杖をついて英国議会に頭を垂れるじいさん。
まわりこんで、下から御尊顔を撮ってみた。
■ そのチャーチルと会って話をしたことがある日本人って何人くらいいるんだろうか?
少なくともその一人が、重光葵である。
昭和16(1941年)年2月、重光葵駐英大使とチャーチル首相
『重光葵手記』の最初が「霧のろんどん」という表題である。ろんどんとひらがな表記。
駐英大使として英首相チャーチルに会見した。
1941年2月24日
1941年3月10日
そして、1941年6月12日に離英する際の会見の計3回について内容が記されている。
(なお、重光離英の10日後に独ソ線が始まる。英国はドイツとの戦争の真っ最中であることはいうまでもない。1941年夏。重光がどうやって日本に帰ったかはまた今度)
さてこの二人、ひとつのドアの鍵穴をお互い覗きこんでいたらしいことが今となってわかってきている。
もっとも、先取はチャーチル。それを目ざとくパクったのが重光というところか。 (特に関連しない愚記事; 当時はすでにおいらは米英撃滅思想を確固したものとしていた。)
▼大西洋会議、 大西洋憲章
―戦艦プリンスオブウエールズ艦上のチャーチルとローズベルト―
重光が離英した2ヶ月後、チャーチルは、戦艦プリンスオブウエールズ艦上で米国大統領と「大西洋憲章」(wiki)を宣言。
8項目からなり、その内容は要約すると以下になる。
- 合衆国と英国の領土拡大意図の否定
- 領土変更における関係国の人民の意思の尊重
- 政府形態を選択する人民の権利
- 自由貿易の拡大
- 経済協力の発展
- 恐怖と缺乏からの自由の必要性
- 航海の自由の必要性
- 一般的安全保障のための仕組みの必要性
▼ 大東亜会議、大東亜宣言
大西洋宣言を受けて、対抗したのが、大東亜会議(wiki)、大東亜宣言であり、その発案と実行をしたのが、重光葵である。首相は、当然、東條英機である (関連愚記事; 東條内閣は"ボルシェビキ"と外相が書いていた )。大東亜会議が開かれた1943年11月には、大西洋会議が行われた戦艦プリンスオブウエールズは、開戦直後、大東亜への尖兵として登場したが、日本の航空隊により既に撃沈されていた。
大東亜会議(だいとうあかいぎ)は、1943年(昭和18年)11月5日 - 11月6日に東京で行われた首脳会議。当時の日本(大日本帝国)の影響下にあったアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。(wiki)
● さて、チャーチルと会って話をしたことがある日本人って何人くらいいるんだろうか?の問い;
一枚見つけた;
1953年、すなわちサンフランシスコ講和条約発効の1952年の翌年、敗残国・ぬっぽんの国際社会復帰の魁としての出来事だ。
プリンスオブやまと (当時) が、尖兵だったのだ。 noblesse oblige! 大変だったに違いない。
なにしろ、これ↓からまだ約10年である;
少し関連する愚記事; 「捨て石」島の捨て犬事情