放射能検出されず...でも不安の声 五山送り火に被災松使わず
京都市で16日に行われる伝統行事「五山送り火」の一つ「大文字」の護摩木として、東日本大震災の津波で流された岩手県陸前高田市の景勝地「高田 松原」の松を使うことを大文字保存会が計画したところ、放射能汚染を不安視する声が京都市などに寄せられたため、急遽(きゅうきょ)中止となった。
用意していた護摩木は約400本あり、遺族の名前や祈りが書き込まれたが、保存会は京都に運ばず、8日夜に陸前高田市で迎え火として使う。さらに護摩木をすべて写真撮影して別の木に書き写し、京都の大文字で燃やす予定。
送り火は、盆に迎えた亡くなった人の霊を送り出す宗教行事。陸前高田市の鈴木繁治さん(66)が中心となって護摩木を集め、7月下旬に当時集まっていた約 300本を京都市と保存会がすべて検査。放射性物質は検出されなかったが、「子供に後遺症が出たらどうなるのか」「琵琶湖の水が飲めなくなる」といった声 が京都市などに寄せられ、保存会は8月に入って中止を決めた。
保存会の松原公太郎理事長は「少しでも被災者の方の思いをくみ、16日には心を込めて送りたい」と話している。
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/08/20110808-056278.php 現在リンク切れ
■人間は外界からの情報を受けて、それを処理して生きている。生きるために「本能」的なものだ。人間は生きるため、ものを食べないといけない。その時、腐敗臭に代表される臭いものは避ける。これは、身を守るための重要な判断だ。ものを本能的に嗅覚など感覚で区別する。つまりは「身分け」る。その先が本能かなんだかしらないが、人間はあらゆる外界のことを見分ける機構が発達している。分節化作用。社会文化的なことも、自分の中の秩序で、勝手に判断し、見分ける。そんな判断のひとつが識別だ。これは物質科学的に<穢れ>ているということを、文化・社会的な事象に投影したものだ。別に、その<穢れ>いると認定された文化・社会的事象、たとえば社会のあるグルーブとか、職業とか、が物質科学的に<穢れ>ているわけではない。ここで、物質科学的に<穢れ>ているとは、たとえば、セシウムをかぶったおいらの作った野菜とかのことである。足柄のお茶やセシウム牛肉も含む。
さて、今回、そんな<穢れ>認定を受けたのが、上記報道の岩手県陸前高田の松の木である。報道では、放射線測定をしても、検出されなかったとある。それなのに、「子供に後遺症が出たらどうなるのか」「琵琶湖の水が飲めなくなる」といった苦情が寄せられた。さらに驚くのは、主催者は唯々諾々とその苦情に賛同し、岩手県陸前高田の松の木を排除した。
たぶん、「子供に後遺症が出たらどうなるのか」「琵琶湖の水が飲めなくなる」といった人たちに東日本の白地図を出して、福島第一原発と陸前高田がどこにあるか示しなさいと聞いても、答えられないだろう。ただただ、毎日ニュースでの原発事故報道、放射能報道と数ヶ月前の津波の惨状の報道がごっちゃになって、津波で壊滅して放射能の黒い雨を被った魔界の地というイメージなのだ。
それにしても、放射能を含んだ薪が焼かれ⇒琵琶湖が汚染⇒水が飲めなくなる、っていうのもすごい妄想だ。琵琶湖が汚染というのなら、福島第一原発から直接琵琶湖に降った放射性物質だってあるはずなので、まずはそれを確認すべきだ。「琵琶湖の水が飲めなくなる」と苦情した人は、魔界から薪が運ばれてくるイメージが脳内で跋扈しているのであろう。
こういう、イメージを生じさせる原因は、伝統的に<穢れ>ているかどうかという視点で、文化・社会的な事象を分節化する文化を発展させてきた西日本、特に京都・奈良の文明であるという"妄想"が、おいらの脳内では跋扈している。「京都脳」だ。を構築しているのだ。
●放射能被害は是々非々で;
おいらは、トーホグマンセー!という立場だが、福島県産の放射性イナワラ出荷や、その結果のセシウム牛肉の流通は、福島農民、そして当事者である他の東北地方の農民の「犯罪的」行為だと思っている。被害者・加害者というのは関係で決まる。確かに東北の農民は原発事故の被害者である。その責任は東電と政府にある。だからと言っていつでもどこでもどんな状況でも東北農民が被害者であるかと言えば、もちろんそんなことはない。放射能で汚染された作物をきちんと管理するのは農民の義務だ。ここで義務とは、東電と政府にきっちり責任を取らせて、自分達の放射能で汚染された作物をきちんと始末するということを含む。そのためには、まずは、現状認識のために放射線量の測定が大前提だ。
話は、京都五山の陸前高田産薪の認定の話に戻って、陸前高田産薪は放射能がないという測定結果がある。これを前提にして話を進める。放射能がないのに、忌避するのは不合理である。さらに問題なのは、この"陸前高田産薪の認定とその忌避"という行為を京都市民はたしなめないことである。
"陸前高田産薪の認定とその忌避"は典型的差別事件である。「京都脳」の宿痾だ。
たしなめない典型は、例えば、京都支局長・小笠原敦子氏の「支局長からの手紙:五山送り火」に見える。この"陸前高田産薪の忌避"の不条理さになんら言及していない。五山の送り火を賛美するばかりだ。今回のこの差別を看過している。さらに、僻み根性で深読みして邪推してみれば、「保存会のホームページを見ると割り木は1年以上乾燥させるとか」と書いている。つまりは、"ここ数カ月に出てきたポット出の薪なぞ、焼きまひん!"と田舎者に暗に言っているようではないか。
今回のこの事件の背景はいろいろあるが、ひとつは政府と御用学者の「安全デマ」があまりにひどいので、それへの不信と反動で、「なんでも危険と思っておけばいい」という風潮ができていることだ。一方、なんでも「風評被害だ!」と言って、実は汚染牛肉を流通させていた罪も重い。
こういう状況を打破するには、個別に放射線量を測定していくしかない。もちろんそのためには膨大な手間ひまがかかる。でも、それは東電と政府にきっちり責任を取ってもらうしかない。確認しておかねばならないことは、福島第一原発事故で東北・関東の東日本は放射能でたのだ。おいらのお野菜だって<穢れ>ている。おいらの言いたいことは、穢れは穢れ。穢れていないものは穢れていない。きちんと、分別してねということだ。穢れの存在そのものを否定しているわけではない。やはり、分析的理性は重要なのだ。安易に魔界を脳内に跋扈させてはいけないのだ。
別途問題なのは、原発推進派・容認派が、『反・脱原発派というのは感情的だ; "薪を焼いたら"「琵琶湖の水が飲めなくなる」、「子供に後遺症が出たらどうなるのか」とか言う分析的理性に欠如した感情的な人たちなのだ』という宣伝の事例を与えることにもなる。やはり、間抜けな意見は逐次たしなめていかないといけないのだ。
と、関西を視する偏見を持つ「トーホグ脳」のおいらが差別発言をしてみました。