草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

三島由紀夫の遺言

2007年06月06日 | Weblog
三島由紀夫が生きていたらば、安倍を応援しただろう。この国を変えるには、そのおおもとを正すべきであるのを知っていたからだ。しかし、その場合でも、国家という枠組みを尊重したはずであり、小沢の如く、国連軍であるならば、何でも許されるという議論には与しなかっただろう。主権を失えば、日本人はそれこそ、傭兵となってしまうからだ。いかにアメリカの従属下にあっても、最後の一線は守らなくてはならないのである。小沢は旧社会党と一緒になっても、政権だけを狙う権力の亡者である。そんな手合いにだまされるほど国民は愚かではないと思う。三島の生前の言葉は、日増しに重さを増している。守るべき日本の伝統とは何か。それを衒うことなくストレートに主張したからだ。政治学者の橋川文三は三島の政治論をこっぴどく批判した。しかし、それで罰があたったのか、橋川は後悔の念にさいなまれていたという。日本人であることを失うことなく、それでいて現実を直視する。そのスタンスこそ、三島が望んだことなのである。物理的なクーデターを行うつもりならば、三島はもっと違った方法をとったであろう。そうでなくて、精神的なクーデターを狙ったからこそ、あのような結末を迎えたのだ。安倍は捨て身である。どうしてそれを改革派のわれわれが見捨てておけよう。三島の志を継げるかどうかが問われているのだ。改革とはまさしく、三島の遺志を継ぐことなのである。三島はドンキホーテではなかった。死を以て何が大事かを示したかったのであり、後に続くを信じたのではなかろうか。
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