散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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道頓と康明治と影武者と痩せ我慢と太宰治

2013-05-08 21:30:41 | 日記

【その1 ~ 道頓】

父が置いていった文庫本、司馬遼太郎『最後の伊賀者』。

初期の(?)短編7つを収め、その最後が『けろりの道頓』

 

道頓堀の地名の由来を初めて知りました!

根っからの大阪人、大阪自慢の義父が、さてこのことを知ってるかな、へっへっ、楽しみができたぜ。

ネタばらしは控えるとして、水利や運河の開発には、得てして篤志の私人の貢献があるものだね。

玉川上水に玉川兄弟あり、もっとも官命ではあったわけだが。神戸でも三宮あたりで同種の碑文を見た覚えがある。

そういえば珍しく松江出身の患者さんがいて、昔は松江城の麓あたりで遊んだものだと話したら、「今はあのあたりまで船で行けるんですよ」と教えてくれた。「東洋のベニス」と地元では言ってたっけ。

松江にもそんな人物があったのかな。

 

そうじゃないのだ、今のポイントは。

秀吉とたまたま出会い、いわば権力者になぶられる態の交流をわずかに持ったに過ぎない、素封家の道頓。

その道頓が、大坂の陣に際して何を思ったか豊臣方に参陣する。

 

「正気でござりまするか」

「ああ、正気や」

「どういうおつもりでござります」

「豊公には恩義がある」

何を言うのだ、と思った。むかし、天満川畔の青物市で肩をたたかれただけのことではないか。そうなじると、

「ああ、それでも縁は縁や。その息子と後家が負けかけているのに、だまって道頓が見ているわけにもいくまい」

 

以上、である。

どこまでが史実で、どこからが作家の想像力の産物か、例によってそれもわからない。

わからないのだが、僕にはこれは「義理に厚い」とか「判官贔屓」といったこととは、少し違うような気がするんだな。

何というのか、大きなものが動いていくときに、自分もその中に関わっていたいというような、そんな心根のような気がするのだ。

 

で、同型のこととして連想されるものを列挙してみる。

 

【その2 ~ 康明治】

って誰のことだか、分かるかな。

大江健三郎 『遅れてきた青年』

僕の大江嫌いを知ってる友達は、可笑しがるかもしれない。

いかにも、同郷の偉人ではあっても僕は彼の文章は概して嫌いだ。

でも、食わず嫌いではないってことが、これで分かるだろ。

ついでに言えば、小説は嫌いでも「ヒロシマ・ノート」「沖縄ノート」といった評論には、けっこう学んだと思う。

 

で、『遅れてきた青年』

主人公の竹馬の友である在日朝鮮人青年・康明治。

この場合、「韓国人」ではなく「朝鮮人」とことさら書く理由があるのは、彼が北に属する(と自分が思っている)人物だからだ。

その彼は、日本の敗戦の際に歓喜を露わにしたことを友人に釈明して、

「日本が負けたのを喜んだのではない、金日成が勝ったのを喜んだのだ」と語る。

そしてその後、北鮮軍に投じる志をもって旅立っていくのだが、数年後に再会した彼は、あろうことかアメリカ軍のスパイとして朝鮮戦争に関与したことを語るのだ。

そのくだり

「おれがなぜ、金日成将軍の敵の軍隊に加わったか、ふしぎに思うだろう?簡単だよ、日本から朝鮮の戦争に参加する方法はそれだけしかなかったんだ。それに子どもの頭で考えた行動法はあったのさ、おれは国連軍の機密書類をぬすんで敵の陣地に投降しようとおもっていいたんだ・・・」

 

【その3 ~ 影武者】

御存じ、1980年の黒澤明映画。主演は仲代達矢。

最初は勝新太郎のはずだったのだが、黒澤監督と衝突して降りたのだ。勝の実兄の若山富三郎は、衝突を予見していたので出演依頼を断ったのだそうな。「あいつ(=勝)は黒澤監督に心酔しているから、あんな風に衝突するのだ」と、若山がどこかに書いていた記憶がある。まるでフロイディアンみたいな父子葛藤説だったよ。

 

さて、物語。

武田信玄没後の影武者に起用された男が主人公で、映画も後半に至って正体が現れ放逐される。

消されなかったのが幸いというものだが、なぜか心は離れがたく、長篠の戦いを身を潜めて見ていた。

織田・徳川軍の鉄砲隊の前に武田の騎馬隊が壊滅するのを目のあたりにした時、男はたまらず武田の旗を拾って乱戦中に駆け込み、落命する。

 

