散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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日曜日の朝

2013-05-11 23:54:23 | 日記

母の日の朝、でもある。

礼拝前に一筆。

 

勝沼さんのコメントを再掲する。

 

 ガルシア・マルケスのは「幸福な無名時代」です。ちょうど一年前の昨年の五月に、石丸先生がメールの月始の挨拶で紹介してくれました。
 何という偶然か。実は私が初めて見た「現代に秘境がなくなった」と嘆く人物はジャイアンとスネ夫でした。30年前の映画「ドラえもん のび太の大魔境」は、スネ夫が秘境がなくなった現代に生まれた不運を訴え、ジャイアンがまだ見ぬ秘境を見つけて連れていけと(まさにジャイアン!)ドラえもんに迫るところからスタートします。
 「タイタンの妖女」は次々と秘境や真理が発見されると共にその意味や価値を失っていく物語だと思っています。
 これは私の空想ですが、おそらくいつの時代も人々は秘境がなくなったと言っていたのではないでしょうか。秘境はある、行けると信じた馬鹿者が道を切り開いたことによって、秘境は発見されると共に秘境としての価値を失います。その繰り返しで常に現代は秘境がないと言われていたのではないでしょうか。
 確かに物理的な秘境は年々少なくなっているでしょう。都合よくまだ見ぬ秘境を見つけてくれるドラえもんもいません。でも個人的には、ガルシア・マルケスも私にとっては石丸先生というドラえもんが見つけてくれた未知の秘境であったわけです。
 秘境はあると信じる者にとってあるものではないでしょうか。

 

まずは脱帽し、素直に感謝する。

僕自身がしゃべり散らして忘れていたことを、こうして覚えていてくれたことに、

「偶然」の指摘に、

「秘境」に関する説示に、

 

いつもありがとう。

あらためて考えてみます。

 

*****

 

まったく話が飛ぶのだが、一昨日、大学の事務担当者からメール回覧があった。

文部科学省大臣官房総務課からの周知依頼で、その本文のタイトルは

「住宅地等における農薬使用について」

というのだ。

メール本文に、「一昨年11月の周知や、昨年の農薬危害防止運動では 官有地、独法等関係機関、学校、幼稚園、病院、運動場、寺社仏閣、美術館等 幅広い施設における農薬の使用について、適正な使用を啓発することが想定されておりました」との付記がある。

 

内容の見当はつく。

大方、これらの施設に付随する庭木や花壇の管理にあたって、むやみに農薬を使うなということだろう。

それ自体は当然でけっこうなことだが、ただ、ちょっと気になる連想があって。

 

僕の田舎の家の周りは、ずっと昔から農村地帯だった。

しかし近年、バイパスが整備されるにつれ、道向こうにちらほらと住宅が増え、最近はちょっとした団地もできている。

ここに住まう人々が、周囲の農家にしばしば文句を言うのである。

「農薬は健康に悪い」「肥料の臭いがする」「農機具の音がうるさい」等々

 

ごもっともと言いたいところだが、ちょっと待ってくれ。

百姓はもう何百年もここにいて、土を耕して生活してきたのだ。

そういう場所と知っていて後から移ってきたあなた方が、前から居た者に文句を言うのってどうなんでしょうね。

 

わが家は農家ではなく、父が道楽に園芸を楽しんでいるに過ぎない。

だから別段うちが困るわけではない。

父は年来の信念で頑固に無農薬を通しているし、そこにはもちろん主張もある。

農薬漬け、化学肥料漬けの農業が良いなどとは思わない。

それはそうだけれど、一部の「住民」が鬼の首でもとったように自分の都合を主張する様子を聞くと、いささか義憤を感ぜざるを得ないのだ。

 

とりあえず、「先住者の権利の尊重」というところから始めたのだが、話を大きくするならこれはけっこう象徴的なことで、日本の農業をどうしていくのかという大きな問題に、どうしたって行きあたる。

技術的にどうしていくのか、社会的位置づけとしてどうしていくのか、

さらに文化的にどうしていくのか、これが見落とされがちの大問題だ。

長い話を短くすれば、日本の風景から水田が消えたら、日本人は日本人でなくなると思うんだけどね。

 

そうか、TPPも内田樹の先日のオピニオンにひっかかってくるんだな。

「TPPに乗り遅れたら、日本は生き延びていけない」と煽って「グローバル化」のリスクとコストの受け入れを納得させる。

日本の農業の地位はいっそう危うくなり、アメリカひとり勝ち体制はしっかり固まっていく。

そこで生き延びる「日本人」って、いったい誰だ?

