【その1 ~ 道頓】
父が置いていった文庫本、司馬遼太郎『最後の伊賀者』。
初期の(?)短編7つを収め、その最後が『けろりの道頓』
道頓堀の地名の由来を初めて知りました!
根っからの大阪人、大阪自慢の義父が、さてこのことを知ってるかな、へっへっ、楽しみができたぜ。
ネタばらしは控えるとして、水利や運河の開発には、得てして篤志の私人の貢献があるものだね。
玉川上水に玉川兄弟あり、もっとも官命ではあったわけだが。神戸でも三宮あたりで同種の碑文を見た覚えがある。
そういえば珍しく松江出身の患者さんがいて、昔は松江城の麓あたりで遊んだものだと話したら、「今はあのあたりまで船で行けるんですよ」と教えてくれた。「東洋のベニス」と地元では言ってたっけ。
松江にもそんな人物があったのかな。
そうじゃないのだ、今のポイントは。
秀吉とたまたま出会い、いわば権力者になぶられる態の交流をわずかに持ったに過ぎない、素封家の道頓。
その道頓が、大坂の陣に際して何を思ったか豊臣方に参陣する。
「正気でござりまするか」
「ああ、正気や」
「どういうおつもりでござります」
「豊公には恩義がある」
何を言うのだ、と思った。むかし、天満川畔の青物市で肩をたたかれただけのことではないか。そうなじると、
「ああ、それでも縁は縁や。その息子と後家が負けかけているのに、だまって道頓が見ているわけにもいくまい」
以上、である。
どこまでが史実で、どこからが作家の想像力の産物か、例によってそれもわからない。
わからないのだが、僕にはこれは「義理に厚い」とか「判官贔屓」といったこととは、少し違うような気がするんだな。
何というのか、大きなものが動いていくときに、自分もその中に関わっていたいというような、そんな心根のような気がするのだ。
で、同型のこととして連想されるものを列挙してみる。
【その2 ~ 康明治】
って誰のことだか、分かるかな。
大江健三郎 『遅れてきた青年』
僕の大江嫌いを知ってる友達は、可笑しがるかもしれない。
いかにも、同郷の偉人ではあっても僕は彼の文章は概して嫌いだ。
でも、食わず嫌いではないってことが、これで分かるだろ。
ついでに言えば、小説は嫌いでも「ヒロシマ・ノート」「沖縄ノート」といった評論には、けっこう学んだと思う。
で、『遅れてきた青年』
主人公の竹馬の友である在日朝鮮人青年・康明治。
この場合、「韓国人」ではなく「朝鮮人」とことさら書く理由があるのは、彼が北に属する(と自分が思っている)人物だからだ。
その彼は、日本の敗戦の際に歓喜を露わにしたことを友人に釈明して、
「日本が負けたのを喜んだのではない、金日成が勝ったのを喜んだのだ」と語る。
そしてその後、北鮮軍に投じる志をもって旅立っていくのだが、数年後に再会した彼は、あろうことかアメリカ軍のスパイとして朝鮮戦争に関与したことを語るのだ。
そのくだり
「おれがなぜ、金日成将軍の敵の軍隊に加わったか、ふしぎに思うだろう?簡単だよ、日本から朝鮮の戦争に参加する方法はそれだけしかなかったんだ。それに子どもの頭で考えた行動法はあったのさ、おれは国連軍の機密書類をぬすんで敵の陣地に投降しようとおもっていいたんだ・・・」
【その3 ~ 影武者】
御存じ、1980年の黒澤明映画。主演は仲代達矢。
最初は勝新太郎のはずだったのだが、黒澤監督と衝突して降りたのだ。勝の実兄の若山富三郎は、衝突を予見していたので出演依頼を断ったのだそうな。「あいつ(=勝)は黒澤監督に心酔しているから、あんな風に衝突するのだ」と、若山がどこかに書いていた記憶がある。まるでフロイディアンみたいな父子葛藤説だったよ。
さて、物語。
武田信玄没後の影武者に起用された男が主人公で、映画も後半に至って正体が現れ放逐される。
消されなかったのが幸いというものだが、なぜか心は離れがたく、長篠の戦いを身を潜めて見ていた。
織田・徳川軍の鉄砲隊の前に武田の騎馬隊が壊滅するのを目のあたりにした時、男はたまらず武田の旗を拾って乱戦中に駆け込み、落命する。
康明治の話を飛ばして、むしろ道頓とつながるところがあるかしらん。
この後の二つは話が逸れるようなのだけれど、思いついたら口にしてしまうのが自由連想のルールだから、構わず書いていく。
【その4 ~ またしても『痩せ我慢の説』】
