つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

新国劇の想い出 辰巳柳太郎氏のこと

2024年09月30日 | 芸能

 ◎辰巳柳太郎氏について
 少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら、1926年(大正15年)に旅回りの一座に入り長野で初舞台を経験する。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団、東伍作の名で舞台に立つ。

 その後、新国劇の沢田正二郎の魅力に引かれ1927年(昭和2年)、道頓堀の浪花座で公演中の沢田を楽屋に訪ね弟子入りを直談判し新国劇への入団を許される。新国劇での初舞台では『国定忠治』の駕篭かき役を演じた。

 
 芸名を「辰巳柳太郎」と改める。芸名は師匠の沢田が辰年、柳太郎が巳年生まれだったことに由来する。1929年(昭和4年)、沢田が急死すると俵藤丈夫文芸部長によって島田正吾とともに沢田の後継者に大抜擢される。抜擢の理由は沈着冷静な島田と明るく奔放な柳太郎を合わせると沢田の芸風に似たものが出来るだろうという考えからであった。

 その後『大菩薩峠』の「机龍之介」や『宮本武蔵』、『無法松の一生』、『王将』の「坂田三吉」などの主人公を豪放磊落に演じきり島田正吾と共に二本柱として新国劇を支える。

 戦後になると映画界に進出し1949年(昭和24年)に『どぶろくの辰』で初出演、以降は映画でも島田とたびたび共演したのをはじめ1954年(昭和29年)には日活の映画製作再開に伴い劇団ぐるみで同社と契約、映画界においても「辰巳・島田ブーム」が巻き起こした。

 しかし大衆演劇の衰退と共に新国劇の観客数は減少、1987年(昭和62年)、70周年記念公演終了後、新国劇は解散することになる。解散の2年後、1989年(平成元年)に辰巳は世を去った。

 弟子に大友柳太朗、緒形拳、笠原章らがいる。


島田正吾・辰巳柳太郎の手形顕彰


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