康明治の話を飛ばして、むしろ道頓とつながるところがあるかしらん。

 

この後の二つは話が逸れるようなのだけれど、思いついたら口にしてしまうのが自由連想のルールだから、構わず書いていく。

 

【その4 ~ またしても『痩せ我慢の説』】

「さて、この立国立政府の公道を行わんとするに当り、平時に在てはさしたる艱難もなしといえども、時勢の変遷に従って国の盛衰なきを得ず。その衰勢に及んではとても自家の地歩を維持するに足らず、廃滅の数すでに明らかなりといえども、なお万一の僥倖を期して屈することを為さず、実際に力尽き然る後に斃るるはこれまた人情の然らしむるところにして、その趣を喩えていえば、父母の大病に回復の望みなしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし。」

(中略)

「されば自国の衰退に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至り手始めて(ママ)和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう痩我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの痩我慢に依らざるはなし。ただに戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても痩我慢の一義は決してこれを忘るべからず。欧州にて和蘭、白耳義のごとき小国が、仏独の間に介在して小政府を維持するよりも、大国に合併するこそ安楽なるべけれども、なおその独立を張りて動かざるは小国の痩我慢にして、我慢よく国の栄誉を保つものというべし。」

 

・・・逸れるような、逸れないような。

道頓も康明治も影武者も、いずれも勝敗を度外視して自分の関わりたいものと運命を共にしている、そのことの連想なのだが、彼らが痩せ我慢しているかというと、少し違うように思われる。

何というか、アクセントの所在の違いかなぁ。

 

最後はだ~れだ?

 

【その5 ~ 太宰治】

「私は戦争中に、東条にあきれ、ヒトラアを軽蔑し、それを皆に言いふらしていた。けれどもまた私はこの戦争において、大いに日本に味方しようと思った。私など味方になっても、まるでちっともお役にも何も立たなかったと思うが、しかし、日本に味方するつもりでいた。この点を明確にしておきたい。この戦争には、もちろんはじめからなんの希望も持てなかったが、しかし、日本は、やっちゃったのだ。」

「昭和十四年に書いた私の『火の鳥』という未完の長編小説に、次のような一説がある。これを読んでくれると、私がさきにもちょっと言っておいたような『親が破産しかかって、せっぱつまり、見えすいたつらいうそをついている時、子供がそれをすっぱ抜けるか。運命窮まると観じて、黙ってともに討死さ。』という事の意味がさらにはっきりして来ると思われる。」

(中略)

「このような思想を、古い人情主義さ、とか言って、ヘヘンと笑って片づける、自称『科学精神の持ち主』とは、私は永遠に仕事をいっしょにやって行けない。私は戦争中、もしこんなていたらくで日本が勝ったら、日本は神の国ではなくて、魔の国だと思っていた。けれども私は、日本必勝を口にし、日本に味方するつもりでいた。負けるにきまっているものを、陰でこそこそ、負けるぞ負けるぞ、と自分ひとり知ってるような顔でささやいて歩いている人の顔も、あんまり高潔でない。」

太宰治『十五年間』

 

*****

 

う~・・・

やっぱり後の二つは、話が少し違うよな。

好むと好まざるとに関わらず、自分がその構成員であることを強いられるもの、「国家」というものがそこに介在するからだ。

そこで太宰が面白いのは、「私は日本に味方する」なんぞという言い方で、まるで味方するかしないかの自由があったかのようなポーズをとっているところだ。海を越えて祖国に投じていった康明治ならいざ知らず。

 

強制しか存在しないところで、敢えて自由を言い張ってみせる、これが太宰の痩せ我慢かもな。

 

そのあたりのことは含みにしつつ、「人は何かしら殉ずる対象がないと自分自身の生を支えていけないのだし、そのような帰属の欲求は日頃僕らが思っている以上に強いのだ」ぐらいのことは言えるような気がする。

そんなの当たり前かというと、そうでもないと思うのだ。

 

ついでに言うなら、この種の幻想の必要性は、女性よりも男性において、より強いものだろうと思う。

男性は意味を食べて自分の生を支える種族で、それがないとてんでダメなんだよ。

 

いま男の子達が生きづらくなっているひとつの理由は、たぶんこの辺りにある。

そして気をつけないと、おバカに見えて意外にアタマのいい人たち(つまり、悪賢い人たち)が、こうした男の子達の渇望につけこんで、またぞろ悪さをやらかすかもしれない。

 