「さて、この立国立政府の公道を行わんとするに当り、平時に在てはさしたる艱難もなしといえども、時勢の変遷に従って国の盛衰なきを得ず。その衰勢に及んではとても自家の地歩を維持するに足らず、廃滅の数すでに明らかなりといえども、なお万一の僥倖を期して屈することを為さず、実際に力尽き然る後に斃るるはこれまた人情の然らしむるところにして、その趣を喩えていえば、父母の大病に回復の望みなしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし。」
(中略)
「されば自国の衰退に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至り手始めて(ママ)和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう痩我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの痩我慢に依らざるはなし。ただに戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても痩我慢の一義は決してこれを忘るべからず。欧州にて和蘭、白耳義のごとき小国が、仏独の間に介在して小政府を維持するよりも、大国に合併するこそ安楽なるべけれども、なおその独立を張りて動かざるは小国の痩我慢にして、我慢よく国の栄誉を保つものというべし。」
・・・逸れるような、逸れないような。
道頓も康明治も影武者も、いずれも勝敗を度外視して自分の関わりたいものと運命を共にしている、そのことの連想なのだが、彼らが痩せ我慢しているかというと、少し違うように思われる。
何というか、アクセントの所在の違いかなぁ。
最後はだ~れだ?
【その5 ~ 太宰治】
「私は戦争中に、東条にあきれ、ヒトラアを軽蔑し、それを皆に言いふらしていた。けれどもまた私はこの戦争において、大いに日本に味方しようと思った。私など味方になっても、まるでちっともお役にも何も立たなかったと思うが、しかし、日本に味方するつもりでいた。この点を明確にしておきたい。この戦争には、もちろんはじめからなんの希望も持てなかったが、しかし、日本は、やっちゃったのだ。」
「昭和十四年に書いた私の『火の鳥』という未完の長編小説に、次のような一説がある。これを読んでくれると、私がさきにもちょっと言っておいたような『親が破産しかかって、せっぱつまり、見えすいたつらいうそをついている時、子供がそれをすっぱ抜けるか。運命窮まると観じて、黙ってともに討死さ。』という事の意味がさらにはっきりして来ると思われる。」
(中略)
「このような思想を、古い人情主義さ、とか言って、ヘヘンと笑って片づける、自称『科学精神の持ち主』とは、私は永遠に仕事をいっしょにやって行けない。私は戦争中、もしこんなていたらくで日本が勝ったら、日本は神の国ではなくて、魔の国だと思っていた。けれども私は、日本必勝を口にし、日本に味方するつもりでいた。負けるにきまっているものを、陰でこそこそ、負けるぞ負けるぞ、と自分ひとり知ってるような顔でささやいて歩いている人の顔も、あんまり高潔でない。」
太宰治『十五年間』
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う~・・・
やっぱり後の二つは、話が少し違うよな。
好むと好まざるとに関わらず、自分がその構成員であることを強いられるもの、「国家」というものがそこに介在するからだ。
そこで太宰が面白いのは、「私は日本に味方する」なんぞという言い方で、まるで味方するかしないかの自由があったかのようなポーズをとっているところだ。海を越えて祖国に投じていった康明治ならいざ知らず。
強制しか存在しないところで、敢えて自由を言い張ってみせる、これが太宰の痩せ我慢かもな。
そのあたりのことは含みにしつつ、「人は何かしら殉ずる対象がないと自分自身の生を支えていけないのだし、そのような帰属の欲求は日頃僕らが思っている以上に強いのだ」ぐらいのことは言えるような気がする。
そんなの当たり前かというと、そうでもないと思うのだ。
ついでに言うなら、この種の幻想の必要性は、女性よりも男性において、より強いものだろうと思う。
男性は意味を食べて自分の生を支える種族で、それがないとてんでダメなんだよ。
いま男の子達が生きづらくなっているひとつの理由は、たぶんこの辺りにある。
そして気をつけないと、おバカに見えて意外にアタマのいい人たち(つまり、悪賢い人たち)が、こうした男の子達の渇望につけこんで、またぞろ悪さをやらかすかもしれない。
今夜はもう休もう・・・