 

*****

 

昨日は碁を打って負けた。

勝ち負けは特に気にしない。

林海峰さんにして、「碁は勝つものではなく、負けていただくもの」だと言うんだからね。

 

問題は負け方である。

 

その一、左下隅で定石手順を間違えた。ただ間違えただけでなく、間違え方が以前からの自分の悪いクセを反映している。

その二、左辺で必要のないツギを打って後手を引いた。碁で最も戒めるべきことのひとつだ。

その三、右下で定石選択を誤った。前から打ってみたいと思っていた手に飛びついたのだが、全体の配石を考えればほとんど自爆行為だった。

その四、あろうことか、ノゾキに手を抜いて大事なところをぶっつり切られた。先のことに頭が行って、よく見ていなかったのだ。

 

あ~あ・・・

五段が聞いて呆れる、5級だってもっとしっかり打つ人は打つよ。

できるはずのことができず、わかっているはずのことが見えず、挙句にとんでもないポカをやらかして、

「これがおまえだよ」と直面化させられるていたらく。

 

もう、やめようかな・・・・・

 

 

 


金曜日の朝、中央線にて

2013-05-11 11:28:11 | 日記

夕べはちゃんと寝たのにむやみに眠い。

 

車両の端の、隅の席が二人分空いている。

助かったとばかり座り込んだら、隣にもうひとりやってきた。

輪郭が雪だるまそっくりの若い男性で、一人分の席に一人半分の幅をそっと押し込む。

手にした i-pad をいじるまもなくソッコーで沈没、しかも巨体がどんどんこちらへ傾いでくる。

 

最初は遠慮がちに、ついで明確な意志を込めて、最後にはかなり邪険に押し返してみるが、お構いなく寄りかかってきてこちらの息が苦しくなる。

 

立とうと思った瞬間、目の前に別の男性が立ちはだかった。

立ちはだかる意識はないのであろう、こちらに横顔を見せて、その横顔がジョニー・デップに似てるというのは、この場合まったく褒め言葉ではない。

相当の長身にジョニー・デップでなければナザレのイエスのような長い蓬髪、派手派手しいスーツのくたびれたのを着て、手首にはウズラの卵大の雑多な石を綴った腕輪をつけ、僕の前にウンコ座りに座り込んだ。

手にした缶を舐めるようにすするのは、てっきり酒に違いないと怯えが走ったが、これが実はマンゴー・ジュース。

前もふさがれた。

 

荻窪までの辛抱、既に高円寺、あと二駅と思ったら・・・

「時間調整のため、3分ほど止まります。」

車内放送の明るい声が、時間調整の理由を清々しく説明し始めた。

「東京駅での車両点検、御茶ノ水駅でお具合の悪くなったお客様の介護、さらに山手線品川駅の車内トラブルの影響などで」

山手線?ここは中央線ですが・・・

「後続の電車が遅れております関係で、3分ほど時間調整を致します。お急ぎのところ、まことに恐れ入ります。」

 

これが分からないんだな。

後の電車が遅れているから、前の電車を遅らせる。

全体の理屈としては、それもありでしょう。

しかしね、前の電車の乗客が、時間調整のために乗り継ぎに遅れたとしたらどうなるの?

その客はちゃんと時間を守っているのに、無用に遅らされたことになりませんか?

何でも良いから、早く出してくれ。

 

喘ぎながら、向こう側の液晶ニュースに目をやる。

錦織がフェデラーに勝った? すごいなぁ・・・

「図星」の語源は弓道? へぇ、そうなんだ

 

荻窪駅、這々の体で下車。

空いた席、雪だるまの隣にジョニー・デップもどきが座り込んだ。

女性が階段を駆け下り、発車間際の電車に駆け込んでいく。

華奢な女性が、幼児というには大きすぎる子供を抱き、その子のつけたヘッド・ギアが袖をかすめて風を残す。

てんかん発作などのある子が、頭を守るために装用するものだ。

 

親子が駆け下りてきた階段を入れ替わりに上る。

階段の面が、人の踏む位置にあわせて凹んでいる。

神社の階段がよくこんな風になっている。

 

階段を上りきって、クリニックまでは徒歩2分。

金曜日の朝。

Bon voyage!

