カードのようなもので、いつか役に立つかもしれないが、今のところは、そんな予定はまったくない。本の森に分け入って、そこで得た断片をつなぎ合わせるというのは、結構骨の折れる作業であるからだ。
読み手の僕は自分を無にしてそれぞれの筆者になり切る。読み終わってから、自分に戻り、心に残った部分を少しだけ掘り下げるのだ。そんなたわいのないことで、老いた僕の心が癒されるのである。ただ漠然と読んでいるのと違って、少しは身についたような気になるからだろう。
母は83歳まで生きてくれたわけですから、大往生の部類かも知れません。でも誰にとっても親は親です。それは僕にとっても同様です。30歳の時に夫を亡くした母は、女であると同時に男の役割も負わなくてはなりませんでした。当然の如く働いていましたが、食事の手を抜くことはありませんでした。不思議だったのは、母は子供たちの前で御飯を食べなかったことです。自分は残りものを後で整理していたのでしょう。裕福な家庭に生まれながら、予科練帰りの父と恋愛し、親の反対を押し切っての結婚でした。子供の頃に僕は目を怪我しましたが、それが痛恨事であったようです。さらに、僕の場合は何度となくデスペレートな気持ちになりました。それを乗り越えるにあたっても母の存在は大きいものがありました。極左にかぶれていた僕が、常識を重視する保守になったのも、母の血を引いていたために、最終的には憎悪の哲学とは無縁であったからです。昨日、母の亡骸は荼毘に付されました。しかし、僕は死者は生者とともにある、との土俗的信仰心を持つています。言葉では答えてくれなくても、母は僕と共にいてくれるのです。
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秋風が身にしみるようになってきた。この季節になると、決まって芭蕉の句が思い出されてならない。「野ざらしを心に風のしむ身かな」「猿(ましら)聞く人捨子に秋の風いかに」の二つの句である。人の世のあてどない歩みは、最終的には白骨をさらすだけであり、それが野ざらしになっているのが胸に迫るのである。しかも、人生を旅にたとえるならならば、途中で行き倒れになるのが、ある意味では理想ではないだろうか。そして野辺に屍を横たえるのである。そこに吹き渡る風が天空に魂を運んでくれるのではないだろうか。もっと切ないものがこみあげてくるのは、捨て子が放置されている情景を詠んだ句である。そこに人生のつれなさが感じてならない。人命尊重の観点からも、本来であるならば、抱きかかえて助けてやるべきであるのに、それを無視して通り過ぎてしまう。そこに人の世のはかなさを見るのが、日本人の常なのではないだろうか。芭蕉は「いかにぞや、汝父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を憎むにあらじ。母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙なきを泣け」と言ったのである。「野ざらし紀行」に収録された二つの句から、いかんともしがたい運命に翻弄されるのが人生であることを、還暦を過ぎてようやく私も身につまされるようになった。老いにさしかかって、どこまで歩いていけるかは心もとない。しかし、歩けるところまで歩きたいと思う。
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去る30日の中秋の名月は、酒にもありつけずに、忙しく過ぎてしまった。暑い夏が過ぎて、会津もひんやりとした季節になってきた。井伏鱒二の詩などを、心静かに噛みしめたくなるのは、私が還暦を迎えたこともあるのだろう。「今宵は中秋名月/初恋を偲ぶ夜/われら万障くりあわせ/よしの屋で独り酒をのむ」。今夜あたりは冷酒ではなく、熱燗をお猪口で飲んでみようと思う。「よしの屋」というのは、新橋にあった縄のれんの飲み屋である。とくに私が気に入っているのは「春さん蛸のぶつ切りをくれえ/それも塩でくれえ/酒はあついのがよい/それから枝豆を一皿」の一節である。ぶっきらぼうな言い方が、かえって人間臭さを感じる。春さんとはその店の親爺だそうで、野々上慶一の『思い出の小林秀雄』によれば「チャキチャキした下町風のかみさんと二人で」やっていたという。最近は酒の席でからんだり、喧嘩をしたりするのも、ほとんど見かけなくなってしまった。不満とか不平とかをぶちまける場もなくなって、それこそ歩きながら、独りでぶつぶつつぶやいているのだろうか。井伏鱒二のペーソスというのは、庶民の人情の機微を熟知していたからだろう。『厄除け詩集』を引っ張り出して、それを酒の肴にすると、酔いが回るのが早いから不思議である。私の人生に救いがあるとすれば、井伏鱒二や小林秀雄の書に親しむことができたことだ。酒の有難さが身に沁みるのも、そのせいではなかろうか。
