散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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黒田官兵衛の「お目通り願いたい」

2014-01-05 22:54:03 | 日記
2014年1月5日(日)

 勝沼さん&皆さん:

 今年の大河ドラマ、一回目はどうでした?
 私はそこそこかなと思ったけれど、小田原に乗り込んだ官兵衛の「北条殿にお目通り願いたい」は変じゃないかな。「お取り次ぎ願いたい」か、「お目通りをお許し願いたい」になるはず。お目通りする(させていただく)のは官兵衛自身なんだからね。

 それはさておき、如水ものとしては坂口安吾の『二流の人』が最高に面白く、僕としてはこれと比べながら見ていくのかなと思います。もっとも、『二流の人』は如水を中心に置いた戦国末期の武将群像であって彼の伝記ではないので、幼年期から前半生には何も触れていません。如水こと黒田官兵衛のトータルな伝記として良いものを御存じの方、どうぞ教えてください。


(僕の手許にある昔のものは、もっと地味でセンスの良い表紙です。これはイメージがだいぶ違う。
Kindle版がゼロ円で出ていたので、ソッコー購入(?)しました。)

鶴の恩返し ~ 患者さんたちの創る力

2014-01-05 18:51:02 | 日記
2014年1月5日(日)

 何かを創るということ、それも生存するうえで必須とは言えないようなものを手間暇かけて創り出し、あるいは生活必需品であっても必要性とは関わりのない部分に意匠をこらすということは、人という存在の大きな特徴であるに違いない。
 このことと精神疾患との関係は、いろいろ取りざたされてきた。これを一般的な形で論じることにさほど興味はないし、そんな能力はさらにない。ただ、ある人々にとっては、創るという行為が病的な過程との闘いの重要な一部を為している。そのような人々、そのようなケースが少なからず存在することは間違いない。彼らに創ることを禁じたら健康の回復はその分だけ遠のき、あるいは永久に達成できなくなるかもしれない。
 能書きはこれでたくさん。ここ数ヶ月間に患者さんが届けてくれた創作の成果を、いくつかまとめて掲示しておく。


 このバナナケーキは以前にも載せた。作者は有能な若い女性だが、人生のままならなさの中で抑うつ状態に陥っていた。ひとりで過ごす不安で長い時間を、お菓子作りだけでなくさまざまな創作にあてている。
 たとえば下のもの。カラフルな端切れを多数縫い合わせ、できあがったのは布団カバーだそうだ。さぞ温かく休めたことだろう。


 養生の甲斐あってずいぶん回復し、復職が日程に上ってきたことで、この正月はかえって落ち着かない面があった。そのさなかの書き初めに「感謝」の語を選んだことを、書の出来ばえ以上に喜ぶ気持ちがある。


 三春人形の web site を立て上げた三春のAさんについても、以前に書いた。彼女はイラストが得意で、地元新聞に投稿してちょいちょい入賞している。最近また銅賞を獲った「表なし」を載せておこう。


 最後にもう一点、以前に「鶴の恩返し」と予告したっきり、うっかり載せるのを忘れていたものだ。
 これは、編み物ではなくて織り物である。統合失調症の女性が、幸い寛解に入って懸命に日を送っている。たまたま知人が機織りの機械を譲ってくれたそうで、初めて知った機織りにすっかり夢中になった。その作品をプレゼントしてくれたのだ。
 事情があって通院先を変え、僕のところに来なくなってもう何年も経つのに、ある日のこと「先生に似合うように考えて織ったんです」と目を輝かせてやってきた。
 自慢話ではない。僕の個人的な功などではない。統合失調症の患者さんにとって、苦しい急性期を援助してくれた医師やスタッフは、それだけでかけがえのない人生の同伴者となり得る。三春のAさんも、実は同じなのだ。
 医者は(少なくとも僕は)「よひょう」ほどの功績もなく、彼同様に忘れっぽいものだけれど、患者さんはしばしば一羽の鶴であって、身を削って恩返しに励むこと稀ではない。

 感謝の力が、この人々を活かしたのに違いない。
 (温かいんだ、これ!)



捨てるにしても

2014-01-05 08:14:44 | 日記
2014年1月4日(土)

 朝、今年最初のラジオ体操。ついでにラジオ体操の解説DVDを見てみる。オマケのバレエ体操やプチ・ヨガは、良さそうだけれどとても基本動作まで行かない。人間の身体って、こんなに柔らかくていいもんですか。模範演技のお姉さん達、ツクリがヘンだ。

 午前中、昨年一年間に撮った写真を整理、といっても今はすっかりPC上の作業になった。昼食後、プロジェクターで壁に映して皆で振り返った。写真の過半は「食べる」ことと「祝う」ことに関わっており、当家がいかに食いしん坊のお祭り好きかがよくわかる。息子達の写真の7割は「変顔(ヘンガオ)」である。御立派。

 夜、ねぐらへ移動するついでに、マンションのゴミ処理室へ古い段ボールなどを捨てに行った。奥の棚にアルバムが二(ふた)山、無造作に積み上げてある。合計30冊以上もあるだろうか、誰か思い切りよく捨てたらしい。
 一冊、手にとって開いてみたのに悪意はない。僕の感覚では、写真を台紙に貼ったままアルバムをゴミに出すことはありえない。写真を剥がされたあとのアルバムが使用可能なら、新聞の切り抜きか古切手整理に拝借しようと思ったのである。
 ぱらりとめくって、ぎょっとした。剥がされるどころか、写真満載である。丁寧に貼られ、こまごまと由来が書かれている。つい今し方まで、どこかの居間で団欒の主役になっていたような、生活の温もりが紙面から立ち上る。
 しかも古い。歴史の証言を為すような古さである。たまたま現れたページは、祝言の場面だ。チャペルとホテル、そうでなくとも結婚披露は外で行うのが常景になった現代では考えられない、私宅での祝言らしい。紅白の幕を貼った座敷に、和服の新郎新婦が神妙な面持ちで据えられ、参会者が二人を見つめている。高島田に髪を結った新婦の、思い詰めたような横顔が大写しになる・・・
 見てはいけないものを見たと思い、閉じて山に戻してあらためて茫然とした。アルバムの持ち主はかつての新郎か新婦か、それともどちらかの縁者か。いずれにせよこの二山に、誰かの一生が、あるいは少なくとも半生が集約されている。それらをまとめて、ある年の正月に無造作にゴミに出す、その気持ちはどんなものか。
 脳裏に刻まれた幸せの記憶が、よりしろを必要としないほど確かだから捨てたのか、それとも辛さ苦しさの一切合切を忘れたくて捨てるのか。

 こんな捨て方も、人生にあったのか。