 


「秘境」と「空き地」の消滅

2013-05-11 11:23:26 | 日記

やや前後するが連休最終日、日頃お忙しの次男氏が珍しく在宅。

夕食の団欒で就活のことなど話題にし、ふと、どちらからともなく今の時代の閉塞感に言及して、思いがけず感慨を共にするところがあった。

そうなのだ。すごく閉塞感があるんだよ。

 

といっても、

 

『時代閉塞の現状』のことではなくて。

これは、1910年(明治43年)に当時24歳の啄木が書き遺した。早すぎる死の二年前と知れば遺書のようなものだ。心して注意深く読み込むべし、僕らがいま話題にする閉塞感と相通じつつも位相を異にする。

 

今、問題にするのは、

 

地球上に秘境というものがなくなりつつある。端的に言えばそのことだ。

地球上に危険が存在しないというのではない。

戦争があり、経済危機があり、貧困があり、環境破壊がある。しかし、それらはすべて我ら人間の愚かしさが作り出したものだ。

人間の愚かしさをあざ笑うように屹立し、あるいは人の立ち入ることを人類発祥以来、拒んできたもの、ジャングル・砂漠・荒海・極地・高山、それらすべてが踏破され調べ尽されつつあり、わずかに深海が最後の未踏の領域として残るばかりだ。

 

人間の外に立ちはだかる秘境は消滅し、人間の方が秘境にとっての脅威となっている。

今や自然環境の存続そのものが、一生物種に過ぎない人類の自己規制に委ねられている。

そういう意味で、諸々の危険の中で最も深刻なのは環境破壊・自然破壊だ。

 

ただし、自然を破壊することによって人類そのものが滅びるかもしれないということは、むしろ小さな問題。

それよりも、

環境や自然が破壊可能なもの、保護すべきもの、知り尽くされたものになってしまったことが深刻だと言うのだ。

 

秘境が消滅し、すべてが明らかにされ、すべてが管理下におかれ、すべてが去勢され馴化された世界、そんなものに何の面白さがあるのか?そんな世界に、どんな魅力を求めたら良いのか?

 

「宇宙へでも出るか?」と冗談にしてみて、すぐさまシオタレた。

宇宙こそ、政治と軍事によって最も排他的に管理されている領域ではないか。

私人にとって宇宙への直接のアクセスは存在しない。それはGPSの基準点でしかない。

 

つまらない。面白くない。面白いことが何もなくなってしまった。

これを「閉塞感」と言ったのである。

 

ふと、冷戦時代のことを思う。

あの時代、厳しい東西対立と一触即発の危機のいっぽうで、人に(少なくとも良心的な者には)不断の自己吟味を迫る緊張感があった。

自分たちのやり方は、ひょっとして最善でもなく唯一でもないのではないか、壁の向こう側の相手方は、もっと良い工夫をしていはしないか。そうした疑いが人を多少とも謙虚にする作用があったのではないかと思う。壁の向こうは互いにとって、一種の秘境だったのだ。

 

ソルジェニーツィンがソ連から国外追放され、結果的に西側への亡命を果たしたのは1974年である。

ソ連政府から「反逆者」のレッテルを貼られた彼は、西側に移ってからは共産主義のではなく、西側に蔓延する唯物論に対して戦いを挑んだ。アメリカの自由とは、子供にポルノグラフィを見せる自由だと喝破した。

彼はロシア正教徒として信仰の「秘境」に住まい、東と西とを問わずあらゆる物質主義に対して荒野の予言者として振る舞った。彼の存在は東西冷戦構造を突き抜けているが、そのあり方はどこか冷戦時代の緊張感に照応している。

 

だから、僕らはまだ良いのだ。

考えてみればすさまじいほどの、過去であれば数世紀分に相当する変化を僕らは目撃した。

直 前の世代は飢餓を知っていた。そこから解放され、復興から成長へ、飛躍から奈落へ、自分たちの国が激変する様子をまのあたりにした。初めて家にテレビが来 た日を思い出す。電話は近くへ借りに行った時代だ。いま、息子達はPCやスマホを駆使し、そしてそれが存在しない生活を知らないし想像できない。