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もう2年以上になるが、毎日朝晩ブログを書くのが日課になってしまった。わずか原稿用紙1枚半程度の文章というのは、100㍍競争ではなく、せいぜい50㍍競争程度で、瞬発力が勝負である。慌ただしくネタを仕込み、それに味付けをするのだ。腹が立つことばかりなので、黙っているわけにはいかないのである。とくに、昨年3月11日の原発事故以降の日本の政治は、目に余るものがある。国家としての統治能力がない民主党政権では、国民に不安感を与えるだけだ。さらにはマスコミも同罪で、同じサヨクのよしみで、それを黙認するにいたっては、何をか言わんやである。世の中がずっこけているので、ついついパソコンに向かうことになるのだ。尾崎放歳の句に「人をそしる心を捨て豆の皮むく」というのがある。本来であれば、もう還暦を過ぎたわけだから、エキサイトせずに人生を達観してもよさそうなのに、今の時代はそれを許してくれないのである。しかも、右とか左とかの単純な色分けではすまなくなっており、一筋縄ではいかない。私はグローバリズムに一貫して反対であり、国家として身構えるべきだと主張している。しかし、その一方で原発には懐疑的であり、楽観的な未来などは露ぞ考えたことがない。私はそれが正しいと思っており、どこまで書き続けられるかは天のみ知るだが、まだまだ人生を達観するわけにはいかないのである。
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今日の午前中、会津美里町の市野まで車で出かけてきた。会津はどこに出るのにも峠を越えなければならないが、廃れた峠道に乗り入れると、不思議と心が落ち着く。そこに向かう途中に桐の花が咲いていた。「いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしえし桐の花はも」という短歌を芥川龍之介が残している。桐の花から汚れなき幼い日を連想したのだ。淡い紫色の筒状で、甘い香りが漂っているのが桐の花である。奥ゆかしさがあるだけに、山が連なる奥会津には、ことさらその花が似合う。ほのかに咲くからだろう。平成2年に林道が開通したことで、以前のように下郷町の大内宿まで通行が可能になった。会津西街道は大内宿から関山を経て若松に出るルートもあったが、イサベラ・バードは市野から高田を目指したのである。バードは『日本奥地紀行』で「そこの駅場係は女性であった。女性が宿屋や商店を経営し、農業をやるのは男性と同じく自由である」と書き記している。バードは鉄火肌のような会津女を目撃したのだろうか。そうではなくて、身を粉にして働く健気さに、心打たれたのだと思う。バードがそこを馬で通ったのは、明治11年6月28日のことである。すでに桐の花は散っていたとしても、可憐な会津女が出迎えたのだろう。耳を澄ますと馬のいななきが聞こえてきそうで、峠越えの駅場であった集落を前に、勝手にそんなことを想像してしまった。