今夜はもう休もう・・・

 

 

 

 

 

 

 


齋藤先生と地熱発電

2013-05-08 18:27:02 | 日記

香川の山崎先生のことを語った勢いで、岩手の齋藤先生の思い出を書き留めておく。


岩手SCの面接授業は、昨2012年の6月下旬だった。

梅雨時には北へ逃げるに限ると考えてのことで、その涼しさはよく記憶している。


というのも、


いつもながらのうっかりで宿を取るのがギリギリになり、駅からも学習センターからも遠いホテルしか取れず、北上川を越え商店街を抜けて30分以上歩くハメになった。夜も10時を過ぎて、涼しいというより寒いのである。


石川啄木の銅像の向かい側あたりで、長身の女の子が居酒屋か何かの呼びこみをやっている。

肩も露わに腿の付け根まで向き出しの肌が、頬も手も足も東北人らしく真っ白で、見ているこちらはいよいよ寒くなった。

しかし若いとは大したもので、元気な笑顔に震えやかじかみの気配もない。


この子には、何かもっと別の仕事をさせてみたい気がしたのが、涼しさの記憶という次第。

 

*****

 

齋藤先生は秋田の出身、仙台の東北大で学び、その後は岩手大学で定年まで奉職された。

東北コスモポリタンというところ。

「いわてだいがく」というとホテルのフロントが良く分からない顔をし、後の話も何だかヘンだと思ったら、岩手医科大学と混同している。

「がんだい」と言わなければ地元ではかえって通じない。その岩大である。

御専門は、もともと地熱発電だったのだそうだが、岩大に移ってからは災害予知に焦点を移した。


なぜかというと、


地熱発電の立地等を見当する基礎資料として、まずは地下の熱の分布を調べることが必要になる。このデータが、火山の噴火予知にあたって不可欠の資料となるのだ。

そして齋藤先生が東北大から岩大に移るのを待っていたかのように、岩手山が不穏の徴候を示し始めた。

 

 

岩手山は盛岡市北西20kmに位置する。

東北の広い空の下で高さを見失うが、標高2038mは岩手県最高峰だ。


「いわて」を「言わで」にかけて、古来よく歌に詠まれたとある。

知られじな 絶えず心に かかるとも 岩手の山の 峰の白雪 (続古今和歌集)

みやこ人が我が目で岩手山を見る機会も滅多になかったろうに、イメージの飛ぶことはまさに一瀉千里。

啄木が「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」と詠じたのも、この山だ。

 

岩手山は二つの外輪山からなる複成火山で、wiki 等によれば以下のような噴火履歴をもつ。

1686年(貞享3年)噴火 ・・・ 生類憐れみの令の前年だ。

1731年(享保16年)噴火 ・・・ 現在の八幡平市で住民が避難。この時、北東山麓(八幡平に面した側)に形成された溶岩流が「焼走り熔岩流」として国の特別天然記念になっている。同じ年、徳川吉宗治下の江戸では大火が起きた。

下って1919年(大正8年)にも小噴火(水蒸気爆発)

