散日拾遺

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体内アラームの不思議/荒野へ放り出す

2014-01-26 06:18:08 | 日記
2014年1月26日(日)

 理由があって、今朝は6時に起きようと考えながら寝た。
 最初に目が覚めのがちょうど5時、まだ暗い。
 次に目覚めたのがぴったり6時、やはり暗い中で。

 この時間に起きようと「本気で」念じると、概して外れない。ひどく疲れている時などにあっさり寝過ごしてしまうことはもちろんあるが、そうした時にはある種の納得感がある。あたかも体の中に合議体があり、「6時に起きたい」という僕の意識の要望が認可されれば正しくその時刻に起こしてもらえ、身体的な事情から要望が却下された時には起きられない、そんな感じだ。
 藤田紘一郎先生が「腸は賢くて脳はバカ」などと曰うておられるが、実際、自分の体は自分の頭よりも偉いという感じがする。それにしても、どこに時計があって正確に6時に覚醒させてくれるのだろう?各細胞が体内時計を標準装備しているとしても、これは太陽と同期した自然の時計である。6時というのは「頭」の産み出した観念的な里程であるのに、体がこれに順応できることが何としてもフシギである。
 母は「寝る前に枕に頼んでおく」という奥の手を教えてくれたが、これがまたハズレがない。体の合議体を枕に投影転化したもので、たぶんとげ抜き地蔵(身代わり地蔵)などと同根のコミュニケーション構造をもっているものだ。

 何しろ6時に起きて離れ家から戻ってくると、夜来の雨に路面がしっとり濡れ、気温は高いと見えて氷結の気配がない。紺色の空に下弦の三日月が、くっきりと浮かんでいる。一月下旬の美しい夜明け。

***

 M牧師の説教はマタイ4:1~11、荒野の試練。
 「霊に導かれて荒れ野に行かれた」(4:1)
 
 マルコの並行箇所1:12は「霊はイエスを荒れ野に送り出した」とする。
 ルカ4:1には「荒れ野の中を霊によって引き回され」とある。

 それぞれの原語は、
 マタイ ανηχθη
 マルコ εκβαλλει
 ルカ ηγετο

 M師が特に注目されたのは、マルコの εκβαλλει。というのも、εκ+βαλλω という字面から分かるとおり、これは「(外へ)放り出す、投げ出す、追い出す」といった厳しい語感をもつもので、文脈によっては「(社会、教会などから)追放する」という意味にもなるからだ。
 聖書中に用例は多いが、たとえばマタイ22章の婚宴の譬えで、礼服を着ないでやってきた客に対して、王が「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ」と命ずる場面の「放り出す」が εκβαλλω である。
 霊なる神は子なる神を、荒れ野にそっと送り出したのではなく、厳しく放り出したのだ。さすがはマルコ、福音書最古の原型は粗にして力強い。
 主はそのように、社会と共同体から疎外され放逐されている者と同じ孤独の中に身を置かれた。荒野 ερημος とは、そのような場所のことだ。

 「それゆえ、見よ、わたしは彼女をいざなって荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。」
 (ホセア2:14 ただし口語訳)

 荒野は人が顧みない土地である。だからこそ神がそこへ人を導くなら、芳醇な葡萄が豊かに実る緑野にも変わり得る。

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 ここ数日、『千字文』にハマっている。その話はまた後で。