トランプ起訴のニュースは、民主主義の難しさを語っている。ニューヨーク州の大陪審がそれを行ったのは、ブラック地方検事が、民主党の候補として地方検事選挙に当選したからである。その辺をまったく伝えず、トランプを悪者にする報道が日本では多過ぎる。
アメリカですら、今回の件は、マスコミの評価が分かれている。ワシントンポストやウォールストリート・ジャーナルなどは「党派性が露骨である」と批判している。
建国時のアメリカは、清教徒の国家として、根本に聖書があった。それをベースにして司法ができ上ったのである
しかし、今日は様相が一変してしまった。移民の増加によって、キリスト教以外の宗教を信じる人も多くなり、グルーバリズムの激化で、貧富の差も拡大している。分裂がどんどん進行しているのだ。
ノモスとしてのキリスト教が希薄になれば、司法も権力闘争の場と化してしまう。司法の独立も絵に描いた餅になりかねないのである。
我が国ではノモスを象徴する皇室が連綿として続いている。このことについて、法哲学者の尾高朝雄が明確に論じている。
「民主主義の政治原理は、政治の正しさを識別すべき根拠を国民の意志に置く。これを、主権が国民に在るといい、国民の総意によって法を作るというのである。かような国家組織の根本体制は、かならずしも君主制と両立し得ぬものではない。なぜならば、国民主権の下において、君主がなおかつ統治の実権を掌握するということは、もはやあり得ないが、国民の総意をもって統治の基準としつつ、君主をもって国民共同体としての国家の統合性の象徴とすることは可能であり、君主制の有する国家の特殊性をば、民主主義という普遍的な政治原理の中に生かして行くゆえんともなるからである」(『法哲学』)
デモクラシーとは民衆支配ということである。時には暴走することもある。だからこそ、それぞれの国家の規範であるノモスが重要なってくるのだ。アメリカが混乱しているのは、多民族国家であるために、それが見当たらないからなのである。