そして1998年から2003年にかけて火山性地震と地殻変動が持続したとある、この時期に齋藤先生が岩大に来られたのである。


岩大在任中、齋藤先生の関心と注意は常に岩手山に向けられていた。

いかに正確に噴火を予知するか、

いったん噴火の際には、いかに小さく被害を抑えるか、

噴火は時間の問題と思われたので神経の休まる暇がなく、不眠をきたして医者に薬を処方してもらったこともあるという。

幸いにして、と言うべきかどうか、齋藤先生は噴火を見ることなく定年を迎えられた。

けれども営々と蓄積されたデータと工夫は無駄にされることがなく、放送大学の学習センター長に迎えられた後も、ことあるごとに講義・講演で防災の勧めを語られた。

2010年の秋からはシリーズで講演、2011年3月6日の日曜日には「津波」をテーマに話された。

その5日後、震災が起きた。


*****


齋藤先生の語られたことから、二つ書き留めておく。


まず、「想定外」について。

三陸地方の人々にとって、津波は「必ずやってくるもの」であった。

今回、宮古市で確認された津波遡上高は39.7m、確かに記録に残るものとして最大である。


ただし、


30mクラスの津波は決して珍しくはない。

近い過去を見ただけでも

1896年(明治29年)明治三陸地震津波

1933年(昭和8年)昭和三陸地震津波

1960年(昭和35年)チリ津波

過去115年間に三度、つまり約40年に一回はこのクラスの津波が襲ってくるものと想定せねばならない。

しかるに、東電原発の想定津波高はわずかに5.7mであった。

そのことが、齋藤先生のような防災関係者にまったく知らされていなかった。


「想定」とは根拠のない楽観のことか、それを超える事態は「想定外」なのか、

これについては、ぜひ齋藤先生御自身の書かれたものを見てほしい。


*****


もうひとつ、これは書かれたことではない、語られたことである。

「先生、しかし・・・」と思いつきを口にしてみた。

「原発がこうなった今、先生の本来の御専門である地熱発電は、あらためて脚光を浴びるのではないですか?」

先生は複雑な表情をなさった。

「国策として原発が推進されるようになって以来、地熱発電には研究費が付かなくなりました。金がなくては研究できないから日本の地熱発電研究は事実上中断し、大きな空白ができてしまったんです。今から再開するとしても、まずはその空白を埋めるところからやり直しです。それに、今さら地熱をやれと言われてもね・・・」


先日、高松の風景を見て、なぜ塩田を一部でも残しておかないのかと考えたとき、思い出したのはこのことだったのだ。


ある方向へ主力を傾注するのは良い。

しかし、なぜそれ以外のものを、一切合切やめてしまわなければならないのか。

それらを二度と取り戻せなくなることのコストとリスクを、後世に追わせて良いのか。


震災直後に原発廃止論が一時的な盛り上がりを見せたとき、僕自身は「全廃せず、一部は残すのがよい」と考えた。

原発のリスクをチェックし、より安全な運用の仕方を検討するためにも、実験的に少数は残しておくのがよい、と。


もちろん、今になってみればこんな議論は空しいね。

原発はナシ崩しに主役の座に戻り、代替エネルギーは「今さら」も何も、見えてくる気配がない。

そして40年も経てば、津波はまたやってくる。

僕などは、それを見ることもないだろうが。


【追記】

放送大学では昨2012年に特別セッションを行い、報告書をまとめた。

インターネットから全文をダウンロードでき、その中に齋藤先生の報告も読むことができる。

http://www.ouj.ac.jp/hp/o_itiran/2013/250403_2.html




 


地名・自由連想

2013-05-08 09:50:01 | 日記

人の名前と同じく、地名も面白い。

由来も面白いし、読み方も面白い。

 

小豆島は(アズキジマではなくて)「しょうどしま」だけど、行政単位としては小豆郡「しょうずぐん」なのだね。

島の玄関口にあたる土庄港は、「とのしょう」と読むのだ。


以下は自由連想。


島根・鳥取の県境にある中海は「なかうみ」なのだが、全国放送で「なかのうみに白鳥が飛来して・・・」などと紹介されることがあり、心外に思った小学生の頃。


医学生時代に浜松の聖隷ホスピスに見学に行った。

在所は武田・徳川の合戦で知られる三方原である。

当然「みかたがはら」と思い込んでいたが、地元では「みかたばら」であると知り、これはかなり衝撃だった。

地元で「みかたばら」なのに、何の権威をもってよそ者が「みかたがはら」を公称とするのか。


大分は別府の一年間、ここは標高1,375mの鶴見岳が海岸からいきなり立ち上がってそびえ、かなり急峻な土地である。

斜面には見晴らしの良い平地がところどころに開け、それらは「〇〇原(ばる)」と呼ばれていた。

西南戦争の激戦地は、熊本の田原坂(たばるざか)であった。

原を「はる」と発音するのは九州一円の習いか。

熊襲タケル以来だね、きっと。


別府を去る直前、初秋の夜半、十文字原(じゅうもんじばる)に車を停め、眼下を眺めて息を吞んだ。

漆黒の別府湾に、満月が皎々と輝いている。

空の月と海の月、闇の中でそれを見つめる自分。

一瞬、正気を失いそうになった。


信州は海のない土地であるのに、不思議に海に因んだ地名が多い。

祭りの神輿にも舟形をしたものが見られると、昨日お目にかかったY先生が教えてくれた。

海辺からやって来た、あるいは海を越えて渡来した人々が、その思い出と出自を地名・風俗に込めたものかと解説してくださった。


次はY先生のことを書いておきたいが、その前にお仕事でしたね。

頑張ろう!