たかがブログ、されどブログで、むやみに知人友人の個人情報を明かすのもためらわれ、S君とかT君とか書いている。
アルファベットは26しかなく(もっとたくさんある言葉もあるが)、実名を意識すると中国の友人でもなければXやQは使えないから、早晩重複が生じる。困ったな。
三男の学年は2クラスしかないところへ、同姓同名の男の子が二人入学してきてしまった。
当然ながらこの二人は三年間を通してA組とB組に分けられ、弁別のため「Aヨコ」「Bヨコ」と呼ばれる日常である。
(ヨコ◯君たちなのだ。これも個人情報をギリギリで伏せる。)
この伝で行けばいいか。
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連休明けの火曜日、信州のY先生に急な来京の予定が生じ(上京とは言わずにおく)、これ幸いと幕張までお越しいただいて打ち合わせかたがた歓談した。
連休には御家族と松代を訪問なさったとのこと、信州松代で何を連想する?
僕らの世代は、松代地震の記憶がある。若いY先生は、今回の訪問で初めて聞いた由。
ぼんやりした記憶なので、どんなものだか再確認してみたら、これ正しくは松代群発地震という。
1965年(昭和40年)8月3日から約5年半にわたって続いた「世界的にも稀な長期間にわたる群発地震」とある。
原因には、地下の溶岩の上昇が関わっていたらしい。火山性のものなのだ。
火山は怖いが、おかげで温泉が出る。
Y先生によれば、松代の温泉は驚くほど湯の質が良いのだそうな。
鉄分と塩化物イオンを多く含み、湧出時は透明なのに空気に触れると沈殿を生じる。
疲労回復の効果が抜群で、それやこれやが有馬温泉と似ているとY先生の談。
歴史の話をするなら、松代は佐久間象山や恩田木工を輩出した土地である。
そしてもうひとつ、大戦末期に地下大本営の造営が進められていた場所でもあった。
いま、それは訪問可能な観光スポットとして一般に公開されているが、地元の人々や他所から徴用されてきた日本人・朝鮮人労働者にとっては、命がけの危険な作業現場であった。(仔細は wiki でも簡単に調べられるから省略する。)
当時わが父を含む陸軍士官学校第60期生は、繰り上げ卒業の後に小諸あたりで演習しつつ待機していた。
完成の暁には、松代大本営周辺で軍務に服す予定だったのだろう。
終戦の詔勅後、情報錯綜し、いったんは東京へ入ると告げられて実弾を配備された。
その出発が延期され、やがて中止となり、そこから各自の故郷へ散っていったのである。
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駅前で海鮮丼を食べる。
美味しかったが、あんなによく利くワサビは久しぶりに口にした。
「先生は・・・」と話し出した途端に絶句、鼻から目へ火の柱が上る感じ。
「ワサビ、きつそうですね」と気の毒そうに言ったY先生、「実はここのところ・・・」と話しかけて同じく絶句、涙目でこらえてらっしゃる。
ワサビはこうでなくちゃ。
店を出て珈琲を飲めるところを探す。
キョロキョロ見回して気づいた、Y先生は背広姿に、ごっついバックパックを背負っている。
「読むか読まないかわからない本を、つい持ち歩いてしまいまして」と照れくさそうにおっしゃった。
その姿、どこか家出少年風ですよと言いかけて思い出した、かつてY先生はホンモノの家出少年だったのだ。
今般は放送大学の放送授業の件でお越し頂いた。
自分の担当部分で仏教関係者の協力がほしいが、どうやって探したものか分からないとつぶやいたら、たちどころに4人ほどの候補者をあげてくださった。これが研究者というものだ。
「世間のどこにどういう人物があるか、日頃からちゃんと知っておくものだ」ということが、確か『氷川清話』の中にあったと思うが、僕にはこれができていない。Y先生は少なくとも死生学の領域において、そうしたことを当たり前にしている。殊更「している」というよりも、関心の赴く結果として自ずとそうなるのだ。引き比べて慚愧に堪えず。
大学構内を一巡り案内してフロアに戻ると、I 先生が会議を終えて帰室しておられた。
Y先生をお連れすると、いかにも嬉しそうに挨拶なさる。Y先生も嬉しそうである。
旧知の仲、I 先生もまた本物の研究者であり、またホンモノの家出少年であった。
少年たるもの、一度は家出しなければならないのであろう。
ジイドに『放蕩息子の帰還』という短編がある。
(たぶん、そう訳すのだと思う。珍しくフランス語で読んだので。)
むろん、福音書の物語に想を得たものだが、ここでは帰還した息子の幼い弟が、兄の話を聞いて自分もまた家を出ることを決意していくのだ。
聖書はこういう読み方をしたい。護教的な訓詁注解はたくさんだ。
Y先生を I 先生に送り渡して部屋へ戻ると、入れ違いにU先生に声をかけられた。
「この間は酔っ払って、ええかげんなことを言うて・・・」
これまた少年のような照れくさそうな笑顔を浮かべ、抜き刷りをひと山、手渡してくださった。
1977年から1992年に及ぶ合計9部は、いずれも旧約聖書の身体イメージをヘブル語の原典テキストに丹念に拾った労作である。創世記から始め、最後のものはヨシュア記、今も作業を続けておられるという。
「こんなものは、大学紀要でもないと載せてくれません。」
「ヘブル語の字母を拾うのを、印刷屋さんが嫌がってねぇ。」
なるほどそうでもあろう。
私自身、学生時代に古典ギリシア語やヘブル語のごく入門編をかじったとき、使ったテキストは手書き・ガリ版刷りの資料をそのまま製本したようなものだった。今も手許においてある。
今ならばPCフォントを使って、何の造作もないことであるけれども。
U先生は定年までかなりの年数を残しながら、来春には故郷三重に帰って行かれる。
この労作もまた、「研究」というものが何であるかを雄弁に教えてくれる。
僕自身、紀要でもなければ拾ってもらえないネタを、中途半端に収拾したまま放ってあるのだった。
ブログなんか書いてる場合ではない。
勉強しなければ!