 

壁のあった時代とその緊張感、「秘境」の与える恐れと勇気を、彼らは体験したくとも体験できない。

「そんなもの、体験できなくとも不自由しない」とは、冷戦はともかく「秘境」については言いづらい。

 

*****

 

突飛なようだが、マクロ世界で「秘境」がなくなるのと合わせて、僕らの身近のミクロ世界から「空き地」がなくなった。

「空き地」とは、ただ何もない空間という意味ではない。「空き地」には明確な特性があった。

それは誰かの地所であるはずなのに、どういうわけかほったらかされている。

立ち入ることが推奨されてはいまいが、厳しく禁止されてもおらず、少なくとも黙認されている。

誰も管理していないのに大人の目がほどほどあって、近隣の雷オヤジとか頑固ジジイとかは、野球のボールが飛び込んだときは厄介だが、大きな逸脱に対する抑止力になっている。

「空き地」には、いろいろなものが転がっている。

典型的には土管やドラム缶、いちおうは境界を区切っていたらしい鉄条網の切れっ端やベニヤ板、大人が捨てていったらしい古い週刊誌。

 

そうした「空き地」がそこここにあった。

日本中、どこへ転校していっても必ずそこに「空き地」があり、そこで仲間や敵に出会うことができた。

それは子供にとって運動場であり、社交場であり、秘密基地であり、隠れ家であり、想像力の働きによって何にでも変貌する身近の異界であった。

そして「空き地」には危険がつきものだった。

僕はそこで大やけどを負い、レイ・チャールズは ~ 彼の場合、広いアメリカの家の裏庭が「空き地」だったのだが ~ そこで弟に死なれた。

 

「空き地」が消滅したのは、いつ頃か。

子供をこうした不測の事故から守ろうとするもっともな大人の配慮から、現代人の度の過ぎた強迫性から、責任を問われることへの怯えから、その他様々の思惑から、「空き地」はある時期にきれいに消え去った。

一片の予告も断りもなく、僕らの国から消えた。

今、地域にあるのは、よく整備されたグラウンドであり、生徒以外は立ち入ることのできない校庭であり、大枚を払って利用するテニスコートである。すべて完全に管理され、安全が確保されている。

僕ら自身がそうでなくては落ち着かなくなってしまった。

 

「空き地」とともに絶滅した種族があるのに、気づいているだろうか。

ジャイアンだ。

舞台に見立てて放歌高吟する土管もなければ、のび太やスネ夫を追いかけ回し取っ組み合う地面もない、そんな国でジャイアンは生きてはいけない。

密林の衰退と共にオランウータンが絶滅に向かうように、「空き地」の消滅と共にジャイアンは死に絶える。「どらえもん」は、「サザエさん」や「フーテンの寅」と同じく、僕らがまだ持っているつもりで実は疾うに消え失せてしまった前時代の思い出話に他ならない。

前時代が終わったのはつい30年ほど前だろうか、しかし前時代と今の時代とを隔てるクレバスは恐るべく深く、もはや戻るすべはどこにもない。

 

僕らは向こうからこちらへ渡ってきた。

息子達は、こちら側しか知らない。何という困難を彼らに負わせてしまったことか!

 

「秘境」と「空き地」との対応関係・・・

 

「突飛じゃないと思うよ」と次男が言った。

 

*****

【蛇足①】

カート・ヴォネガットの作品の中では、『タイタンの妖女』が良いと勝沼さんは言う。

あれはひょっとして、「秘境」を再発見する物語だったのかな・・・?

ラムファードは私設宇宙船を作らせた最初の人間、という設定だった。

読み直してみよう。

 

【蛇足②】

ガルシア・マルケスの短編に、街にすむ男が妻とケンカしてプチ家出し、ほっつき歩いているうちに道に迷い、あろうことかインディオの集落に紛れ込んで数年間そこに留め置かれる話がある。犬のように首輪でつながれるやら何やら、たいへんな思いの末、どうにか生還するのだが。

(タイトルを書いておきたいが、手許に見当たらない。最近こればっかりだ!)

驚くのは、これが荒唐無稽な作り話ではないということだ。

 

二十世紀後半にこういうことが起き得たという、これが南米の豊かさだ。

都市生活のすぐ隣に、現に秘境があったんだよ!

今も、あるのだろうか?