11月も、はや半分が過ぎた。そろそろ喪中欠礼が舞い込み始める季節だ。
今日は午後から定例の会議で、午前中からその準備に追われた。相変わらず胸骨が痛む。痛みがなければ普段は胸骨の位置などは意識しないが、いざ“痛い”となると、その部位が俄然自己主張を始めるものだ。心配していた腰痛は湿布のおかげか大分落ち着いているのだが、資料の運搬や会場設営等で力仕事になると、どうしても胸骨に負担がかかるのか、痛む。
帰宅後は久しぶりに3人揃って早い時間に夕食が摂れたのに、片付けの途中で気に入っていた小鉢を割ってしまった。結婚以来ずっと使っている食器が幾つもあるくらい私は物持ちが良く、ほとんど物を割らないのだが。手が痺れるのか、滑るのか。あ~あ・・・と思う。
さて、今年も11月22日の「いい夫婦」の日が近づいてきたところで、表題のもう一つの話題。
テレビドラマを見ていると、父親が娘の結婚相手に対して「君は娘を“幸せ”にしてやれるのか。」と迫る台詞がしばしば出てくるが、私にはどうも違和感がある。
そもそも男性が女性を“幸せ”にするのが結婚なのかどうか。天邪鬼と言われるかもしれないけれど、男性だけが相手の女性を幸せにするものでもないだろう。結婚することによって、お互いがより幸せになれればそれに越したことはない。だから女性が男性を幸せにすることだって十分あり得る筈なのに、女性が男性の側の親から「あなたは息子を“幸せ”にしてやれるのか。」という場面にはあまり遭遇しない。けれど、一方的な関係は長続きしないのではないか。
振り返ってみれば、私は夫に“幸せ”にしてもらおうとは思っていなかったし、「幸せにしてね。」とも言った覚えはない。一緒に幸せになろうね、とは思ったけれど・・・。
病気になってしまったことは決して運のいいことではなかったけれど、病気になって、それまでに増して夫や息子の大切さが分かったことは“幸せ”なことなのだろう、と思う。
さきほど義妹から電話があった。退院して施設に戻った義母の容態はとても落ち着いているという。車いすに座ってテレビを見たり、散歩に行ったり、食事も大分摂れるようになったと聞いて安堵した。
今の治療が一段落するまでお見舞いを失礼しているが、来年また見舞うときには、私のことを分かってくれるだろうか。
今日は午後から定例の会議で、午前中からその準備に追われた。相変わらず胸骨が痛む。痛みがなければ普段は胸骨の位置などは意識しないが、いざ“痛い”となると、その部位が俄然自己主張を始めるものだ。心配していた腰痛は湿布のおかげか大分落ち着いているのだが、資料の運搬や会場設営等で力仕事になると、どうしても胸骨に負担がかかるのか、痛む。
帰宅後は久しぶりに3人揃って早い時間に夕食が摂れたのに、片付けの途中で気に入っていた小鉢を割ってしまった。結婚以来ずっと使っている食器が幾つもあるくらい私は物持ちが良く、ほとんど物を割らないのだが。手が痺れるのか、滑るのか。あ~あ・・・と思う。
さて、今年も11月22日の「いい夫婦」の日が近づいてきたところで、表題のもう一つの話題。
テレビドラマを見ていると、父親が娘の結婚相手に対して「君は娘を“幸せ”にしてやれるのか。」と迫る台詞がしばしば出てくるが、私にはどうも違和感がある。
そもそも男性が女性を“幸せ”にするのが結婚なのかどうか。天邪鬼と言われるかもしれないけれど、男性だけが相手の女性を幸せにするものでもないだろう。結婚することによって、お互いがより幸せになれればそれに越したことはない。だから女性が男性を幸せにすることだって十分あり得る筈なのに、女性が男性の側の親から「あなたは息子を“幸せ”にしてやれるのか。」という場面にはあまり遭遇しない。けれど、一方的な関係は長続きしないのではないか。
振り返ってみれば、私は夫に“幸せ”にしてもらおうとは思っていなかったし、「幸せにしてね。」とも言った覚えはない。一緒に幸せになろうね、とは思ったけれど・・・。
病気になってしまったことは決して運のいいことではなかったけれど、病気になって、それまでに増して夫や息子の大切さが分かったことは“幸せ”なことなのだろう、と思う。
さきほど義妹から電話があった。退院して施設に戻った義母の容態はとても落ち着いているという。車いすに座ってテレビを見たり、散歩に行ったり、食事も大分摂れるようになったと聞いて安堵した。
今の治療が一段落するまでお見舞いを失礼しているが、来年また見舞うときには、私のことを分かってくれるだろうか。