つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

神田明神(神田神社)の初詣

2014年01月14日 | 日記
                  神田明神(神田神社)本殿

神田祭には天野屋さんの天星睦のグループに参加して神輿宮入りを実施しておりました。
正月の神田明神は、3が日は家族連れが多く参拝します。
仕事始めとなると商売繁盛の神が祀られている関係で会社員のグループが長蛇の行列をなしてお参りをしております。

神田神社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。
その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。

江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。
以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。

明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。

神田明神の歴史
神田明神の歴史 大正12年(1923)、未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。
日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。
神田神社は、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。

境内には、銭形平次の碑や国学発祥の地の碑などがあります。
本殿の横には、神田祭で宮入りしている神輿の写真が掲示されておりました。

(1月14日記)
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