曜日のレギュラーやコメンテーターである/あったが、今では口も利かないのであろう。なぜなら、ふたりの経済観、財政政策観は正反対だからである。森永は赤字国債発行による財政拡大論であるのに対し、金子はアベノミクス批判の筆頭であるからだ。事実、森永が死んだ3日後の同番組では、森永卓郎については一切言及せず(かつては知己にもかかわらず追悼もなしで)、赤字発行という無責任な財政政策を激しく攻撃している(YouTube 「分かれ道に立つ日本経済」【金子勝】2025年1月31日(金)【紳士交遊録】)。

ところで、森永卓郎と金子勝の全く相いれない経世論を、はい、はいと聞く(聞き流す?)大竹まこととは一体なんだろう?

■ 今週のとっくに指摘済み!(福田恒存 風) マスゴミの「若い」女性の役割分担、女子アナ上納問題とその類似事例

マスゴミ、特に、テレビで若い女性、容姿が「良い」女性が登用され、あまつさえ、本来業務以外の女性性を「売りもの」にする業務(接待業務)を強いられることについてTBSが報道している(「不倫してくれたら次もCMを続けるよ」「アスリートをアナウンサーで囲んでほしい」テレビ局の接待の場で何が…メディア業界における女性の)。➡ X(小島慶子 報道特集)

「どんなむちゃなことも、どんな非常識なことも、平気でやってのける男だけが良き働き手とされていて、女性がそういう現場で働かざるを得ない」「若くて見た目が整った女性しか映す価値がないという強固な思い込み」「心身を本当に痛めつけられながら働いてきた人がたくさんいる」(小島慶子)

下記、女性が「飾り物」と指摘している;

もちろん、おいらは、決してリベラルではなく、フェミでもなく、ただのネトウヨであるが、とっくに指摘済みである。約20年も前だ。愚記事:2006年07月11日、反動勢力としてのTBS 。下記、今から思えば、われらがネトウヨが大好きなサンモニである。なお、下記で局アナとあるがアシスタント(唐橋ユミなど三桂所属のタレント)の間違いである。

TBSのテレビ、日曜の朝やっている報道&コメンテート番組がある。関口宏が司会をしているやつ。そのスタジオの構成は司会の関口を中心に、向かって左にコメンテータ4,5人、向かって右に局アナが4,5人。 その局アナは2時間余の番組で4,5人も動員され、各コーナーを担当する。 業務は原稿読みであり、自分の言葉を考えて、発する必要はない。そういう仕事は向かいのコメンテータがするのだ。 さて、変なのは、その局アナが全員「女性」なのである。 司会の関口@男は自分の裁量でじゃんじゃん思いついたことをしゃべり、番組を仕切っていく。そしてGo!サインで原稿を読むのが「女性」局アナなのである。 別に原稿を読む局アナがいても問題ないのだが、というかそれは要請された番組に必要な正当な業務である。 なのに何でそれを多人数でやっているのに、全員「女」なんだ!?