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今日は5月の第2日曜日で母の日だが、井上ひさしという作家は、母親への思いが人一倍強かったのではなかろうか。山形県川西町の遅筆堂文庫には、井上が読んだ蔵書が収蔵されている。そこで私が感心したのは、自民党の大物政治家であった渡辺美智雄の自伝を始めとして、母親について書いた本を集めたコーナーがあったことだ。少年時代の井上は、東北の、山形、岩手、宮城、青森の各県を転々とした。あるときは母親と別で、あるときは母親と一緒であった。離れたり、近づいたりのなかで、自我が形成されたのではないかと思う。とくに井上が懐かしそうに述懐しているのは、昭和28年7月から昭和31年3月まで住んでいた、岩手県の釜石市での思い出である。『風景はなみだにゆすれ』によると、当時は上智大学の哲学科に在籍していた。講義が面白くなくて、母親が屋台を出していた釜石に身を寄せたのである。経済的な裏付けがあったわけではなかったので、職を次々と変わった。船舶代理店の走り使い、母親の屋台のお燗番、地方巡業衣服商の助手、書店の配達員、洋品店の店員、鮨屋の板前見習い。どの仕事も二週間と続きはしなかったはいえ、親子で暮らせたことが嬉しかったのだろう。どんな人の本であろうとも、母親を主題にしていれば片っ端から集めたのは、そうした井上の過去と重なったからだろう。そこに井上文学の本質がある気がしてならない。
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星空を見上げると、なぜか自分が帰っていく場所があるような気がして、無性に懐かしさがこみあげてくる。死ねば人間は宇宙の塵になるのだから、そう考えても不思議でも何でもない。人生たかだか数十年のサイクルで、人間は生まれ、そして死ぬのである。壮大な宇宙にとっては、ほんのささやかな出来事でしかない。この世での役を振り当てられて、必要がなくなると闇に没するはかない身としては、小惑星に自分の住む土地や、故郷の名前が付けられれば、顔見知りでもなった気がして、親近感がわいてくる。会津出身の渡部潤一国立天文台教授が実行委員長の「小惑星・彗星・流星2012」が、5月16日から20日まで新潟市で開催されるのに先立ち、新たに承認された惑星の名前を国際天文学連合が公表した。渡部教授らの尽力もあって、東日本大震災で被害を受けた県名や会津、中通り、浜通りなどの方部名が含まれている。「復興へのバックアップになれば」との思いが込められているのだという。哲学者の山崎正一氏が私に向かって、「星を好きになれば、星だって微笑んでくれるんだよ」と語ってくれたことがある。星がはるか彼方の遠い存在だと思っていると間違いで、こちらの気持次第では、優しい恋人にもなるのだ。小惑星とは岩石質の小天体を指すといわれるが、私たち福島県人も、うつむいてばかりいないで、星空を見上げて、自分たちのゆかりの土地の名前を持つ小惑星に、そっと語りかけるのはどうだろう。
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喜多方市から東武鉄道の鬼怒川温泉駅まで、東京からの友人を迎えに行ってきた。会津はようやく春めいてきたばかりなのに、南会津町から栃木県日光市を結ぶ山王トンネルを過ぎると、そこはまさしく春真っ盛りであった。川治温泉あたりからは、レンギョウの黄色に圧倒された。そして、白いコブシの花に気高さを感じた。鬼怒川温泉では、赤い梅はほぼ満開。雪国会津のように、梅と桜とがあでやかさを競うということはなく、薄ピンク色の桜はようやく開花した感じで、陽あたりの良い場所では咲き始めているが、山間部では蕾がふくらみかけた所もあった。上京するおりには、決まって東武鉄道を利用する私にとっては、それらはいつもの見慣れた光景である。後2週間も経てば、周囲の山肌に淡紅色の山桜が点綴し、その美しさはまた格別である。それだけに、この季節になると私は「年々歳々花相似たり/歳々年々人同じからず」という漢詩を口ずさんでしまう。初唐の劉廷芝の作といわれるが、毎年同じように花は咲くのに、それを愛でる人たちの顔ぶれは同じではない。そうした歳月の経過を思い知らされれば、どんな人間であろうと、感傷的な気分にさいなまれるのである。すでに私も還暦を迎えており、これからの道のりは限られている。気ぜわしく走り抜けた若い頃と違って、じっくりと自然の美を堪能しても、とやかく言われる年齢ではない。残された1日1日を大事にしたいものだ。「洛陽の女児顔色を惜しむ/ゆくゆく落花に逢うて長く嘆息す」というように、時間は止めようがないのだから。
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