散日拾遺

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ナアマン/名護市長選

2014-01-19 23:44:28 | 日記
2014年1月19日(日)

 中高生の礼拝で、今日は列王記(下)からシリアの将軍ナアマンの癒しの場面。指定された5章8~14節だけでは訳が分からないので、遡って経過を解説する。こういうのは話が組立てやすく、ついつい講壇調になったりする。だって面白いんだよ、話そのものが。
 読み直せば必ず発見があるのは、いつもの通り。
 ナアマンを受け容れるにあたって、預言者エリシャは「その男はイスラエルに預言者がいることを知るだろう」と述べる。対して、癒やされたナアマンは、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられない(=イスラエルには神がいる)」と言いきった。「預言者」ではなく「神」と出会ったのである。
 預言者のカリスマのみを見て、背後の神を見ない選択も彼にはあった。そのように「自由」な状況にあって、この異邦人は神を知った。預言者自身の見通しを越えた展開である。この異邦の軍人には、霊的な聡明が備わっていた。

 ナアマンの逸話は、他ならぬ主イエスの引用によって不朽の印象を僕らのうちに刻んでいる。
 「預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
(ルカ福音書4:27)
 ナザレの会堂において、「預言者は自分の故郷では歓迎されない」という言葉に続き、エリヤがサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた話とあわせて語られた場面だ。当然ながらこれは会衆を憤慨激昂させ、イエスに最初の身の危険をもたらした。
 文脈はさしあたり、救いに関する神の選びの絶対的な自由に関わっているように見えるが、翻ってナアマンという人物の霊的な聡明が、主の引用の伏線になったのではないかと想像してみたいのである。

 ところで、

 上にも書いたように、このくだりは話そのものが面白いのだ。これを話として書いてみたらと思うが、ちょいと手間のかかる作業なので後に回すことにする。

***

 夜、名護市長選の結果が報じられた。普天間基地の辺野古移転阻止を掲げ、現職稲嶺氏再選。
 簡単に論評できることではないけれど、長年にわたって僕らが負わせてきた途方もない重荷に対する、抑えがたい呻きが響いていることは間違いない。そしてこの国の歴史が続いていくものなら、いずれこのことも「旧約」のうちに記され、後世の光で検証されることになる。
 どうする?